67. 終幕
激闘の末――前のめりになって崩れ落ちた、ディノ・ゲイルローエン。
「は、……はぁっ……はぁ……」
流護は荒く呼吸を整え、そんな『ペンタ』を見下ろしていた。残心を取ることさえ忘れて。
――終わっ、た……? 勝っ……た、のか……?
ディノは倒れ、流護は立っている。
流護の師ならば、それが結果だと言うだろう。
たった二人しかいないギャラリーもそれを悟ったのか、
「……な、な、なん……ッ」
レドラックが目を剥いてへたり込み、
「り、り、リリ、りっ」
ミアが爆発したように飛び跳ねて駆け寄った。
「リューゴくんやったあああぁぁあああああ!」
どんっと体当たりする勢いで、ミアが流護へと飛びついてきた。ぐらりと流護がふらつく。すぐさまその『異常』に気付いたのか、少女はハッと息をのんだ。
「……っ!? リューゴくん、からだ、あつっ……って、これ……」
「っぐ……ミア、ちょっ、いてぇ……」
ミアは慌てて離れる。
全身……露出している流護の肌、その全てが熱を持って赤く腫れ上がっていた。
ディノが放出する炎の熱気にさらされ続けていたのだ。ただ対峙しているだけで、ダメージを負い続けているようなものだった。
炎の斬撃を二度受けたことによって、血も流れすぎている。
「…………、ぐ」
流護はたまらず膝をつく。
確かに、炎も厄介だった。
しかし後半。虚ろとなったディノの、確かな拳。
顔は腫れ、傷だらけだ。鼻も痛い。こんなに殴られたのはいつ以来だろう。その感覚になぜか懐かしささえ感じて、少年はなぜか笑ってしまいそうになった。
「リューゴくん、しっかり! ど、どうしよう! ベ、ベルちゃんは!?」
かすかな笑みすら浮かべている流護を見て、余計に危険だと思ったのかもしれない。ミアがうろたえる。
「ふ、ふへ、ふひははははは!」
そこで突如、気味の悪い笑い声が響き渡る。
「儂はついとる。ついとるぞ」
壊れたように笑うレドラックが、よろよろと立ち上がるところだった。
「……飼い主の……やられたブタが、何でツイてんだ。おかしくなったか?」
流護は片膝をついたまま顔を上げ、訝しむ視線をマフィアの頭領へと向ける。
「くく、くぶふははは! これがついてなくて、何がついてると言うか! 小僧ッ!」
言うなり、レドラックは黒服の上着を脱ぎ放った。
何でスーツ風の服の下が裸なんだ、やっぱりおかしくなった……と言いかけた流護の喉が、驚愕で干上がった。
服を脱ぎ、露わになったレドラックの上半身。胸に一つ、腹に二つ。むき出しの心臓がドクドクと脈を打っている。
「これは瀕死となったディノと貴様……双方を殺し、魂心力を同時にいただくチャンス。こんな機会、もう二度となかろう。先生! 先生はどこだぁ!? 『融合』おぉ頼むぞぉ先生ぇ!? はあ、がはははは!」
レドラックは狂気じみた哄笑を響かせ、周囲に首を巡らせる。
「魂心力を……いただく、だぁ?」
この男の発言の意味が今ひとつ分からない流護だったが、とかく聞き捨てならないセリフがあった。
「……瀕死になった俺を……どうするって? 気絶してるチャラ男はともかくとして……俺を殺す? 誰が? てめぇがか?」
ゆらりと立ち上がる。気を抜けば倒れそうだ。
そんな様子が遠目にも分かったのだろう。これまで散々に狼狽し、怯え続けていたはずのレドラックは、ニタリと自信に満ちた笑みを見せた。
「――無論。儂が、だよ。ふ、はははは!」
レドラックは流護へ向かって一直線に駆け出した。
その足は驚くほど遅く、腕を振りかぶる動作もあまりに拙い。
「……正気かよ、このデブ……ミア、下がってな」
いくら瀕死とはいえ、もうまともに拳も振るえないとはいえ、こんな男に倒されることなどありえない。
流護はふらつきながらも一歩前へ出る。
「ヒャァ!」
そのまま、レドラックは大振りに右の拳を放った。
流護はその稚拙としかいいようのないパンチを左手で受け止め――ガクリと、膝がふらついた。
「……!?」
慌てて膝に力を込めて立て直す。
「ほ、ほぉ~……さすがだのォ……」
言いながら、レドラックは左の拳も振るった。こちらも、流護は火傷した右手を何とか上げて受け止める。
「……ッ、な」
思わず声が漏れた。両手で両手を掴んだこの状態。みしみしと音を立てる力比べ。押されつつあるのは――流護だった。
「な……、……!?」
