656. 凡戦
真昼の砂浜には誰の姿もなく、寄せては返す波の音だけが響いている。
(次から次に、って訳でもなさそうだな……)
一見すれば、至って平和な海辺。
怨魔がわんさと襲ってきた――という状況ではない。逆に、いるはずのないものが突発的に迷い出てきた印象だ。
そこから巨大ガエルが現れることもないまま、十数分ほどが経過しただろうか。
「お」
海岸を歩いていた流護は、町方面から浜に続く石階段を下りてくる銀色の集団を確認した。その最後尾には、青緑の防具に身を包んだ一人の姿が見える。
バルクフォルト帝国の精鋭騎士団、『サーヴァイス』の隊員がやってきたのだ。
(……って、ん?)
互いの距離が縮まるにつれ、その『サーヴァイス』の特徴が明らかとなる。
海と空の色合いを反映したかのように鮮やかな軽装鎧。
くりんと巻いた癖毛の短い金髪が特徴的な、まだ年若い少年。
身長こそ百八十を優に超えていそうだが、年齢は流護と同じ。やや丸みを帯びた童顔で、二重まぶたの奥に覗く瞳は透き通る緑。目鼻立ちの整った、人懐っこそうな雰囲気の美少年である。
見知った人物だった。
「おう、誰かと思えばエーランドじゃん」
「おっと、それはこっちのセリフだよ。リューゴ」
腕を掲げてくる彼に、同じ仕草で応じる。
「何かと縁があるのかな、おれたちは」
「はは、かもな」
バルクフォルト精鋭騎士団の最年少にして上位五番目の使い手、『風嵐絶駆』のエーランド・レ・シェストルム。
アシェンカーナの里での共闘以来の再会だ。
率いた兵士たちに散開を命じた彼は、眩しげに腕で庇を作って水平線へ目を細める。
「ラムヒーが出たって?」
「ああ。んでも、通報して以降は出てないみたいだけど。その辺にもいないし……少なくとも、俺は遭遇してない」
「ううむ、そうかい。昔はともかく、ここ十年はそんな事例なかったらしいんだが……どうなってるんだか」
「やっぱ、怨魔の活動が変になってるんじゃねえか? ほれ、こないだの『牛』といい」
「いやいや、さすがにあれと一緒にするなよ。城は未だにあの一件の話題で持ち切りさ。あんなのは、もう伝説として語り継がれるべき逸話だ」
「じゃ、あれに殴り勝った俺のことも語り継いでくれ」
「語り継いだところで、後世の誰も信じないぞ。討伐事例のなかった『封魔』を、無手無術で完封するなんて。出来の悪い劇の筋書きだと思われるだろうさ」
気付けば互い、そんな軽口を叩いて笑い合える間柄である。
「さて、話を戻すけど……とりあえず原因が分かるまで浜は封鎖するよ。後はおれたちが預かるから、リューゴたちはこのまま帰ってくれていい。まあせっかくだから、おれも皆に顔でも見せておこうかな――」
そんなエーランドの言葉を中断させたのは、ガッシャン、と鳴り渡った金属音だった。
ごく自然に、二人揃ってその発生源へと顔を向ける。
まだ近くにいたのだろう。散開した兵士のうちの一人が、すぐ先の砂浜で横になっていた。
確かに、無造作に寝っ転がりたくなるほどの快晴だ。
――だがもちろん、任務中の兵が鎧を着たまま日光浴など始めるはずもない。
「――」
硬直は一瞬、二人はまたも揃って海へと視線を滑らせた。
そこに、魚がいた。
寄せる波間から胴体を覗かせ、体長は六十センチほどか。青銀に光る全身、ギョロリとした無機質な丸目、尖る形で突き出た口先が特徴的な大魚だった。
そして、その胴体が浮く。
スッと、そのまま真上に。
『立ち上がった』のだと流護の脳が理解するまで、数秒の時間を要した。
それはそうだ。少なくとも現代日本の少年の中で、魚が足を使って直立するという常識は存在しない。
浅い波が引き、その全容が露わとなる。
エビ反り気味に上向いた胴、その下部から伸びる二本の細長い脚。その脚部には上から下まで産毛めいた棘がびっしり生え揃っており、形状は昆虫――特に、バッタのそれに似ている。
でありながら、ぬめりと青光りする光沢は確かに水生生物由来といった様相だ。妙にガニ股で、足先は外側へ大きく開いている。
とにかく身体と足のバランスが不釣り合いに見え、適当に取って付けたパーツのような違和感が拭えない。
