9. 炎の狂犬
「……む」
朝の陽射しを顔に受け、流護は起こされるように目を覚ました。
この世界へ来て、もう四日目となる。ようやくまともに眠った気がした。仕事で疲れたせいもあるだろう。……とはいえ、やはり夢にミネットが出てきたような気がする。そう簡単には、忘れられそうにない。
今頃、日本ではどうなっているのだろう。そろそろ警察に捜索願いが出されたりしていないだろうか。とはいえ、帰る手段については見当もつかな――
「……あ、れ?」
そこで、ふと思った。
異常な世界に来てしまった。帰らなければ。
突き動かされるみたいにそう思っていたが、帰ったところで待っているのは平凡な日常。つまらない繰り返しの日々。勉強だってできない。空手は目標が持てない。将来やりたいことだって思いつかない。
確かに、突然いなくなったことで父親には迷惑をかけているだろう。母親は流護が子供の頃に交通事故で亡くなってしまっているので、すでにいない。友達だって少ない。『アンチェ』を一緒にやる相手がいなくてソロでプレイし続けたうえ、結局クリアを挫折したぐらいだ。たまに彩花と一緒にやる程度だった。
……彩花の顔が思い浮かぶ。彼女は、心配しているだろうか。
一緒に夏祭りへ行けなかったことが、なぜか無性に歯がゆく感じた。
「……、なんだってんだ」
顔を洗い、仕事へ向かう準備をすることにした。
昼休み。中庭の適当なベンチで昼食にしようとしていると、
「おおぉーリューゴくんいたー、ごはんにしよー!」
手をぶんぶんと振りながらミアが走り寄ってきた。
「え? いや、俺はいいけど……昨日はともかく、ミアはいいのか? 友達とメシ食わなくて」
「へ? リューゴくんだって友達じゃん」
「――っ」
不覚にも、流護は言葉に詰まってしまった。
「んっ? なになに? んんんんーっ?」
思わず顔を背けた流護を覗き込んできて、にまーっと笑うミア。
「ふひひひ。ちょっとあたしに惚れそうだった? でもいけないのだわ。あたしにはベルちゃんというおかたが……」
そこで遮るように、聞き覚えのある声が投げかけられる。
「おい」
流護とミアが揃って顔を上げると、仁王立ちするパンチパーマの少年――エドヴィンの姿があった。昨日の敵意丸出しな目つきではなく、どこか感情のない瞳で流護を見つめている。
「またエドヴィンだし……なんなのーもう」
「ミア公はすっこんでな」
「……っ、」
エドヴィンのただごとでない雰囲気を感じ取ったのか、ミアも言葉に詰まった。
「――転入生。聞いたぜ? お前、ドラウトロー倒したんだってな」
「へっ?」
ミアが驚いたように流護の顔を見る。
当の流護は顔を伏せたままで静かに尋ねた。
「……どこでその話を?」
「ロックウェーブのおっさんだよ。興味があるぜ。お前、記憶なくて神詠術使えねーんだろ? そんなんで、ベルと一緒だったとはいえ、どうやって倒したんだよ?」
「…………」
流護は無言でパンを咀嚼する。
いや、ロック博士。「目立たないようにしろ」とか自分で言っておいて、なんでバラしたんだ。やっぱおかしいよあの人。
そんなことを思いながら、パンを完食した。
「メシは終わったか?」
「……? ああ」
なぜそんなことを訊いてくるのか、流護には分からなかった。
返事を聞いたエドヴィンは、くるりと回れ右をして歩き出す。五メートルほど歩いたところで、再び流護のほうを振り向いた。
すっ――と。エドヴィンは懐から短剣を抜き放ち、その切っ先を流護へと向ける。突きつけるように。その行為を見て、
「――っ、エドヴィン、あんたっ……!」
