670. いざ、対抗戦
空は青々と澄み渡る快晴。藍葉の月、十八日。
夏も近づいてきた爽やかな気候の中、複数台の馬車に分乗したミディール学院三年生およそ九十名は、帝都中心部に位置するローグロン闘技場へとやってきた。
「以前の闘技場と比べるとかなり小さいな」
建物を見上げた流護は率直な感想を抱く。
バルクフォルトへやってきたその日の夜、レヴィンと初めて会ったあのサスクレイスト闘技場……あれを二回りほど縮めたような外観だ。
「拳闘の試合はもちろん、それこそ今回のような学院生の研鑽の場として用いられることも多いようですよ」
馬車から降りて、ぐーっと身体を伸ばしたクレアリアがそう説明を添える。
「それに……無敗の拳闘士として知られるヴォルカティウス帝ですが、実は一度だけ引き分けに終わった試合があるんですよ。その一戦が行われたのが、このローグロン闘技場だったようで」
「ほー。あの人相手に引き分けか。いい選手いるんじゃん」
「聞いた話ですが……バルクフォルトの人間ではなく流れ者だったそうで、とにかく打たれ強く、最後まで倒れなかったんだとか」
ヴォルカティウス帝の実力は、実際に拳を交えた流護こそがよく分かっている。
制限時間内に決着がつなかければ引き分けとされるガバガバルールが採用されているらしいが、それでもあの皇帝相手に『倒されなかった』だけでも相当なものだ。
「なるほどな。……お」
話しつつ周囲の景色に目をやっていた流護は、こちらへと近づいてくる複数の人影を注視する。
「来たわね、待ってたわ。おはよう!」
その先頭に立つ人物――肩に純白のフクロウを乗せたシスティアナが、いつもの元気いい挨拶を繰り出す。その後ろにはやはりいつものように、シロミエール、リムがついてきていた。
「ふっふ。ついにこの日がやってきたわね、ベル。今日はお互い恨みっこなし! 戦神デュオッセリーアの名に懸けて、正々堂々と! 全力で! 勝負しましょ!」
「ええ。こちらこそよろしくお願いするわ、シス」
一歩進み出る西の委員長が差し出してきた右手を、東の委員長ががっちりと握り返す。両者に挟まれる位置取りとなった白羽梟のオレオールが、少女二人の顔をキョロキョロと見比べる。「正々堂々と戦いたまえよ」とでも言っていそうな達観した顔が印象的だ。
両者ともに、今日の天気を反映したかのような晴れやかな笑顔で。
対抗戦の中で現在、出場と対戦が唯一確定している二人同士のやり取り。
その様子を前にして、彩花が声を震わせた。
「うわわ。とてもこれから戦うとは思えない爽やかさ……」
「ま、別に憎くてド突き合う訳じゃないからな」
「だ、だったらやっぱ平和的に話し合いとかにしない? 戦うなんてやめてさ! ほら、ディベートみたいな討論会とかで!」
「何が面白ぇんだよそんなん……いやまあ、ベル子とシスの頭いいコンビがやればそれはそれで面白いかもしれんが……つか、格闘技の試合みたいなもんだろ。何でそんなソワついてんだよお前は。こないだ納得してたんじゃないんか」
流護が呆れ気味に呈するも、彩花は困り顔を崩さない。
「だって、やっぱよく考えたらそれとはちょっと違くない? 普段、机並べて隣で勉強してる同士だよ? ご飯だって一緒に食べるし、休み時間にお喋りもするし、普通に遊ぶし、友達同士だよ? 格闘技って、そんな仲のいい人と試合するの? なんか、記者会見だかで乱闘とかしてたじゃん」
「いや、あれはそういうコンテンツっていうか……。まあでも、そうだな……」
改めて言われれば一理はあった。格闘家でも、ともに練習をしたりプライベートで付き合いがあったりする相手とは闘えない、という話は聞く。
「何つーかな。前も言ったけど、やっぱこの世界でのタイマンって、特別な意味合いがあったりするからな」
相手を意識、尊重するからこそ。自分の中で、何かに踏ん切りをつけるため。
臨む者によっては、そうした儀式のような一面もある。
(……そう考えると)
果たしてこの対抗戦を申し出たシスティアナは、どのような思いを抱いて闘技場へ立とうと――ベルグレッテに挑もうとしているのか。その快活な笑顔の下に、どんな気持ちを秘めているのか。それは本人にしか分からないし、詮索することでもない。
「おはようございます、リム殿。普段はともに学ぶ間柄ですが……今日だけは敵同士。私たちのことは気にせず、遠慮なくシス殿や出場者の方を応援してください」
クレアリアがにこやかに告げると、引っ込み思案な最年少のリムはうつむきがちに小さな頷きを返す。
「笑顔怖いっすねクレアさん……本当にそうしたら許しませんよ的な……」
「は? 妙なことを言わないでください。そんな含みなどありません。互いの学院同士で別れて競う模擬戦なんですから、自分が所属する側を応援するのは当たり前でしょう。普段の関係性を持ち出して圧力を掛けるなど、あってはならないことです」
訥々と怒られてしまった。全くもってその通りなのだろうが、普段からツンツンしているクレアリアが言うと裏があるように聞こえるのである。
その証拠に圧を感じているのか、リムも気まずそうにうつむいたまま――
(……、)
流護はつい、思考すら忘れて凝視した。
顔を伏せたリムの、切り揃えられた前髪の合間から密かに覗く真紅の瞳。おそらく角度的に、他の皆からは見えていない。
その燃えるような視線は、鋭さすら伴ってクレアリアを見上げている。
睨んでいる、と表現するのが正しいほどに。この少女の普段の様子からは考えられないような。
「そういえばリムちゃん、ローヴィレタリア卿もお見えになるって聞いたけど……」
ベルグレッテがふと尋ねると、
「……あ、はい。観戦する、っていっていました……」
ハッとした様子のリムがわずかに顔を上げ、いつもの消え入りそうな小声で応じる。たった今しがたの、敵意にすら似た眼光など微塵もなく。
「やっぱりそうなのね。お忙しいでしょうに、頭が下がるわ」
「猊下は私たちの学院の特別顧問でもあるからね」
談笑するベルグレッテとシスティアナ。傍らで二人を静かに見上げるリム。
(……気のせい、か? ……いや……クレアに対してだけ……?)
