662. 拳闘王者
流護がダルクウォートン砦の門前へ赴くと、総勢十名ほどの男たちがそこにたむろしていた。ガラが悪く、いかにもならず者といった風情の集団である。
その中に、一人。見るからに頭領だろう、サイズ感を間違えたのではないかと思うほどの巨漢が交ざっていた。
「ひえっ、でっかすぎない……!?」
相も変わらず勝手についてきた彩花が、背後で怯えて息をのむ。
その男の身長は、優に二メートル半を超えていた。年齢は二十とも三十とも思えるが、四十以上でも驚かない。顔についた贅肉が多く、今ひとつ歳が読めない。それより目を引く部分が多い人物だった。
濁った緑の双眸。垂れ目がちのまぶた上には眉がなく、鼻は潰れたみたいに幅広で下唇が厚ぼったい。黒寄りの灰色い髪は波打ちながら首元まで無造作に伸ばされていて、艶がなくやや清潔感に欠ける。グリムクロウズ人にしては珍しく余剰気味な肉づきによって腹が出ており、縦にも横にも大きい。
そしてどんなセンスなのか、上下ともにピンク一色の妙にピチピチな衣服を纏っていた。趣味を疑いたくなる格好だが、そのピッチリタイツ自体はかなり上質な素材でできていそうだ。なまじ身体のラインがくっきり浮き出るため、体躯の不恰好さが際立っている。
「……あれがデルダムよ」
「なるほど。……いや、よくあんな服着れるな……」
「とにかく目立ちたがり屋なのよ」
「いや、目立つとか以前にセンスがさ……まあいいや」
後ろから囁いてきたシスティアナに納得を返しつつ、流護は周囲の状況を窺った。近くにいるリズインティの生徒らも何事かと遠巻きに見守っているようで、
「おいおい……デルダムじゃないか。どうしてこんな所に……?」
「相変わらずデッケェなぁ……」
実際、なかなかの有名人であるらしい。
曰く、現在の闘技場における拳闘界の王者。
ここへやってくるまでにシスティアナから聞いた話では、比較的最近になってから現れた新鋭の闘技者で、戦績は十戦全勝無敗。貧民街の生まれで神詠術の才能に恵まれず、スラムを根城として荒んだ生活を送っていた。
その困窮した環境から拳打法を齧った経験もないが、拳闘デビューして以降は向かうところ敵なしの強さを誇っているらしい。
(まあ、そらそうだろうな)
本人を目の当たりにした流護は素直に納得する。
というのは別に、この巨人から並ならぬ強者のオーラを感じ取ったからではなく。
ただ単純に、デカい。
そして、これほどのアドバンテージは他にない。
現代ボクシングと違って、細かなルール整備も階級分けもされていないバルクフォルトの『拳闘』。当然ながら神詠術の使用も禁じられているその舞台であれば、身体のサイズは勝敗を左右する決定的な要素となる。
正直、デルダムの肉体は鍛えられていないし絞られてもいない。ただただ大きく、分厚い脂肪が垂れ下がっている。
しかしそれでもこの巨体が暴れたなら、単純に誰も止められまい。『力』は、残酷なまでに呆気なく全てをねじ伏せるのだ。
(皇帝さんぐらいテクニックがありゃ別だけど)
それとて、ヴォルカティウス帝の鍛え抜かれた肉体があってこそ。『技が力を制する』などという理論は、近いレベルの『力』があって初めて成り立つのだ。
ともあれ、このパワー全振り大巨人は自分に会いたがっているらしい。
ふう、と息をついた少年が彼らの下へ向かおうとした瞬間だった。
「なぜここにおる? 王者よ」
しわがれた声で呼びかけて、生徒らの人垣から歩み出てくる人影があった。
ギョロリと獣じみた眼光を向けるデルダムが口を開く。
「おぉう、至大詠術士サマじゃねぇかよぉ。生きてたのかい。とんと闘技場で見掛けねぇもんだからよぉ、おっ死んじまったのかと思ってたぜ。ブヘヘヘ」
見た目の印象に違わぬ、粘性を帯びた声と喋り口だった。そんなデルダムに侮蔑的な笑みを向けられたその相手――アンドリアン学長は、全く普段通りの穏やかさで喉を鳴らす。
「ふぉっふぉっふぉっ。お主の試合があまりにつまらんのでな、すっかり観に行く気が失せてしもうたのよ」
「あぁん!?」
「今何て言った、爺さんよぉ!?」
周囲の取り巻きたちが色めき立つと、デルダムは巨大にすぎる手のひらで遮るように制した。部下とは対照的、気を悪くした風もなく笑う。
