690. おちかづき
これほど驚いたクレアリアの表情を見るのは、これが初めてだった。
「…………リム殿……、本当に……」
遠間で、はっきりとは聞こえない。ただ、彼女はそんな憂いを口にしたように見えた。
「……、……準備はいいかっ」
数々の試合を裁いてきた歴戦のドーワ判定員ですら、やや躊躇いがちに様子を窺ってくる。
(……、)
リムにはその理由が分かっている。
自分が、ローヴィレタリアの娘だからだ。
最高大臣にして影の帝王とも称される父。ヴォルカティウス帝に代わって政に携わる立場から、実質的な最高権力者と考える者も多い。
ゆえに、誰もがそう。
その一人娘であるリムに対しては気を遣い、機嫌を窺い、おべっかを使い、あらゆる傷がつかないよう過保護に扱う。
「ちょぉっとぉ! アテクシが許さないわよぉ! どういうことなのアナタ! 聞いぃ~ているの、トネド! 試合を許可するだなんてぇ! きーっ、離しなさいよアナタたちぃ!」
係員らに押し止められる母が、解説席に座る父へ向かって凄まじい剣幕で怒鳴り散らしている。
この母の苛烈な性格もまた、周囲の者がリムに対して丁重な振る舞いを心がける理由のひとつであろう。
だから、ありがたい。
数少ない対等な友達として、この試合に出ることを認めてくれたシスティアナたちが。自分のわがままを聞いてくれた彼女たちが。
卒業しても、今のままの関係でいてくれるだろうか。
「ちょぉっとドーワぁ! 始めたら許さないわよぉ~!」
『……構わぬ、始めてくれたまえ。私が許可する』
母と父の意見が平行線をたどる中、ドーワ判定員はやや気まずそうな顔で腕を振り上げた。
厳正な判断に定評のある彼だが、そこは一人のバルクフォルト国民。より権力の強い相手に従う他ない。
「……始めえええぇいッ!」
やや遠慮がちな怒号とともに、ドーワ判定員の腕が下ろされた。
言葉にもならない母の金切り声を背に受けて、リムは全力で駆ける。試合場の対極で佇む相手へ向かって。
相手は――クレアリアは、開始の合図を受けても動かない。
未だ、戸惑った様子で立ち尽くしている。本当にやるのか。始めるのか。常に毅然とした彼女には珍しい、惑いの様相。
『現実的ではなくってよ。クレアリアが完全自律防御を展開し終えてしまったら、貴女の勝ち目はもはや皆無になるとお考えなさい』
この一戦についてシスティアナが(リムの代わりに)意見を求めると、ふんと鼻を鳴らしたマリッセラはにべもなく言い捨てた。
『だから唯一、勝機が生まれるとしたら……先制。これは絶対だわよ』
(間に……あって……っ!)
簡素な術でいい。ほんの少しでいい。向こうより早く。『ほんのわずかな傷を刻むことさえできれば』。
「だぁめよおおぉぉぉ! やめてリムちゃん! クレアリアちゃんも、こんな試合だなんて――」
「うるさあぁいっ!」
リムの喉から迸ったのは、自分でも聞いたことのないような怒号だった。
耳を疑ったのだろう。母の叫びがピタリと止まる。
そして、眼前のクレアリアも。
初めてだった。彼女がビクリと肩を震わせる様子を目にしたのは。
そしてそれは。
間違いなく、唯一にして絶対の好機。
「――――っ」
放つ。考えるより先に振ったリムの右手から撒き散らされる、小さな炎の散弾。攻撃術、と呼べるほどの規模でもない。
しかしそれは、にわかに棒立ちとなったクレアリアへ降りかかった。受けた彼女が、反射的に身体をよじる程度。庭先で花に水をやっていて、不意に飛んだ飛沫に顔を背けるような。
