92. 泥濘の心理
十五分ほどをかけて慎重に、人質の一人と食事の交換が行われた。
開放されたのは、ベルグレッテと同年代らしき平民の少女だった。泣きながら両親と抱擁を交わしている。
しかし邪魔をするようで気が引けるが、彼女から情報を得なければならない。
年が近いこと、同じ女性であること、ついでにアレを頼むぜ、という王の命令で、ベルグレッテが話を聞くことになった。
「あの、ごめんなさい。怖い思いしたところを申し訳ないんだけど……お話、いいかしら?」
「……え、って、ベルグレッテ様っ……!?」
少女は涙に濡れた顔を拭いながら、慌てて頭を下げる。彼女の両親も同じように一礼した。
「あっ、楽にしてくださいね。えっと……その前に、失礼」
ベルグレッテは水の薄膜を纏った手で、少女の身体をあちこちと探る。ぺたぺたと身体を触られた少女が、顔を赤くして戸惑った。
「ベ、ベルグレッテ様……っ? く、くすぐったいです」
「あっ、ごめんなさい。なんらかの神詠術が仕掛けられたりしていないか、調べさせてもらいました。大丈夫なので、安心してくださいね」
例えば、神詠術爆弾という卑劣な術が存在する。
生きた人間に施して起爆させる――つまり人間を即席の爆弾とする、非道な神詠術だ。
開放したと見せかけて、人質に術を仕掛ける卑劣な輩も存在する。五年前のテロでは、自分自身に施術し、特攻しながら自爆するという常軌を逸した真似をする者もいた。
念入りに施して仕込む形の神詠術であるため、いざ敵と向かい合った戦闘状態で使えるようなものではないが、爆発の威力は極めて高い。そのうえで、術者の力量にも依存する。
元は戦争や建物の解体などで用いられていた、広域破壊用の術なのだ。
ジンディムの通信技術を見る限り、もしこの男が神詠術爆弾を使えるとしたなら、まず間違いなく凄まじい威力になるはず。多数の民衆が集ったこの場で炸裂すれば、犠牲者の数は百では済まないだろう。生半可な防護の術を施した建物などは、瓦解してしまう恐れもある。
だからこそ、ジンディムが人質の解放にあっさり応じたのは、これを仕掛けるためだったのではないか――と考えたベルグレッテだったが、幸いこの少女にそういった類の神詠術は仕掛けられていなかった。
アルディア王とベルグレッテが懸念していたのはこれだった。のだが――幸いにも、予想は空振りに終わった。
敵は、少なくとも今は公正に事を進めたがっている……と少女騎士は判断する。
「それじゃあ……少し、お話を聞かせてもらえる?」
「あ、は、はい。お力になれるか分かりませんけど……」
実際に話を聞いてみるも、賊の目的や正体などの詳しい情報までは得られなかった。
「ご、ごめんなさい……もう、とにかく怖くて……」
敵としても、開放して痛手にならない――情報の漏洩にならない人物を選んだはずだ。少女に非はない。
ひとまず得られた情報は、敵の大雑把な人数、特徴、ジンディムの人相。あとは美術館の二階、大ホールに陣取っているということ。そして、
「強そうな男の人たちも、みんなやられてしまって……」
「……っ」
賊の一人と闘わせ、勝てたなら解放するという『遊び』。
通信でジンディムが「挑まれたから撃退しただけのこと」などと言っていたが、人質たちのケガはこれが原因なのだろう。
平民が詠術士と闘って、勝てるはずもない。解放をちらつかせた悪趣味な余興に、ベルグレッテは怒りを覚えずにいられなかった。
その相手を務めた男は極度の差別主義者だったらしく、人質たちに対して『猿』と口汚く罵っていたという。
人質を取るような下郎が、何様のつもりか。闘いたいなら相手になる、出てきて堂々と勝負をしろ――と少女騎士は言い放ちたかった。
敵は約二十名。要求してきた食事の分量から考えてもそんなとこだろう。
全員が紺一色の制服めいた装い。会話の端々に『祖国』という単語が出ていた。となれば五年前と同様、やはり間違いなく外国人グループだ。
当然というべきか。『反抗した者は容赦なく叩き潰す』というアルディア王の恐ろしさを知っている国内の人間なら、まずこんな馬鹿げたテロなど起こさない。
美術館を占拠したその手際も、手馴れたものだ。
賊の数人は、美術館の職員に扮装していたとのこと。展示場へ誘導すると見せかけて人質を捕らえたようだった。この少女もそうして、あっさりと捕らえられてしまった。
そこから敵は外部と連絡を取り、残りの人員を呼び寄せた。美術館の損傷は、このときに居合わせた兵たちとの交戦で発生してしまったようだ。
加えて、人質の服を脱がせて手を縛り整列させる、といった手口からすると――やはり五年前のような、突発的なテロではない。相手は、何らかの……おそらくは他国の、組織立った動きを得意とする戦闘集団。このテロの計画も、綿密に練ったことだろう。
「あと……なにか、気になったことはないかしら?」