「ブヘヘヘ……そいつぁ済まねぇな。だが、俺のせいじゃねぇ。どいつもこいつも弱っちいのが悪ぃのよ。あっという間に俺様が勝っちまうからな、そりゃぁ面白ぇ試合になりようもねぇ。ったくよ、生まれる時代を間違えたぜ。現役時代の皇帝陛下と闘り合ってみたかったよなぁ」
デルダムが大げさに両手を広げて笑うと、周囲の手下たちも同調して哄笑を響かせた。そうしなければいけないルールにでも従っているかのようだ。
流護の後ろのシスティアナが不服そうに鼻を鳴らす。
「ったく、相変わらず感じの悪い男ね……! ちょーっと拳闘で成り上がったからって、アンドリアン学長に失礼な口をきいて!」
「なるほど。拳闘ドリームっすなあ」
神詠術至上主義とも呼べる、このグリムクロウズという異世界。
術の能力に恵まれなかった『持たざる者』は、決して詠術士に及ばない。実力はもちろん、身分や立場の上でもだ。自然、ヒエラルキーとして下に位置づけられてしまう。
しかし、このデルダムはやや異なるようだ。
『持たざる者』として生まれながらも、バルクフォルトを代表する文化である拳闘にて成功を収め、それなりに富と名声を手に入れたということか。
そんな成り上がりの巨漢が低く笑う。
「まぁいい、今日はアンタに用じゃねぇんだ。聞いたぜ、ここにいるんだろぉ? レインディールの、『拳撃』とかいう遊撃兵とやらがよぉ」
その言葉を聞いて、背後の彩花がひぃと呻いた。
そんな幼なじみでもなく、成り行きを見守る流護当人でもなく、アンドリアン学長が眼を細めて応じる。
「ふぉっふぉっ。よもや、勝負でも挑みに来たと? だとすれば流石に、お主の調子は乗り心地が良すぎんかのう」
「おぉっと。そりゃぁ勿論、術を使われれば勝てんさ。高尚な詠術士サマじゃねぇんでなぁ、俺は。しかし何やら、つまらん噂話が俺様の耳にまで届いてきやがった――」
曰く。
遊撃兵なら、デルダムなど相手にもならない。
彼の一撃なら、デルダムのどてっ腹に風穴を空けられる。
術を一切使わずとも楽勝だ。
昨今はどこの酒場も、そのような話で持ち切りだという。
「怒ってる訳じゃねぇのさ。むしろ純粋な興味だ。本当にそんな真似が出来るってんなら、是非ともやってみてもらいてぇなと思ってよぉ。だってそうだろぉ? 少なくとも俺ぁ、現に無術で敵なしの王者として君臨してんだ。実際に闘ってもいねぇ相手とよぉ、そんな風に比較される云われはねぇ」
「確かに」
流護が思わず納得すると、彩花とシスティアナがぎょっとしたような目を向けてきた。
「ちょ、流護!?」
「えぇっ、納得しちゃうわけ!?」
「いやまあ、一理あるなって……」
そんなやり取りもあってか、周囲の生徒たちの目がこちらへ向けられた。
アンドリアン学長も流護がやってきていたことに気付いたようで、そうなると場の全員の視線を一身に集めることになる。……デルダムたちも含めて。
こうなれば仕方ない。今度こそ、流護は彼らに向かって踏み出した。後ろから「やめてやめて」と震え声で囁いている彩花を無視して。
「あ、どうも。その遊撃兵っす」
歩み寄りつつ流護が明るく挨拶すると、デルダムたちは互いに顔を見合わせた。すぐさま近くにいた一人の禿頭の男が、行く手を阻むように立ち塞がってくる。
「おいおいおい、まさかこんなガキがか? しかもドチビじゃねぇーか。詠術士としちゃどうだか知らんが、こんな奴が力だけでボスに勝てるだと〜?」
顔を近づけて上から凄んでくる。流護はただ苦笑を返した。
「いや、俺が自分で言った訳じゃないっすけどね……」
格闘技のフェイスオフさながら、額がくっつくほどの至近距離で見合うこと数秒。
「やめとけぇ、阿呆」
男の背後から大きな手を差し込んできたデルダムが、そのまま腕を横へと薙ぎ払う。「ぴゃっ」と鳴いた部下の男は、軽々と吹き飛んで地面を転がった。
入れ替わる形で、デルダムが流護の前に立つ。そびえる、と表現したほうが的確かもしれない。
(おー、マジででけぇ。下手するとエンロカクよりタッパありそうだな)
たった今の部下の男でも二メートル弱はあった。そんな彼と比較しても、もはや別種族の生物に見えるほどの巨大さ。見上げる首が疲れそうだ。
