66. 超人
振り回される二本の絶大な牙は、少しずつ流護の体表を灼いていく。
頭をかすめた炎が、髪を焦がす。
腕をかすめた紅蓮が、肌を炙る。
「……は……、はぁっ」
流護は後ろに下がりながら炎の柱を躱し続ける。間合いを離そうと下がるたび、ディノはピタリと追いすがる。入り込むにしても速い。動かない右腕がネックだ。
この間合いから反撃できる手段は、あるにはある。しかし、『残弾』が少ない。外すことはできない。
「――ラァッ!」
この期に及んで驚嘆すべきは、ディノの集中力。
一方的な攻撃を振るえる立場にあり、実際に圧倒的な力を行使していながら、その表情には油断というものがない。
(天才キャラってのは、隙見せてあっさりヤラレるのが相場だろうがよ……、それにしてもコイツ)
二本の極大な牙を振り回す『ペンタ』。
素人のはずのディノのスピードは、衰えることを知らない。変わらず、獣のような速度で襲いかかってくる。流護ですら息を切らし始めているにもかかわらず、だ。
体力ばかりは、才能でどうこうなるものではない。となると――
「!」
炎の柱を避け続けていた流護は、不意に踏みしめる大地の感触が変わったことに気付く。
わずか視線を下に向ければ、土。足場が――小さな石の転がる荒地ではなく、柔らかい土の覆う地面へと変化していた。
(……こいつ……、)
流護は内心で舌を巻いた。
徹底している。
炎の柱を振り回し、ディノは流護を誘導していたのだ。
ここは、周囲に石が転がっていない。咄嗟に石を拾い、武器とすることができない。さらには柔らかい大地であるため、踏み込みに適さない。わずかではあるが、流護の速度が落ちることとなる。
圧倒的な力で強引にねじ伏せるだけではなく、敵の反撃の手段を確実に刈り取ってゆくというその戦術。
油断はない。体力切れも期待できない。
(こっちにも……それなりの無茶は必要ってか……!)
少年は覚悟を決めて集中する。振るわれる乱撃を躱し、読み、次に来る一撃へ合わせるべく息を整えた。
敵が振るった左の牙をスウェーで躱す。と同時、流護は右脚を振り上げた。
「ッ!?」
返す刀で右の炎柱を薙ごうとしていたディノ、その右腕が大きく弾かれた。
超越者は驚愕に紅眼を見開き、己の腕を叩いたモノの正体を見る。
それは、靴。流護の蹴り飛ばした靴――その爪先が、ディノの右肘へとめり込んでいた。
「っぐぁッ……!」
そのまま右腕が弾き上げられる。
一瞬すぎる隙を逃さず、流護は一気に拳の間合いへと踏み込んでいく。
――ただ迅く。
しかしディノの紅玉の瞳は、ギュルンと動き流護を捉える。
――もっと迅く。
身を屈めて、滑り込むように相手の右脇へ。完全な死角、斜め下から顔面を狙い打つ。
そこでぐるんと首を回したディノの双眸が、またも流護の姿を捉えた。
(反、応、しやがっ――!)
驚愕しながらも流護は狙いを変える。気付かれた以上、顔面への一撃はおそらく躱される――
踏み込むと同時、無理矢理に軌道を変えた流護の左ボディブローが、ディノの脇腹へとめり込んだ。ばきん、と確かな手応えが拳を伝う。
「ッ……、うぶ、が、はぁッ!」
超越者の口から吐き出される呻き。
と、同時。
悶えながらも振るわれたディノの左手。赤熱した薙ぎ払う左手刀が、ギリギリで身を屈めた流護の頭をかすめていった。
「っぐぁ……!」
「がぶっ……、ッ!」
両者が同時によろけ、自然と間合いが離れる。
一拍遅れて。ボッ、と――まるで名刀によって斬りつけられたかのごとく、流護の右側頭部から鮮血が舞った。
「リューゴくんっ……!」
どこにいるのだろう。ひどく遠くから聞こえるミアの悲痛な叫びが、少年の脳内へと虚ろに響く。
「……、っ」
流護はたまらず片膝をついた。
顔を上げれば、まるで示し合わせたみたいに――右腕をだらりと投げ出し、苦しげに脇腹を押さえながら片膝をつくディノの姿。
「……何だオメーの拳は。怨魔につっつかれてもヒビで済んでたってのによ……、ペッ」
鮮血の混じった唾を吐き、忌々しくも楽しそうに舌打つ。
「お前が何だよ……炎属性じゃねえのか、さっきからスパスパと斬れやがって」
流護は半袖で無理矢理に頭の血を拭う。びちゃりと袖が重みを増す。予想以上の出血だ。早々に決着をつけなければならない。