防術処理の施された制服にはまるで通じない。
しかしその小さな火礫のひとつが、クレアリアの細めた目元にほんのかすかな薄い線を刻む。
……そう。よくて、その程度の効果しか生まない術だ。
「………………、リム、殿……」
痛みよりも困惑。
そんな顔で、クレアリアがこちらへ目を向けてくる。
「っ、はぁっ……、はっ……」
リムはといえば、これだけで息を切らしていた。
全力で駆け寄って、力いっぱい叫んで、術を放って。
そして。
「……クレアリアさま」
ぶつけるんだ。
全てを。本音を。
言ってやれ。
「わた、しは……あなたのことが……、――大きらいっ……!」
もう一撃。
言葉と同時に、右手から火の散弾をお見舞いする。
反射的に顔を庇った彼女は、数歩よろめいた。術の威力による効果ではない。飛んできたものから無意識に身を守ろうとする挙動に近しい。
一方のリムは、これだけで過呼吸を起こしかけていた。
こんなに大きな声を出したことは、生まれて初めてで。
そして間違いなく。
はっきりとした言葉で己の思いを主張したことも、これが初めてだった。
「……ふーっ、ふーっ……!」
肩で息をしながら、眼前の相手を見据える。
驚いた目で、信じられないようなものを見る目で、こちらを凝視するクレアリアを。
ふつふつと沸いてくる。
何だというのだ。
まさか、自分が好かれているとでも思っていたのか。
『ったくねぇ、この子もねぇ、少しはクレアリアちゃんを見習ってほしいわねぇ〜』
ことあるごとに。
『それにしても、しゅう……修学旅行ぅ、だったかしらぁ? すごいわねぇ、そんな大勢の学院生たちに国を越えさせるだなんてぇ。だって、もしこれが逆だったらと思うとぉ……無理無理無理、アテクシたち抜きでリムだけをレインディールに行かせるだなんて、絶対無理だものぉ〜』
『ホッホ。確かに、リムには荷が重いわの』
何度聞いたか分からない。
『それに引き換えリムったらぁ、小さい頃から双角牛の焦がし焼きと卵焼きが大好きでぇ〜。いつまで経っても舌が幼いのよねぇ〜』
ことあるごとに比較されて。
『……どうすれば、クレアリアさまみたいに……なれますか』
『まっ、んま〜っ。クレアリアちゃんに憧れてるのねぇ、この子ったらぁ』
違う。
そんなんじゃない。
『ほんとにねぇ〜。謙虚よねぇ〜。リムも見習わなきゃダメよぉ〜』
わたしは、ただ。
(父さまに……母さまに、ほめてほしいだけなのに……っ……!)
あなたみたいになりたい訳じゃない。
あなたみたいに、認められたいだけ。
なのに。
うんざりだ。
あなたがいるから、わたしはいつも比べられて――
「――ふ、ふ」
漏れ聞こえたその声は、眼前からだった。
間違えようもない。
二度の攻撃を受けて、後退して、うつむいたクレアリアから発せられていた。
「ふふ、ふふふふ」
鈴を転がすような、笑い声が。
「…………、……え?」
困惑が声となってリムの口から零れ落ちる。
「ふふふふ、ふふふふふふ」
笑っている。間違いなく。
攻撃を受けて。大嫌いだと言われて。
なのに、クレアリアのうつむいた顔から覗く口角は上向いている。この上なく楽しそうに。
「――――嬉しいですよ、リム殿」
ばっと顎を浮かせた彼女の顔には、言葉に違わぬ表情。
細められた双眸と、限りなく喜びを象る唇。それはまるで、上質な美酒に酔いしれるみたいな笑顔だった。
(……は……? ……うれ、しい?)