「あ、そういえば……」
そこで少女は、思い出したように顔を上げた。
「犯人たちのリーダーっぽい……王様と通信をしてた、ジンディムって人なんですけど――」
「なにかあった?」
少女はベルグレッテの瞳を見て、こくりと頷く。
「頻繁に、誰かと通信をしてました。はっきりとは聞こえなかったですけど……」
「通信……」
外部と連絡を取っていたということか。となれば、つまり――
と、そこで少女がハッと顔を輝かせる。
「あっ、あと! 思い出しました! あの人たちの……名前!」
「ノルスタシオン? 知らねえ名前だな」
アルディア王は小指で耳をほじりながら眉をひそめた。
「やはり……そう、ですよね」
ベルグレッテにも聞き覚えのない名前だった。
聞き間違いではないかと少女にも確認したが、間違いないという。
偽名、というセンは薄い。ジンディムの様子からも推し量れるが、明確な意志の下に凶行へと走る者は、名前を偽らない傾向がある。己に恥ずべきところはないと思っているからだ。誇りすら感じて、自らの名を堂々と口にするだろう。
ノルスタシオンという名も、おそらくは真の名前。
となると、アルディア王ですら聞き覚えがないという点が不可解だ。
ベルグレッテとしては、王に怨恨を抱いた者たちの犯行だと考えている。であれば、過去に王が征伐した相手か、それに関係する者である可能性が高いはずだが……。独自に名乗っている呼称だろうか。何語だかも分からない。
「で、あとは? 頻繁に通信してたってぇ?」
アルディア王は訝しげな顔で美術館を見やった。
「少なくとも今現在、美術館に立て篭もってる連中で全員な訳じゃねえってこったな」
「そう、ですね……」
ベルグレッテはそれとなく周囲を見渡す。
美術館前へと集まった、二百名にも及ぶだろう野次馬たち。この中に、民衆に紛れた敵の構成員がいるかもしれない。
――いや。それならば、まだましかもしれない。
『誰か』と通信をしていたジンディム。
テロと時を同じくして狙われたリーフィア。
襲撃者が、オプトである可能性。
(……これって……、)
「ベルさん……?」
不安げな様子が伝わってしまったのか、リーフィアがおどおどと見上げてきた。
風の少女は自分のことのように、心配しながら成り行きを見守っている。
「ん、大丈夫」
ベルグレッテはリーフィアの頭に手を置き、優しく微笑んだ。
――と同時、上空に巨大な通信の波紋が出現する。それに応え、アルディア王も通信の術を展開させた。
『そろそろ、次の交渉に入らせてもらう』
『あいよ』
変わらず抑揚のないジンディムに、耳をほじりながら返答するアルディア王。
そこから数度、探るようなやり取りが続いた。
五百万エスクを用意しろ。
二百万エスク追加だ。
世にも珍しい、推定千五百万エスクの価値があると伝わる輝石、『呪いの宝珠』を渡せというジンディムの言には、アルディア王が「おととい来やがれ」と返す。
レギエル鋼で鍛造した剣をよこせという要求には、騎士団ご用達の武具店『竜爪の櫓』から調達して応えた。
地下牢に収容されているライズマリー公国の思想犯を開放しろ、という要求に対し、「解放しました」とすっとぼけるアルディア王。ジンディムが鼻で笑う。
互いに譲らず、あるいは譲り、交渉が続く。
おそらく敵は、距離感を測っている。通る要求、通らない要求。そのラインを見極めようとしている。あらゆる国の、大小様々な事情に言及し、どうでもいいフェイクの交渉を織り交ぜる。
アルディア王もそれを見抜き、些事には応え、あるいは無下に突っぱね、やり取りが続いていく。
「…………っ」
ベルグレッテは思わず、上空に展開された通信の波紋を睨む。
このジンディムという男、レインディールの内情に通じている。そのうえ、交渉も上手い。さすがにこのような事態を引き起こすだけあって、よく調べている。
『――では、次は十分後だ』
ジンディムが宣言すると同時、曇り空に浮かんだ波紋が消える。
ここまでの交渉で、人質三人が開放された。罠も仕掛けられてはいなかった。残りは三十四人。
テロ発生からは、すでに二時間半が経過している。立て篭もりなんてものは、長引けば長引いただけ起こした人間が不利になっていく。
……そろそろだ。
次の通信までの間隔も短くなってきた。そろそろ賊は、本来の狙いである『本命』の要求を繰り出してくるのでは――
「ベル子!」
思考の渦に浸かっていたベルグレッテは、その声にはっとして顔を上げた。
アルディア王がにやりと笑みを刻む。リーフィアもあっと声を漏らした。
声のしたほうに顔を向けると――集まった人の波をかき分けながら、自分の下へ走ってくる流護とクレアリアの姿。
「あ……」
来てくれた。
そして同時に、
来てしまった。
そう思った。
「リューゴ……、クレア」
――今、私はどんな顔をしてるんだろう?