そのように起立すると、体高は一メートル前後になった。
腕はない。その代わりとでもいうように、短いヒレを蠢かせている。
見たまま、『足の生えた魚』。これ以外の表現が思いつかない。
「えぇ……くっそきめぇ……」
ただ率直な感想が口を突いて出た流護とは違い、
「アバンナーだと……!」
エーランドが緊迫した声音で呻いた。
それは、海に棲息する怨魔の話題にてリウチが口にしていた名前だ。
カテゴリーはB。通称『魚人』、別名は――
(海のドラウトロー、とか言ってたよな……)
悪い冗談のような外見だが、その呼ばれようの時点でこの怪異の危険度は推し量れる。
漁師も、こいつに船に上がられることがあったならそれはもう仕方ない、と天災のように割り切っていた。
ペタ、ペタ、とそのアバンナーが砂地を踏み、当たり前に歩き出す。思った以上に身軽そうに。その進路の先には、先ほど倒れた兵士がいる。
「来い、風貫!」
喚び声に応じ、若き精鋭の右手に渦巻く翠緑の風。
風の槍を顕現させたエーランドが、猛然と前へ出た。
足場の悪さゆえ、接近に数瞬かかると判断してだろう。大股で二歩前進した彼は、そのまま怨魔へ向かって槍を投げつけた。
瞠目すべきは、『魚人』の挙動。
奇抜な外見からは想像もできない素早さで横ステップしたアバンナーは、エーランドの投擲を回避。
そして、まるでやり返すように口から水鉄砲を撃ち放った。
「っ」
半身で翻った彼のすぐ脇を、まるで閃光のような一薙ぎが下から上に迸る。
ビヂッ、と叩かれた砂地が悲鳴を上げ、散った飛沫が周囲に疎らな斑点を作った。それら模様は、今の一撃が確かに水で構成されたものであることを証明している。
「いや、レーザービームかよ……」
傍観していた流護は思わず呟く。
その尖った口先が、まるで銃口だ。
そして理解する。すぐそこで倒れている兵士は、横から不意打ちでこれを受けてしまったのだと。
上陸したその異形の射手はというと、トットットッと軽快な横歩きで間を取った。そして、エーランドと流護の顔を交互に見比べる。首が存在しないため、身体全体を揺するようにしてこちらを視界へ収めているようだった。
「情報量が多すぎる」
身体は魚、昆虫めいた脚、そこから繰り出される軽妙な動き、そして光線銃みたいな射撃。
およそ表情と呼べる顔筋の変化もなく、次の動作を読むこともできない。何をしてくるか分からない。
「何を感心してるのか知らないけど、油断するなよリューゴ」
再び風槍こと弊絶風貫を手元に出現させたエーランドは、前傾に構えながら警告を口にする。
「熟練の戦士でも後れを取ることが珍しくない、厄介な相手だぞ。妙にやりづらいんだ」
「いやまあ、分かる気がする……」
と、答えた直後だった。
視界を真っ二つに、漫画のコマ割りみたいに両断するような線。それが今ほどの水鉄砲によるものだと気付いた流護は、咄嗟に両腕の手甲を自らの正中線上にかざした。右腕で上半身を、左腕で下半身を守る。
ガッ、ガンと尋常でない衝撃に襲われ、流護は思わず千鳥足を踏んだ。まず間違いなく、この世界の人間であれば盛大に吹き飛ばされているほどの威力。
「リューゴッ!」
敵から意識を外さぬまま、エーランドがこちらを気遣う。
「……いや、大丈夫だ」
油断していた訳ではない。ただ、にわかに痺れる腕を振りながら噛み締める。
(……『線』が見えるようになった弊害だな、これ)
攻撃を受けて改めて気付いた。今日は、『白線』が安定しない。ラムヒーに飛びかかられた折も感覚が薄かった。
朝の鍛錬でその日の調子はそれとなく窺い知れるものの、実際には攻撃を受けてみないと分からない。今のところは。
事前に攻撃の予兆が見えるはず……などとあまり宛てにしすぎると、痛い目を見ることになりそうだ――
「っ……?」
そんな思考が、おもむろに鼻を刺激した空気によって中断される。
「うぇっ、何か臭ぇ……ってこれ、あいつの吐いた水か……?」
水滴の付着した手甲を見下ろしながら眉をしかめる。
「身体の中に液体を生み出す器官があって、そこから吐き出してるらしいからね。奴自身も常に生臭い」