赤黒いぬめりを拭いながら、ディノへ問いかけた。
「はー……、『身体強化』だっけ。お前、そういう神詠術使ってるよな?」
流護は少し耳にした程度だったが、神詠術には、各々が得意とする『操術系統』というものがあると聞いている。
その中で、身体強化と呼ばれる技術。
短い距離を素早く駆け抜けるために脚力を。強烈な一撃を見舞うために腕力を。
術者の技量によって左右されるが、時間にして数十秒ほど。短い時間ではあるが、超人めいた身体能力を発揮できる技術だと聞いている。
熟達すれば内臓器官にすら施せるという。
あまり実感はなかったが、暗殺者の件で対峙したシヴィームなどもそういった使い手だったらしい。
ディノは、身体強化を『常に』その身へと施している。そう流護は推測した。
いや、推測などと大げさにいうほどのことでもない。地球人に比べて身体能力に乏しいはずの、グリムクロウズの人間。
しかしディノはその細い身体でミアを担ぎながら悠々と走っていたし、格闘戦において流護と渡り合うほどの動きを見せている。
それどころか、攻撃を見てから躱すというありえない芸当をも披露しているのだ。
攻撃が放たれる瞬間を読み、そこで眼力をさらに強化して視認し、次に身体を最大限に強化させて躱す――あるいは受ける。おそらく一瞬の間に、そういう過程を踏んでいる。
そして、息切れをせずに攻め立てるその体力。速さに特化した手打ち気味の打撃とはいえ、流護の拳や蹴りを受けてなお倒れない耐久力。
詠唱せずとも乱発できる、極めて強力な神詠術。無尽蔵に等しいような魂心力。
デタラメに過ぎる性能だ。
本来であれば効果時間の短い身体強化を、常に使えたとしてもおかしくはない。
圧倒的な炎の神詠術によって薙ぎ払うだけではなく、有り余る魂心力を自身の強化へと回し、流護に匹敵する運動性能を獲得している。
だが――
「けど……意外だな。身体強化って、結構ムズいっていうか……地味で面倒だって聞いたぜ。やっぱ天才君ってのは生まれつきで使えるのか? それとも実は努力家なのか」
例えば、ベルグレッテやミアは身体強化を使えないのだという。
身体強化の他に術の威力を底上げする技術もあるそうだが、そちらは大半の者が習得している。基本的には、強力な術が飛び交う詠術士の戦闘なのだ。身体強化よりも、術の強化を優先するのは当然といえる。
ミアはともかくとして、ベルグレッテは身体強化特有の癖のある術式が苦手で使えないとのことだった。妹のクレアリアは努力の末に習得したそうで、二人で闘う場合はクレアリアがベルグレッテに身体強化を施すこともあるという。彼女のことだ、姉を補佐するために覚えたのかもしれない。
リリアーヌ姫が「二人は一緒になるとすごく強い」と絶賛していたが、そうやって互いの欠点を補い合い、その力を増しているのだろう。
そして、
「……ヘッ、必要だから覚えただけだ。……例えば炎ってのは、建物ん中だとか狭い空間じゃイマイチ使いづれぇ。一旦制御が離れちまえば、自分が焼かれるコトにもなりかねねェ。直接この手でブッ潰した方が早ぇコトもある」
どこか、秘密を告白するかのような――バツの悪さを感じさせる口調。陰で努力していたことを知られるのが恥ずかしいとでもいうのか。
ともかく一人で闘うこの男は、常に完璧でなければならなかったのだろう。
ようやく理解した。
一見にして軽い雰囲気のこの男は、同じ。あの侍のような桐畑良造と同じ。
天才でいて、修練を欠かさないタイプ。
生まれ持った才能のまま、強大な力を振り撒く。
見た目や性格、話に聞いていた『ペンタ』の特徴から、そんな相手だと思っていた。
しかし、違う。この男は対極だ。
当然ながら流護には分からない感覚だが、神詠術を使うにあたって、重要となるのは集中力なのだという。
ベルグレッテもかつて、『神詠術を発動するために集中して魂心力を練ること』を詠唱と呼ぶと言っていた。
集中して練り込み、集中して発動する。それが神詠術。
『ペンタ』は生まれつき強大な力を振るうことができ、術を行使する際にも詠唱を必要としないそうだが、ディノは今、身体強化について「必要だから覚えた」と言った。
つまり身体強化に関していえば、生まれつきの能力ではない。その、覚えた技能を常に発動し続けるという行為。確かに魂心力は無尽蔵に等しいかもしれないが、どれほどの集中力が必要となるのか。そんな技巧を現実のものにするために、どれほどの修練を重ねたのか。
