680. その起源
『おおっと、次第に霧が薄らいでいきます! さぁ瞬き厳禁、晴れ渡った世界で才女二人はどう動……っ!?』
そして現れる。
石床の舞台の上、遠間に存在する少女が二人。その距離や立ち位置は、煙幕に包まれる前までと変わらない。
誰もが視認できるようになったその状況で、真っ先に声を張ったのは試合を取り仕切るドーワ判定員だった。
「レノーレ、打倒――ッ!」
遅れて歓声が巻き起こる。
ようやく遮るもののなくなった眼下の試合場には――緊迫と安堵が入り混じった面持ちで佇むシロミエールと、両膝を石畳についてうなだれるレノーレの姿があった。
煙幕が張られる前と何ら変わらぬ、遠間の立ち位置のままで。
「な……ッ!?」
「えーっ!? レ、レノーレ!?」
「うそ、なんで!?」
思わず立ち上がるクレアリアを筆頭に、ミアと彩花、他の生徒たちもこれでもかと目を丸くしている。
『なな、何とぉーっ……! き、霧が晴れて露わとなったのは、すでに眠りに落ちていたレノーレ選手の姿だったぁ――っ! ドーワ判定員も慌てて秒読みに入ります!』
「ど、どうなってるんだ!? いつの間に!?」
「眠りの術は接近しないとダメなんだろ!? あの何も見えなかった湯気の中で、どうやって……?」
「い、いや待て! そもそも接近したのか!? 二人のいる場所、靄に包まれる前と変わってないよな!?」
悲鳴交じりなミディール学院生のざわめきに包まれる中、ふむと感心したように唸ったのはダイゴスだった。
「成程。これは一杯食わされたようじゃの」
「……マジか」
もちろん、有海流護は神詠術など使えない。今ひとつ術理や法則も理解できていない。
だが――曲がりなりにも一年間この異世界を生き抜いてきた戦士として、推測することはできる。
「つまりアレか。実は、『接近する必要なんかなかった』……ってことか……」
傍らのベルグレッテも、試合場を……眠りに落ちたレノーレを悔しげに見やりながら首肯した。
「……ええ。そういうこと……に、なるんでしょうね」
そこで、え!? と素っ頓狂な叫びを漏らしつつ真っ先に反応するのは彩花である。
「どゆこと!? シロミエールさん、眠りの術をかけるのに実は近づく必要なんてなかったってこと!?」
「だからそう言ってるじゃねーか」
「じっ、じゃあなんで最初は近づいたの!? そのせいでレノーレさんに反撃受けてたし、なら最初から遠距離で眠らせておけば……」
「最初から遠距離で仕掛けてたら、レノーレは勘いいし開幕直後で警戒もしてるからまず簡単には食らわん。眠りの術とか関係なしに、何の術でもな。つーかあの接近戦での攻防があったから、俺らも……多分レノーレも、勘違いしたんだよ。近距離じゃねえと眠りの術は効かないって」
返り討ちに遭う危険を冒してまで――否、そうまでしたからこそ、相手に誤った推測を抱かせることに成功した。
身を張ったブラフ。
「あの煙幕も……時間稼ぎなんかじゃない。遠距離から睡眠の術を仕掛けるため……その発動を気取られないようにするための、目隠しだった……」
緊迫した声音で、ベルグレッテがしみじみと真相を発する。流護も頷いた。
「ついでに言や、あんだけ視界悪くなれば相手も迂闊にゃ動かんしな。シロミエールさんは、煙幕張る前の立ち位置から考えて前方広範囲に眠りの術を仕掛ければいい」
「ええ……。見事だわ。あの舞台に降り立ったのが私だったら、きっと同じように……」
唇を結ぶ姉の横で、その妹が悔しそうに大きな溜息を吐き出した。
「……無論、手練とは思っていましたが……、こと、この模擬戦において……シロミエール殿は、あちらの切り札と呼べる存在だったようですね……」
盛り上がるリズインティの観覧席を見やれば、システィアナがよくぞやったと言わんばかりの渾身のガッツポーズを繰り出している。期待した、狙った通りの結果が出たゆえの歓喜だろう。
引っ込み思案なシロミエールもしかし、わずかにそれに応じる小さな握り拳を見せていた。
「……コミュ症なんてとんでもねえ。シロミエールさん、肝の据わったガチの戦士だわ。すげえじゃん」
流護も脱帽の思いで言わざるを得なかった。
チャンスを作るため、あえて危険に身を投じる。そして、しっかりとその機を掴んでモノにする。
学院生たちの目指すべき姿であり、二つ名持ちも頷ける確かな実力者ということだ。
さて――
「七!」
迫るカウントアウト。両膝をついてうつむいたレノーレは動かない。
(審判が気付く前から『落ちてる』はずだ。実質十秒以上あの状態……何の対策もなくモロに喰らっちまったんなら、もう……)
残り三秒では、とても目覚めない――
「はは。雪が珍しいかい?」
歴史を感じさせる、古びた石造りの建物が目立つ街並み。それ自体は故郷のそれと大差ない。
違うのは、故郷では経験のない冷え切った空気。そして目を引かれるのは、『彼女』の指摘通り――そこかしこに積もった白い塊だった。
「寒いだろう? っと、あそこで暖まりがてら、お父さんたちのことを尋ねてみようか」
純白のドレスを纏った、それこそ『雪』のような女性は、父母とはぐれて不安に駆られるシロミエールにどこまでも明るかった。
「ノスカプラのスープだよ。身体が温まるからね、ゆっくり飲むといい」
立ち寄った食事店では、湯気の立ち上るスープをご馳走してくれた。
「お。ちょうどいい首巻が売ってるぞ。ほら、おいで」
