658. 彼女の実力
「うおおあああぁぉー! すごー! 勝ったああぁー!」
「あわわわわ」
飛び上がるミア、そんな彼女に両手を取られるまま目を白黒させる彩花。漁師たちも物陰から飛び出してきて喝采を送る。
システィアナは大きく一息吸って、見事闘い抜いた仲間たちへと向き直った。
「よぉーっし……! 大っ勝っ利っ! 水竜のご加護に感謝を……!」
偉大なる守護神へ勝利を告げて、渾身の拳を二度突き出す。リムとシロミエールが「感謝を!」と動きをなぞり、微笑んだマリッセラも同じ所作で応えてくれた。
「や、やや、やりましたね、私たち……! あ、あのアバンナーに……カテゴリーBを相手に、か、勝てました……!」
「……う、うん……! しんじられない……かも」
珍しくも、シロミエールとリムが興奮気味に手を取り合う。
しかし無理もない。相手はBクラス。それも、この西国にて厄介者として悪名高い『魚人』。本来、学院生が犠牲もなしに快勝できる相手ではないのだ。
「ふむ。改めて皆さん、確かな実力をお持ちですね。それに、今のシス殿の一撃……何とも凄まじい。実にお見事でした」
「ううん、クレアこそありがとう。あなたの助力のおかげよ」
噂に聞いていた鉄壁のロイヤルガード。その存在がなければ、これほどの完勝はありえなかったろう。
「って、呑気に讃え合ってる場合じゃないでしょう! ベルグレッテは!?」
砂浜側の柵へと駆け寄っていくマリッセラの背中を見て、システィアナもハッとした。
「そ、そうだわ! ベル!」
もう一匹を引き離したあの少女騎士が、今もまだ孤軍奮闘しているはずだ。
そう、奮闘している『はず』。これは、そうであってほしいという希望だ。最悪、倒されてしまっていても何らおかしくはない。
自分たちがこれだけの人数を揃えてようやく制圧できる敵。本来、彼女一人に囮を任せるべきですらないのだ。
すぐさま加勢に向かうべく、未だ節々が痛む身体に鞭を打って走ろうとする。
そんなシスティアナの背後から、落ち着き払った声が聞こえてきた。
「問題ありませんよ。姉様でしたら」
思わず振り返ると、姉に対して心配性すぎると評判のクレアリアが淡く微笑んでいる。
「いえ、でも……相手はアバンナーよ……!?」
難敵であることは、たった今実際に対峙した彼女とて身をもって体感したはず。
「ベ、ベルグレッテ!?」
その叫びを発したのは、真っ先に柵へ取りついたマリッセラだった。
驚愕の眼差しで、下方に広がる砂浜を見つめている。
「っ」
システィアナも柵へ駆け寄り、砂浜を見渡した。そして、ただ目を見開いた。
「ベ、ベル……!?」
漁港の裏手。遮るもののない、一面に広がる砂の大地。
やや間を置いて対峙する、二つの影。
「……はっ、はぁっ、……!」
きめ細かな肌を伝う汗、服や肌に張りついた砂粒。それらすらも、彼女の高貴な美しさを際立たせる一因となっているようにすら思える。
そんな消耗も明らかなベルグレッテは、肩で息を繰り返していた。
――そして。
相対するアバンナー。
魚の姿ながら陸に侵食してきた怪物は、そのぬめりを帯びた身体にいくつもの大きな斬り傷を負っていた。そこかしこから多量の血を滴らせ、丸い眼球でベルグレッテを凝視している。
表情のない魚面でも分かる。怪物は――劣勢に立たされ、焦っている。
「……一人で……アバンナーを、追い詰めてる……!?」
システィアナの口から漏れるのは、状況を見たままの言葉。それでいて、信じがたい戦況だった。
正規兵でさえ、複数人でかからなければ制圧不可能とされるカテゴリーBの怨魔。それも、ベルグレッテにとっては初交戦となるはずの海の個体。
そんな相手を、単騎で――
「……参ったわね。なるほど、確かにわたくしが知る頃のベルグレッテとは違うようだわ……」
あの勝ち気なマリッセラですら、おもむろに……半ば放心したように呟いた。
直後、動く。
大きく口を開いたアバンナーが、あの厄介極まりない水の放射を一閃。ベルグレッテは、顕現した水流の盾でこれを受け流しつついなす。
「!」
見えていなければできない対応だ。それもおそらく、幾度となくこの攻撃を受けたことで慣れてきている。
しかしやはり、速いのは人を超えし怪異。
動きづらい砂の足場をものともせず、細い脚を蠢かせる。凄まじい速度でベルグレッテへと躍りかかる。
ガチン、と木霊する噛みつきの音。
身をのけ反らせたベルグレッテがよろめく。そして、虚空を彩る濃赤の飛沫。わずか離れる両者の間合い。
「か、かか、噛まれ、たっ……!?」
遅れて隣にやってきていたシロミエールが、口元を押さえ悲痛な叫びを漏らす。
だが直後、後方へたたらを踏んだのはアバンナーだ。その魚体へ新たに刻まれた一本の赤線から、血を撒き散らしながら。
