74. 道標
「それじゃあ罪人連行の指揮お願いね、ケッシュ」
『り、了解しました、ふ、副隊長!』
通信を終えて、オルエッタは美しい白髪をかき上げた。
中断していた準備を再開し、カップや皿をテキパキと並べていく。
リリアーヌは椅子に腰掛けたまま、その様をぼーっと眺めていた。
「さあさあ、それではおやつに致しましょう、姫様!」
ぱんっと両手を合わせて満面の笑みを浮かべた友人に、リリアーヌはおずおずと尋ねる。
「今の通信は……例の、奴隷組織の件ですわよね……?」
「ええ、まあ。けれどこれで、全てが片付きました。ベルグレッテや我が国自慢の兵士たち、あとあのアウミリュー……、リミアウリウーゴ? くん? ……ともかくえーと勇者様の手によって。ベルグレッテのお友達も無事だそうです。もう姫様が心配されることは、何もないのですよ」
「そう、ですね」
注がれた紅茶から立ち上る湯気を眺めながら、リリアーヌは小さく首肯する。と同時、小さく切り出した。
「午前中……何年ぶりでしょうか。大図書室へ、行きました」
城の敷地内には、膨大な数の書物を保管している大図書室という別館がある。
基本的には城内部にある小図書室で事足りるため、そこまで足を運ぶことは滅多にない――のだが。
「あら、勤勉なことで何よりです。神詠術について知りたいことでも? でしたら、私が手取り足取りお教え致しますとも」
わざとらしく話を逸らそうとしているオルエッタへ、しかしはっきりと告げる。
「奴隷制度についてです。けれど……そういった書物や文献は、大図書室ですら一切見つかりませんでした。……わたくしの目に触れぬよう、意図的に置いていないのですね?」
オルエッタは紅茶をすすり、観念したように頷いた。
「……はい。二年ほど前からでしょうか」
その答えに、リリアーヌは胸を締めつけられるような思いがした。
書物や文献を隠されていたことに対して憤りを感じたのではない。
二年も前から情報を隠されていたことにたった今気付いたという、自分の愚かしさが情けなくなったのだ。
『アドューレ』でも奴隷制度根絶について謳っておきながら、結局はただ囀っていただけ。噂話や日報紙に記載されている程度の知識で、ろくに調べもせず。いざ自ら腰を上げて調べてみようと思えば、その手段は二年も前に封じられていた。
いかに自分が上辺だけでものを語っていたか思い知る。
しかし、それでも。
「オルエッタ。わたくしに力を貸しては……いただけませんか」
本気で目指したい。その決意は揺らがない。
「その前に。なぜ陛下が姫様を情報から遠ざけたがるのか。その理由は、お分かりになりますね?」
教師のようなオルエッタの問いに、リリアーヌは力強く頷きを返す。
「かのディアレーですら成せなかった……お父さまですら……おいそれと手が出せないほどの、難題」
あるいは、不可能なのかもしれない。徒労に終わり、いらぬ恨みを買い、危険に晒されるだけなのかもしれない。
『アドューレ』で無知な姫が「奴隷制度はいけないことです、なくしたいです」などと夢を語っているだけならば、まだ許容される。しかし本気となれば、アルディア王は――
あの優しくも恐ろしい父に抗ってまで、己を貫き通せるのか。
「姫様はあの当時、五歳になったばかりでしたっけ」
「……あ、ええ、はい」
リリアーヌが奴隷制度根絶を願うようになった切っ掛けだ。
アルディア王の視察に同行したリリアーヌは、当時五歳。大人同士の話など当然ながら退屈で、ロイヤルガードのアマンダと共に、街へと繰り出した。
二人はそんな街の片隅で、一人の少女と出会う。
すぐに意気投合して三人で語らい、しばし楽しい時を過ごしたのだが――
後に、その少女が奴隷であったことが発覚した。
一国の姫が奴隷身分の者と触れ合ったことを問題視する貴族も多く、その少女を処罰するべき、姫と奴隷が接するような機会を作ってしまったアマンダも罰するべきだという声すら上がった。
結果として少女は不問、ことなきを得たのだが――
