8. ハッピーハイパーハムスター
翌朝、流護は学生棟の一室で目を覚ましていた。
昨日の出来事が……ミネットの顔が、森での戦いが。何度も夢に出た。おかげであまり寝た気がしない。
何となしに部屋を見渡す。
あの後、ベルグレッテから宛がわれた部屋。
空き部屋にひとまず寝泊りするためのシーツ類と時計を置いてもらっただけなので、他には何もなく非常に殺風景だった。
この部屋は、一階の空き部屋ばかりがある目立たない一画に位置している。できるだけ他の生徒と遭遇しないようにするためだ。目立つのは避けたいところだった。
一体どんな権限を持っているのか。
ベルグレッテは昨夜のうちに部屋の手配を済ませ、学院の雑務をこなす作業員として流護を雇用する話をまとめていた。
何でもこなしてしまう手際の良さが、彩花に少し似ているかも……なんてことを少年は思う。
さて早速だが、仕事の初日となる。
別段難しくはない、誰でもできる雑務をこなす仕事だそうだ。アルバイトのようなものと考えていいだろう。いや、流護はアルバイト経験などないのだが。
まだ早い時間だったが、軽く外の空気を吸うつもりで裏口から外へ出てみた。学生棟の裏側から望む風景。芝生の広がる中庭と、そびえる石壁――はいいとして、
「あ」
「あ」
なぜかベルグレッテと鉢合わせした。
「お、おはよう、リューゴ。……リューゴ?」
そして流護は、そのまま停止した。
「ちょっ、どうしたの? ねえ」
ベルグレッテは、制服を着ていた。
胸元に大きな赤いリボンがついた品のいいブラウンのブレザーに、黒の短いプリーツスカート。膝までの長さの黒いソックス。
その美貌と相俟って、ベルグレッテの制服姿は流護の意識を完全に刈り取っていた。
「ちょっと、ねえ。ねえってば」
少女は少年の肩をガクガクと揺する。
「は、はっ!?」
帰ってきた。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「気絶、していました」
「んな……大丈夫? 疲れが溜まってるんじゃ……」
他のものが溜まりそうです、とアホなことを口走りそうになった流護だったが、彼女の顔を見てハッとした。
ベルグレッテの目が、少し赤みを帯びていた。
そう。昨日、ミネットがあんなことになったばかりなのだ。眠れずに、泣いていたのではないだろうか。
知り合ったばかりだった流護でさえ、あれだけの衝撃を受けたのだ。ベルグレッテの胸中は、どれほどのものだったろう。
そこへきてドラウトローと闘い、面倒な事後処理をこなし、日が落ちてようやく学院へ到着し、流護の神詠術検査結果にショックを受け、その当人に意味の分からない慰め方をされ、夜のうちに流護の部屋や仕事を手配し、そして今この瞬間なのだ。
ベルグレッテのほうがよほど疲れていてもおかしくない。
世話になりっぱなしじゃないか。流護は申し訳ない気持ちになってしまった。
よし。何か、少しでも助けにならなければ。
少年は胸のうちで拳を握りしめて奮起する。
「ベル子。何でも言ってくれ。お前のためなら、何でもする」
流護はこの上なく真面目な顔でベルグレッテに宣言していた。
「はっ!? は、はい」
気圧される形で、少女騎士が返事をする。
――そこで。ガタッ、と物音がした。
音のしたほうに顔を向ける、流護とベルグレッテ。
「…………げ」
ベルグレッテが、らしからぬ声を上げる。
建物の影から、一人の少女が二人を見つめていた。何かを目撃した家政婦のような様子で。
ベルグレッテと同じ制服姿。つまり学院の生徒だろう。赤茶色のショートヘアで、かなり背が低く、百五十センチなさそうだ。少し幼い雰囲気だが、割と日本人に近い顔立ちをした、可愛らしい少女。
彼女は、見た目どおりの幼い声を出す。
「……あ、」
あ? 流護は次の言葉を待つ。
「ああアアァー! ベルちゃんが男と逢い引きしてるウウゥゥーッ!」
幼い声が凄まじい絶叫に変わった。
すげえ声出してんぞ。
「ちょっ、ミア! 違うから!」
