665. ささやかな野望
ダルクウォートン砦、屋上。
穂先が揃った林の木々の向こう側には、青い空と帝都の街並みが広がっている。
燦々と降り注ぐ昼神の恵みは心地よい。これがあと二月もすれば汗に濡れるほどの熱気を帯びるようになるのだから、季節とは不思議なものだ。
「はぁ〜〜……」
しかしそんな晴れて澄み渡った空気とは裏腹に、システィアナは陰鬱な気持ちで溜息を吐き出した。
年季の入った柵に手をかけ、足下へ視線を落とす。
そんな少女に対し、青空の彼方から飛来する白い影。ばさばさと舞うそれが、定位置である右肩に身を落ち着ける。
「ん、おかえり。オレオール」
純白の毛並みが美しい雄のフクロウ。システィアナが飼育している訳ではない。気ままにどこかへ行き、また気ままに戻ってくる。そんな間柄だ。
帰還した白い相棒は、くるるる、と喉を鳴らしながらこちらを覗き込んできた。
「あははは……決まっちゃった、対抗戦。私ってばほんと、どうしようもないね……オレオール」
あまりに突発的な思いつきだった。
ベルグレッテに挑み、勝つ。
そうすれば、認めてもらえる。
周囲に。両親に。猊下に。
レヴィンの隣に立つ資格がある、と。
あまりに幼稚で、極めて短絡的な。
(……でも……勝てれば……勝てさえ、すれば……)
背後から金属の軋む開閉音。続く、コツコツと軽やかな靴音。
その歩幅の間隔だとか、そもそも今こうして自分を探してやってくる人間なんて限られているだとか、そうこう考えているうちに予想した通りの台詞と声がかかる。
「全く、どういうつもりでいて? いきなり対抗戦だなんて」
「んー……。どういうつもりだと思う? マリー」
くるん、と首を回してそちらを見るオレオールとは対照的に振り返らず問い返すと、呆れたような彼女の――マリッセラの溜息が返ってきた。
「……少なくとも、貴女の勝ち目は限りなく皆無に等しくてよ。今のベルグレッテは、学院生の範疇を遥かに超えた実力を身につけている。悔しいけれど現状、わたくしですら大きく水をあけられていると認めざるを得ないわ」
「ふんむ。それでも、『私が勝つ可能性は限りなく皆無に等しい』……つまり『零ではない』、と思ってくれるわけ」
「それは、同じ人間同士で競うのだから理論上はそうというだけの話よ。『闘いとは天秤』、なんて格言もあるわね。模擬戦という舞台で術者として干戈を交えるなら、残念だけれど貴女に勝機はないわ」
「ふんむ、そっかぁ。それじゃあ、同じ人間同士が闘うんだから……っていう一縷の望みに賭けるしかないってわけね」
「……なぜそうまでして……」
溜息交じりの呆れ声。
振り返らずとも、マリッセラがかぶりを振る様子が容易に思い浮かんだ。手に取るように分かる友人の反応に苦笑しつつ、システィアナは蒼穹の空を仰ぐ。
「もう、あと一週間よね。この合同学習が終われば、マリーはミディール学院所属に戻って……ベルたちも一緒にレインディールへ帰って、日常が戻ってくる。あなたがいなくなって、私が繰り上げで首席になって……そんな、ちょっとだけ今までとは変化した日常が」
そうして、あと二年。
卒業まで、これまでのような日々が続いていく。マリッセラの帰郷で少し寂しくもなるが、それでもきっと楽しい毎日となる。今までと同じように。
しかし。
「やはり手放しで喜べなくて? 繰り上げでの首席は」
その地位を独走していた彼女が問いかけてくる。
「ううん。今まででも、お父様やお母様は褒めてくださっていたし……そこに不満や異論はないわ」
ただ、意味もないと思い知った。
『……お父さまが、ベルグレッテさまをすごくほめてた。アバンナーを一人でやっつけるなんて、すごいって。……レヴィンさまとベルグレッテさまが結婚してくれれば、未来はあかるいんだけどな、って……』
レヴィンの隣に立てないのであれば、一位だろうと二位だろうと一緒。
だから、そんなことは関係なしに挑む。
皆が口を揃えて褒め称えるベルグレッテに。
そして万が一にも彼女を上回ることができれば、周囲の自分を見る目は大きく変わる。
「まあいいわ。貴女がどうしても挑みたいというのであれば止めはしないけれど……それにしても、よく許可が下りたものね。あのローヴィレタリア卿が首を縦にお振りになった、ということでしょう?」
『喜面僧正』こと最高大臣は、学院の特別顧問も兼任している。その許しなくして、このような催しは実現しない。
「ええ。『せっかくの交流なのだから、勝敗など気にせず楽しめばよろしい』……と、学長づてにお言葉をいただいたわ」
「……勝敗など気にせず、ね……」
含みを感じ取ったマリッセラがその文言を反芻する。
ローヴィレタリアは口先で理論を語るだけの詠術士ではない。一線から遠ざかって久しいものの、かつては自ら戦場を駆け巡った歴戦の武僧だ。幼き日のレヴィンを指導した人物で、学生たちの力量を見定める目も間違いない。
そんな傑物が判断したのだ。
リズインティ学院では、ミディール学院には及ばないと。