「わたくしの思いは変わりません。世間知らずの、自分勝手な主張なのかもしれません。それでも……」
貴族たちに追及されたアマンダの言葉が、今も胸に残っている。
『奴隷とあたしら、何が違うってのよ。言葉も通じる同じ人間でしょうが。だいたいおめぇーがあの場にいたら、あの子が奴隷か平民か区別ついたんでしょうねこのハゲ。ナメたこと言ってっと、その残り少ない頭髪全部そぎ落とすぞコラ』
少女も奴隷とはいえ、裕福な商家の召使いとして働いている者だった。見た目で区別などつくはずもない。貴族らの追及は、奴隷を口実にした言いがかりに近いものだった。
あれから十年。彼女も今頃は成人として独立し、平民となっているかもしれない。
そもそも姫と奴隷が接していけない決まりなどないし、誰もが気分の悪い思いをした、何の意味もない揉め事だった。
あの少女のような扱いを受ける者。かつて連れ去られてしまったオルエッタの友人。そして今回のミアという少女。
そして全ての奴隷にかかわる、無意味な諍いをなくせるのなら。リリアーヌは、願わずには……目指さずにはいられない。
「……はぁ。板挟みはつらいですね。私は陛下と姫様、どちらに味方するべきなのでしょう」
わざとらしく肩を竦め、おどけたように笑うオルエッタ。
リリアーヌは瞳に意志をたたえて言い放った。
「ごめんなさいオルエッタ。わたくしと共に殉じてくださるなら、とても心強く……そして、嬉しく思います」
一瞬の沈黙。
直後、オルエッタが吹き出した。
「は、はは、ふふふふ、ははははは! ……はー……率直ですね。けれどやはり親子なのですね、陛下と姫様は。そういうところ、そっくりです」
「な、なんですか、もうっ……そんなに笑わなくても」
オルエッタは目尻に浮かんだ涙を拭い、強い瞳でリリアーヌを見据えた。
「では……まずは一つずつ、確実に知識をつけていきましょう。いつか陛下をあっと言わせるつもりで。一朝一夕で成せるような問題ではありませんから。書籍や文献に関しては、ひとまずお任せ下さい」
「……は、はい!」
まだまだ他人任せかもしれない。
けれど無力な姫はこの日、小さくとも確実な一歩を踏み出す。
幼い頃から夢見ている、理想の世界のために。
通されたのは、狭く薄汚い部屋だった。
窓はなく、四方を石に囲まれている。飾り気は皆無。
部屋の中央には、古くなって黒ずんだ木製のテーブル。その上に置かれたカンテラが、細々と室内を照らし出している。
テーブルの向こうには、軽装鎧に身を包んだ騎士が座っていた。
若く見ても四十過ぎの男。ボサボサの赤茶けた髪に、だらしなく伸びた顎ひげ。大きな鷲鼻が特徴的な厳つい顔立ち。その顔は赤みがかっており、片手にはエールのボトル。気だるそうに椅子へとふんぞり反っている。
騎士とはいっても到底、勤勉にはほど遠い。王国騎士の鎧を着ていなければ、この男が騎士だとは誰も思わないだろう。
自分を連れてきた二人の兵士は、対照的に――事務的にというべきか、だらけた騎士へ向かって「ではお願いします」とだけ声をかけて退室していった。
そうして、男と二人きりになる。
「おう、座れ座れ」
エールを一口含み、見るからに不真面目な騎士は酒の席へ誘うかのように笑った。
「へっ、聞いたぜディノよ。負けたんだってぇ?」
心底楽しそうな酔いどれ騎士に舌打ちしながらも、赤髪の超越者は対面の椅子へと腰掛けた。
「うるせーよ。仕事しろよ仕事。飲んだくれやがって」
「順序が逆だ。いいかディノ、俺ぁ今日、非番だったんだ。それがいきなりよ、お前さんが捕まったってな話が来たもんで、仕方なくこのオディロン様が来てやったワケよ。酒を飲んでたら仕事が入ったんだ。そこを間違えちゃいけねぇ」
だからといって、今この場で酒瓶を手にしていていい理由にはならないだろう。ディノとしても、そんなどうでもいいことを指摘する気はないが。
