667. 鳥瞰
砦脇の開けた平地に、掛け声と大地を蹴る音が木霊する。
「ほっ」
渦巻く風を纏った右拳が弓なりの軌道を描き、掻い潜った流護の短い前髪を波立たせる。
「むうっ」
一撃をいなされたオルバフは、返す刀で左拳。
打ち下ろしのこれを、流護は左へのスウェーで回避。一撃が振り抜かれる間に、トトンとオルバフの肝臓、右頬へ手のひらを立て続けに当てる。
「! くっ!」
横薙ぎの回し蹴りを一閃するオルバフだが、流護はこのミドルを腹を引っ込めるのみの最小限の動きで回避。慣性のまま旋回したオルバフは、隙を晒すことなく即座に飛び上がってのローリングソバットを放つ。
踵に旋風渦巻くその一閃を潜った流護は、伸び上がりざま鉄山靠の要領で体当たりをぶちかました。
「かっ……!」
大きく吹き飛ばされた風の拳士は、神詠術の力を駆使して体勢を立て直し、どうにか着地する。しかし限界だったようで、腰を落とし乱れた呼吸を整えた。
「ゼェ、ハァッ……! 一歩たりとも……その場から、動かすことすら叶わんとは……」
「いや、いい練習になってるっすよ」
流護は構えを解いて身体を伸ばす。今日は白い線が見えていない。そのコンディションにおいて、視認の難しい風属性を必要最低限の動きで躱す。そんな鍛錬だった。
汗を拭ったオルバフが首を横へ振ってぼやく。
「やれやれ……将来は近接戦闘の技術を磨いて、金持ちの護衛でもやろうと思っていたのだがね。すっかり自信がなくなった」
「いやいや、全然やってけますよ。学院生でここまで戦闘慣れしてる人ってそういませんし」
「ふ。その賛辞、有り難く受け取っておこう」
実際、心にもないことを言っている訳ではない。
オルバフについては、システィアナからもリズインティ学院きっての実戦派と聞いている。最近はこうして実際に拳を交えているが、その技量は今ほど発した言葉通りのものだ。
となれば、当然――
「てかオルバフさんって、やっぱ対抗戦には出るんすよね?」
五日後に迫った、両学院の対抗戦。
代表五名を選出しての団体戦となるが、この実戦派の青年は実力からも確定と考えて間違いないはず。
「むっ、何だ何だ。こちらの内情を探ろうとしているのか? 遊撃兵殿よ」
冗談めかして言う彼に対し、流護も笑顔で手を振る。
「いやいや、ただの世間話っすよ。今回の対抗戦に関しちゃ、俺はどっちの肩を持つとかないんで。純粋に、一人の観客として楽しませてもらおうと思ってるんで」
学院生同士の競い事だ。遊撃兵の立場にある人間が口を出すことではない。
ミディール学院生もリズインティ学院生も何だかんだと盛り上がっているので、双方とも楽しんでくれればいい。どちらにとってもいい経験となるはずだ。
とにかく、この風の拳士の出場は実力の高さを考えれば確定だろう。
少なくとも流護の見立てでは、ベルグレッテとダイゴス以外が相手であれば、かなり勝敗の分からない試合になる――
「いいや、俺は出場しない」
しかし、オルバフは即座にそう告げた。
「え? そうなんすか?」
思わず目を丸くする。意外だった。これほどの実戦派が出場しないというのであれば、他に誰がいるというのか。
「今回は無制限の決闘法ではない、定められた場と規約の中で立ち回る方式なのでな。俺よりも適任がいるということさ」
「はあ。そうなんすか」
今回の対抗戦でポイントとなるのはやはり、『場外、ダウンあり』という点だ。
立ち技格闘技さながらのルールとなるが、そこは異世界における詠術士同士の試合。この前提を踏まえると、
「でも、それなら余計にオルバフさんが出た方がいいんじゃ? 今回の模擬戦の条件だと、風属性ってかなり有利すよね」
「うむ、違いない」
そうなのだ。リングアウトとノックダウンが有効なこの方式であれば、強風によって相手を場外へ押し出すことも、吹き倒してダウンを奪うことも認められる。他属性よりもルールとの親和性が高い。
「確かに、風属性ならばそうした面で有利に立ち回れることは間違いないが……それだけではない、ということさ」
と、風の拳士は意味深に含み笑う。
「フッ。そちらの代表に誰が選ばれるかはそれとなく想像がつくが……その上で断言できる。この勝負、どちらに転ぶか分からんとな」
「おー。そんじゃ、観客の一人として楽しみにしますかね」
流護としては、身内贔屓を抜きにしてもやはりミディール学院が勝つと思っている。
