660. 往くべき道
昼下がりの平和な浜辺に、怨魔が多数出現。
死者こそ出なかったものの、かつてない事態に場は混沌とした。
すぐさま兵士たちによって水場は閉鎖され、海にやってきた学生たちもダルクウォートン砦へ帰還する運びとなった。
生真面目なベルグレッテやシスティアナは怨魔が現れた原因を推測すべくあれこれと議論を交わしていたが、そんなものは兵士たちが調査すればいずれ分かることだろう。
「あれ? エドヴィン、馬車乗らんのか?」
「あー。せっかく出て来たしよ、街でもブラつきながら帰ることにすんぜ」
昇降口に片足をかけて振り返ってきた流護に応じつつ、悪童は続く歩道の先へと足を向けた。
「そか。ならまあ、『一応気を付けろよ』」
「わーってるよ」
単に「出歩くなら気をつけろ」といった類のお決まりの挨拶ではない。
エドヴィンも、オルケスターとの戦いを経験した人間だ。
この西端の国のどこかに連中が潜んでいないとも言い切れない。それゆえの注意喚起。少しは認めてくれているのだ。戦友として。
(ヘッ)
確かな手応えを噛み締めながら、歩み始める。
遠方に海原を望む街の景観は、レインディールでは見られないものだ。
やや冷たい潮風に目を細めながら行くと、同じく海の方を眺めて立ち話に興じる住民たちの会話が耳に届いてくる。
「怨魔が出たんだって?」
「物騒ねぇ……。この海岸に出るなんて、このところそんな話なかったのに……」
思えば、海は異質な環境だ。
棲息する怨魔の制御も、陸より難しいだろう。
(……こーゆーことも知っとかねーとな。ベンキョーになるぜ)
街並みに関しても同じこと。
(こーゆー場所もある、って知っとかねーとよ……)
レインディールとは違う西国の風景を眺めながら、白い塀の角を曲がる。
すると前方から、黒いローブに身を包んだ三人の少年たちがやってくるところだった。
このところすっかり見慣れた、リズインティ学院の生徒である。
しかし、今現在ミディール学院と交流している三年生ではないようだ。風貌に見覚えがないし、胸元にあしらっている円章の色が違う。
……以前のエドヴィンであれば、避ける素振りもなく堂々とまっすぐ突き進んだだろう。そして肩でも当たって諍いになれば、喜々として相手を殴っただろう。
(ハハ。我ながら、小っさくてくっだらねーな)
自然と進路を変えて端に寄りつつ、『狂犬』は自嘲する。
楽しげに談笑して歩く黒ローブの少年たちは同年代。そのうち一人は、いかにも大人しげで背が低く、前髪を短く切り揃えた髪型。見るからに神詠術理論などが好きそうな、ガリ勉小僧といった風貌だ。
(ハッ、『アイツ』を思い出すな――)
その少年と、すれ違いざまに視線が交錯する。
「――――」
「――――」
そして、ピタリと足を止めた。双方ともが。
そして、気弱そうな少年が口を開く。
「………………エド、ヴィン……?」
信じられないものを見る眼差しの彼に、名を呼ばれて。
エドヴィンもまた、呼び返した。
「…………お前……、ミルキア、かよ」
呆然と、見つめ合う。
「どうした、ミルキア。知り合いか?」
「……な、なんか怖そうな人だけど……」
彼と一緒にいる二人が、不思議そうな目を向けてくる。
少年――ミルキアは、その連れ合いへ慌てたように微笑んだ。
「ご、ごめん二人とも! ちょっと、先に行っててくれないかな」
「あ、ああ。構わないけど」
二人を送り出し、小柄な少年ことミルキアが改めてこちらへと身体を向けた。勢いのいい動作に、黒ローブの裾が翻る。
「…………まさか、こんなところで会うなんて……。久しぶりだね、エドヴィン」
「……そりゃぁ、こっちの台詞だ。まさか……お前と、こんなとこで会うとはよ……」
「その恰好……、ミディール学院の制服、だね」
「……まァな」
『アイツ』を思い出す、ではない。
そこにいたのは、紛れもない『アイツ』本人だった。
「……立っていても何だし、場所を変えようか」
「……オウ」
子供の頃から親しかった少年がいた。
彼はエドヴィンとは正反対で、大人しく内向的。頭がよく運動は苦手、神詠術関連の本が好きで、いつも持ち歩いているような少年だった。幼少時代は気弱な性格から近所の悪ガキにいじめられやすく、よく助けてやったものだ。