ベルグレッテが焦った声を響かせるも、
「ンヒイイイィーッ! み、みんなあァー! ベ、ベルちゃんが! こっそり男を飼ってるウウゥーーッ!」
ミアという少女は絶叫しながらくるりときびすを返し、やたら乙女チックな走りで駆け出した。
「ま、待ちなさい!」
ベルグレッテが追いかける――までもなく、ミアは勝手にすっ転んだ。そのままあっさり組み伏せられる。
「あなたねえ……あることないこと言うのやめましょうね」
「だってそうじゃん! そこの間男が『なんでも言ってくれ。え? 足を舐めてくれ? よし分かった。ベル、お前に汚いところなんてないよ。ペロペロ』って言ってたじゃん!」
言ってない。
「このまま倉庫に放り込まれたい?」
「ベルちゃんと一緒なら、いいよ……って、ベルちゃん重い。おっぱい重い。ていうかなに? おっぱいまた大きくなったんじゃないの? どういうことなの!? あ! そこの間男に揉ませてんのか!? こんなふうに! オラぁ!」
「あ、こら! ……ちょっ、や、やめ」
短いスカート姿のまま倒れ込み(しかしなぜか絶妙にスカートの中は見えない)、文字通りの『もみ合い』になってきた少女二人から慌てて目を逸らし、素早い動作で回れ右をして『休め』の姿勢をとる流護。空がきれいです。
「ふざけんななんだこのおっぱいは! もちもちしやがって! こうか、こうか! これがええんか! こう……、あれ、なんだろ……変な気持ちに、なってきたよ……?」
「い、いい加減にしなさいっ!」
ばしゃあ、と水の音が聞こえた。
「……俺は何してんだろう……仕事初日じゃなかったっけ……」
「いや……もうしわけないです……」
流護は校舎内の廊下をベルグレッテと一緒に歩いていた。仕事へ行かずに。
すでに最初の授業の時間帯らしく、他の生徒の姿は見えない。
今は自習用の教材を取りに行ったベルグレッテに付き合って歩いているところだった。
あの後。ベルグレッテはミアという少女にくれぐれも変なことを吹聴しないよう注意していたのだが、あまり効果は期待できないとのこと。
それで結局、これ以上変に邪推されるぐらいなら、いっそクラスメイトに紹介してしまおう――ということになったのだ。
確かに流護としても、色々と詮索されて神詠術を使えないことなどがばれるのは、あまり好ましくない。
『記憶喪失で神詠術の才能もないから学院で働いてる少年』という設定を浸透させておきたいところではあった。……まあ流護としては、ベルグレッテと『そういう関係』だと誤解される分には悪い気などしないのだが。
「ローマンさん……作業場のリーダーには私から説明しておくから。ほんとごめん」
「いや。ベル子は悪くないからいいって」
苦笑しながら何となく窓の外を見ると、中庭を元気に走り回る子供の姿。
年齢的に小学生ぐらいだろうか……え? 子供?
流護は思わず二度見しつつ尋ねる。
「なんか子供がいるぞ……小等部? みたいのあるのか?」
「うん? ああ、神詠術系の学院っていうのは、普通の学校とは違うの」
微笑ましげに子供たちを眺めながら、ベルグレッテがそう答える。
「十歳から十九歳までの間なら、いつでも入学できるの。それで、四年間の学院生活を送る。だからいろんな年齢の人がいるわよ。十九歳の一年生がいれば、十三歳の四年生だってありえるわけ。ちなみに私は今年、二年目の十五歳」
大学のシステムみたいなもんか……と流護は頷く。
「そういえばリューゴって、年はいくつなの?」
「ん? 十五だけど」
「あ、それじゃあ私と同い年なんだね」
微笑みかけてくるベルグレッテから、流護はつい目を逸らしてしまった。何だか恥ずかしかったので。しかし同い年なのか。自分のクラスにいた女子とはあまりにも別格すぎる。色々と。胸とか。特に彩花なんかとは。なぜか流護はそんな比較をしながら歩く。
「……さて、ここが私のクラスね。……はぁ」
扉の前にたどり着いて、少女は重々しく溜息をついた。
