83. 闘うために
断続的な重い音が空を切る。
「――ふー……」
流護は正拳突きの反復練習を終え、汗を拭って一息ついた。
自分の右手を見下ろす。小指から順に四指を握り込み、最後に親指を添える。『正拳』という形。
身体は作っている。筋力、体力ともに衰えないよう、鍛え続けている。
しかし、決定的なまでにどうにもならない問題があった。
『空手の修練』が積めないのだ。
この世界に来たことで、当然ながら部活や道場へも行けなくなった。組手をする相手もいない。そもそも、他に空手を知る……使える人間など一人もいない。
この世界で過ごしていくうち、次第に型は乱れ、我流が混ざっていくだろう。
何とか肉体の維持はできているが、ここから爆発的に強くなれるような要素はない。
片隅の木の枝に括りつけてある、サンドバッグ(自作)の前に立つ。
「――シッ」
伸び上がる軌道。右の上段廻し蹴り。
鈍い着弾音と共に、サンドバッグがくの字に形を変える。ぎしぎしと音を立て、振り子のように揺れ始めた。
素人ならば、何が起きたか分からないうちに昏倒しているだろう一撃。
この世界には熟達した格闘者などいない。
腰の入っていない拳や蹴りですら当たれば倒せる以上、問題はないのかもしれないが……。
――いや。本当に倒せるのか?
ディノ・ゲイルローエンとの死闘を思い出す。
紙一重。間一髪。奇跡。あの闘いの結果を表現する言葉は、様々だ。
いつ死んでも、おかしくなどなかった。全てが必殺の一撃。
あのときはディノに指摘され、後に自分でも感じていたが、楽しいとすら思っていた。高揚していたのだろう。
しかし今こうして思い返せば、ただただ戦慄する。結果として、最終的には肉体強度ですら上を行かれてしまっている。
ディノだけではない。高みから人間たちを見下ろしていた、邪竜ファーヴナールの威容を思い出す。視認すらできず、気付けば腕を吹き飛ばされていたあの瞬間を思い出す……。
ディノやファーヴナールともう一度闘って勝てるかと問われれば、素直に頷くことなどできない。
そんな、常軌を逸した怪物たちが蠢く世界。
――もう、限界だ。
「アリウミ殿でしたか」
そこで建物の影からひょこっと顔を出したのは、クレアリアだった。
「あ……クレアリ……じゃなくてクレア。どした?」
「……いちいち呼び直さずとも結構です。何やら物騒な音が聞こえたので、何事かと思いまして」
「ああ。悪い、うるさかったか?」
「そういう訳ではありません。何かと思っただけです。……しかし、素手であのような音が出るんですか」
今も揺れ続けるサンドバッグをちらりと一瞥し、半ば呆れたようにクレアリアは言う。
「まあ、練習してるしな」
流護は素早く左右の拳を突き出した。両の手に、風を切る感触が伝う。
「……ドラウトローの頭すら粉砕したという逸話は伊達じゃありませんね。……貴方、本当に人間なんですか?」
呆れたようにジト目を向けてくるクレアリアに、流護は思わず吹き出した。
「何ですか」
「はは……いや」
ベルグレッテと知り合ってすぐ、このミディール学院を訪れたときのこと。彼女にも、「人間じゃない」と言われたことを思い出したのだ。
「武術の修練もいいですが……少しは神詠術を扱う訓練もしたらどうでしょう? 記憶がないからといって、怠けるのは感心しません」
「は、ははは。いやー、俺、絶対、神詠術の才能ないと思うんだよなー」
ベルグレッテとミア、ロック博士以外には記憶喪失で通しているのだ。信仰に篤いクレアリアがこのように言うのも無理はないだろう。流護は、ついボロが出ないかとヒヤヒヤしてしまう。
「ところでアリウミ殿は、武器は扱わないんですか? 素手でそれほどの手練なら、武器を持てば相当な腕前を発揮するんじゃないかと思うんですが」
手に何も持たぬことを空手ともいう。……のだが。
空手家が武器を使うとどうなるか。そこはクレアリアの言う通りだ。素手で強いならば当然、武器を使えばなお強い。
どういうつもりだったのか、師たる妖怪ジジイから武器の手ほどきも少し受けている。しかし。
「いや、武器ってさ……万が一、敵に奪われたら困るじゃん? 素手なら、敵に取られることもないし」