それとも縦長の瞳孔を秘めた神秘的な瞳ゆえ、この位置からはそのように見えただけだろうか。
「……どうも。……おはようございます」
「あっ、お、おはようございます……! ええと、その……すーっ……今日は、ついに模擬戦ですね!」
「……うん」
そのすぐ脇では、レノーレとシロミエールの会話イベントが発生していた。
ちなみに、流護はたまたま目撃していた。彼女らはどちらも、フランクに相手へ話しかける性格ではない。レノーレは物珍しそうに闘技場の周囲を見渡していたし、シロミエールはなかなか挨拶するタイミングが掴めないのか口をパクパクさせていた。
つまり、ようやくここで二人の目が合ったのである。
「……あなたは、出るの」
「え!? わ、私!? いっ、いえっ、私は、すっ、そんな……えーっ……」
小首を傾げたレノーレがおもむろに問うと、露骨に動揺したシロミエールが隣のシスティアナに視線で助けを求めた。その救援要請を受けた当人が、我慢できなかったのか吹き出す。
「もう、シロったら。そんな反応したら、『そうです』って言ってるようなものじゃない」
「あっ、あぁっ! すーっ……、いや、でも、」
「ふふ。まあ、ひた隠しにすることでもないけど……せっかくここまできたんだし、そこはご想像に任せするわ、ということでいいじゃない?」
「……そう」
苦笑するシスティアナに言われ、レノーレも特に感慨なく相槌を打った。
「……じゃあ、対戦よろしく」
「あ、はい! よ、よよ、よろしくお願いしますっ……!」
「……やっぱり出るの」
「あっ!? あーっ! すーっ、いえ、今のは言葉のアヤと言いますか……」
こんな気の抜けるやり取りを見ているとそうは思えないが、実際のところシロミエールはその腕前を考えれば出場する可能性が高い。
(知識はピカイチだし……普段はこんなだけど、こないだの海での一件を見る限り戦闘にもちゃんと慣れてる……。でもまあ、こっちのメンツには一歩及ばん感じかな……)
彼女が得意とするは、対象を眠りへと誘う術。しかし聞くところによると、これは人間相手には効果が薄いのだという。
最大の持ち味が性能を発揮しきれないとなれば、ベルグレッテ、クレアリア、レノーレ……誰と当たっても勝ちは厳しい、といったところか。エドヴィンあたりが相手であれば、単純な技量で翻弄し封じ込めることもできなくはなさそうだが……。
「さてさて。それじゃ、中に入って準備しましょ。控え室や観覧席に案内するわ!」
先導するシスティアナに従って、皆も足を前へと進める。
「……」
その後ろ姿を眺めつつ、流護はちょうど隣り合うことになったクレアリアに小さく声をかけてみた。
「なあクレア。あのリムって子は出るんか?」
「は? リム殿ですか? 出るはずありませんよ」
問われた彼女はというと、当然のように言ってのける。
「なして?」
「確かに、腕前や技術を考慮すればあの子も候補となりえますが……普段の様子を見ていれば分かるでしょう。極度の引っ込み思案で、戦闘もどちらかといえば仲間の補佐に徹する性分。何より今回、ローヴィレタリア卿がお見えになりますから。リム殿の出場など、あの方がお認めになるはずがありません」
「はあ、なるほど……」
「なぜそんなことを?」
「……いや」
どうにも、似ていたのだ。
先ほどの、おそらく流護だけが気付いたリムの視線。
あの鋭い眼光が、かつてガーティルードの屋敷で刃を向けてきたクレアリアに。




