7. 少女の悩みと少年の思い
ミディール学院へ到着したのは夜になってからだった。
本来であれば明るいうちに着くはずだったのだが、ドラウトローを回収しにきた兵士に「どうやって三体ものドラウトローを無力化したんですか?」と訊かれ、さすがに「流護が素手で倒しました」とも言えず、「三体が同士討ちしてたから最後に残った一体をなんとか倒した」などと苦しい言い訳をでっち上げ、さらには要請しっぱなしだった『銀黎部隊』の取り下げなどもあり、結果として予想以上に時間を食ってしまったのだった。
本当はベルグレッテが妹と通信した際に話しておけばよかっただけの話なのだが、事態が事態だけに、彼女もそこまで気が回らなかったようだ。
そんな訳で、時間がなくなったので特別に馬車まで出してもらい、ようやくの到着である。
「うっお……すげえ……」
そんな慌しさや慣れない馬車での移動による疲れも忘れたように、流護は感嘆の溜息を漏らしていた。
遥か上空に浮かぶ巨大な月。目の前に鎮座する巨大な建物の内部から点々と見える明かり。
それらに照らされ、闇夜に浮かび上がるようにも見える――ミディール学院。
街から遠く離れた丘にそびえ立つその外観は、まるで巨大な石造りの城。周囲を壁に囲まれ、屋根の上には青い旗が揺らめいて見える。
「ようこそ、ミディール学院へ。大昔の城を改装して使ってるから、一般的な学び舎とは外見が全然違うけどね」
長いスカートの裾を翻し、ベルグレッテが振り返りながら説明する。
城みたいな建物――ではなく事実、城なのだ。
怨魔のような脅威が跋扈する以上、大勢の生徒を預かる学校などは、これぐらい堅牢な施設でいいのかもしれない。
「……あーと? 俺は何しにここ来たんだっけ……?」
巨大な城に圧倒されるあまり、つい流護はよく分からなくなってしまった。
「……あなたの素質を調べにきたの。記憶を取り戻す手がかりになるかもしれないから。さ、行きましょ。ついてきて」
ベルグレッテの後について、学院の敷地へと入る。
まず二人を出迎えたのは、一面に広がる整った芝生。その上にベンチや手入れの行き届いた木々、それらを照らす外灯が点在していた。薄暗くとも、どことなく小洒落た雰囲気が伝わってくる。
「今歩いてるここは中庭。正面の一番大きい建物が校舎。その横の建物が学生棟。学生が寝泊りするところね。で、私たちが行くのはその奥の建物」
辺りを見渡す。夜だからなのか、他の生徒の姿は見当たらない。
ほどなくして、その一番小さい建物の前にたどり着く。
「ここよ。研究棟ね」
城壁の中でも隅にあって暗いせいか、不気味な雰囲気すら漂う建物だった。
「……ベル様」
「なによ。急にまた『さま』とか」
「俺、解剖されたりしないよな?」
「…………」
「なぜ黙るのか」
「それを決めるのは、私じゃないから……」
「ぉ世話になりもうした」
裏返った声を上げ、流護はキレのいい回れ右で引き返そうとした。
「ふっ。あははは、冗談だってば。まあここにいる博士はたしかに変わった人でね。女子はみんな苦手にしてる。……や、私もちょっと苦手なんだけど。でも、ちゃんと公的に神詠術を検査する場所だから安心して。事情もちゃんと説明してあるから。ふふふふ」
ツボに入ったのか、口元を手で押さえて上品に笑い続けるベルグレッテ。しかしその笑顔があまりに愛らしかったので、むしろ悪い気はしなかった。
「な、なんだよ……んじゃ入っていいんだな?」
「ふふ。どうぞ。なに? 意外と小心者?」
「ん、んなこたねーよ」
――そうよね。あんなに強いんだもの。
「ん? 何か言ったか?」
「……ううん。なにも。入りましょ」
建物の中は薄暗く、ごちゃごちゃと散らかっていた。紙の束や雑に積まれた机と椅子、何だかよく分からないものも散乱している。
ベルグレッテの後に続いて、螺旋階段を上っていく。
「ロック博士、こんばんは。ただいま到着しました」
「おお。来たね来たね」
やたらと散らかった部屋にいた白衣の男は、ベルグレッテの声に反応して振り返った。
髪はボサボサで真っ白。汚れた灰色も混じっているあたり、生まれつきの色ではなく白髪なのだろう。日本人に近い顔立ちをしているが、年齢はどれぐらいなのか全く読めない。
小さなメガネをかけ、無精ひげを生やし、不健康そうな色の口にはタバコを咥えている。もちろん流護はタバコなど吸わないので詳しくないが、少し太めで葉巻に近いようだった。