「それはそうかもしれませんが……貴方でなければ言えないセリフだと思います、それは」
クレアリアは溜息を隠しもしない。
それに基本、戦闘イコール命のやり取りになる世界だ。慣れない武器を使って失敗するかもしれないと思うと、信頼のおける体術のほうが精神的にも安心できる。
流護は、ちらりとクレアリアの腰元に視線を落とす。
短いスカートから露わになった色白の太もも――ではなく、その脇に提げられた幅広の長剣。
明らかな凶器。
武器を使って人間と相対した結果、殺してしまうかもしれないという懸念もあった。甘い、と自分でも理解している。しかしやはり……簡単に割り切れるものでもなかった。現代日本で培った常識というものは、今も有海流護を捕らえて離さない。
そこで流護は、クレアリアの姿を見てふと思ったことを尋ねてみた。
「そうそう。騎士の人とか、クレアもそうだけど……そんな長剣、腰に提げてるけどさ。腕力ないのに、武器なんて振れるのか?」
城の兵たちは、剣や槍を持ち、鎧に身を包んでいる。
一見して当然のことだが、筋力に乏しいグリムクロウズの人間が、金属製の武具を身につけてまともに扱うことなどできるのだろうか――と、今更ながら思ったのだ。
「腕力がないって……、貴方の力がおかしいんですってば。……ところで、腕力がないのに武器を振れるのか、ってどういう意味ですか?」
「え? いや。その剣、鋼鉄製とかだろ? かなり重いんじゃないのか?」
適当な知識だが、片手剣というものは重量にして一、二キログラムほどだと耳にしたことがある。
ただでさえ筋力に乏しいこの世界の住人、そのうえで身体が小さく腕もか細いクレアリアでは、まともに振るえるとは思えない。
「何を言ってるんですか? 鋼鉄でできた剣なんてありません。そんなもの、扱えるはずないでしょう。貴方なら振れるかもしれませんが」
流護は思わずヒヤッとする。
その言葉で気付いた。この世界の武器防具は、重金属でできている訳ではないのだ。
思わず地球の常識で語ってしまっていた。つい先ほど、ボロが出ないかとヒヤヒヤしたというのにこれだ。
「……記憶喪失だと、そんなことまで忘れるんですね。武器防具は基本的に白玲鉄で作られてます」
「白玲鉄?」
「非常に軽いうえにそれなりの硬度がある金属です。特に魂心力に対する反応が良好なため、武具の素材として広く普及してます。棍棒の先端部分などには、鋼鉄や黒燕鉄を用いて、威力や硬度を上げる工夫もなされてたりしますが……。かのガイセリウスは、黒燕鉄製の全身鎧などというものを愛用していたそうです。通常ではまず考えられないですね。……ところで」
クレアリアの目が、すっと細まった。
「――何故、武器が鋼鉄で造られているなどと思ったんです?」
危うくボロが出るも何もない。完全に怪しまれていた。
「い、いやだって、鋼鉄ならすげー強そうじゃん!?」
「……ふうん。けれど不思議ですね。鋼鉄は知ってるのに、白玲鉄は知らないんですか。とぼけてるようにも見えませんし……」
「は、はは。いや、記憶喪失でさ、記憶が混濁? しててさ、覚えてることと忘れてることがあるみたいでさ」
――流護としては。
正直にいえば、記憶喪失だと偽り続けることにも罪悪感があった。クレアリアが、手厳しくも根は優しい子なのも知っている。可能なら、本当のことを話したい。
だが、やはりまずい。
相手がクレアリアとなると大問題なのだ。
信じてもらえない程度ならまだいい。信仰の篤い彼女には、迂闊なことを言えば異端だと思われてしまいかねない。
本当のことを話したベルグレッテやミアですら、地球や日本について正確には理解していないのだ。このグリムクロウズ上の、どこか遠くの国だと思っている節がある。惑星の概念がない人間に理解しろというほうが無理なのかもしれない。
クレアリアに何をどう説明したところで、納得してもらえるとは到底思えなかった。
「…………」
クレアリアはジト目で睨んでくる。
値踏みするように流護を眺めて、はぁ、と息を漏らした。
「……まあいいです。貴方が異端者で、レインディールに入り込んで何かをしようとしてる……ようには見えませんし」