「歳もカラダの大きさも関係ねぇ。聞いた話が本当なら、『白夜の騎士』サマと一緒んなって『封魔』をやったんだろぉ? まともにやりゃ、俺らが束になっても敵う相手じゃねぇんだろうよ。――だが、拳闘なら別だ」
語気を強めたデルダムが、後ろの部下たちに意識を向けながらパチンとその太い指を鳴らす。そして何かを待つみたいに手のひらを広げた。
「へぇ、ボス!」
それだけで分かる合図だったらしく、部下の一人が手荷物から取り出した上着らしきものを放り投げてくる。それを雑にキャッチしたデルダムは、当たり前のごとく流護へ向かって差し出してきた。
「分かんだろぉ、拳闘衣だ。こいつを着て、一丁俺と力比べしようや。出来るんならな」
一応、この国の拳闘について話程度には聞いている。
術を使わず己が拳のみで殴り合う競技だが、例えば相手が実は詠術士でこっそりと身体強化などを使っていない保証はない。
そういった不正を防ぐための拳闘衣。
グリムクロウズでは、罪人の拘束に特殊な囚人服が用いられる。着用したなら一切の神詠術が行使できなくなるそれを、拳闘のための装束として転用しているのだ。
差し出されるまま受け取った流護は、その材質を確認してみる。
「へー」
改めてみても、普通の衣服との違いは分からない。「んじゃ失礼して」と今着ている服の上からトレーナー風のそれに袖と首を通した。
「……お。悪くないじゃんこれ」
シックな無地の灰色で、着心地も取り立てて快適ではないが文句もない。ちょっとぶかぶかだが、普段使いもできそうだ。……デルダムが着ているド派手ピンクとお揃いでなくて心底ホッとした。
全体的にサイズがちょっと大きめだが、それでも肩や腕回りはやや窮屈か。とにかくこれで神詠術を扱うことは不可能となるはずだ。
「ち、躊躇なく着たぞ……」
成り行きを見守る生徒の誰かが声を震わせた。
それももっともな話。詠術士からすれば、この服を纏うことは丸腰になると同義。武器を取り上げられるにも等しく、脅威から身を守ることが難しくなる。それこそ、罪人がその身を縛られることと同じ意味を持つはず。
デルダムが遥か高みから哄笑を轟かせた。
「ブヘヘヘ……迷わず着た度胸は褒めてやる。だが、俺ぁそれで手加減はしねぇぞ」
ゴキゴキとこれ見よがしに拳を鳴らす拳闘王者へ、流護はスッと右手を差し出した。にこやかに。
誰が見ても握手と分かるその挙動に対し、
「お手柔らかに、ってか? ブヘヘヘ。悪かねぇ気分だぜ、下手に出られるってのぁよ。やっぱり、ちったぁ手加減してやろうかぁ――」
ニタリとしたデルダムが流護の手を取る。
直後。
ずどん、と地鳴りめいた振動が響き渡った。
「え……?」
「な、なんだ……?」
人垣から聞こえる困惑、ざわめき。
無理もあるまい。
握手を交わした両者。そのうちの片方――デルダムが、唐突に片膝をついたのだ。
それでようやく、普通に立っている流護と目線の高さが揃う。
いきなり跪いた拳闘王者。その愕然とした表情――血走った瞳を至近で見つめながら、少年は静かに言葉をかけた。
「光栄だ、王者」
びくり、とデルダムが巨体を震わせる。周囲の皆には分からない程度に。
「さすが、身体だけじゃなくて器もデカいっすね。わざわざ俺みたいなチビと目線合わせてくれて」
そのまま数秒。
握っていた手はどちらともなく離れ、やがてゆっくりとデルダムが立ち上がる。
肩で呼吸を整えた彼は、意を決したように踵を返した。
「………………帰ぇるぞ」
「え? ボス?」
「な、えぇ? 帰る!? 何でですかい!?」
手下たちにはまるで答えを返さず、巨人はのしのしと去っていく。
「あっ、この服」
「……くれてやるよ」
流護が拳闘衣を脱ぐ暇もなく、デルダムは背を向けて歩いていった。戸惑う手下たちに囲まれながら。
「か、帰った……?」
「何だったんだ?」
困惑しているのは野次馬の生徒たちも同じらしい。
「ち、ちょっとちょっと! 信じられないわ、あの乱暴者のデルダムが大人しく帰るだなんて……。アリウミ遊撃兵、何かしたわけ……!?」
駆け寄ってきたシスティアナに対し、流護はただ苦笑を返す。
「いやあ、見ての通り握手しただけだけど……」
そんな会話を目の当たりにして、『何か』を期待していたらしき生徒たちもややガッカリした様子で砦へと戻っていく。
「なぁんだ、やらないのか……」