典型的な『変わり者の博士』といった印象の男。
「話は聞いてるよ。有海流護クン」
「お」
「んん? どうかしたかい?」
流護は危うく「名前の発音が完璧だった」と口にしそうになり、自分の『記憶喪失設定』を思い出した。
「い、いや。何でも」
「緊張してるのかな? しかし現実は残酷だ、緊張するキミを意にも介さず刻は無情にも進んでゆく……ああ……」
うわやべえ。やっぱ変な人だった。
本気で窓から飛び出して逃げようか悩む流護をよそに、博士は話を続ける。
「ああ。自己紹介してなかったね。ロック博士と人は呼ぶよ。ロックウェーブ・テル・ザ・グレートだ。よろしくね、少年」
そんな名前があるか。そう思ったが、声に出す訳にもいかない。
「さて、早速だけど本題に入ろうか。流護クンは記憶喪失で、神詠術検査を受けることによって身元に繋がるヒントが得られるかも……って話だったね」
「そうです」
答えたのはベルグレッテだった。
「んじゃ早速やろうか。流護クン、上着を全部脱いで、そこに立ってくれるかな」
流護は言われた通りに、上着を全部脱いで裸になった。もちろん上半身だけ。
「…………っ」
ベルグレッテが息をのんだ。
そういえば、と流護は思い出す。脇腹の治療をしてもらおうと脱いだときにも、ベルグレッテは同じような反応を見せていた。
「な、なんだよベル」
「……なんでも、ない」
「ま、ベルちゃんも年頃の女の子だしねえ」
しかしうつむくベルグレッテの表情は、ロック博士が言うような意味には見えなかった。本当に、見たくないものから目を背けるような。自分の身体つきが引かれているのだろうか……と、流護は少し複雑な気分になる。
「にしても、すンごい身体してるねえ~。ダイゴスも真っ青だろうねこれは」
ぺた、と冷たい何かが流護の身体につけられた。聴診器のようなものが複数、流護の身体に繋がれていく。
「んじゃ、じっとしててねえ」
ロック博士は机の上にあるやたらとアナログチックな機械らしきものを操作し、脇にあるモニターみたいなものを見つめる。一分も経たないうちに、博士が合図の声を出した。
「はいおしまい。服着ていいよ」
「え、もういいんすか」
「ロック博士。どうだったんですか」
真っ先に訊いたのはベルグレッテだった。
「うん。ないね」
「は? ない?」
意味が分からないとばかりに、ベルグレッテは聞き返す。
「そのままの意味さ。流護クンには、神詠術を操るために必要となる、内なる力……魂心力そのものが存在しない。だから当然、神詠術は使えない」
「んな……っ、そんな人間がいるはずが……!」
驚愕の声を上げるベルグレッテ。
流護は当然、驚かなかった。
「んー。まあそんな人間もいるかもしれないよ? いや、ここにいるんだけども。みんな大好き『竜滅書記』のガイセリウスだって、当時は神詠術理論なんてなかったみたいだからアレだけど、生涯において一度も神詠術を使うことはなかったっていうし」
「おとぎ話と現実は違うじゃないですかっ!」
ベルグレッテが、声を荒げていた。
「ベル……?」
なぜそこで、ベルグレッテが激昂するのか。流護には分からず、呆けたように彼女を見る。
「そうです。ガイセリウスは理想です。弱い、人間という生き物の理想。『ガイセリウスみたいに強くなりたい。こんなふうになりたい』そんな夢を与える、おとぎ話の勇者さま。でも現実に人間は弱い。だから道具を作り、神詠術を生み出し、寄り添って暮らしている。リューゴがなにも持たず、神詠術も使えずにあれほど強いっていうなら……それはもう、人間じゃない!」
ベルグレッテが振り絞るように叫んだ。
「――その発言はいただけないな。彼に謝るべきだ」
指でメガネのフレームを押し上げ、ロック博士は真剣な口調で言う。
「あ……っ」
ベルグレッテは反射的に流護を見ると、怯えたような表情で部屋を飛び出していってしまった。
「……ううーん。ま、彼女も悪気はないんだよ。許してあげてくれたまえ」
「いや、まあ。分かってますよ」
路地裏のケンカで「人間じゃねえ」と言われたことは何度もある。強くてそう言われるなら、それは褒め言葉だ。そもそも実際にこの世界の人間でない流護としては、さほどショックではない。
それより気になるのは、ベルグレッテが取り乱した理由だ。
「――矜持、だろうねえ」
