692. 揺らぎの火
「……、っ」
あれは何年前か。
父母に連れられ、リゲルレッド家の邸宅を訪れたことがあった。
主人は『サーヴァイス』の一位にして副隊長、ワーバリヌス・デ・ルア・リゲルレッド。
巨岩みたいな体つきを誇る寡黙な壮年の大男だが、屋敷も負けず劣らずの豪壮ぶり。
そして、そこで飼育されている犬も誂えたみたいな猛犬だった。
黒い短毛に覆われた重厚な筋肉で構成される体躯、下顎から突き出る犬歯と見開かれた黄金の瞳。小型の牛かと思うほどの迫力だった。
首輪に繋がる紐を(もちろんリゲルレッドが握った状態のものを)少しだけ持たせてもらったのだが、凄まじい怪力で、とてもではないが小さな自分に御せる相手ではなかったことをよく覚えている。
――今この状況は、あの時にひどく似ていた。
「はっ、……!」
極度の緊張と深い集中の狭間で息を整えながら、リムは過去の記憶と現在の戦況を重ね合わせていた。
間合いは中間距離。
痛覚増幅のためにかざし続ける右手は、あの手綱を握っていた右手そのものだ。これが緩めば、相手は即座にこちらへ食らいついてくる。
それをさせぬよう、右手で術を維持しつつ左手で火の散弾を見舞う。
途中で自分の攻撃が単調になっていることに気付き、避けづらく手数の多い範囲攻撃主体に切り替えた。
それが功を奏し、威力こそ落ちるもののきれいに完全回避されるようなことはなくなってきている。
『クレアリア選手、防戦一方! 技らしい技を出すこともできず、リム選手から繰り出される火術をどうにか凌ぎ続ける!』
高らかに響くエフィの広域通信だが、リム当人にしてみればそんな風に言われるほど優位な状況とは感じていない。
痛覚増幅を維持するために、ある程度は近い間合いを保つ必要がある。
だが、この距離はクレアリアにとっても射程圏内。わずかにでも集中が切れれば即座に反撃をもらいかねない。
(……はっ、はぁっ……!)
その緊張感によって、集中力が削られていくのが分かる。
『この状況! リムおじょ……、選手が優勢かと思われますが! どのように見ますか、ナスタディオ学院長!?』
『んー、そうねー。これはもう見たまんまよ。思うように術を詠唱することすらままならない。クレアリアにとっては苦しい展開よね。新鮮だわ、あの子が模擬戦でこんなに手こずってるのは』
ミディール学院の長がそう応じるも、リムの疑念は晴れない。
確かにそのはずだ。
攻め立てているのは自分のほう。対するクレアリアは凌ぎ続けるだけで何もできていない。
(っ、なら……、どうしてっ)
なびく藍色の髪。吸い込まれそうな群青色の瞳は、爛々と輝きを放つ。そして、わずかに吊り上がっている口の端。
そうだ。この人は、ずっと。
(どうして、わらってるの――っ!)
激情のままに生み出し投げつけた火球が、クレアリアの顔の脇をかすめ飛んでいく。乱れはためく結んだ髪。遅れて漂う焦げた臭気。
「っ、おっと」
すんでのところで一撃をいなした彼女だが、そのまま体勢を崩して屈み込み、石畳に軽く右手をついた。
(っ! いける……っ!)