「まったくミアめ……。ちなみに神詠術の学院っていうのは基本、教師不足でね。私が、先生の代わりに自習のまとめをやったりもするんだけど」
「なるほどな。今日は先生がいないと?」
「うん」
つまり。今日は教師がいなくてフリーダムなんだな。
「それじゃ、入るわよ? 準備はいい?」
なんだそのボス戦前の確認みたいのは。
特に意識してはいなかったのに、そう言われると急に緊張してきてしまう。
「ま、まずは深呼吸をしてだな……」
「はい、覚悟決めて行きましょ」
ベルグレッテが扉を開け、二人で中に入った。
「ヴォオオォオーイ! ね! あたしの言ったとおり! ね! 間男!」
あ、ボスがいた。
例のミアが立ち上がって炸裂する。なぜかロケットの発射シーンが流護の脳裏に浮かんだ。
「なにっ、ミアの話本当だったのかよ……」
「ほんとにあのベルに男が……?」
「背ぇちっちゃくね?」
「ちょっとかっこいいかも」
「どっちかっていうと可愛い系かな?」
「ケツ貸してくんねえかな……」
「さすがにベルとは釣り合ってなくねーか」
「なんか変わった服着てるなー」
「ケツ貸してくんねえかな……」
至るところからざわめきが聞こえてくる。
少し怯みながらも、流護は教室を見渡してみた。クラスの人数は四十人ほど。広い空間に個々の席があるのは日本の学校と全く同じだ。教室というものは国どころか世界、惑星を越えても同じなのかもしれない。
さて、まず目に入ったのはやはりミア。
ちんまりとしていて黙っていれば可愛いのだが、もはや歩く名誉毀損だった。
すぐ近くに、線の細い女子生徒……、ではない。あまり特徴のないブレザー姿。どう見ても男の制服だ。彼(?)は流護と目が合うなり、びくっと怯えたような表情を見せて顔を背けてしまった。顔を見る限り、女にしか見えないが……男なのだろう――か?
その近くには、三十代にしか見えない、ひげの剃り残しが青くなっているおっさんのような男。なぜか異常なまでに汗をかいている。
その奥に、さらさらな金髪が美しいメガネの女子生徒。
大人しそうな顔で、かなり可愛い。流護のほうを全く見向きもせずに、ひたすらノートを取っている。真面目な子なのだろうか。
そして窓際。パンチパーマのヤンキーが、ひたすら流護を睨み続けていた。
この世界にパンチパーマなどがあるとは思えないので、天然パーマなのだろう。しかしすごい。ガンをくれるというやつだ。「夜露死苦」とか言ってきそうだった。
さらにそのヤンキーの隣には、窓際の壁に背中を預け、腕組みをしている巨漢がいた。
身長は二メートルあるのではなかろうか。がっしりとした体格の大男。
眉は太いが目は異常に細い糸目で、開いているのか閉じているのか分からない。しかしあれでもしっかり見えているようで、流護の視線に気付くなり「ニィ……」と少しだけ口の端を吊り上げてきた。不敵な笑みだった。どこの無頼漢だ。
(なんだこのクラス……)
流護の感想はその一言に尽きた。
「はーいみんな、席についてくださーい」
ベルグレッテがよく通る声を響かせる。もう完全に先生だった。
「はい。それでは最初に、個人的な話で恐縮なんですけ」
「間男かアアァァーッ!」
ガターン! とミアが立ち上がる――のを完全に予測していたのか、「はいそこ黙って」とベルグレッテが何かを投げつけた。ばしゃーん、という音。
おお、水の神詠術ってこんな風にも使えるんだな。流護は感心しきりに頷く。
「ぉぉぅ……ぉぉぅ……」と取り出した布で顔を拭くミアを無視し、ベルグレッテは話を続けた。
「誰かさんのおかげでちょっと紹介することになりました。彼はアリウミリューゴくん。今日からこの学院で働くことになりました。一昨日ぐらいに兵舎で知り合ったのですが……実は、その……彼は、記憶喪失で。忘れてしまったので、神詠術も使えません」
教室中がざわめきに包まれる。遮るように、ベルグレッテは言い連ねた。
「はい、そういうことで……あまり色々と詮索しないであげてください。行くあてもなくて、しばらく学院の作業員として働くことになったので……生徒ではないんですけど、いちおう紹介でした。それじゃ始めましょうか。自習だけど」