流護がこの世界ではありえない膂力を持つがゆえに超人であるのなら、ディノはこの世界の象徴的な力たる神詠術を存分に駆使し、超人の域にまで登り詰めた怪才だ。
こんな相手――強いに、決まっている。
――膝が痛い。立ち上がるのもしんどい。
流護はふぅ、と息をつく。
まるでそれが合図だったみたいに、二人が立ち上がった。
約七メートルほどを隔て、双方睨み合う。
流護は、静かに告げる。
「ディノさんよ……お前さん、まじ強かったよ」
「……強『かった』、だァ……?」
「この勝負、はっきり言っちまえばお前の勝ちだ。このケンカが始まってすぐ、お前がブッ放したレーザー砲……あれで俺がボケッとしちまったとき、殺ろうと思えば俺を殺れたんだ」
戦闘開始と同時、ディノへ向かって一瞬で踏み込み、拳を繰り出そうとした流護。
反応したディノは炎を顕現することで流護を弾き飛ばし、岩山をも崩壊させるような火線を放った。その威力を見て呆然とした流護を、わざと見逃した。
「ったくよ、まじヘコむっての……」
負けも負け。開始数秒での完全敗北、秒殺だ。桐畑良造に負けたときよりもひどい。
ディノはペッと、赤の混じった唾を吐き出した。
「で……何が言いてぇんだ、オメーは」
「お前は強かった。本当なら俺の負けだ。でも今は、ミアを連れ戻すためにお前をボコボコにする。これからお前は負けるけど、それはノーカンにしといてくれ」
瞬間。ディノが炎を顕現し、爆発的な烈風が衝撃波のように広がった。蛇のようにうねった炎が、周囲を舐める。
流護は油断なくバックステップで下がり、息を止め、片手をかざして余波をやり過ごした。
「……へぇ、参ったねェどうも。オレはこれから負けるのか? 人生で初めて敗北するってのか?」
ディノはクク、と喉の奥で笑う。
「悪かねえぜ、一回ぐれえ負けてみるのも。見えてくるもんがあるぞ」
応えるように、流護もニッと笑う。
ディノは流護に向かって、無言で右手のひらを突きつけた。直後、天を焦がすような炎の壁が噴き上がる。高さ十マイレにも達するだろう、炎の壁。
流護はそれが発現する直前、『前に』跳んで躱していた。熱気を背に受けながら、爆炎が生み出した烈風を追い風にしながら、ディノへと接近する。
(速……!)
間合いを離そうとするディノだったが、脇腹が激痛を発した。それに縫いつけられるように足が止まる。
考えられない速度で距離が詰まる。と同時、流護はその剛脚で地面を蹴りつけた。
「――――ッ!」
土の散弾がディノへと殺到する。
瞬時に炎の渦を発現し、土くれを吹き散らすが、
「……!?」
消えた。ディノの視界から、有海流護が完全に消失していた。
石のない土の大地へ誘導したと思ったら、今度は土による目くらましだ。
――来る。今この瞬間にも、一撃が来る。
見失い、死角から放たれる一手。防御も回避も不可能。
だが、予測はできる。この敵は神詠術を使わない。必ずその肉体で、直に攻撃を仕掛ける必要がある。この場に、飛び道具として使えるようなものは転がっていない。
ならば――
ディノは咄嗟に腕を上げ、顔の防御だけを固めた。そのうえで、身体強化へ注ぐ魂心力の割合を高め、全神経を集中する。
瞬間、ディノの左脇腹に衝撃が突き刺さった。
「……、……ぶ、は――」
強化してなお重苦しいまでの一撃が、ディノの細身を穿つ。――計算通りに。
一撃を受けると同時、『ペンタ』は力を解放した。
ディノを中心に、紅蓮の爆炎が広がる。全てを焼き尽くす赫焉たる炎が。
――超接近戦、死角から繰り出される一撃に、ディノは反応できない。そのうえ、これまで散々に術を躱してきた相手だ。どうすればこちらの攻撃が当たるのか。しかし相手も、接近しなければ攻撃ができない。
ではこれらを考慮したうえで、確実に一撃を当てられる瞬間とはどこか。
攻撃を受けた瞬間に力を解放し、相手を焼き尽くす。
相打ち狙い、まさに古来でいうところの『肉を切らせて骨を断つ』。
ディノの脇腹へとめり込んでいた何かが、瞬時に蒸発した。それは黒い少年の腕か足か。どちらにせよ、至近距離で今の一撃を受ければ――
爆炎が、役目を終えたように消失する。
(――……、!?)