少しよろけただけ。しかし好機。逃さず畳みかけ――
「クレアリア、打倒――ッ!」
間髪入れないドーワ判定員の宣告が轟く。
思わずリムが身を竦めて動きを止めた直後、観覧席がどっと沸き立った。
怪訝そうな顔を見せたのは、若干前のめりの姿勢となったままのクレアリアである。
「……おや。倒れたつもりはありませんでしたが……」
すっ、と即座に立ち上がったクレアリアがやや不服そうにぼやく。
強がりではない。相対しているリムとしても同じ認識だった。だから、この機を逃さず追撃しようとした。
抗議とも取れるクレアリアの視線を受けたドーワ判定員は、しかし厳しい顔で首を横に振って「一!」と秒読みを開始する。
『お、おお!? リム選手、粘り強い攻めを続けてついに打倒を奪った……よう、ですね……!?』
『えーっ? 今ので打倒扱いなのー?』
と、唇を尖らせたナスタディオ学院長が疑念を挟む。
『そ、そうですね。クレアリア選手も、直撃を受けた訳ではありませんが……攻め手によって地面に手をついた、という裁定のようですね……』
どこか取りなすような口ぶりのエフィに対して、
『……やれやれ』
笑顔ながらも、緩慢に首を横へ振る父の仕草。
(…………っ)
それで、リムも察した。
――贔屓されている。
心なしかリムに肩入れしているようにも聞こえるエフィの通信。際どい打倒を宣告したドーワ判定員。
守られている。
自分が、最高大臣の娘だから。周囲に気遣われ、過保護に扱われている。
こんな闘いの場においてすらも、いつもと同じように。
それに気付いた最高大臣当人――父が、呆れたように溜息をついたのだ。
(……っ、これじゃ……、)
意味がない。
こんな風に公平性を欠いた状態で勝ったとしても、実力の証明にはならない。父も母も、本当の意味でクレアリアを超えたとは思ってくれない。
誰もが認める形で勝たなければ、意味がないのに――
「……九! ……やれるか!?」
舞台外の判定員に鋭く問われたクレアリアが、答えるのも馬鹿らしいと言わんばかりに肩をそびやかす。当たり前だ。今の攻防で、彼女は何ら痛打など受けていない。
(っ……!? あ……!)
それどころか最悪の事実にリムは気付く。
無為に十秒中断したことで、彼女に詠唱の時間を与えてしまった。ここまで必死に食らいついてきたのに。
「続行ッ!」
「っ、あ」
ドーワ判定員の怒号に身を竦めたのはリムだった。
想定外の打倒、周囲の態度に気付いたやるせなさで、準備が何もできていない。詠唱すらしていない。
「……、……ぁ……っ」
あっけない。もう、終わり。
馬鹿だった。
(こん、な……)
こんなことになるなら、勇気なんて出さなければよかった。
生意気にも現状に不満を感じて、変えようと一歩踏み出して。
何もかも無駄だった。
わたしなんかが、そんなことを考えたのがまちがいだったんだ――
「ちょっ……、何を泣いているんです、リム殿」
普段あれほど冷然としているクレアリアが、戸惑った風に呼びかけてくる。しかも、対戦中に。
「……え」
指摘されて、少女は初めて気がついた。自分の頬を伝う、温かい雫に。
「…………っ」
情けない。
リムはもう、消えてしまいたい気持ちでいっぱいになった。
想定外の展開に動揺して、再開の準備もできず棒立ちして。あまつさえ、対戦相手に困惑される始末。
でも、結局はこの程度。
考えてみれば、自分らしいじゃないか。不満があっても、声を上げる勇気なんてなくて。偶然にも機が巡ってきたから奮起して行動に移してみても、変えるだけの力もない。
二回戦でシロミエールとクレアリアが対戦しなかったことで、自分が挑める土台が整った。
三回戦ではエーランドが奮い立つような雄姿を見せてくれた。
それで自分も、と覚悟を決めて。
でも。
結局は、こうなのだ。
こんなことなら最初から余計な真似などせず、大人しくしていればよかった――
「何をしているんですか、リム殿。さあ、構えて」
「……え」
当たり前のように、クレアリアは言い放つ。いつも隣で助言してくれていたのと変わらぬ口調で。