自習用の教材を配布し終わり、ベルグレッテは流護に声をかける。
「んじゃ送っていくわね。ほんとごめんね」
二人で教室を出る。……と、間を置かずに誰かが教室から出てきた。
しゅんとした様子のミアだった。
「あ、あの二人とも……ゴメンね、変に騒いじゃって。知らなかったから……」
一転して元気のなくなったミアが謝る。
「あ、ああ。気にしてないから」
とんでもねえ少女だと思っていたが、こう落ち込んでいると少しかわいそうになってくる流護だった。
「……うん、ありがと。え、えっとよろしくねリューゴ? くん。あたしはミア・アングレード。よろしくね!」
小動物のように少し飛び跳ねて、流護を見上げながら自己紹介してくる。
よく動く少女だ。ハムスターみたいだな、と何だか微笑ましくなった。
「あ、ああ。よろしくな。俺、生徒じゃないけど」
「少しは懲りた? ミア」
溜息をつきながら、ベルグレッテがジト目で言う。
「…………」
うつむいて泣きそうな顔になるミア。
「……ベルちゃん、あたしのこと嫌いになった?」
「そんなわけないでしょ」
「ほんとに?」
「うん」
「おっぱい触っていい?」
「だめ」
そんなに懲りてなさそうだった。
「ほら、さっさと教室に戻って自習しなさい」
「うん……そだ、リューゴくん、ベルちゃんも。おわびに、お昼ごはんおごらせて。ね! じゃあ決まり! それじゃまたお昼休みに!」
ミアは強引に決めて、教室へ戻っていってしまった。
流護としては金を持っていないので、ありがたい申し出ではある。
「……まったくもう。それじゃ、行きましょ」
何となく二人で苦笑して、歩き出すのだった。
作業員のリーダーであるローマンという中年男性のところへ行き、ベルグレッテと一緒に挨拶を済ませ、初めての仕事(とりあえず午前中は薪割りだった)をこなし、昼休みを迎える。
朝の約束どおり、ミアがパンを買ってきてベルグレッテと流護の三人で昼食をとっていた。
場所は中庭。いかにもお嬢様然とした上品な座り方でベンチに腰掛けるベルグレッテと、足をぶらぶらさせる元気娘ミアが対照的だ。
「はぁ……でも、昨日の夜も見かけたから、間違いないと思ったんだけどなー」
雲ひとつない晴天の空を見上げ、ミアが呟く。
「ごち。昨日の夜?」
あっという間にパンを食べ終えた流護が聞き返す。
「いやぁ。研究棟の前で、二人を見かけたから。そしたら今朝のアレですよ。もう完全にそういうもんだと」
昨日の夜、ロック博士の研究棟を飛び出したベルグレッテを追いかけたときのあれだ。
見られていたのか。……ということは、この世界の人間じゃない云々の会話も聞かれたのか? と、流護は少し焦りを滲ませる。
「ああ、えーと……俺らの話、何か聞こえたのか?」
「むっ? 聞こえたらまずい話でもしてた?」
興味津々、といった様子で目を輝かせるお騒がせ娘。
しかしこの反応から察するに、聞かれてはいなかったのだろう。
「懲りてないわね、ミア……」
「あう、ごめんごめんごめんなさい」
よよよ、とベルグレッテにくっつく。
「でもそうするとほんと、ベルちゃん男っ気ないなー。あたしが男だったら絶対ほっとかないもん。そう思うでしょ? リューゴくんも」
「え? いや……えーと、どうだろ」
さすがに本人の前で気恥ずかしいので、流護は言葉を濁した。
「あ。あの人はどうなのベルちゃん。ロムアルドさんとか」
「いや、なんでロムアルドが出てくるのか分からないんだけど。ただの兄弟子だし……」
聞き覚えのある名前だった。
(何だっけ……あ)
思い出した。そうだ、ブリジアの宿の風呂場で聞いたのだ。こっそり窓を開けたときに見た、ベルグレッテと親しげに話していた赤髪の兵士。
そうか、彼氏だと思ったけど違うのか。なぜか少し安堵する少年だった。
「そもそも、そういうことに興じてられないの。私は、ロイヤルガードなんだから。……まだ見習いだけど」