いくら流護が瀕死のダメージを負っているとはいえ、まともに戦闘ができるとは思えないレドラックに押されることなどありえない。しかも純粋な腕力でだ。
しかし事実、腕に力を込めたレドラックが流護の腕を後退させ始めていた。
「小僧……これが、力じゃよ……ッ……ひひっ!」
見れば、レドラックの身体にぶら下がっているむき出しの心臓が、鈍い光を放っていた。
流護は先ほどのレドラックの言葉を思い出す。「魂心力をいただく」という、その言葉。
「……調、子にッ……乗んな、デヴッ!」
「ぐうぁっ!」
ドンッと音が響き、レドラックが膝をついた。
強引に押し返し、流護は相手を封じ込めるように腕力で押さえつける。
「普段、力で、本気なんか……出さねーからよー……試してみっか? このまま背骨ごとヘシ折ってやるか? おい……!」
「……き、ひ、やって……みろおぁ!」
パンッ、と乾いた音が響いた。
「っぐあっ!」
思わず漏れるくぐもった呻き。力比べをしていた両者の手が離れ、流護の手からかすかに煙が上がる。
レドラックが、密着状態にあったその手から何らかの神詠術を放ったのだ。
「死ねぇ!」
手のひらを神詠術に焼かれ、一瞬怯んだ流護の頬に、レドラックの拳が叩き込まれた。
「……ぐ」
大した威力ではない。それでも今の流護は、押せば倒れそうな状態だ。わずかに膝が揺れた。
「とどめだ小僧オォ!」
勢いに乗り、思い切り振りかぶるレドラック。
何がとどめだ。しかし身体が重く、避けることもできそうにない。もらった直後に殴り飛ばしてやろうと、流護は痛む拳を握り締める。
と、レドラックが横から飛んできた電撃の奔流を受けて派手に吹き飛んだ。樽のごとくゴロゴロと転がっていく。
「……、あ」
攻撃の飛んできた方向へ顔を向けて、流護は思わず声を出した。
「あたしの存在、全然考えてなかったんじゃないの? このタルオヤジ」
手のひらを前に突き出した、ミアの姿。
そう。流護はミアの手枷を解いていたのだ。この少女を縛るものは、もう何もない。
「っぐ……、こ、小娘ェ……」
のそのそと起き上がり、レドラックはミアを睨みつける。
「――ふん。あたしを買おうとしてたくせに、あたしの実力も知らないの?」
彼女はもう怯まない。
鋭く目を細め、敵を睨みつける。
「あたしがさらわれたのは、相手が『ペンタ』だったから。今まで抵抗できなかったのは、封印の手枷をつけられてたから」
まるでディノと闘う直前、流護がそうしたように。ミアは流護を庇う形で前へと進み出た。
バチッ! と火花さえ散らせて、白雷纏う少女は朗々と言い放つ。
「あたしは守られるだけの女じゃないんだから! 今度は……あたしが、リューゴくんを助ける番っ!」
「……っこ、の……」
ミアの眼光に怯んだレドラックが、わずかに顔を歪ませる。
「小娘ごときがぁッ!」
それでも怒りが上回ったのか。激昂したレドラックはミアに向かって駆け出すが、もう一度放たれた閃光の一撃を受け、「ぶぎゃっ」と情けない悲鳴を上げて吹き飛んだ。ボールみたいにゴロゴロと転がっていき、崖のそばで大の字になって倒れる。
「立ちなさいよ。立てるでしょ? 感電して動けなくなったりしないように、抑えてるんだから。こんなぐらいじゃ、許さないんだから」
「が、き、があぁ……」
よろけながらも身を起こすレドラックだったが、
「あ」
「あ」
流護とミアは、思わず同時に声を上げていた。
レドラックの情けない悲鳴が響く。
落ちてゆく。
立ち上がった際に大きく足をもつれさせたレドラックは、台地の端を乗り越えて下に流れる川へと転落していった。
ドポン、と重量感のある音が響く。高さは数メートル程度。死んではいないはずだが、巨大な月に照らされているとはいえ、夜の川へ……濁流の只中へ落ちていった人間の姿が見えるとは思えない。
「…………あれー……せっかくこれから、こう……あたしの活躍が」
「はは……いや、充分だ。助かったよ、ミア」
流護はミアへ微笑んでみせる。
「そ、そう? いやでも、もうみんなに助けられっぱなしでもうしわけないっていうか……、って、え、リューゴくんっ!?」
どうしたミア? そう言ったつもりが、言葉に出ていなかった。
そこで、少年の意識はブツリと途切れていた。
「……が、て、めぇ……」
ぎりぎりと片手で喉を締め上げられ、男は苦悶の呻きを漏らす。
「フザけんじゃねぇぞ、このクソアマァ!」