ロック博士が察して答える。
「彼女は誇り高い騎士だ。いや見習いだったかな、まだ。とはいえ、高潔な騎士の家柄に生まれたその魂に変わりはない。彼女が言った通り、人間は弱い。人が素手で勝てる相手は、せいぜい中型の犬が限界らしいよ? ともかく……そんな弱い人間である彼女が騎士として剣を学び、神詠術を修め、必死で身に着けた力。弱きを守る、騎士としての力。その力を、剣も神詠術も持たないキミが軽く凌駕するという事実。それを素直に受け入れられないんだろうね。自分の生き様そのものが否定された……そんな気分になっちゃったんじゃないかな」
ロック博士はイシュ・マーニと呼ばれる月を窓越しに見上げ、タバコの煙を吐き出す。
「検査の結果、キミが『強力な神詠術を使える人間でした』……なら、まだ納得もいったんだろうね。しかし、キミが持つのはただの膂力だった。まるで、彼女が言った通りの……おとぎ話の住人みたいなね」
短くなったタバコを灰皿に押しつけながら、博士は続ける。
「彼女はこの学院で、上から数えて六番目の詠術士でもある。上位五人はちょっとワケありだから……実質、この学院で最も優秀な詠術士といっても過言じゃないかな。キミにはピンとこないと思うけど、これは凄いことなんだよ。あの子は明るくて驕らないよくできた娘さんだけど、同年代で……しかも神詠術を使わずに自分より腕の立つ人間が現れたとなれば、複雑な気持ちにもなるんじゃないかな」
「……、」
似ている気がした。
それなりに自信のあった空手の腕前が通じず、目標を見失った流護。
騎士として磨いた力を上回る『記憶喪失のよく分からない男』が、いきなり目の前に現れたベルグレッテ。
「とりあえず流護クン。あまり、目立たないようにしたほうがいいよ。魂心力を持たない人間なんて少なくともボクの知る範囲でも前例がないし、それでいて素手だけでドラウトローを屠るような腕前だ。面倒のタネになりかねない。今回の検査結果は、ボクも見なかったことにしておこう。ベルちゃんも言いふらしたりする子じゃないから、心配はいらないよ」
「なるほど……分かりました。……そういや」
そこで流護は、ロック博士に向き直る。
「あなたは、あんま驚かないんすね。俺のことを知っても」
「んん? いやこれでも驚いてるんだよ。ポーカーフェイスには自信があってね。それより、ベルちゃん追っかけてみたらどう? いやー青春だよね」
ベルグレッテは、うつむいて外の壁に寄りかかっていた。
「よう」
流護は気軽な調子で話しかける。
「っあ……、その。あの。ごめんなさい、リューゴ」
少女は本当にすまなそうに謝ってきた。泣きそうな顔だった。
「なんだろな。見た目はツンデレっぽいくせに、素直だよな」
「つん……でれ?」
「ちょっと話したいことがあるんだけどさ。さて、ベル様はどこまで信じてくれるのやら」
「え……なに?」
流護は頭上の大きな月――イシュ・マーニを見上げて、すぐにベルグレッテへ視線を戻す。
息を吸い込み、告げる。
「俺は、この世界の人間じゃない」
ベルグレッテの表情に変化はなかった。おそらく、意味を理解できていない。
「記憶喪失ってのはウソだ。『この世界の人間じゃない』なんて言っても混乱するだろうから隠してたんだ」
「……えと? 今、言ったみたいだけど」
意外と冷静なのか、ベルグレッテがきょとんとした顔で反応する。
「今なら信じる気にならないか? 見ただろ、俺の力を」
「…………、」
「俺のいた世界には神詠術なんてもんはないし、怨魔なんてバケモンもいない。変わりにえーと……科学とかが発展してて、んーと」
ベルグレッテは「何を言ってるか分からない」といった様子で小首を傾げていた。言葉こそ通じても、やはり文明レベルや世界そのものが違う人間に説明するのは難しそうだった。
「ま、細かいことはいいか。多分、ベルは理解できない。俺は……そうだな、歩いて行けないような遠い世界から来たんだと思ってくれればいい」
「そ、そう言われても……」
「とにかくそうなんだよ。んで……そんな世界から来た俺だし、お前が……その、自信なくす必要なんかねえよ。俺も元いた世界で勝てないヤツがいてさ。お前の気持ちは分かる、すごく。でもお前に関しては、俺、この世界の人間じゃねえし。だから気にすんなよな」
ポカンとしていたベルグレッテが、少し笑顔になった。