ゆえに、『勝敗など気にするな』。勝てないのだから、負けても気にするな。そんな真意が込められている。
さらに言うなれば、ローヴィレタリアは政治的な立ち位置に気を払う人物。
例えば当時十三歳だったレヴィンを天轟闘宴へ参加させるも、レフェ最強の戦士と称されるドゥエンが不在となる回を選んでいる。万一の敗北はもちろん、勝って向こうの面子を潰してしまうことを避けたのだ。
自国の力を示しつつ、しかし相手も立てる。レヴィンのことのみならず、常にそのような立ち振る舞いを心がけている。
そして今回。
学院生同士の模擬戦については、負けても構わないと判断した。
負けても何ら不思議がない。政治的な影響もない。
つまりそれが、ローヴィレタリアから見た今のリズインティ学院の評価。
むしろ、ベルグレッテたちに花を持たせる引き立て役ぐらいに考えているのかもしれない。
同じ推測に至ったか、マリッセラが盛大な溜息とともに棘のある言葉を吐き出す。
「目に浮かぶようだわ。『我らがリズインティ学院も、ミディール学院を見習わねばなりませんな。ホッホ』なぁんて仰る卿の笑顔が」
「……っ」
鉄柵を握る指に力が篭もる。その間にも、マリッセラは淡々と続けた。
「けれど、ローヴィレタリア卿の見立ては確かだわ。ベルグレッテ、クレアリア、レノーレ……。この三人が出れば、勝ち星はほぼ確定。五戦のうち三勝をミディール学院に取られてしまうもの」
その時点で、総合判定ではこちらの敗北となってしまう。
「これに加えて、ダイゴスが参加しようものなら……残り一人の人選次第では、五戦全敗を喫することになるわよ」
(……)
その認識は正しい。生徒たちは盛り上がっているが、両学院の実力を深く理解している者であれば、拮抗した勝負にはならないと踏んでも不思議はない。
「言っておくけれど、わたくしは出なくってよ。ベルグレッテとの勝負以外に興味はないし……どちら側について勝とうと、負けた側から薄情者呼ばわりされそうで癪だし」
暗に出場さえすれば勝つと言い放っているに等しい、その自信が羨ましい。そしてマリッセラには、それを大言で終わらせないだけの力が備わっている。
「第一、他の四人には誰を選ぶつもりでいて?」
「ふんむ、そうね……まずはリムとシロでしょ。あと二人は……じっくり考えるとするわ」
「シロミエールはともかく……リムですって?」
引っ掛かり覚えるのは当然だろう。あの引っ込み思案な少女を知る者であれば誰でも。
「あの子が自主的に出ると言ったの?」
「そうよ」
「えぇ……?」
これに関してはシスティアナですら驚いたのだ。
先日、この対抗戦を思いついた際のこと。まさに突拍子もなかったであろうこの提案に対し、
『……。……わたしも、でたい』
気弱で幼い彼女は、しかしはっきりと肯定した。真紅の美しい瞳に、迷いのない光を宿して。
「どうしてまた……、理由は?」
「聞いてないわ。あの子なりに思うところがあった様子だったし。でも……あの子がそう言ってくれたから、本気で対抗戦をやってもいいんじゃないかって思えたわけ」
「そう。別に、本人が望むのであれば構わないけれど……。……確かに……あの子が出るのであれば、組み合わせ次第では……いえ、そうね……シロミエールもいるのなら……、……今回の規定は、旧闘技場方式だったわね……となると」
押し黙ったマリッセラに、システィアナはふふんと笑ってやる。
「どう? 意外と分からないでしょう? 勝負の行方は」
「……そうね。少なくとも、ローヴィレタリア卿の鼻を明かすような展開も充分にありえるわ」
確かに、学院同士の総合的な力量を比べたならミディール学院が勝るだろう。だが、これは代表を選出しての対抗戦だ。誰と誰を闘わせるか、相性如何によっては勝負の行方も予測できないものとなりうる。
「ふっふ。第一、全く勝ち目がないようならこんな提案なんてしないわよ」
ローヴィレタリアはその慧眼で自国の学院が『負ける』と判断したかもしれない。事実、その可能性は低くない。
だが、自分たちとて日々成長している。システィアナは誰よりも間近で、そんな級友たちの姿を見てきている。
今回、戦う相手はミディール学院だけではない。
「猊下には驚いていただくわ……!」
笑みを絶やさぬ最高大臣に皆の……そして自分の価値を知らしめ、その表情を変えてやるつもりだ。
振り返って拳を掲げると、マリッセラは根負けしたように苦笑した。
「……ったく。言い出すと聞かないものね、貴女は。こういう時の粘り強さや諦めの悪さも特筆ものだし。ならわたくしは、観衆の一人として今回の対抗戦を楽しませてもらうわよ。精々、足掻いてみせなさいな」
「ふっふ、期待しておいて。私はベルに勝つし、学院としてもみんなで勝ち越す。そうなると、間接的にあなたのことも超えちゃうことになるわけね。マリー」
一瞬だけ驚いた表情を見せた貴族少女は、すぐにいつもの勝ち気な面持ちに戻って長い金髪をかき上げる。
「ええ。期待せず楽しみにしていてよ」
素直でない彼女の『激励』を受け、システィアナは改めて気を引き締めた。