「っとによぉ、お前ら学院『ペンタ』の特権が何のためにあると思ってんだ。ありゃぁ、強すぎる力でやむを得ず人を傷つけちまったりだとか、そういった場合に配慮したモンなんだぜ? それをお前らときたら、悪さばっかコキやがって」
「あー? そうだっけか」
気のないディノの相槌に、オディロンは「とにかくだ」と語気を強める。
「ナスタディオ学院長からも、こってり絞るよう言われたぞ」
「こってり、ねェ」
ディノは喉の奥でククと笑う。
それで寄越されたのがこのオディロンなのはどういうことか、と。
ナスタディオ学院長と初めて会ったときのことを思い出す。
意外と根に持つタイプということか。もっとも、『ペンタ』のプライドの高さを考えれば当然かもしれないが。
あの女は待っている。『公然とディノ・ゲイルローエンを喰える機会を作ろうとしている』。
熱烈なアプローチ。とんだ教育者がいたものだ。同じ『ペンタ』として、気持ちは分からないでもないのだが。
「で、ケガの調子はどうだ? 肋骨三本と右肘、両拳も軽くイッてたって聞いたが」
「問題ねェ。一週間もすりゃ、痛みも引くんだと」
王宮治療士たちの手厚く迅速な処置によって、すでに折れた骨の治癒は済んでいる。痛みも大したものではない。一週間程度、何をするにもさしたる支障はない。
身体の節々も軋むような痛みを放っているが、これは身体強化の影響だろう。
本来であれば身体強化という技術は己の身体に反動を返してくるが、ディノは独自の術式を組むことにより、この反動を皆無といっていいほど抑えることに成功している。
それでもなお、今回の闘いでは抑えきれなかったようだ。
おぼろげな記憶を掘り起こす。やはりあの、最後の――
オディロンはエールを一口含み、かーっと唸った。
「にしても、さすがは『竜滅』の勇者様ってか? お前さんが負けるなんてなァ、信じられねぇよ。んー、見てみたかったぜ。その場に居合わせりゃさぞ白熱した賭けになったろうに。どうせなら、もっとギャラリーのいる所でやれよ。金の取れる一戦じゃねえか」
「ギャラリー巻き込んでいいならそうするわ」
そんなくだらない会話を二、三と交わした後、おもむろに酒瓶をテーブルに置いたオディロンは、ふと真剣みを帯びた表情になった。
「なぁ、ディノよ。頃合いだと思うぜ。国の所属に……ならねぇか」
「ならねェって言ってんだろ」
迷うことのないディノの即答に、オディロンはボリボリと頭を掻きむしった。
「お前のそういうところ、ヘタな騎士より騎士みてぇだよな。死んだ人間との約束は絶対に破れねぇってよ」
「そんなんじゃねェよ、別に。国に所属してキッチリ働くなんざ、性に合わねェってんだ」
何より『こちら』の世界では、気ままに行動できる。例え雇い主だろうと、舐めた真似をする人間には分からせればいいだけのこと。
しかし国に仕えるとなれば、自分より弱い上官の命令を忠実に聞いてこなさなければならなくなる。金で買収することだってできない。気分が乗らないからパス、という訳にもいかないだろう。面倒なことこの上なかった。
今や堕落した暮らしがすっかり身体に染み込んでしまっている。
「お前……これから、どうする気だ。今までお前が裏の世界でやってこれたのは、最強……無敗だったからだ。連中は現金だぜ。おそらくもう、負けちまったお前には仕事なんざ入ってこなくなる。それどころか、名前を上げようなんて馬鹿どもに狙われることにもなりかねん。ディノは無敵の存在なんかじゃねえ、倒せば倒れる人間なんだ……ってな」
「ニワトリみてぇな頭の連中だしな。ま、そん時は思い出させてやるだけだ」
「だろうな。今回お前が負けたのは、その辺の小石に躓いてスッ転んだってだけの話だ。何もお前が弱くなったワケじゃねぇ。けどよ……」
分かっている。
オディロンの言う通り、もう今までのようにはいかないだろう。
捕まるのもこれで二度目。こんなことが続けば、いずれは粛清対象として認定される。あの女の目論見通りに。
「お前さんはよぉ……そんな小せぇ世界で燻ってていい男じゃねぇ」