二人の名を呼びながら、ベルグレッテはそんなことを思った。
「……ベル子、」
ベルグレッテは目が合うなり、悲しそうに顔を伏せてしまった。
――なんで、そんな泣きそうな顔してんだよ。
その言葉を流護は飲み込んだ。
ベルグレッテに、流護が来たことで驚いた様子はない。ここへ来ることを知っていたのだろう。
となれば、察しがいい彼女のことだ。平民であるはずの流護がここに来た意味を理解している。おそらく……遊撃兵云々の話を、知っている。だから、彼女はそんな悲しそうな顔をした。してくれた。
「よーうリューゴ、来てくれたな。んん? なんだぁお前ら、切なそうな視線なんぞ交わし合いやがって。すっかりデキちまってんのかぁ?」
呵々と笑ったアルディア王が流護を迎える。
ベルグレッテの悲しそうな顔を見たせいか、王のからかいに反論する気力が湧かなかった。
その代わりのように、クレアリアが割って入って報告する。
「陛下。只今、到着致しました」
「おーう、ご苦労さん」
例え相手がアルディア王とはいえ、流護たちの仲をからかうのが面白くないのだろう。クレアリアの目つきは鋭いが、山のごとき巨大な王は微塵も動じない。
「……王様。その……どうして俺を?」
「クレアからも話は聞いとるだろう。見ての通り今、テロが発生中だ。『銀黎部隊』も大半が壁外演習で不在のため、戦力が不足しとる。そこで高い戦力を持つお主に、個人的に助力を依頼した。貢献してくれた暁には、褒賞や、それ以上のものも考えている。無論、強制するつもりはないぞ」
クレアリアから聞いた内容と大差ない説明だった。が……褒賞や、『それ以上のもの』。
「……分かりました。とりあえず、野次馬させてください」
「おうよ。まぁ、ゆっくりしてけ」
アルディア王はくくと笑いながら流護の肩を叩いた。
「とりあえず最低限の情報だけ教えておくか。賊は約二十名。現在、三十四名の人質を取って美術館内に立て篭もり中。交渉役兼、リーダーと思わしき男の名はジンディム。今はそいつとあれやこれや、まどろっこしく交渉してるトコだ。正直、こういうのは向かねえや。男ならガツンとやり合えってんだ、面倒くせぇ」
「はは……同意見ですね。俺が役に立つ場面なんてあんのかな」
流護は周囲を見渡してみる。
まずなぜか、屋敷へ帰ったはずのリーフィアがいた。武装馬車で帰る途中にテロの報告が入り、そのままここへ寄ったのかもしれない。そんな風の少女が小さく一礼してきたので、流護も手を上げて応える。
テロが起きた――と聞き、建物が燃えて人が倒れて……みたいな惨状を想像していたが、そこまで酷いものではないようだ。どちらかといえば、立て篭もりといったほうが正しい。
地球と違って威力の高い重火器などが存在していないことや、建物には防護の術が施されていることもあ――
「――って」
よく見れば、美術館を成している柱が一部欠けてしまっている。流護は隣のクレアリアに尋ねた。
「クレア。美術館、ちょっと壊れてるけど……防護とかの術はかかってなかったのか?」
「あぁ……期限切れが近かったんでしょう。こういうことがあるから、私も期限や施術法の見直しを担当に提案していたんですが……」
やれやれとばかりに溜息をついて、クレアリアは肩を竦める。
美術館側は、忙しいとの理由で中々応じようとしなかったようだ。なじんだやり方や慣習を変えることに対して腰が重くなる傾向があるのは、こういった世界でも同じらしい。
「……ん? 敵が二十人、人質が三十四人……これ、人質が必死で抵抗したら逆転できんじゃね?」
「人質が貴方のようなパワーモンキーなら可能でしょうね」
ジト目で睨まれた。ていうかパワーモンキーて。
重火器のない世界だ。神詠術が使えるのは皆同じ。それなら人質が大人しく捕まっている道理もなく、むしろ人数で勝っているなら抵抗できるのでは――と思った流護だったが、そう簡単な問題ではないようだ。
民衆の大半は『戦闘』などこなすことはできない。火で薪を燃やす、水で草木の世話をする、氷で食料を冷やす……飽くまで生活を便利にするために神詠術を使用しているのであって、戦闘に特化した詠術士ではない。抵抗などできるはずもない――というのが、クレアリアの言だった。