『運動なんてできなくてもいいんだよ。僕たち人間には、神詠術があるんだから』
それが口癖。
全てにおいてエドヴィンとは対照的だったが、不思議と気が合った。むしろ、互いにない部分を補完し合えるような関係だった。
十四歳となって神詠術に関する知識も相応に身に着けた彼は、念願だったミディール学院の入学試験を受けることとなる。
『オウ、頑張れよ』
まるきり他人事でいたエドヴィンだったが、母に「せっかくだし、あんたも受けてみなさいよ」などと言われ、気が進まないまでも一応は受験してみる運びとなった。受かるはずもないだろうが、仮に入学できれば、そこでまた互いにつるんで退屈を凌げると思ったのだ。
しかしその結果――エドヴィンだけが受かり、彼は不合格となった。
少年に、抜かりはなかった。筆記も、実技も。ただ魂心力だけが、規定量をわずか下回った。
エドヴィンはその対極。筆記や実技は到底褒められたものではなかったが、魂心力だけが規定の値を大きく上回っていた。
『エドヴィン、よかったね。おめでとう』
とても祝いの言葉を口にしているとは思えないほど、彼の顔はありとあらゆる感情を堪えていた。
しかし彼は、決して羨望や嫉妬の言葉を口には出さなかった。
そしてエドヴィンが入学してしばらく経った頃、彼は一家でどこか遠い街へと引っ越していった。
彼……ミルキア・サーレントこそ、エドヴィンがミディール学院の門戸を潜る切っ掛けとなった人物だった。
「……リズインティ学院に……入学してたんだな」
街角、道行く人で賑わう歩道の片隅にて。
まだ少し肌寒い潮風が抜ける、海沿いの街並み。そんな異国の風景に目を細めたエドヴィンが言うと、隣のミルキアが静かに……しかしはっきりと首を縦に振った。
「……うん。やっぱり、どうしても詠術士になる夢を諦め切れなかったんだ」
であれば、不思議はない。
リズインティ学院はミディール学院と違い、魂心力の総量だけで篩にかけられることはない。定められた試験に受かれば、生徒になれる。
「今年、二年生になったんだ」
「……そーか」
つまりあの翌年、国境を越えてリズインティの門を潜ったのだ。一度の挫折でへこたれることなく。
そんなミルキアは、淡く微笑んでエドヴィンを見上げてくる。
「ええと……『修学旅行』、だっけ。もしかしたら、とは思ったんだ。ミディール学院の三年生が来る、って話だったから。もしエドヴィンが今も在学中なら……ってね」
「もし、って何だよ。とっくに辞めたと思ってたか?」
「いやあ。だって君だし……」
「ヘッ。ま、違いねーがよ。俺自身、入学当初はサッサと辞めるだろーなと思ってたぜ」
あまりにも自分とは毛色の違う者たちの集まり。卒業まで四年もやっていける気なんてしなかったし、そもそも親の勧めで受けただけだ。ミルキアが落ちてしまった以上、残る理由もないはずだった。
「でも、退学せずにいたんだね。ってことは、楽しんでるんだ?」
「……そーだな」
その問いかけを否定する要素はない。
「そっか。いい友達ができたんだね」
「あァ? 何でそー思うよ」
なぜ楽しめているかまでは言及していないというのに、ミルキアはしたり顔でそんなことを言ってくる。
「だって、エドヴィンが学院の講義内容にやりがいを感じてる訳はないし……。そうなると、気の合う仲間ができたからって理由ぐらいしか考えられないじゃないか」
「ケッ。相変わらず小賢しい頭が回る奴だぜ」
鼻で笑いつつ、しかし否定はしない。
(……あァ。楽しいんだよ、俺は)
いつか流護が言っていた。
気付けば、学院の皆がかけがえのない存在になっていたと。
(分かるぜ。あいつらといるのが、心地いいんだよ。……だからこそ、俺は……)
「……ところでさ、エドヴィン」
つい今ほどまでからかうように見上げてきていたミルキアが、うつむきがちに声を小さくした。
「僕、ずっと気にしてたんだ。エドヴィンがミディール学院の学生棟に入ってる間に、何も言わないでこっちに来ちゃったから。……もちろん、受かった君に対する嫉妬心もあったんだ。顔を合わせづらく感じちゃって……ごめんよ」