その赤い筋は紐のように、ベルグレッテが右手に握る黒剣へと尾をたなびかせていた。
攻撃を紙一重で回避、逆に一撃浴びせていたのだ。
「……、……アバンナーのひふに、傷を……!」
同じく柵までやってきたリムが、宝石めいた真紅の瞳を大きく見開く。
アバンナーの表皮は粘性を帯びた体液にまみれており、一流の剣士の斬撃すらも滑らせてしまうことで知られている。
しかしベルグレッテが携える漆黒の剣は、いとも容易くその刃を届かせていた。
「…………アドルフィータ殿の剣ね」
マリッセラが神妙な顔でぽつりと呟く。
システィアナも少しだけ話には聞いていた。かつて、ガーティルード姉妹の兄が所持していたという一振りの剣。『黒鬼』なる怨魔に触れたことで、その性質を大きく変容させたという。
まぐれではない。すでにいくつか刻まれているアバンナーの傷は、この鋭すぎる刃によって描かれたものなのだ。
新たな切創を受けて猛り狂った魚人が、その場から体当たりを仕掛ける。まともに浴びれば、小型の馬車に撥ねられたのと変わらない衝撃を受けるだろう。
「くっ」
その一撃を水盾でいなそうとするベルグレッテだが、かすっただけで回転して横に倒れ込んだ。しかし同時に、彼女はアバンナーの足下へ自らの両脚を突き伸ばす。
その足に躓く形となったアバンナーは、体当たりの勢いもあってそのまま前方に転倒。
腕を持たぬこの怪物は、陸上で傾いたならそのまま地面に横倒しとならざるを得ない。
「は――ぁっ!」
顔からまともに接地した魚人に対し、転がりながら起立したベルグレッテは即座に黒剣を突き立てた。
一切滑ることなく刺し込まれた漆黒の刃が、墓標のように怨魔の胴体に屹立。柄を握る少女騎士が、それを両手でより深くねじ込む。
訪れる静寂。
敵が完全に動かなくなったことを確認し、ベルグレッテは得物を引き抜いて相手から離れた。
「っ、ふぅっ――」
「ベルグレッテ!」
ふらりとよろめいた少女騎士に対し、白銀の翼を生やしたマリッセラが文字通り飛んでいく。砂浜に降り立った彼女が、ベルグレッテの肩をしっかりと抱いて再飛翔。こちらへと戻ってくる。
「ベル!」
「ベルちゃーん!」
「姉様、お疲れ様でした」
皆に囲まれた少女騎士は、疲れを滲ませながらも確かな頷きを返した。
「ベル、大丈夫なの……!?」
「ええ、どうにか……」
システィアナの呼びかけに対し、ベルグレッテは弱々しく微笑んだ。
無傷ではない。水盾で凌いだとはいえ、何度も打撃を受けたのだろう。美しい肌には細かな傷が刻まれて、赤い痣となっている。体力の消耗も大きい。
「あっつ、いたたた……」
そのうえ、今しがたアバンナーを躓かせたことで足首を痛めていたようだった。
だが――
「す、すごいです……! すーっ、た、たたた、たった一人で、アバンナーを倒してしまうだなんて……!」
「……! ……!」
シロミエールの称賛にこの上ない同意を示し、リムもこくこくと何度も首を縦に振っている。
「この剣のおかげよ。私の身の丈には余る逸品だわ……」
と、儚く笑った少女騎士は右手に握ったままの漆黒の長剣へと慈愛の視線を注ぐ。
「謙遜なさい。優れた武器を持つだけで勝てるのなら、誰も怨魔など恐れはしなくてよ」
ぴしゃりとマリッセラが言い放ち、ベルグレッテの傷へと手を添えた。愛想もない口調にそぐわず、マリッセラの手のひらからは優しい瞬きが発せられる。少女騎士も「ありがとう」と呟いて目を閉じ、癒しの光に身を委ねる。
(……、)
自分と同じ、神詠術学院の新三年生同士。
そして、学級長同士。
(……ベルが、これほどの使い手だったなんて……)
確実に、一般的な正規兵の実力を大きく上回っている。どころか、上位の宮廷詠術士にすら届くかもしれない。
ベルグレッテが自嘲したように、黒い剣の斬れ味も確かに常軌を逸している。だがマリッセラが指摘した通り、それだけで怨魔に打ち勝てるものではない。
これまでの合同学習でその知識の深さや実技の腕のほどは見てきたつもりだったが、まさかこんなにも――
『そう、そうだわシス。あなたたちが今交流中の、ミディール学院のあのお嬢さんはどうなのよ』
なぜか。
先日の、母の言葉が脳裏に甦る。
『聡明で美しい娘さんだそうだし、若様にぴったりだったりしないの?』
(…………)
システィアナはリズインティ学院の二番手。近々マリッセラが去れば、一番手に繰り上げ。
だが。
レヴィン・レイフィールドの傍らに寄り添うのであれば、学院一などという肩書きは何の強みにもならない。それも、自分より上位の者がいなくなっての繰り上げなどでは。
真に、実力がなくては。
……それこそ、このベルグレッテのような力がなければ……。
「…………」
気付けば一歩離れた位置で、システィアナは皆の称賛を受けるベルグレッテの姿を眺めていた。