流護の聞く限りで初めて、ミアが緊迫した声を出した。
通りかかった他の生徒たちも、にわかにざわめいている。
「……?」
流護には意味が分からない。そこでエドヴィンが宣言した。
「アリウミリューゴ。このエドヴィン・ガウル――お前に、決闘を申し込む」
周囲のざわめきが一層大きくなった。通りかかった者たちが足を止め、人だかりすらでき始めている。
「け、決闘?」
さすがに流護はポカンとしてしまった。
「ちょ、ちょっとエドヴィン! 本気なのあんた!」
「冗談に見えるか?」
上ずったミアの声にも、エドヴィンは冷静に答えた。やや人相の悪い顔だが、ふざけた気配は一切感じられない。
「受けねーならそれでもいいぜ。受けるなら、俺と同じように剣を掲げな」
「……俺に決闘なんぞを申し込む、その理由を聞きたい」
「ドラウトローを倒したお前の力に興味がある。……本当のことを言えば、昨日はお前がただ気に食わねーだけだった。けど、お前のことを調べようとロックウェーブのおっさんに話聞き行って……実際に話を聞いて、理由が変わった」
男の目に、真剣な光が宿っていた。
「神詠術も使わずにドラウトローをやっただぁ? ふざけんなよ、まるでおとぎ話の英雄じゃねーか。俺はな、ガキの頃はそらぁ『拳』に憧れたモンよ。拳だけで世界最強になれたらどんなにカッケェか。でも現実は、必死に小難しい勉強して神詠術に頼るしかねえ。その神詠術だって、『ペンタ』の連中には一生かかっても届かねえ」
独白するように語っていたエドヴィンは空を仰ぎ、すぐに流護へと視線を戻す。
「だから、本当にお前が神詠術を使わずに強えなら……その力が見てえ」
「エドヴィン……あんた、いい加減に――」
食ってかかろうとするミアを、流護は手で制した。
「って、ちょ、リューゴくん?」
「――分かった。その決闘、受ける」
周囲のざわめきが大きくなった。
「リ、リューゴくん! 本気なの!?」
それこそ『流護がベルグレッテと一緒にいるのが気に食わない』などという理由なら、受けるつもりなどなかった。
しかし今、エドヴィンが語った理由は、ベルグレッテの『誇り』に似ている気がしたのだ。
何よりエドヴィンの真剣な目を見ていたら、受けねばならない気がした。いや、受けてみたくなった。元々、こういう目をした男との『ケンカ』は嫌いでないのだ。
「い、いや。エドヴィンとかただのバカだけど、いくらなんでも神詠術が使えないリューゴくんじゃ……あのバカ、いちおう『狂犬』とか呼ばれる使い手だよ?」
「大丈夫だ。サンキュな、ミア」
「――感謝するぜ、アリウミリューゴ。受けんなら、剣……ナイフでもいい、掲げな。俺と同じように。それで決闘は成立だ」
「いや……俺、剣とかナイフとか持ってねえんだけど」
「……は、護身用の刃物すら持ってねーってのか? たまんねーな……じゃあ、拳でいい」
「了解した」
ベンチから立ち上がり、ぐっ……と、流護はエドヴィンに向かって右拳を突き出す。
「決闘成立だな。おらミア公、離れろ。巻き込むぞ」
エドヴィンは短剣を懐に戻し、弛緩したようにだらりと両手を下げた。これがこの男の構えなのだろうか。流護は警戒を強める。
「エドヴィンのくせにむかつく……」
心配そうな顔で、ミアが流護のほうへ視線を向けた。
「リューゴくん、カタキはあたしが取るから。あのバカ、ボッコボコにして再起不能にしてやるから」
「はは。んじゃ、俺が負けたらお願いする」
「まかせて!」と親指を立て、ミアが離れる。
周囲には、流護とエドヴィンを囲むように人垣ができていた。えらく目立つことになってしまったが、もう仕方がない。