繋がらない。
たった今の自分の仕打ちに対し、どうしてそんな言葉が生まれるのか。
繕っているのではない。怒りをあえてそのように表現しているとか、余裕を保とうとしているとかではない。
クレアリアは、本当に心からの感情に従って微笑みを浮かべている。
ああ、そうだ。きっと、その発言に偽りはない。あるはずがないのだ。
何しろ彼女は、嘘を大いに嫌うのだから。
そんな『正直者』が朗々と語る。
「だって、初めてじゃないですか。私に言われるまま頷くだけだった貴女が、ここまで明確に自分の意見を主張してくれるだなんて。これって……お互いの距離が縮まった、ということですよね?」
理解できない。どうしてそんな発想になる。
人は、分からないものに恐怖を覚えるという。そんな言葉を証明するように、リムは思わず一歩後ずさった。
直後。
「リムっ! 動きを止めないっ!」
観覧席から、鋭いマリッセラの一喝が飛んできた。
「っ――」
ハッとする。
そうだ。今は試合中。
何より、恐れる必要などありはしない。
――もう、狙った通りの結果が得られているのだから。
「はっ……!」
リムはクレアリアに向かって手をかざし、意識を集中する。相手の顔。先の一撃で頬にわずか刻まれた、小さな傷へ向かって。
――痛みの増幅。
リムの力を攻めに転じた場合に発揮される効果。
高度な術ほど扱うために集中力を必要とするが、痛みは集中を阻害する。即ち――
「……ふむ、いいですね。まず私にどんな小さな傷でもいいから負わせて、あとはその痛みを増幅する。そうすることで私は、ろくに詠唱を行えず自律防御を展開することができなくなる……と」
他人事のように述べたクレアリアが、頬に刻まれた小さな傷へと指先を添える。
「誰かさんの入れ知恵もあるのでしょうが、悪くない戦略です」
ちら、とリズインティ側の観覧席を意識する素振りで微笑む。その助言を齎したのが同郷のマリッセラであることは、先の一声から推察できるところだろう。
……それよりも。
(っ、いたく……ないの……っ?)
痛みを増幅しているにもかかわらず、クレアリアはまるで表情を歪めない。それどころか、涼しげな薄笑みすら浮かべ続けている。
「……っ」
まずい。
もし、詠唱を妨害するほどの効果が得られていないのなら――
「心配しなくても大丈夫ですよリム殿。ほんのわずかなかすり傷ですが、そうとは思えぬ疼くようなこの痛み……。これでは、とても自律防御など展開できそうにありません」
平然と言い放つ。嘘か真か。こちらを揺さぶるためハッタリか。
などと、惑う暇はなかった。
クレアリアがやにわにその場で右手を振ると、勢いに乗った飛沫が撒き散らされる。
「っ!」
攻撃術ではない。詠唱すら必要としない、属性を可視化しただけの簡素な力の発現。
反射的に目を細め、両腕で顔を庇ったたリムへ向かって、クレアリアが鋭く一歩踏み込む。
(――――っ)
考える間はなかった。接近してきた相手の気配に対し、本能で一歩後ずさっただけだった。
直後、リムの鼻先をクレアリアの右脚――その足甲が通過していく。
「、……っ……!」
まさに間一髪。
呆けていれば薙ぎ倒されるところだった。
「おや」
蹴りを空転したクレアリアは、勢いのまま軽やかな舞いでも披露するかのように横一回転しつつ踵を地に着ける。その挙動を追従するように、彼女の側頭部で結ばれた長い髪の房が弧を描いた。
「お見事、しっかり避けましたね。きちんと集中しているようで何よりです」
「……っ」
遅まいてリムの背に悪寒が走る。同時、観覧席から母の悲鳴。それほど速い一撃だった。
これまでに、幾度となく彼女と訓練をした際に。いつも寸止めされていたそれが、容赦なく振り抜かれたのだ。
もし当たってしまえば――
「夫人には申し訳ありませんが……これも試合ゆえ、と割り切らせてもらいますよ」
気乗りしなさそうに、息を吐きながらクレアリアは言う。
……そうだ。
伊達に家族ぐるみの付き合いはしていない。だから当然、リムは知っている。
彼女は、言葉と表情が一致しないことなどなかった。
どこまでも正直で、偽りを厭う人物。
ゆえに、真実なのだ。
エルメラリアに対する心苦しさも、蹴りを躱したリムへ向けた賞賛も、自律防御を展開できないという申告も。
嬉しいなどと宣うその言葉も。
そして無論――これから放たれる一言一句、その全ても。
「では、せっかくお互いの距離も縮まったことですし……遠慮なく行かせてもらいますね、リム殿」