「そう言ってくれると助かる。俺も、どうしてここにいるんだか分からんしさ……」
流護は困ったように苦笑いを見せた。
これに関しては、嘘は言っていない。
そこでクレアリアは、おもむろに腰の剣を抜き放った。しゃきん、と甲高い抜刀音が響く。
えっ!? 俺、何かまずいこと言いましたか!? スターップ!? と焦る流護に、少女はすっと長剣を差し出した。
「どうぞ」
「え? え?」
「少し剣を扱ってみては?」
「え? あ、はい。どうも」
困惑しながらも、手渡しで剣を受け取り――
「……、うっお……軽っ」
信じられない軽さ。包丁よりも軽い。片手どころか、数本の指だけで挟んで扱えそうだ。
「……ではちょっと失礼して」
流護は剣を振ってみた。まさしく玩具のように、手足の延長のように風を切る音も軽い。
剣をまじまじと眺めてみる。
幅広の刃を持つ、刃渡り七十センチほどの銀剣。長剣と呼ぶには短いかもしれない。
刀身には厚みがあり、日本刀のような鋭さは見られない。使い込んでいるのか、傷や欠けも多い。斬るよりも、叩きつける……もしくは突き入れるための武器として用いられるのだろう。
が。
(……うーん)
如何せん、軽すぎる。見た目と重量が釣り合っていないほどに。まさしく、『腕力のない』この世界の人々が扱うために設計された武器なのだ。
そもそも、神詠術が要となる世界。本物の武器は、補佐として用いられることが多いと聞く。その一本に命を預ける、というほどまでには重要視されていないのかもしれない。
正直なところ、鈍器としてもそこまで期待できるものではなさそうなうえ、流護の腕力で扱った場合、あっさりと破損させてしまいそうだった。
「なるほどなあ……あ、どうもでした」
呟きながら、流護は長剣をクレアリアに返す。
「今ひとつ、という顔ですね。まあ、アリウミ殿の筋力の前では当然かもしれませんが」
剣を鞘に収めながら、わずかに呆れたような口調で続ける。
「しかし武器はともかくとして、防具ぐらいは考えた方がいいかもしれませんね。そもそも防具すらなしに、ファーヴナールやディノを退けたという話が信じられないぐらいです」
「…………」
その言葉に、流護は沈黙する。
クレアリアが来る直前に、考えていたこと。
今のままでは、もう限界だと。
ディノとの闘いで思い知った。
流護は決して、選ばれた勇者などではない。最初はこんな世界へ迷い込み、ありえない膂力を有し、特別な存在になったような気分すら感じていた。
しかし、違う。才覚に恵まれた特別な強者とは、あの桐畑良造やディノのような者のことをいうのだ。
流護とて自分で才能がないとは思わないし、修練を重ね、今よりもっと強くなるつもりではいる。
しかし。流護の身体能力は、神詠術で実現できるものなのだとディノが証明した。
ベルグレッテに言わせればあの男が異常なだけらしいが、それでも神詠術という力によって、ディノが流護と互角以上の身体能力を獲得していたことは間違いない。
これからも本気で闘っていくつもりならば――流護にも、足りない部分を補う何かが必要となる。ディノでいう神詠術のような何かが。
鍛えたところで、見違えるほどの……爆発的な成長などはありえない。となれば――
「……どうしました?」
押し黙っている流護を訝しんだか、クレアリアが声をかける。
「防具……、篭手っていうか、ガントレットみたいな……いや、手首だけを保護するような防具って、王都で売ってるか?」
――となれば、道具で補う。
慣れない武器はともかくとして、身を守る防具で武装する。
先日のディーマルドという男を思い出す。
その腕を覆っていた、黒い甲虫のように無骨な篭手。あれは攻防一体の武装なのだろうが、ああいうのは流護には合わない。いざとなれば掴み技も……指も使いたい流護としては、手首だけを覆う手甲が望ましい。
耐久度さえ備われば、どんな神詠術も『受け』てみせる自信はある。
ファーヴナール戦、ディノ戦ともに、相手の攻撃に対して流護が取れる行動は『回避』のみだった。そこへ『防御』という選択肢が加わるだけでも、戦術の幅は劇的に広がる。
「腕……だけでいいんですか?」