赤ら顔のオディロンは、どこか懐かしむような視線を天井へと向ける。
「あの『ラディム』でお前を見た時には思ったぜぇ。こいつぁ世界を変えるってよ」
「またかよ。何回目だ、その話」
オディロンとは何度か、薄汚い裏通りの酒場で同席したことがある。酔いが回ってくると、この話をしだすのだ。この様子では後々、今ここでの会話を全て忘れてしまっているかもしれない。
バカなんじゃねェか、と超越者は隠しもせず溜息をつく。
現在ディノが受けているのは、罪を犯した『ペンタ』の処置を決定するための対話――懲罰判定と呼ばれるものだ。
判定を受ける『ペンタ』は、強力な拘束衣によってその力を封じられ、個室へと連行される。そこで判定官と対話し、その結果、下される罰を決定づけられことになる。
その判定官たるオディロンが泥酔しているなど、いい加減にもほどがあった。
「なぁにが『竜滅』の勇者だぁよ、神詠術がなきゃ何も出来ねぇんだぜ俺達は。そこで術の使えねえ小僧が出てきて、ちーっとばかし強かったからってよ、やれ勇者だのガイセリウスの再臨だの、持ち上げ過ぎだ。笑わせんじゃねぇっての」
完全に酒の席のノリだ。
その様子を横目にディノは、ふと思う。
あの男は本当に、ガイセリウスの生まれ変わりだったのだろうか。記憶がないというのも、何かの影響なのか。
『転生論』。
大層な名前だが、理論立てて実証されているようなものではない。どちらかといえば、おとぎ話やゴーストロアに近い類の話だ。
しかし、学院でも正当に授業の項目として扱っている。
希少ではあるが、前世の記憶を鮮明に宿した者が見つかったという事例は、確かに存在する。ある言葉や出来事を切っ掛けに記憶が甦った例となると、これは少なくない。
ディノは当然ながら前世の記憶など全くない『普通の』人間だが、今後、何かの拍子にそれを思い出すこともあり得る訳だ。
もっとも、一生思い出さない確率のほうが高いだろう。いくらそういった事例があるとはいえ、それは『ペンタ』の総数と大差ないといわれている。
ディノは思う。
思い出す、出さないの線引きはどこにあるのだろうか。
『忘れて』しまったのなら、思い出させればいい。
しかし仮に。転生した結果、記憶を『失って』しまうようなことがあるのだとしたら――
「心配ねぇよ」
心を読んだかのように割り込んだオディロンの声に、ディノは自然と顔を上げた。
「ちっとばかし不幸が続いただけで『神は俺を見捨てた』なんてほざく奴もいるがよ、そうじゃねえ。人が一生の間に享受する幸と不幸は、対等なんだ。神さんだって忙しいからよ、よそ見してる間に、人間なんてちっぽけな存在はあっさり死んじまうこともある。そういう奴には『転生論』を適用させて、次で幸せになってもらうってワケだ」
それは『ジェド・メティーウ神教会』の教義だった。
今現在を幸せに生きているなら、これから不幸が訪れる前触れ。だから気をつけましょう。その逆もまた然り。
転生の順番待ちをしている者たちが集まる世界を、『レーテシェオル』と呼ぶ。つまり『あの世』だ。
興味のないディノでも、この程度は知っている。
ちなみにオディロンは、似合わないことに熱心な信者だった。
「お前は今まで、どん底を這ってきたんだ。となりゃ、あとはもう上がるだけだろ。とはいえ、神さんも努力しねえ者を良しとはしねぇ。だからお前さんが国に入って大活躍すりゃあよ、あとはもう幸せばっかってなモンだ。違うか?」
「違うだろ。んなヘタクソな勧誘があるかよ」
ディノは思わず吹き出してしまいそうになった。
「まぁでもよ、この際だ。お前の力なら、何だって出来るんだぜ。国がどうしてもダメだってんなら、何でも屋だの傭兵だの……お前の力でやれるこたぁいくらでもある。ただその場合、王都にいながらってワケにはいかねぇとは思うがな」
オディロンの言う通り、頃合いなのだろう。
ドブさらいなどと銘打ってヘドロにまみれて、結局はここを離れたくなかっただけだ。