横合いから、大地を踏みしめる音が耳朶を叩く。咄嗟にディノは顔を向け――そして、見た。
今まさに自分へ向かって踏み込もうとしている、有海流護の姿を。
(なッ……、じゃあ、今の一撃は――)
そこで気付いた。大地を踏みしめる流護の両足。その片方――左足からも、靴が失われていることに。
(クッソヤロウ、また靴なんぞ――)
石投げに、土かけに、靴飛ばしに。ガキのケンカか。
ディノが笑う。流護が応えて笑う。
(くっだらねェ、来いよ、避けてや――、)
何かに止められるように。脇腹が、激痛を発した。
次の瞬間。
地面と水平に突き出された流護の右脚が、ディノの身体をくの字に折り曲げる。
続く左の中段突きが、超越者の顔面へと着弾した。
――身体が思い通りに動かないという、生まれて初めて味わう感覚。
打ち抜かれた拳によって視界が強制的に跳ね上がり、両の瞳が夜空に浮かぶイシュ・マーニを映し出す。
――神はいつだって気楽なモンだ。呑気に観戦か? オメーらはいつだってそうだ。
膝が意思に反して揺れる。力が抜ける。
地面が近づく。
コレが、敗――……
「それにしても、『ミージリント筋力減衰症』かぁ」
安心しろ、オレに考えがあるからよ。
「ヴァレイが死んだ事件は、『ラインカダルの惨劇』なんて呼ばれてる」
ああ、分かってる。
「それでも私は……一人の父親として……! アルディア王を、許せないんだ……!」
分かってるよ。だからオレは、
「あ……ほんと? じゃあ、『フェテス』のベリータルトがいいな」
そんなモンでいいのか? 相変わらずだなオメーは。
「もう、……いやだ……。もうこのまま死んで、なくなっちゃいたい。もう何も分からない、真っ暗な中に……沈んでしまいたい。もう、誰にも迷惑なんてかけたくない……!」
またか。まだそんなコト言ってんのか。
「じゃあ、約束だよ。あたしが、すぐに見つけられるように……一番強いヤツに、なっててね……?」
決着――の、はずだった。
「!」
今にもくずおれようとしている『ペンタ』。流護の左拳によって消えかけていた、ディノの瞳の色。
その色が、戻る。
血を思わせる朱色。何らかの強大な意思を秘めた、その瞳。
思わず、ゾクリと背筋を震わせるほどの。
――何だ、この目。
戦闘前に見せていた、全てを見下したような眼光ではない。戦闘中のような、爛々と輝く好戦的な瞳でもない。
ディノの全身から炎が溢れた。
反撃を警戒する流護だったが、違う。
炎は瞬時にして消えた。
その炎の力が集められたかのように、ディノの目に光が灯る。無意識に溢れ出した炎を、自らの意思で封じ込めた。そんな風に見えた。
――刹那。
生まれて初めて、全く視認できないまま。流護の顔面に『何か』が直撃した。
「……が、ば……、っ!?」
鼻がびきりと音を立てて、ぬるりとした液体が鼻下を濡らす。膝がぐらついた。
「――……、ッ!」
コンマ数秒、わずかに――しかし間違いなく、意識が断裂した。当たり前のように地面へ倒れようとしていた身体を、踏ん張って持ち直す。
同時に、意思とは無関係に涙が溢れ出した。鼻を潰されると涙が出る。相手の視界を奪うにも役立つ、強引な手段の一つではある。
――なん、だ。何が起きた。
涙に霞む視界の中、懸命に目を凝らす。
前に突き出されたままとなっている、ディノの右腕。握った拳。
ただ殴られたのだと、ここでようやく認識した。
「……ああ。オメー……、瞬間に、分かるよ、うなヤツに……なってっから……」
――何を言ってるんだ、こいつ?