今や戦士として一流の域に足を踏み入れつつあるベルグレッテはもちろん、変わらず学院上位に食い込むクレアリアとレノーレ、そして成長著しいエドヴィン。このうえダイゴスが参戦するとなれば、正味な話ミディール側の全勝も充分にありえる。どころか、そうなる公算はかなり高めですらある。
しかし、自らも実力者として鳴らすオルバフは言うのだ。
ベルグレッテたちの実力を知ってなお、どうなるかわからないと。彼自身が出場しなくとも。
「此度の対抗戦、ローヴィレタリア猊下もいらして観戦なさるそうだからな。いかに勝敗に拘らぬ余興といえ、システィアナたちとしては無様な姿も見せられん」
「なるほど。そういやあの人、そっちの学院の特別顧問もやってるんだっけ」
あの常時絶えぬ見本のような笑顔、しかし時折垣間見えた蛇のような鋭い眼光を思い出す。
リズインティ学院側が不甲斐ない結果に終われば、果たしてあの『喜面僧正』はどう思うだろうか。
(それでシスも気合い入ってんのかな……? てか)
実際のところ、オフバフが出ないのであれば他に誰が候補となるか。
他に優秀な術者として思い浮かぶのはシロミエールやリムあたりだが、それでもこちらの面々にはやや及ばない。二人揃って火属性の使い手なので、今回のルールにおいて特別な優位性がある訳でもないはず。
(ま、どうなるか楽しみにしときますかね。…………、)
考えつつ、少年は一抹の寂しさを自覚した。
この対抗戦、合同学習最後の催しということもあって生徒らも一体となった盛り上がりを見せているが、そんな中で流護立ち位置は一人の傍観者。学院の生徒でもなく、いわば蚊帳の外である。
自分は誰と闘うのか、学院として勝利をもぎ取れるのか。そういった高揚感や緊張感を真に共有できることはなく、対抗戦に思いを馳せ熱くなれる皆が少しだけ羨ましい。
(やっぱ大事だよな。競い合える相手がいるって)
この修学旅行において当初から目標として掲げられていた、志を同じにする者たちとの切磋琢磨。
このラストイベントは、まさにそれを体現するものとなるはずだ。
(いや、別に寂しくなんかねーし……)
流護が目指すは、圧倒的にして象徴的なまでの頂点。
唯一無二、並び立つ者のない孤高。
最強であるがゆえ、同じ境地で理解できる者も存在しない。
「……」
正直なところ、流護は桐畑良造のような鉄の求道者とは違う。とてもあんな風にはなれそうにない。
果たして、本当に至れるのだろうか。
たった独りで、誰もいないその高みへと。
「あーっ!? 今日って水の曜日だっけ!?」
本日最後の講義が終わってしばらく、弛緩した空気が漂う大広間に悲鳴が響く。最前列のシスティアナがいきなり椅子から立ち上がっていた。肩に乗った白フクロウが首だけを彼女へと向ける。
ちなみにグリムクロウズの曜日は全七つで構成されており、四番目は水の曜日と呼ばれている。奇しくも、流護がよく知る『水曜日』と順番も属性も同じだ。
「ど、どうしたのシス」
隣席のベルグレッテが驚いた様子で彼女を仰ぎ見ると、
「今日、聖堂通りの野菜屋が大安売りだったの! いっけない、すっかり忘れてたわ……!」
システィアナは痛恨の極みといった表情で天を仰ぐ。
「野菜屋? 大安売り?」
目を丸くした少女騎士が気になったであろう単語を反芻すれば、「あっ」と西の委員長は照れ臭そうにはにかんだ。
「そういえば、言ってなかったわね。私……家で食べるご飯の、食材の買い出しをたまにやってるのよ」
「へー。意外と庶民派じゃん」
寄っていった流護が言うと、システィアナはビクッとしつつ露骨に慌てた。
「え!? アリウミ遊撃兵!? 聞いてた!?」
「そらそんなデカい声で言ってればな……」
苦笑すると、周囲をキョロキョロした彼女は少しだけ顔を赤らめた。
「あ、あはは。これはお恥ずかしい限りね……。まあ……うちって一応はそれなりに代々続く家柄だけど、正直なところ今はね、こう……落ち目というか……。お金がないから使用人も雇えないし、お屋敷もボロボロだし。……ほら、先日のお城での会合に出たなら分かると思うけど、私の家系は呼ばれてなかったでしょ?」
言われて初めて、流護もハッとした。
確かにリウチやシロミエール、エーランドらの父母が勢揃いしていたあの首脳会談にて、システィアナの姓であるミルドレド家の者はいなかった。
(……んでも、それを言うとあれなんだよな……)
その時も気になったことを思い出す流護をよそに、システィアナは自嘲気味に独白を続ける。