逆に考えるならばテロなどを起こす連中は、重火器もなしに神詠術だけでそれを成せる、強大な力を持った人間ということになる。
ある意味、ひどく残酷だ。
流護は漠然とそう思った。
地球ならば、強力な武器を――例えば銃や刃物を手にするだけで、強者と弱者の立場は逆転する。
しかしこの世界では、それがない。
強力な術を使えない者は、使える者に対して逆転できる手段がない。半端な腕力や武器は、神詠術の前に意味を成さないのだ。弱者はただ、自分が標的にならないよう祈りながら生きていくことしかできない。万が一にも強者と対峙することになってしまったなら、その時点ですでに終わっている。
詠術士と一般人の間には、そんな隔たりが存在している。
そういう、奇跡の起きない世界。
(…………そう、か)
流護は『竜滅書記』のガイセリウスや自分がもてはやされる理由が、少し理解できた気がした。
ほぼ生まれながらにして立場が決定づけられているこの世界において、神詠術が使えないという最底辺に位置しながら、強力な術を扱う者たちを圧倒する。
そんなガイセリウスや流護という存在は、力なき者たちにはさぞ痛快に思えることだろう。
ふと前方の人だかりから、老夫婦らしき二人の会話が聞こえてきた。
「あぁ……創造神よ、どうかお願いします。我が娘をお助けください……」
「だ、大丈夫よあなた。神様も見てる。王様だって、きっとなんとかしてくれる」
どうやら人質の中に娘がいるようだ。二人は手を合わせて、懸命に祈りを捧げていた。
有海流護からすれば、祈りを捧げるなんて無駄な行為だと断言できる。そんなことをしても、娘は戻ってこない。しかし……彼らからすれば、祈ることしかできないのだ。
「…………」
少年は自分の拳に視線を落とした。
自分には、この世界で通用する力がある。腕を振るえば、この老夫婦の助けになることだってできるかもしれない。
流護の振るう力に法の守護者としての権限が備われば、力なき人々にとって心強い存在となるだろう。
それだけではなく、自分にとって優位となる場面もあるかもしれない。
例えば、先日のミアの件。
流護が兵であったなら、もっとスムーズに彼女を助けられたかもしれない。レドラックたちも、報復など考えなかったかもしれない。
意味のない仮定だが、より安全に事態が収束していた可能性はある。
(……遊撃兵……か)
ふと顔を上げると、少し離れたところに立っているベルグレッテと目が合った。……が、彼女はさりげなく顔を伏せてしまう。
別に何かあった訳でもないのに、何だろうこの微妙に気まずい空気は……と流護はモヤモヤした。
(よ、よし。この空気を変えるべく、ちょっと話をだな……)
妙に緊張した流護がベルグレッテのほうへ行こうとした瞬間、上空にとてつもなく巨大な波紋が広がった。
アルディア王も応えるように波紋を発生させる。
何だ魔法大戦でも始まるのか、これ俺の出る幕ないだろ、とうろたえる少年だったが、よく見たら通信の神詠術だった。
すごい勢いでキョロキョロしてしまったのは流護だけだった。これは恥ずかしい。
『では――次の交渉に入るとしよう』
抑揚のない、これといった特徴のない男の声が響く。これが今しがた受けた説明に聞いた、ジンディムという男なのだろう。
無理矢理やらされてる町内会役員のオッサンが拡声器で喋ってるみたいだな、などと思う流護だったが、告げられた要求は常軌を逸したものだった。
『貴国自慢のミディール学院が誇る、五人の「ペンタ」。そのうちの一人、リーフィア・ウィンドフォールを引き渡してもらおうか』
野次馬たちからどよめきが起きる。
周囲の騎士たちは弾かれたように顔を上げ、高みへと広がる波紋を睨んだ。
「……えっ?」
当のリーフィアは、こわばった顔で波紋を見つめていた。
まさかここで自分の名前が出てくるなど、思いもしなかったのだろう。
『ダメだ』
アルディア王が即答する。
「えっ、あ、お、王さま……」
少し離れた位置に立つ王へと視線を送るリーフィア。