「ああ、とりあえずは」
相手の懐に低姿勢で潜り込みたい流護には、軽装鎧ですら妨げとなる。武装することで、速度が落ちるのも避けたい。
腹当てや胸当てのようなものがあってもいいが、柔軟性と硬度を維持するものとなると難しそうだ。
無論、需要を満たす防具があるのであれば欲しいところではあるが。
「できれば、ファーヴナールにドツかれても大丈夫な、ディノの炎にも耐えられるみたいな……」
「ありません。ファーヴナールの腕に薙がれ、ディノの炎に焼かれたのならば、それはもう死んでおくべきです。人間として」
溜息と共に一蹴された。いや当然かもしれない。
「騎士団ご用達の『竜爪の櫓』という店ならば、防具を特注することも可能ですが……その分、値が張ることになりますよ」
「やっぱりそうか……ちなみに、最高級の手甲だとどんなもんだろ?」
「ラティアス隊長の愛用してるガントレットが、百万エスクを超えていたはずです。あの方自身が『ペンタ』なので、特別にすぎる一品ではあるのですが」
「百万て……」
食事代など諸々を差し引き、一日の手取りとなる流護の収入が約三千五百エスク。そのうえ流護は、ベルグレッテに数十万もの借金がある。
とてもではないが、手甲を購入する資金など捻出できそうにない。
地道に稼ぐか、妥協して安いものを買うか。
それこそベルグレッテに相談すれば、彼女が何とかしてくれるかもしれない。だがこれ以上、迷惑をかけるのはごめんだった。
「まぁ、いい加減に何らかの武装はするべきでしょう。ラプソルじゃあるまいし」
「ラプソル?」
聞いたことのない単語だった。流護はそのまま問い返す。
「生ける伝説……とも謳われている傭兵の名前ですよ」
ラプソル・エインディア。通称、金色のラプソル。
一部の間では、史上最強とまで評されている女性詠術士。金色に輝く両眼を持っているという。
約二十年前、十代前半という年齢にして、怨魔が跋扈する危険地帯『南の大熱砂』の開拓に絶大な貢献を果たしたとされる。
仲間と共に傭兵として各地を点々とし、攻撃に特化した神詠術をもってあらゆる敵を両断した。
ラプソルについての詳細な記録は残っておらず、ある時期を境に忽然とその姿を消す。
どこかで野垂れ死んだのか、引退して静かな暮らしを送っているのかは不明――
というのが、クレアリアの説明内容だった。
「つか、また新たな最強キャラっすか……しかも当時、十代前半の女の子て。トンデモ設定じゃないですか。やっぱ『ペンタ』なのか?」
「記録がないので何とも。少なくとも、我が国の『ペンタ』にラプソル・エインディアという名の者はいません。逸話の大半に尾ひれがついてるとも思いますが、それを差し引いてもかなりの使い手だったことは間違いないようです」
「生きてれば、今は三十過ぎぐらいか……」
本当に金色の目をしていたら、随分と目立ちそうなものだ。流護がこれまで出会った人物の中に、そんな色の瞳をした者はいなかった。
ただでさえ、人の伝聞と記述だけで話が広まる世界。クレアリアの言う通り、色々と脚色がなされているのかもしれない。
「……ってその話、俺の防具の話と何の関係があるんだ?」
「ああ……ラプソルは傭兵にもかかわらず、武器や防具で武装するということを全くしなかったんだそうです」
まるで誰かみたいに、とクレアリアは付け加えた。
「いや、俺の場合はアレだし……これからはするし……」と言い訳っぽく独りごちる流護を尻目に、クレアリアはくるりと踵を返して歩き出した。
「ん? どこ行くんだ?」
「……なぜ貴方にいちいち……、これからリーフィアが来るので。私も、姉様のところへ行きます」
「なるほど」
流護は博士のところで見たリーフィアの似顔絵を思い出す。
……うん。あの絵の通りだとしたら、リーフィアはかなり可愛いはずだ。ディノやナスタディオ学院長以外の『ペンタ』にも興味がある。
今この場で、買えない防具について悩んでいても仕方がない。気分転換をしよう。
少年は上着を脱ぎ放ち、手桶に汲んであった水をかぶり、さっと身体を拭き、用意してあった替えの上着に着替える。この間、十五秒。
という訳で、流護も行ってみることにした。