様々な思いの詰まった、この街を。ふとアイツがその辺から顔を出すかもしれない、この街を。離れれば、いなくなったことを明確に認めることになってしまいそうで。
我ながら反吐の出そうな女々しさだ、とディノは自身を嘲笑う。
「よーし、そいじゃあ行くとすっか」
オディロンが勢いよく立ち上がった。
「あー? もういいのかよ。マトモな話なんてしてねェぞ。で、オレはどうすんだ?」
「あぁそうだな……懲罰労働として、これから一週間。みっちりタダ働きしてもらうとすっか」
「一週間だァ? 何だよ、ちっと長ぇんじゃね――」
言いかけて気付く。
一週間。痛みが引くまでの期間。外に出れば襲われるかもしれないディノ。
「チッ……」
「おら立て、火ィ使った仕事なんざ山ほどあんだ。コキ使ってやっから覚悟しろよぉ?」
「へーへー」
椅子を引いて立ち上がる。
「おっと、その拘束衣も脱がさねぇとな。鼻の一つもホジれやしねぇだろ」
ディノの身を包んでいる灰色の拘束衣。
これは左右の袖が繋がっており、腕を動かせない作りになっていた。自力で脱ぐことはできず、第三者の補助が必要となる。が、
「あー、問題ねェよ」
言うなり、ディノは身体に力を込め――
「ふッ!」
狭い室内に、バリバリと布を裂く音が響き渡る。
引き千切られた拘束衣はただの布切れと化し、はらりと宙に舞った。
「な……」
オディロンが目を剥いた。
「お、お前、今……何した……? どうやって、拘束衣を――」
驚くのも無理はない。
ディノが着せられていたのは、『ペンタ』の力をも封じる強力な拘束衣だ。
過剰なまでに封印の神詠術が施されており、魂心力の弱い者に着せた場合、外部との魂心力の循環を阻害され、体調不良を引き起こす可能性すらある。
ディノであっても、これを着せられた状態で炎を喚び出すことはできない。
――しかし。
「まさか……身体強化か……!」
「そーいうこった」
身体の内部に施術し、純粋な筋力としたならば別だ。
それでもやはり、かなりの魂心力が抑えつけられていたらしく、思ったほどの力は出せなかった。
「は、それにしたってよ、仮にも拘束衣なんだぜ……? それをお前、強化したとはいえ、力だけで破るなんざ……どんな術式組んでんだよお前……」
苦笑いを浮かべるオディロンをよそに、ディノは右手の指を開閉してみる。
やはり夢ではなかった。この感覚。
――が、こんなモノじゃなかった。アイツの力は。
倒されたときの記憶すらない。気付いたときには拘束され、馬車の中だった。
それでも、おぼろげに――バカみたいに必死になって、踏ん張っていたような気がする。オレも、ヤツも。
こうして思い返してみると、あの闘いは何もかもが新鮮だった。初めて負けたということすら。
あの黒い少年の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
『悪かねえぜ、一回ぐれえ負けてみるのも。見えてくるもんがあるぞ』
知ったようなことを言う。
つまりあの男も、負けたことがあるのか。
未だ見ぬ強者が、世界には存在しているのか――。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、オディロンがさっさと歩き出す。
「ったくよ、とんでもねえ野郎だぜ。そんだけ元気なら何の問題もねえな、よーし行くぞ!」
「……ま、脇腹痛ぇから、お手柔らかに頼むわ」
「はっ、拘束衣ブチ破るような奴が何言ってんだっての」
オディロンに続いて、狭苦しい部屋を出る。
一週間。この時間を使って、今後どうするか考えるべきなのだろう。
(……最強、か)
自分のものだったはずのその称号は、この手をすり抜けていった。
いや、最初から掴んでなどいなかったのかもしれない。
『あたしが、すぐに見つけられるように……一番強いヤツに、なっててね……?』
赤い少年は、無意識に拳を握る。
あの約束を果たすために、何をするべきなのか。
見えない何かに、決断を迫られているような気がした。