嘲るようなジンディムの通信が響き渡る。
『なぜだ? そこにいるんだ、引き渡しの手間もかからん。そうだな……何なら、全ての人質と交換でも良いぞ?』
流護が来たことでもやもやした気持ちを抱えていたベルグレッテだったが、瞬間、目が覚めたように顔を上げていた。
『全ての人質と交換でも良い』というその言葉。
つまりこれが――リーフィアの身柄こそが、奴らの狙い。
リーフィアの身柄を欲しがる謎の敵。
襲われた武装馬車。
オプトと思わしきローブ姿の刺客。
そして――
『そこにいるんだ、引き渡しの手間もかからん』
リーフィアがこの場にいることを『なぜか』知っているジンディム。
敵は終始、徹底してその姿を見せていない。
美術館の二階、窓のカーテンを閉め切ったその隙間から様子を窺ってはいるのだろうが、ベルグレッテたちのいる場所まではかなりの距離がある。
そのうえ遠見の術を使っていたとしても、これだけの人波の中、背の低いリーフィアの姿を見つけることは不可能に近いはずだ。彼女は今だって、前に立っている大柄な騎士の後ろにすっぽりと隠れてしまっている。
ジンディムが、交渉の皮切りに発した言葉。
『まず双方の架け橋としてアルディア王に出てきてもらおう――と思っていたが、呼ぶまでもなく来てくれたようで何よりだ』
アルディア王の存在を認識していたのは、まだ理解できる。周囲を騎士たちに囲まれているうえ、この場の誰よりも身体が大きいのだ。遠目にも目立つだろう。
しかしやはり、小さなリーフィアを認識していることには違和感がある。
では美術館にいるジンディムは、どうやってこの場に彼女がいることを知り得たのか。無論、偶然アルディア王の近くにいるところを目撃されたというセンも皆無ではないだろう。
しかしそれよりも、自然かつ高い可能性が一つ。
ベルグレッテは気取られないよう、油断なく周囲を見回す。
――すぐ近くに、きっといるはずだ。ジンディムに通信で情報を与えている人物――おそらくは、オプトが。
先ほど考えた可能性。
民衆の中に敵が混じっているかもしれない。が、ただの敵ならばまだましかもしれない。その懸念が的中する。
混じっているのはオプト。こちらの様子を監視し、ジンディムに状況を報告している。
外から美術館内に情報を送っている人物がいるだろうことは、想像に難くなかった。
が、その役目をこなす者の選出は難しい。
万が一にもベルグレッテたちに感づかれ、捕縛されてしまうようなことがあってはならないからだ。
その人数も、できる限り絞らなければならない。一人でも捕まってしまえば、そこから情報が漏れてしまう。
となれば理想は、騎士たち相手でも捕まらずに撃退、もしくは逃げおおせることができる強者。それも少数精鋭。かの『ペンタ』ならば、単騎でやってのけるだろう。
正直、オプトがそんなことをする理由は分からない。というよりも、通常であれば考えられない。
もし本当に彼女がこのテロに加担しているならば、これは立派な売国行為だ。先のデトレフやディノとは比較にならないほどの重罪となる。過去に例がないほどの。
何度も脳裏をよぎる疑問だが、そもそも『ペンタ』として力も地位もあるオプトが、それだけのリスクを犯してまで、一体何を手にしようというのか。
オプトの真意も不明。ノルスタシオンの正体も不明。
しかしこれまでの状況から、その仮説がおぼろげに浮かび上がる。
敵は武装馬車を襲撃、リーフィアを力ずくで連れ去ろうとして失敗した。
そして未だ彼女を諦めてはおらず、テロによってその身柄を手に入れようとした。
(……、)
本当にそうか? 見落としはないか?
冷静に考えをまとめようとしたそのとき、
「ッ!?」
集まった民衆たちの中。
ベルグレッテの視線から逃れるように、するりと人波に紛れた影があったのを彼女は見逃さなかった。
瞬間、少女騎士は人ごみを縫って、人影を追って駆け出す。
「ね、姉様!?」
言いようのない焦りに突き動かされるまま、背後に響くクレアリアの声に応える余裕もないまま、ベルグレッテは走りながら術の詠唱を開始した。