流護はどっしりと腰を落とした構えは取らず、ほぼノーガードで左右のステップを踏み始めた。本来、身体の大きいほうでない流護は、フットワークを使った一撃離脱こそが本領なのだ。
「で、始めていいのか?」
油断なく、流護が問う。
「――いや」
むき出しの犬歯を覗かせる凶悪な笑みを浮かべ、エドヴィンが答える。
「もう始まってんぜェ!」
刹那、エドヴィンはバスケットボールほどもある火球を手のひらに生み出し、全力で投げつけた。
「!」
速い。これは避けられない。流護は瞬時にそう判断した。
爆炎が舞った。その場にいた全員へ、容赦なく土煙が吹きかかる。
「うわああぁ!」
「お、おい! エドヴィンの奴、いきなり『スキャッターボム』撃ったぞ!」
「事前に詠唱してやがったんだ! さすが『狂犬』だぜ、卑怯くせえ!」
「け、煙でなにも見えないし!」
ギャラリーから悲鳴に似た声が巻き起こっていた。
「エドヴィンっ! あんた、始める前にもう詠唱し終わってたの……っ!」
顔の前に手をかざして土埃を防ぎながら、ミアがエドヴィンを睨みつける。
「はっ……卑怯だってか? チョロイこと言ってんじゃねーよ」
エドヴィンは流護がいたはずの場所を睨む。ごうごうと立ち込める煙のせいで、その姿は見えない。遠巻きに離れたギャラリーの声が聞こえてきた。
「げほげほ、どういうこと?」
「ほら、強力な神詠術ほど詠唱に時間かかるでしょ? エドヴィンのスキャッターボムはアイツの切り札。本当なら、あのクラスの神詠術は詠唱に二十秒はかかるはず。なのにアイツは、決闘開始と同時に撃った」
「あ。始まる前に詠唱終わらせといて、いつでも出せるようにしてたのか」
「だいたい決闘開始の合図だって怪しいもんだし……詠術士の面汚しよアイツ。信じらんない!」
――どいつもこいつも甘っちょろい。ベルグレッテもこの場にいたら似たようなことを言いそうだ、と『狂犬』は鼻で笑った。
何を言っていやがる。例えばお前らは怨魔を前にして、「詠唱が終わるまで待ってくれ」とでも言うつもりなのか? 笑わせるな。これが闘いだ。
「――ああ、そういうことか」
土煙の向こうから、その声が聞こえた。
それが合図だったように一陣の風が吹き、視界が晴れる。
「いいねえ……きたねえとは思わんぞ。いい先制攻撃だった――」
そこには、傷ひとつない――不敵な笑みすら浮かべている、流護の姿。
「……っとおー熱っち。いやまあ、びっくりしたけどな」
左の手首をプラプラと振り、何でもないことのように言う。
スキャッターボムを受けた少年の感想は、それだけだった。
「……びっくりした、だぁ……? 直撃すりゃ腕の一本や二本、吹っ飛んだっておかしくねーんだぜ……?」
思わず呆然とエドヴィンは呟く。
「吹っ飛ばすつもりだったのかよ。おっかねえな」
ごきり……と、流護は手首を鳴らす。
「まあ『これは危ねえ、しかも避けられねえ』って思ったから、さすがに正面から防ぐ気にはならなかった。だから打ち払ったんだけどな。こう、ガンって」
流護は左腕を横に倒す動作を見せる。
そんな少年のすぐ横に、剥き出しになって抉れた地面があった。半端な防御術であれば弾くことすら許さない奥の手を、本当に素手だけで凌いでしまったというのか。
ミアも何が起きたか分からないといった表情で、目を見開いて固まっている。
「そ、……ッんなんで防げるシロモンじゃねーってんだよ!」
叫んだエドヴィンを取り巻くように炎が渦巻き、空中にいくつもの火球が現出する。先ほどのスキャッターボムとは違い、今度は石ころ程度のかなり小さな火球。