「姫さまはともかく、ベルちゃんは関係ないと思うけどなー」
ロイヤルガード。
何度か話に聞いてはいたが、具体的に何なのかは知らない。
ベルグレッテに男っ気のないことが分かって、なぜか気分がよくなった流護は、興味本位で訊いてみることにした。
「ロイヤルガードってのは具体的に何すんだ?」
「王族の方々のお傍について、この命に代えてもお護りするのが仕事。私と妹は、姫さま付きなの。……見習いだけど」
「いまはクレアちゃんがついてるんだよねー」
「姫さま付きのロイヤルガードは代々、騎士の家柄の女性から排出されるの。私と妹のクレアリアが次代で、今は定期的に交代しながら、実際に姫さまのお傍について修業してるわけ。先輩のロイヤルガードの指導を受けながらね」
そういうベルグレッテの顔は誇らしげだった。
ロック博士が言っていたように、矜持を持っているのだろう。
……将来の進路をすでに決めていた彩花も、こんな顔をしていた気がする――と、流護はもやもやした気持ちになった。
「……ふーん……、騎士の家柄の女性から排出って……女の人限定なのか?」
「うん。万が一の間違いを起こさないための措置なの」
「どういうことだ?」
「姫さま付きを男性にしないのは、恋仲になられるのを防ぐため。『お姫さまと騎士の恋』なんてたしかにロマンチックだけど、実際にされるほうはたまったものじゃないから」
「なるほどな。じゃあ例えば王子がいたら、男のロイヤルガードしかつかない……ってことか?」
「うん。今の王家に王子さまはいらっしゃらないけど、そういうことになるわね」
「はあ……なるほどな」
こういう世界も色々あるんだな、と流護は頷く。
ちなみに『姫』の対義語は『王子』ではないと聞いたことがあるが、この世界では特に問題ないようだ。
「でも恋に身分も性別も関係ないっ! あたしがベルちゃん好きなのと一緒! 男っ気ないなら、ベルちゃんはあたしがもらいますから!」
無理矢理気味にミアは寝転がり、ベルグレッテの膝の上へ頭を置いた。「はいはい」と受け流す少女騎士。呆れたようにそう言いつつも彼女の手は優しくミアの頭を撫でていて、触れられている当人も気持ちよさげに目を細めている。まるで子猫のようだ。
「おう、ここにいたかよ」
そんな百合の花が咲き誇りそうな空間に、男の声が割り込んだ。
二人の少年――でいいのだろうか――が、ベンチに腰掛けた三人の前へ歩いてきていた。
一人は、見事なまでのパンチパーマ……いや、天然パーマだろう。全方位にケンカを売って歩いているような、非常に鋭い目つきをしている。声をかけてきたのはこの少年だった。
もう一人は、身長二メートルありそうな大男。その目はやたら細く、開いているのか閉じているのか分からない。
どちらも、ベルグレッテのクラスで見かけた生徒だった。
「ベル。自習の課題、どこに出しゃあいいんだよ?」
パンチパーマの少年がベルグレッテに尋ねる。
「ああ、うん。ヴィクトール先生のところにお願い」
「もー、エドヴィン。『転生論』だったんだからヴィクトール先生に決まってるでしょー。くだらないことであたしとベルちゃんの邪魔しないでくださいー」
ベルグレッテの膝枕をしたまま、ミアが不満の声を上げる。
「うるせーぞミア公。提出先、間違ったらイヤだろが。珍しくマトモにやったのによ」
パンチパーマの少年――エドヴィンが、ちっと舌打ちをした。
ふと、そのエドヴィンが流護のほうに顔を向けた。鋭い目つきで睨みつける。
「……いい身分だな、転入生。記憶がねーだか知らねーが、ベルも忙しいんだ。あんま世話かけさせてんじゃねーぞ」
「え? あ、はあ」
「エドヴィンはリューゴくんに絡むのおかしいと思いまーす。エドヴィンの顔と頭と成績と……えーととにかく全部悪いのはリューゴくんのせいじゃないでしょー?」
「ぜ、全部!? い、いくらなんでもひでーなテメェ!」
なぜかチラチラとベルグレッテのほうを見るエドヴィン。