「残念だけど今のミルドレドは、あのような場に呼ばれる序列にないのよね。……でもいずれ、私が栄華を取り戻すわ……!」
「そう、なのね。事情をよく知らずに言うのは、無責任かもしれないけれど……シスなら、きっとできるわ」
「……ん。ありがとう、ベル」
「その点は姉様に同意です。シス殿なら不安はありませんね」
と、やってきたクレアリアが腕を組んでどこか偉そうに頷く。と同時に指摘した。
「ところで、大安売りとやらに行かなくてよいのですか?」
システィアナは絶叫した。
「あーっ! そうだったぁ! 栄華も大事だけど、今は何より根菜がっ……! まだ間に合うかな!? じゃ、じゃあ私はこれで帰るわね! みんな、また明日! 我らが神の加護があらんことを!」
そして脱兎の勢いで広間を出ていく。しかし凄いのは、あれだけ動きまくる彼女の肩に座って振り落とされない白フクロウのオレオールである。従順な使い魔の鑑だ。
「……もしかして、それが理由だったりするんか?」
彼女の慌ただしい後ろ姿を見送った流護は誰にともなく呟いた。
つまり、今回の対抗戦を持ちかけた切っ掛けだ。落ちてしまった家名を押し上げるため、己の実力をそこで証明しようとしているのか。
流護にしては当たったいそうな気もする推測だったが、ガーティルード姉妹はそれぞれに唸った。
「今も言いましたが……シス殿なら、このまま邁進していけばいずれ家を再興することも可能でしょう。今、対抗戦を打ち出してまで期することではないように思います」
妹が言うと、姉も「そうね……」と顎下に指を添えた。
確かに、いかに余興といえど対抗戦で負けてしまえばケチがつきかねない。勝てる確証がないのであれば、やらないほうがマシだ。
ということは、やはり他に理由があるのか。
「ところでアリウミ殿、この時間は外で鍛錬していたのでは?」
と、一転してクレアリアさんが訝しげな目線を向けてきた。隙あらば姉に近づくものを排除しようとするマシーンである。
「ああ。今さっき、講義の終わり際に学院長から呼ばれて報告受けてな。ローヴィレタリア卿から連絡あったってよ。例の、カヒネが消失してた期間のアリバイ確認が終わったと。向こうのお偉いさんがたの中に、あの期間中いなくなってた人はいないってさ」
結果、バルクフォルト帝国にオルケスターの魔の手は伸びていなかったということだ。
もちろん、あくまで上流階級の中枢には、との但し書きがつく。
その他を見れば精査などし切れないし、人知れず異分子が紛れていない確証はない。実際、この地方を拠点に活動する傭兵団ダスティ・ダスクの首領はオルケスターの構成員だった。
「そう、なのね。ありがとう、リューゴ」
「ふむ。ではオルケスター関連については、一旦ここまでになるのでしょうかね」
クレアリアの言う通り、このバルクフォルトにおいての調査は一区切りだろう。
直接的な遭遇こそなかったが、収穫はあった。
ダスティ・ダスク首領ことガーラルド・ヴァルツマンと接触したと思しき、ライズマリー公国の宮廷詠術士。副長アキムの証言から似顔絵を作成し、ある程度の人相を絞り込むこともできた。生真面目そうな、二十歳代の女。
帰国後、これを元に調べを進めることができるはずだ。
「そーだな」
同意しつつ、流護は何気なく教室を見渡す。
本日の講義を全て終えた広間では、生徒たちが思い思いに羽を伸ばしていた。
自席でふんぞり返って爆睡中のエドヴィン、女子たちに声をかけて回っているリウチ。
レノーレとシロミエールは講義内容のまとめでもしているのか、教本を開きつつ互いに何かやり取りしている。……いや、シロミエールが異常に興奮しているので、会話内容はメルティナのことに違いない。
ダイゴスは瞑想中だし、最後尾の席に座った彩花は頬杖をついてまどろんでいた。そこへ寄っていったミアが普段の意趣返しか、彩花のほっぺを指でつつく。余計なちょっかいをかけたことで相手の覚醒を促してしまった小動物は、両腕で捕獲され「ウワー!」と断末魔を上げる。
平和、との言葉をそのまま具現化したみたいな光景。
いつぞやの彩花ではないが、恐ろしげな怨魔や狡猾な悪党との殺し合いが同じ世界で存在しているとは思えないほど。
「…………」
「どうかした? リューゴ」
相変わらず鋭い。少し様子が違えば、ベルグレッテは察してくれる。
「いや。平和なもんだと思ってな」
そんな日常を守るために。
オルケスターの一件は、近いうちに必ずカタをつけなければなるまい。
改めて気を引き締める遊撃兵の少年だった。