横合いから棍棒を手に襲いかかった別の一人が、真横から飛来した見えない何かに殴り飛ばされ、放物線を描いて宙を舞った。
――ディアレー郊外、人身売買組織『サーキュラー』、その本拠地。
その生業で得た莫大な財によって何度も改装・増築を繰り返された立派な建物は現在、たった一人の騎士によって制圧されつつあった。
『サーキュラー』の構成員とて、その仕事の性質上、荒事に秀でた者は少なくない。
しかし様々な武器を手に相手を撃退しようとする屈強な男たちは、たった一人の女によって為す術なく次々と無力化されていった。
意識を喪失した男をつまらなそうに投げ捨て、女は豪華な建物内にヒールの音を響かせて進みゆく。
遠巻きに女を囲んだ数名の男たちが呻く。
「これ……が……、ケリスデル・ビネイス……!」
名前を呼ばれた女――ケリスデルは、蛇のように細長い舌をチロリと覗かせて己の唇を舐めた。
「て、てめぇこのアマ……いくら『銀黎部隊』だからって、こんな真似が……!」
「んー……ま、人身売買をとやかく言うつもりはないのよ。レインディールでは禁じられてないからね。禁じられてない以上は、『不正』じゃないから」
ケリスデルはボサボサの長い黒髪をバサリとかき上げ、そのまま天井を見上げた。
照明が視界に入ったのか、「まー豪華なシャンデリアね」などと嗤う。男たちには、その様は鎌首をもたげた蛇のように見えた。
建物の奥から、さらに四名の男たちが現われる。
「へッ……『銀黎部隊』だろうが関係ねぇ。こっちは人数いるんだ、全員で囲んで殺っちまえ!」
「お、おう!」
「明日の日報紙の見出しにしてやらぁ! 『銀黎部隊』の一人が行方不明、ってなァ!」
武装した男たちが総勢八名。輪になってじりじりとケリスデルを囲み、まさに飛びかかろうとした――その瞬間。
彼らは突然、バタバタと倒れだした。
「が……、は……」
喉を押さえ、涎を垂らし、ジタバタとのたうち回る。
やがて男たちは全員、倒れたまま小刻みに痙攣するだけとなった。
「……フフ。日報紙の見出しは、弱小組織『サーキュラー』、『銀黎部隊』の手によって壊滅! ってところかしら?」
つまらなそうに男たちを見下ろしたケリスデルは、高い靴音を響かせながら建物内を歩き始めた。獲物を捜す蛇のように。
一つ一つの部屋をチェックしていき、やがてある一室の扉を開けた女は、豪奢な調度品の奥に隠れて縮こまっている、初老の禿げた男を見つけた。
男は侵入者の姿を見て、小さく「ヒッ」と悲鳴を発する。
「まっ。女性を見てその反応はどうかと思うわ」
カッカッとケリスデルは部屋に踏み入っていく。
「責任者の人かしらね。アタシは『銀黎部隊』のケリスデル。罪状は言わなくても分かってるわよね?」
「な、な……何の話だ……」
「フハッ。ありふれた演劇じゃあるまいし、わざわざお決まりのセリフ言わなくてもいいのよ。この度、アナタたち『サーキュラー』が『専売』に加担していたとの報告を受けました。さらには、競売にて正当に商品を購入した者に対し、『ペンタ』を差し向けて売却済みの商品の強奪に及んだとも聞いています。残念……誠に残念ですが、これは『不正』です」
「し……証拠はあるのか」
「フハッ。証拠ねえ。それじゃ、アナタに証言してもらうとしましょうか」
メチャクチャだ、と男は叫びそうになった。しかし、すんでのところで言葉を飲み込む。
もうダメだ。目の前にいるのは、『紫死皇女』の二つ名を持つ、ケリスデル・ビネイスなのだ。
曰く、『法の絶対遵守者』。
そんな風にいえば聞こえはいいが、実際はそうではない。
法に定められていないことならば全く関知しないが、ひとたび『不正』だと認識したものに対しては、徹底的で過剰なまでの制裁を下す。
この女に『不正』と判断された時点で終わりなのだ。そう認識されたが最後、ケリスデルは無法者より酷い手段をも平然と用いて、目標を殲滅する。
無駄だと分かっていながらも、男は言葉による抵抗を試みた。
「そ、その『ペンタ』はどうしたんだ? 俺のような小物より、奴を捕まえにいけばいいだろう? それにレドラックは!? 奴の方が優先じゃないのか!?」
「ああ、アタシも詳しい話は知らないのよ。そっちの方には騎士たちが大勢行ってるみたいで、アタシはとりあえずあんたらを抑えておけって頼まれたんで」