(……ああ、そういうことか)
昔から『鈍い』と言われる流護でも一発で分かった。
このエドヴィンという少年は、ベルグレッテに好意を持っているのだ。一緒にいる流護が面白くないに違いない。
その流護は何となく、隣にいる大男のほうへ視線を向ける。彼は先ほどから一言も発していないが、目(?)が合うと、「ニィ……」と意味深な笑みを返してきた。何だ。怖いぞ。露骨な敵意を向けてくるエドヴィンよりも迫力がある。
ゴーン……と、鐘の音が響き渡った。
「あーもう昼休み終わりかあ。いい感じで眠くなってきちゃった……」
むにゃむにゃ、とベルグレッテの膝枕のまま目をこするミア。
「ちっ。めんどくせーがしゃーねえ。行こうぜ、ダイゴス」
二人の少年は校舎へと向かっていく。
ダイゴスと呼ばれた大男は結局、最後まで一言も喋ることはなかった。
「エドヴィンのことは気にしないでね、リューゴくん。あいつバカだから」
直球すぎるほど毒舌のミアだった。
「一緒にいたダイゴスはいい人なんだけどねー。みんなのパパさんって感じで。エドヴィンはバカ。ただのバカ。本物のバカ」
ひどい言いようだった。ベルグレッテも苦笑している。
「エドヴィンも悪い人じゃないわよ。見た目から誤解されがちだけどね」
「そういう擁護が残酷なんですけどねー」
ミアもエドヴィンのベルグレッテに対する気持ちに気付いているようだ。いや、あれだけ露骨で気付かない人間がいるのだろうか。流護はベルグレッテの顔を見る。
「んっ?」
可愛らしく小首を傾げ、流護に視線を返してくる絶世の美人さん。
ああ。この人、気付いてねえ。
「ヒュー、すげえな坊主!」
作業員のリーダー、ローマンの野太い声が作業場に響く。
幾重にも重ねた穀物の袋を持ち上げた流護に対してのものだ。
「ここに置けばいいんですか?」
「おう、そこでいいぞ! しっかしすげえ力だな、助かるぜ!」
言われた場所に袋を積み上げた。重さにして三十キロない程度のはずだが、やはりこの世界においては驚きに値することのようだった。
「よーし、今日はもういいぞ。初日、ご苦労さん。これが今日の賃金だ」
「あ……どもっす」
手に渡された、数枚の硬貨。自分で労働したことによる、正当な対価。
流護はじーんときたというか、不思議な気持ちになってしまった。
「お疲れーっす。いやーしかし見てくださいよ、変な空っすねぇ」
外から作業場に入ってきた労働者の若者が肩を竦めて言う。
釣られるように窓から外を見ると、夕焼け空を埋め尽くすようなうろこ雲が広がっていた。
――なぜだろう。流護は思わず、その空にぞくりとする不吉なものを感じてしまった。
「そういやァ、今年はファーヴナールの年だったか……」
ローマンが流護と同じように空を見上げながら呟いた。
「ファーヴナールの年?」
流護はおうむ返しに聞き返す。
「ファーヴナールってのは伝説の邪竜とも言われるヤツでな。寿命は二千年とも言われてやがる。んで六十年に一回だったか? ファーヴナールの年って呼ばれる年があって、その年は不吉なことが多く起こるって言われてんだ。今年がその年ってワケだ」
「でも実際、ブリジア周辺にドラウトローが出たんすよね。普通ならあり得ないっすよ」
ローマンの言葉に、若い作業員が答える。
「ま、どんな年だろうが俺らに出来るのァいつも通り働くことだけだってんだ。おし、今日は終いだ。みんなお疲れ!」
不気味な空の下を歩き、流護は学生棟の自室へ向かう。
「お疲れさま、リューゴ」
建物前の石壁に、ベルグレッテが佇んでいた。
「おう、ベル子こそお疲れ。どした?」
「夕ごはん、食べに行かない? ……って、ミアがリューゴを連れてくるようにだって」
「む。いいぞ。初の給料ももらったしな!」
「おおー。おめでとうございます」
パチパチと拍手をしてくれる少女騎士。
――学生棟の三階。
廊下の窓から、エドヴィンがそんな二人を……否、流護を見下ろしていた。
二人は気付かない。
殺意に近いものが宿るその瞳に、流護は気付かない。