「ヘッ、気にすんな。あんだけ勉強してたのに落ちちまうんだ、恨み言の一つだって言いたくなるだろーよ、お前も」
言いつつ、少しだけ気分が晴れやかになった。
ミルキアとは、決別したまま終わると思っていたから。
再び会うことができ、こうして思いを語ってくれたことは素直に嬉しい。
そんな数年ぶりの昔なじみは、弱気な彼らしからぬ強い瞳で言葉を連ねる。
「……僕は……とにかく、いても立ってもいられなかったんだ。もっと、自分を追い込んで……真剣に詠術士を目指さなきゃダメだと思ったんだ。それで、すぐにこっちに来たんだ」
「真剣にって……お前ほど真剣に打ち込んでた奴も、そーいねーと思うがよ」
しかしミルキアは、ゆるりと首を横へ振った。
「ううん。実を言うと……ミディール学院の試験を受ける前の時点で、不安はあったんだよ。僕には、魂心力の総量が足りてないんじゃないかって」
神詠術について、独学で知識を身につけていた。それゆえ、薄々その事実に気付いていた。
「でも、甘えちゃったんだ。実際は、受けてみないと分からない。合格するかもしれないから、って。欲をかいちゃったんだよね。最初からしっかり自分の力量を客観視してこっちに来てれば、無駄な遠回りをしなくても済んだ。結局、こうして一年分遅れることになっちゃった。自業自得だし……君に嫉妬するなんて、筋違いもいいところさ」
少年は自嘲気味に微笑んだ。
「でも今は、前向きに頑張ってるよ。そういう失敗も経験のひとつだって捉えてね」
「……そーか」
そう考えられるようになるまで、きっと彼なりの苦悩もあっただろう。
「僕は、きっと立派な詠術士になってみせるよ。それが、一緒に来てくれたお父さんたちへの恩返しにもなると思うし」
「オウ。あの親父さんたちっていやぁ、昔っからお前を応援してたもんなァ」
幼少時から、神詠術かぶれのミルキアを全面的に支持し見守っていた。何せ、ついには国を出て息子をリズインティ学院へ編入させるため、家族総出でやってくるほどだ。そうできることではない。
受かるかもしれないから受けてみろ、などと言ういい加減な自分の母親とは大違いだ、と悪童は胸中で苦笑する。
「うん! 絶対、お父さんたちの期待に応えるよ……! ……そういえばさ、エドヴィンは……ミディール学院を卒業した後、どうするの?」
そんな問いとともに、無垢な瞳が見上げてくる。
「……。そーだな……」
「まだ考えてない?」
「イヤ」
眩しい蒼穹の空を仰ぎ、悪童は口にする。
「――もう、これからやることは決めてんだ」
「えっ、そうなんだ! どうするの?」
「ヘッ。そいつぁ、いずれお前の耳にも入るかもしれねーからな。そん時までのお楽しみよ」
「えーっ、どういうこと? 教えてよ!」
夢、とはまた違う。
しかし今、エドヴィン・ガウルには目標と呼べるものがあった。
『――――俺は、この世界で最強の人間になる』
一片の曇りなき眼差しで、そう宣告した少年がいた。
いかに傍若無人で好戦的なエドヴィンといえど、迷いもなくそのような宣言を放つことはできない。あれは、彼だけが口にできる決意だ。
(……奴とは違うかもしれねーが)
自分なりに、やりたいと思えることが見つかった。もっとも、彼に比べればあまりに小さい。
だが、根源は一緒だとエドヴィンは考えている。
『やっぱりエドヴィンさんは、いい人です』
『娘を助けていただいて、本当に感謝しています』
世には、守られるべき力なき人々がいる。
『ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードの方も。殺しちまって、構いやせんよね』
そして、平然と人を手にかけようとする悪党が存在する。
『じゃあな、お前ら。達者でな!』
『それじゃみんな、元気でね! また会いましょ!』
けれど、肩を並べてともに戦える……一期一会であっても、仲間と呼べる者たちも。
(――俺も、よ)
静かに、拳を握る。
ようやく定まったのだ。
フラフラしてどうしようもなかった『狂犬』の、まっすぐと往くべき道が。