「私はまだ劣勢を覆せていませんよ。続けましょう」
晴れやかな笑顔すら覗かせながら。
「……え、どう、……して」
「当たり前じゃないですか」
分からない。彼女は、何を――
「何をしている! 続行だ!」
完全に動きを止めて言葉を交わすこちらに業を煮やしたか、石畳の外からドーワ判定員が声を響かせる。
直後、クレアリアの凄まじい一瞥が飛んだ。
「うるさいですね。これも戦闘の駆け引きの一環です。少し静かにしていていただけますか?」
視線で刺せるのではないかと思うほどの鋭い眼光。
そのうえ選手が判定員に口答えするなど、本来なら警告を与えられても文句を言えない所業である。
「う、ぬっ……」
しかし、あの歴戦のドーワ判定員が思わず口をつぐんだ。気まずそうに視線を下向けながら。
つまり、自覚があるのだ。正当でない打倒判定を下した自覚が。
それにしたってとんでもない。
父親より年上の大人を恐れもせず睨みつけ、萎縮させてしまう立ち振る舞い。
父や母が手放しで賞賛するのも当然だ。やはりそれだけの人物なのだ。自分とたった一歳しか違わない、クレアリア・ロア・ガーティルードという少女は。
『これは……? 両者とも、動かず何らかの会話を交わしているようですが……』
困惑しきりなエフィの通信が響くも、騎士見習いの少女はまるで意に介さない。
「……さて、『無粋な横槍』が入ってしまいましたが……リム殿が攻勢を維持し、私がよろけた場面でしたね。さ、痛覚増幅を仕掛け直しなさい。そこから続けましょう」
どんな感情なのか。薄笑みすらたたえながら、待ち切れぬようにそんなことを言ってのける。
「……、……どう、して……」
疑問の晴れぬリムに対し、クレアリアはどこまでも当たり前みたいに。
「リム殿。貴女とは年に数日だけ顔を合わせる間柄ながらも、傍らにいると常々頭の片隅で渦巻く思いがありました。『もし互いが対峙することになったなら、私はどのように立ち回るべきか』と。『私は、リム・リエラ・ローヴィレタリアに勝てると言い切れるだろうか』と」
「……え……」
思わず目を見張るリムだが、クレアリアはやはり当然のように言い放つ。
「私とて詠術士の端くれ。負けず嫌いな性格もあってか、強力な使い手に対しつい考えてしまうんですよ。この方はこんな技能を持っているから、私ならこう対応する……といった風に。これは例外なく、出会った全ての詠術士について仮想したことがあります。姉様も含めて」
秘密を告白するかのような苦笑だった。
「どう対処したものか及びもつかない相手も多いですが……貴女はその中の一人ですよ、リム殿。一度痛覚増幅を仕掛けられたなら、私はどう脱却するか……。考えるも、いい案は浮かばない。年々、会うたびに腕を上げていく貴女と接しながら自問していましたが、答えは出ず。よもや実際に体験してみる機会がこうして訪れた訳ですが、これまで頭の中で思い描いた通り。大苦戦を強いられている次第です」
リムには一瞬、理解できなかった。
あのクレアリア・ロア・ガーティルードが? わたしなんかを?
からかっているのか。
そうだ。なら、どうして。
「……それなら……、どうして、わらっているんですか」
今この瞬間も。この試合が始まって以降。得意の完全自律防御を封じられたはずの彼女はしかし、一貫して薄笑みを浮かべ続けている。追い詰められた者の顔ではない。
「ふむ。自然と出てしまった表情について掘り下げるのも些か気恥ずかしいところですが……そうですね、大まかに理由はふたつ。まずはあまりにも自分の予想が的を射ていたことがひとつ。先述したように、痛覚増幅から抜け出す有効策が見つからない。こうまで予想と現実が合致すると、一周回って笑えてくるものです。私の読みも捨てたものではありませんね。そしてもうひとつは」
まさにその不敵な笑みをより明確に象って。
「詠術士として、強者と鎬を削る高揚感ゆえに。それだけです」
嘘を嫌い、真実のみを語る彼女は、そう言い切った。