困惑する流護だったが、ディノの双眸を見て合点がいった。確かに光の戻ったその瞳。しかしその焦点はブレている。
間違いない。
ディノ・ゲイルローエンの意識は、とうに落ちている。
しかし。
二撃目の拳が、炸裂した。
「……、――が、ぁ……!?」
流護はまたも、喰らった後に気付く。伸ばされたままになっている、ディノの左腕。
見えない。この男から放たれるその拳が、全く見えない。いかな空手であっても、飛んでくる攻撃が視認できないとあっては、対処のしようがない。
――冗談だろ。何が起きてんだ。
膝をぐらつかせ、流護は必死で思考を展開する。
消えたディノの炎。見えないほどに速く、剛い拳。
「ま、さか……」
鼻下のぬめりを拭いながら、思わず呻いていた。
――身体強化。
全ての魂心力を、身体強化へと回している。だから炎が消えた。炎として放出する力、膨大な己の力の全てを、身体強化へと回している。
とうに、意識は落ちているというのに。それはきっと、この拳を放つためではない。倒れないために。
選ばれた存在である『ペンタ』。その強大な力ゆえか、傲慢な者も多いという。プライドが人一倍高いのだろう。
その一人であるディノの『炎』は、この男の象徴と呼んでいいもののはずだ。しかしそれを投げ打ち、この男は立ち続けている。
(こい、つ……そこまで、して――)
ピク、とディノの肩が動く。
咄嗟に身構えた。直後、透明な――全く視認できない何かが、ガードした左腕ごと流護の顔面を打ち抜いていく。
ガードした、とは正確ではない。たまたま構えた左腕ごと、その一撃が貫いただけだ。
「……、…………」
リューゴくん、と誰かの悲痛な叫びが聞こえた気がした。
――なん、だ……この、パンチは。今まで、こんな拳……受けたことねえ。
理想形だ。見えない拳。そんなもの、空手であっても対応できる訳がない。理想の拳だ。
かつて桐畑良造に負けたときだって、攻撃が全く見えなかった訳ではない。
人を倒すための修練を十年も続けてきて、未だ……到底、熟しないというのに――この赤い男は、到達してしまっている。いや、流護が追い込んだことで至ってしまったのか。
(ふ、ざけ……んな……、この野郎――っ)
格闘技全否定じゃねえか。
その細腕から繰り出される拳は、型も構えも何もない。ただ突き出しているだけの、素人の拳。しかしそれで倒せるのなら、問題がないのだ。人を倒すための修練など必要ない。格闘技など必要ない。空手家としての流護を全否定する、究極の拳。
(負け……られねえッ!)
歯を食いしばって、反撃の態勢を取る。
が、腕が動かない。焼けてひりついた右腕。ディノの見えない拳を受けた左腕。
拳が――放てない。
光の灯った、けれど虚ろな眼のまま、足をひきずってディノが接近する。
何がこの男にそこまでさせているのか。
間合いに入ったディノが、動いた。
「――――」
見えない拳。理想の拳。けれど顔に向かって飛んでくると分かっているそれを、流護は身を屈めて躱す。予測して動いてなお、拳は流護の右目まぶたをかすめていった。
相手の伸びきった右腕を、流護は左脚で軽く蹴り上げる。
ディノがぐらりとバランスを崩した。
流護は膝に力を込める。焼かれた右膝が痛みを訴えた。
(最強……、か)
一度は瞬殺され、拳を封じられ、そして格闘戦という己の土俵において、理想の――究極といってもいい拳で打ちのめされた。
今この場でなければ……ミアを連れ戻すという目標がなければ、有海流護はとうに倒れていただろう。
流護はその場で跳躍する。
ディノが虚ろな目で見上げる。
「――シッ!」
流護の身体が空中で旋回し――
右の跳び後ろ廻し蹴りが、相手の顎を横薙ぎに一閃しようと迫る。
その一撃はディノの頭頂部をわずかにかすめ、薙いでいった。
(避、け……!)
バランスを崩したはずの『ペンタ』は頭を下げ、その一撃を躱していた。
蹴りを躱され、無防備な体勢のまま滞空する流護。
致命的な隙が生まれた。
初見でこの一撃をも躱すのかと。もはや称賛や驚愕を超えた感情が流護の脳裏を埋め尽くす。そして最後に浮かぶは、敗北の二文字――
そのまま、倒れていく。
がくりと膝を折り、糸が切れたように――ディノ・ゲイルローエンが倒れていく。
蹴りを躱したのではない。
力が抜け、倒れようとする過程で偶然外れたのだ。
ディノがうつ伏せに倒れたのと、流護が着地したのは、全くの同時だった。