しかしその数は、軽く三十を超えていた。
「ウオオォラァッ!」
エドヴィンの腕を振る動作に応え、数十の火球が一斉に流護へと殺到する。それはもはや散弾の雨霰。次々と着弾した火球が、再び噴煙とギャラリーの悲鳴を巻き起こす。
この場の誰もが「終わった」と思っただろう。
しかしエドヴィンは見た。
火球が流護の下へ到達するより速く、彼の姿が『かき消えた』のを。
「――――、」
かき消える? そんなことがあるはずはない。
消えたように見えたなら、それはつまり目に捉えられないほどの速度で移動したということだ。
エドヴィンは素直に認め、油断なく視線を奔らせる。
視界の隅に、黒い影を捉えた。角度にして、およそ九十度。間合いこそ縮まってはいないが、エドヴィンから見て右真横に、相手は一瞬で移動していた。
流護が駆け抜けた大地――整えられていた中庭の芝生は、耕されたような穴が穿たれていた。まるで重武装の軍馬が走り去った跡。どんな脚力してやがんだ、とエドヴィンは戦慄する。
「――ふうっ」
流護が短く息を吐く。
数十にも及ぶ、火球の連続弾。そんなものを全て回避するなど、降り注ぐ雨粒を躱すことにも等しい。いくら何でも不可能だろう。だから、走り抜けたのだ。一つ一つの攻撃を避けるのではなく、攻撃範囲そのものから離脱した。あの一瞬で。
エドヴィンはそう理解した。どちらにせよ、人間技ではない。
「ッらァ!」
手に生み出した火球を投げつける。流護は首を振る動作だけでそれを躱した。
直後、大地を蹴りつけて、相手はエドヴィンへと接近する。
(ふざけんなよ)
生み出した火球を二つ、投げつける。あっさりと回避しながら、流護がさらに距離を詰める。ダメだ。単発では、足止めにすらならない。しかしもう、大技を詠唱するような時間はない。
(俺だってよ……)
炎の少年は、泣き出しそうな顔で歯を食いしばった。流護が、目の前に迫る。
(俺だってよぉ……)
強くなりたかった。
神詠術などに頼らず、拳だけで闘ってみたかった。子供の頃から夢見ていた。
『竜滅書記』のガイセリウスみてえに。おとぎ話みてえに。男に生まれたんだ、誰だって一度は夢見るだろう……?
「おおぉぉおぉぉァ!」
エドヴィンはさらに火球を生み出――さず、右手を握り締め、その拳に炎を纏わせた。
「闘いてーんだよ! テメェみてぇによォ!」
全力で流護を迎え撃つべく、炎に包まれた右拳を振りかぶる『狂犬』。
しかし振り抜いた炎拳は空を切り、視界が縦に回転した。
――ギャラリーが沸いている。
「……?」
なぜ歓声が上がっているのか、エドヴィンには分からなかった。ついでに今、なぜ自分が空を見ているのかも分からなかった。
背中にあるのは、大地の感触。視界に広がるのは、雲ひとつないきれいな青空。
「す、すっげえー……なんだ今の!」
「拳で人間が縦に回転するなんて初めて見たぞオイ!」
「い、いや。強化系の神詠術だろ? いくらなんでも……」
……ああ……、そういうことか。
ようやく、自分が倒されたのだとエドヴィンは理解する。
「う、うーおおぉー! リューゴくんすっげえええぇ!」
流護の下にミアが走り寄り、ピョンピョンと飛び跳ねた。
「……エドヴィンだっけ。立てるか?」
そう言ってエドヴィンを見下ろしてくる勝者の顔には、傷ひとつついてない。
「……、」
身体は動かない。どうやって倒されたのかすら覚えていない。こんなことは初めてだった。
「……立てねーよ。バケモンか、てめーはよ……」
なぜだろう。
手も足も出ずに倒されたというのに、ひどくすっきりした気持ちを感じていた。