「……そっか、そういうことか。慰めてくれてるんだ?」
「い、いやまあ。だから気にすんなっていう話」
「それはそれでくやしいんだけどなあ。いちおう私も、修業中の騎士だし。驕るわけじゃないけど、それなりに誇りはあるし……比較にならないほどリューゴと差があるのは分かるんだけど……やっぱり、くやしい」
少し悲しそうな顔でそう言った。
「でも、どういう意味なの? この世界の人間じゃないって。神詠術がなくて怨魔もいない、だなんて。そもそも、人間として生まれれば魂心力は絶対に内包してるし、となれば神詠術はどんな形であれ使えるはずだし……それに怨魔のいない地域があるなんて、聞いたこともないし」
こういうことなのだ。
魔法めいた力があって、モンスターのような化物がいて、神に見守られて暮らしているなんて概念のあるファンタジー世界。そんな世界に住む人間は、自分たちのいる場所が惑星だとか、その惑星は宇宙にある天体の一つに過ぎないだとか、そういうこと自体をおそらく理解できない。自分たちのいる場所が全てで、地面はどこまでも続いていると信じているのではないだろうか。一周して元の場所に戻ってくるなど思いもしないだろう。
このグリムクロウズという世界の文明レベルがどれほどなのかは詳しく分からないが、そこまで学問が発展していないことは想像できる。
「ベル。重力って知ってるか?」
「……じゅう、りょく?」
やはりそうだ。自分たちが地面に引き寄せられることで存在しているなどと思いもしないのだろう。となれば、流護の爆発的な力――おそらくこの世界の重力が弱いせい――をベルグレッテに説明するのは難しそうだった。
「んー、俺が『人間じゃない』っていうのはあながち間違ってないってことかもな。この世界の人間からすれば」
「っ、ごめんなさい……」
「いや違う違う、気にしてるんじゃなくて。俺はこの世界の人間じゃないから、半分ぐらいは当たってんだよ。よし、この話はおしまいな!」
「……、うん」
訊きたいことは山ほどあるが、ひどいことを言ってしまった手前、訊きづらい。
そんな様子がありありと流護にも伝わってきた。
「だー! 思った以上にいいヤツだし女の子だよな! お前ベル……ベル子。このベル子」
「んな、ベル……『コ』ってなによ……?」
「俺の国じゃ女の子の名前に『子』ってつくことが多いんだよ。そのまま女の子の『子』な。よしお前、今度からベル子な」
「な、なによそれぇ……」
「……あ」
流護は思い出したように声を漏らした。
「な、なに? どうかした?」
「そう。俺は確かに違う世界から来た。しかし」
「し、しかし?」
「どうやって元の世界に帰るのかが分からねんだよな……」
流護はガクリとうなだれた。
「あなたの話が本当だったとして……そもそも、どうやって来たの?」
「いや気付いたらいたんだよ。そんでぼーっとしてるとこを、ミネットに……、ああ……ミネットには、記憶喪失だって言ったままだったな……」
「……うん、それは……しかたないよ」
ベルグレッテは無言で夜空を仰ぎ見る。釣られて、流護も同じように見上げていた。
そこに浮かぶ、巨大な円。流護は、月と。ベルグレッテは、イシュ・マーニと。
使う言葉は同じなのに、それぞれが違うものと認識する、白光の真円。
「……よし。こうしましょう」
ベルグレッテが、意を決したように流護のほうを向く。
「元の世界へ帰る方法が分かるまで、ここ……この学院にいればいい」
「いや、それは……いいのか?」
「帰る方法が分かるまで、この世界で暮らす必要はあるでしょ? あなたの腕前なら本当は怨魔退治もいけるんだけど、神詠術も使わずに怨魔を倒すなんて目立ちすぎてまずいし。生徒って形にはなれないけど、この学院でしばらく仕事してお金を稼いで、いずれ帰る方法を調べてみるのもいいんじゃない?」
「そう、だな……」
帰る方法が分かるまで、否応なくこの世界で暮らす必要がある。行く宛はない。この世界の金だって持っていない。知り合いはベルグレッテしかいない。選択肢は最初からなさそうだ。
「……よし分かった。そんじゃしばらくの間、世話になる。よろしくな、ベル子」
「ほんとにその名前で呼ぶんだ……えっと、こちらこそよろしく。リューゴ」
やたら丁寧に頭を下げ合う二人だった。
少し気恥ずかしい空気にあてられている二人は、気付かない。
建物の影から送られている、その視線に。