蛇めいた女は、祭りに乗り遅れたとでもいうように残念そうな溜息をついた。
それにしたっていい加減にもほどがある、と男は心中で吐き捨てる。
「では、ご同行願えるかしら? ああ、抵抗も自由よ」
言葉に反して、まるで抵抗するのを期待しているようにも聞こえる。
冗談ではない。抵抗した瞬間に『不正』とみなし、叩きのめすつもりなのだ。
「は……まさか」
男は大人しく両手を上げ、立ち上がる。
レドラックに加担したのが間違いだった。今回も『専売』を持ちかけてきて正直うっとおしかったが、ディノもいるし何とでもなるだろうと思ったのが間違いだった。あの酒樽男め、破滅してしまえ。
……と、立ち上がった拍子に身体がテーブルへぶつかり、机上の隅に置いてあった小さな棚が落下した。
ケリスデルの、足の上へと。
ゴッ、と鈍い音が響く。
「……フハッ、痛いわねぇ……」
女の双眸が、不気味な光を帯びる。
「な、ま、待て! 今のはワザとじゃない! 分かるだろう!?」
「……今のがもっと重い物で、アタシの頭に直撃して脳漿が飛び出てたとしても、そう言って許しを請うつもりなのかしら? 己の体を律することもできず、人を傷つけるなど……残念ね。あぁ~残念残念。抵抗、『不正』と判断せざるを得ないわ。残念だけど――」
残念だと言う蛇は、残忍なまでの笑顔で嗤った。
「ケリスデル殿。お疲れ様です」
『サーキュラー』の制圧を終えて建物から出てきたケリスデルを、若い騎士の数名が出迎えた。
ケリスデルの『技』は敵味方問わず周囲の全てを巻き込むため、建物の外で待機させていたのだ。
「全ての敵対者を無力化したわ。何人か死んでたりするかもしれないけど、まあいいでしょう。捕縛作業に入ってちょうだい」
「了解しました」
入れ違いで騎士たちが建物へと入っていく。
「ふー……」
ケリスデルはつまらなそうに溜息をつき、路傍の石に腰掛けた。
簡単。実に簡単だ。
無法者の制圧など、安酒で泥酔していたとしても達せられるだろう。無論、規律を遵守するケリスデルは、飲酒したうえで任務に当たるような真似は絶対にしないのだが。
こんなにも、簡単なことだというのに。
彼女の祖先は、偉大な詠術士だった。
聖人とまで謳われ、奴隷の解放に奔走したが、最後にはろくに神詠術も扱えない無法者によって刺され、死んでしまったという。
リリアーヌ姫も幾度となく『アドューレ』で語っているが、奴隷制度の根絶という理想。いや……幻想。
あまりにも、現実的な話ではない。
例えばケリスデルはたった今『サーキュラー』を壊滅させたが、捕らえられた構成員たちは罪の大きさに応じて、僻地へ飛ばされて強制労働などの刑に処されることとなる。
刑罰でこそあるが、これは一部の『奴隷』の扱いと何ら変わりはない。
奴隷制度を根絶する場合、犯罪者に対して奴隷と同じ扱いをすることに対し、屁理屈をこねてくる輩なども出てくるだろう。宗教問題だって絡んでくる。
事実、祖先はそういった手合いとの軋轢もあったようだ。
気持ちは分からないでもない。
しかし奴隷制度というものは、あまりに浸透しすぎてしまっている。無理に引き剥がそうとすれば、流血を伴うほどに。
一週間前に対処した……遺体となった少女の顔が脳裏に浮かぶ。
『竜滅』の勇者とおだてられている、少年の言葉が甦る。
『……人間がゴミみてえに捨てられてて、事件じゃねえのかよ……これが……』
「……チッ、」
舌打ちが出たことに、ケリスデルは自分で驚いた。何に苛ついているのか。
亡くなった少女とて、今生であのような仕打ちを受けたのなら、来世では幸せになれるはずだ。問題は……ない。
彼女のような犠牲を出さずに済む世の中を作る? 不可能に近い。
法で定められていないことに無駄な力を尽くし、結果として自分が死んでしまったのでは、その後に残された善良な法の遵守者たちを守ることはできない。
祖先は、現在でもレインディールの民の間ではガイセリウスに次いで支持されている、いわば英雄だ。
それでもケリスデルはやはり納得できない。
どれだけ人々に支持され謳われようが、この世にいなくては、守ることはできないのだ。
それこそ『転生論』に従うならば、祖先は生まれ変わり、この世界のどこかにいるのだろうか。今も続く奴隷たちの扱いを見て、何かを思っているのだろうか……。
ケリスデルは祖先の名前がついた街の明かりを眺めながら、しばし物思いに耽った。