「本当にただ会いに来ただけだったのか? あのデルダムが」
「急にやる気なくしたみたいにも見えたけど……」
引き返す生徒の波に逆行し、こちらへとやってくる老父が一人。
「ふぉっふぉっふぉっ! さすがですのぅ、遊撃兵殿! もっとも訓練用の木偶を簡単に壊してしまう貴方の膂力を思えば、当然の結果ですがな!」
相変わらずテンション高く中腰で小指を立ててくるアンドリアン学長へは、同じジェスチャーを返しておく。もうこの人の反応にも慣れっこだ。そしてさすがは至大詠術士、『何が起きたか』概ね把握しているらしい。
「ふぉっふぉっふぉ! ふぉっふぉ……おごっ!?」
「え? 何? どしたんすか?」
「こ、腰が……い、いや大丈夫。大丈夫ですぞ……」
変な中腰になるからではないだろうか。バグったゲームの挙動を見ているかのようだ。その不自然な姿勢のまますり足で退場していくアンドリアン学長を見送りつつ。
「んじゃ戻るべ」
「ちょっと流護、流護っ。本当になんだったの? 大丈夫だったの!?」
相変わらず心配性で矢継ぎ早な彩花にも、少年はただ苦笑を返すのだ。
「いやほら。俺がやる気ないって分かったから帰ったんじゃね?」
そう、やる気などありはしない。
この国の拳闘で最強。そんな限定的な称号に、有海流護は興味などないのだから。
ふらつく足取りは行方が定まらない。デルダムは、自分でもどこへ向かっているのか分からなかった。
「ボス、どうしたってんですかいボス!」
部下の声が耳から耳へ抜けていくのを感じながら、巨人は視線を落とす。遊撃兵の手を取った、自らの右手へと。
「………………」
相手が子供だろうと、舐めた真似は許さない。分からせる。これまでもそうしてのし上がってきた。
手を取りざま、引っ張った勢いで小突いてやるつもりだった。
だが。
(……この、俺が……)
びくともしなかった。まるで、岩塊。あるいは、太い根を張り巡らせた大樹。
力を入れて引っ張った瞬間、自分のほうがつんのめった。その反動で膝をついた。
身体強化、と呼ばれる神詠術があるという。
だが拳闘衣に袖を通していた以上、そんなものは使えない。使えたとして、あんな重さはどうかしている。絶対動くはずもない城壁に対して力をぶつけ、当たり前に跳ね返されたみたいだった。
(い、や……そういう問題、じゃねぇ……)
――何より、あの瞳。
自分が片膝をついて、ようやく目の高さが合う程度の小僧。
そのかち合った黒い眼は、デルダムを見ているようで見ていなかった。
同じ景色、等しい地平など映していない。まるで別の、及びもつかない何かを見据えているかのような。
(拳闘で……腕力で、俺の右に出る人間なんて、いやしねぇ……)
純粋な力比べであれば、どこの誰が相手でも負けるつもりはない。
この神詠術こそが全ての世界においては決して勝ち組ではないだろうが、それでも一定の名声と地位を得た自負がある。少なくともこの分野では、己こそが一番。
それなのに――
「どうしたってんだよボス! 顔色悪いですぜ! あっ、もしかしてあの小僧、手ぇ握った瞬間に何かしやがったのか!? 卑怯な奴だ、やっちまいましょうや!」
「何ぃ!? 戻ろうぜ!」
気色ばむ部下たちに対し、
「やめろぉ!」
デルダムは即座に怒声を発した。
場がシンと静まり返る。
「やめとけ」
念を押すように、もう一度。
そして、歩みを再開する。もちろん、砦から遠ざかる方向へと。
(……あれは……)
純粋な力で、自分に敵う人間などいない。なら。
(あれは……、人間じゃ、ねぇ……)
拮抗するとか、明らかに力むとか……そんな域にすら至らなかった。びくともしなかった。涼しげな顔で。
少なくとも、デルダムの知る『人間』の括りから逸脱している。
勝てない。
得意なはずの腕力でも、絶対に。
部下の戸惑いも、怪訝そうな様子も気にならなかった。
今はただ、一刻も早くこの場から遠ざかりたかった。
半月の後。
急に拳闘試合へ出場しなくなったデルダムは、そのまま引退を表明した。
あれほど不遜で自信に満ちていた面構えはどこか常に怯えた様相となり、背を丸めがちになった巨体は実際より縮んで見えた。
「俺が一番じゃねぇなら、やる意味がねぇ」
退く理由を問われた無敗の王者は、一貫してそう呟くのみだった。