衣服店では、暖かな毛編みの防寒具を買ってくれた。
不思議だったのは、どの店でも商人らがこの彼女に対してひたすら恐縮した様子だったことだ。屈強そうな男性であっても、例外なく。
そして――
「うーむ、兵士どもめ。ちゃんと巡回してるのか? 誰も見かけてないって、そんなはずもないだろう」
街の片隅。不満げに言い捨てた彼女が、納得のいかなそうな面持ちで腕組みをする。優雅な外見に反した仕草と言葉遣いながら、違和感がないのはなぜだろう。
「きゃあああぁっ!」
直後、雪の街に木霊する女性の悲鳴。
反射的に身を竦めたシロミエールとは対照的、彼女は即座に辺りを見渡した。
「む」
そして、即座に異常を発見したようだ。
ここからやや離れた街の一角……石畳の歩道上に、明らかな非日常が発生していた。
「ちくしょう、お前らのせいで俺たちは……!」
工具らしき刃物を片手にそう叫ぶのは、煤だらけの肌に汚れた服を纏った中年の男性だった。
「おい、馬鹿な真似するんじゃねえこの……!」
「うるせぇ! こんな端金で生きていけっかよ! どこまでも俺たちの足下を見やがって……!」
「何だと!? 仕事やってるだけ有難いと思え、この移民野郎が!」
「ふっ……ざけやがって、何様だぁてめぇ!」
激昂した男が刃を振り上げる。
一瞬の後に訪れるであろう惨劇を想像し、ひっと縮こまったシロミエールの横で、彼女はあまりにも平然と動いた。
がん、と鳴り渡る乾いた音。
何が起きたかは分からなかった。
ただ、認識できたのは結果のみ。
これほど離れた位置から、彼女は男へ右手の人差し指を向けていて。そして男の手からは、ものの見事に刃物だけが弾け飛んでいた。
「あぐっ!?」
思わず手首を押さえる彼に対し、
「そこまでにしておくんだ」
何も持たぬ指先を突きつける彼女は、ただ静かな声音で告げた。そこに敵意はない。あるのはただ、どこか悲しげですらある何か。
「っ、……て、てめぇ……はッ!」
こちらを視認した男の表情が一変する。驚愕に見開いた目が、みるみると怒りの色に染まっていくのが分かった。
「て、めええぇぇ――っ! てめえのせいで、俺たちはああぁ!」
激昂した相手が一目散にこちらへと駆けてくる。ただ横槍を入れられたことだけが理由ではない。並の憤激でないことは、幼いシロミエールにすら察することができた。思わず恐怖で身が固まってしまうほどの。
しかし純白の彼女は、またも平然と動く。
正確には、動いたのだろう、と思った。
ちゅいん、ちゅいんと連続する鋭い残響。周囲の石造りの建造物から跳ねる白煙。
直後、男はいきなり前のめりに倒れ込んだ。凄まじい勢いでこちらに肉薄していた男が、後ろから強く突き飛ばされたみたいに。
彼女の白く細い指先は、足下の地面に向けられていた。
よくは分からない。だが……これが、この人の神詠術なのだ。
とてつもない使い手であることだけは、本能的に理解することができた。
「怖い思いをさせたね。大丈夫かい?」
そう言って微笑みかけてくる彼女は、なぜか誰よりも悲しそうで。
こくこくと震えるように頷くシロミエールを軽く抱き締める。
と、すぐ先の地面で前のめりに伏していた男が身をよじらせた。
「へ、へ……う、噂に聞いた英雄サマは、さすがだな……後ろから撃ってくる、とんだ卑怯者がよ……」
どうにか顎先を浮かせ、血走った眼で睨めつけてくる。
恐怖に硬直するシロミエールの盾となるように、彼女は相手に背を向けたまま言葉を紡ぐ。
「私は正々堂々を旨とする騎士じゃない。そもそも英雄のつもりもないし、自分や仲間のために戦っていたら勝手にそう呼ばれただけだ。守るためなら、卑怯も何もないよ。後ろから撃って問題が解決するなら、喜んで撃ってやる。くだらない騎士道精神とやらに囚われた結果失うものが出てしまうなんて、まっぴらごめんだ」
「ふ、ざけんな……こ……殺してやる……」
「私を殺せば、君の抱える問題は解決するのか? それとも、ただ鬱憤を晴らしたいだけか?」
「うるせえええぇぇ!」
怒りにまみれた男が立ち上がる。
「そうか。考えがまとまったら、また話を聞くよ」
真上から、白が閃く。
まるで天空から一筋の光条が降り注いだような。その細くも力強い白光が、鋭く男の首筋を打ち据える。
がはっ、と呻いた彼は、またも雪の石畳に突っ伏した。それきり動かなくなる。……息はあるようだった。
「ったく……ままならないな……」
時間差によって着弾する一撃が、すでに放たれていたのだ。男の弁明を聞くための、一時の猶予を確保したうえで。
そしてきっと、望む回答は……和解は得られぬと分かったうえで。
安全な壁の内側で生まれ育った貴族の子供であるシロミエールにとっては、恐ろしい思いをした体験だった。
だが、それよりも心の奥底に残ったのは。
どこか悲哀を漂わせた彼女から放たれた言葉。
卑怯も何もない。騎士道精神に則ったうえで何かが失われてしまうなど認められない。
寒空の下、一人佇む孤塁の姿。
それはどんな寂しさだろう。
父母とはぐれただけの今の自分ですら、不安で怖くて仕方がないのに。
この人は、どんな思いで一人で立ち続けるのだろう。
いつか。
少しでも、寄り添うことはできないだろうか? 何か、助けになることはできないだろうか?
漠然としていながらもそう考えたことが、シロミエールという詠術士の起源だった。