なるほど、あらゆる面でやりづらい。
「ちなみにだが、それを食らって『臭い』との感想だけで平然と立ってる人間は、あんたが初めてじゃないかな」
「さいで。っとまあエーランド、この魚は俺が相手する。その間に、倒れた人を頼む」
「分かった、なら任せるよ。ただ、そいつはやけに体表が滑るから気を付けてくれ。打撃との相性は悪いはずだ。あと、波打ち際での戦闘は避けるんだ。水場だと、厄介さが十割増しになって手が付けられなくなるぞ」
「十割て」
まあ、わざわざ敵をパワーアップさせてやるつもりもない。素直に助言に従っておこう、と心に決める。
うし、と頷いた流護は、佇むアバンナー目がけて疾駆を開始した。
「……っ!?」
と、相手に到達する直前で急ブレーキをかける。
「こ、こいつ……めちゃくちゃ臭ぇんだけど……!」
間近に迫ってようやく気がついた。その魚人から漂う、生ゴミを凝縮したような異臭に。思わず攻撃を躊躇ってしまうほどの。
つい足を止めた流護に対し、
「だから言ったじゃないか。ほら、来るぞ」
後方からの呆れ気味なエーランドの言葉尻に被せ、アバンナーのほうから間を詰めてくる。
想定以上の速度で、ぬらりと光る胴体が体当たりを仕掛けてきた。
「おわぁ!」
見た目にそぐわぬ素早さが誘発する生理的嫌悪感もさることながら、強烈な臭気を放つ相手に触れられたくない。反射的に大げさに飛びずさって躱してしまう。すると、アバンナーはより勢いに乗って接近してくる。
「えーい、来んな!」
とりあえず、シャカシャカ高速で蠢く脚がおぞましすぎる。
「ふんっ」
直に素肌で触れたくない、かつその機動力を封じる目的で、流護はしなる鞭さながらの右カーフキックを見舞う。
もちろん怨魔は防御などできるはずもなく、ばちんっ、とまともにこれをもらう。
(って、硬っ)
一見して細く頼りないアバンナーの脚部だが、鉄骨じみた感触があった。最初から牽制目的の一撃といえど、おそらくダメージはあまりない。
それでも左足を蹴り流された怨魔はバランスを崩し、こちらへと倒れ込んでくる。そして腕が存在しないこの敵は、受け身を取ることができない。
「っ、だぁぁ! こっち来んなって!」
前のめりに転がってきた魚人から大仰に距離を取る形で、流護は慌てて飛びのいた。
倒れた相手と立つ自分。
(ん……? こいつ腕ないし脚こんなだし、このまま転がしておけば立てなくて終わらんか……?)
などと思った矢先だった。
当たり前のように跳ね起きたアバンナーが、またしても猛然と突っ込んでくる。
「うおわぁ!」
反射的に横っ飛びしつつカーフを見舞うと、奇妙な魚はまたしても砂浜を転がった。
「あっぶ」
当然といえば当然か。そんな簡単な話はなかった。
そして起き上がりを警戒した流護が身構えていると、アバンナーはすぐに立たず横倒しになったまま身体をくねらせる。
(こ、こいつ)
もちろん、相手が組み技を得意とする総合格闘技の選手でもなければ、この状況で優位なのは流護である。
しかし、
「…………やりづれぇ……」
倒れたアバンナーは、ひっくり返った虫みたいに足をばたつかせながらも真円の目で流護を見つめている。砂まみれになりながら。
この一戦、少なくとも拳は封印したい。正確には、この生物に触りたくない。
となると蹴りが要となるが、それでもできるだけ近づきたくない。やや離れたこの位置にいても生臭さが鼻を刺激してくる。
寝転がりながら追撃を警戒している(らしい)怨魔、立ちながらもどうしようかと攻めあぐねる流護。
奇妙な膠着。
その構図は、格闘技を嗜む者の間では広く知られる、伝説的なボクシング世界王者と国民的プロレスラーの異種格闘技戦を思わせた。
「リューゴ、何を遊んでるんだ」
「いや遊んでる訳じゃねえって……」
後方のエーランドからブーイングを受けてしまった。それこそ件の異種格闘技戦も、当時は世紀の凡戦だの茶番劇だの酷評されたと聞く。
(とりあえず立たせるか……)
この間合いではアバンナーも起立の瞬間を狙われると判じているのか、明確な行動に移ろうとしない。見た目以上に頭がいい。
ここはバックステップで間を取り、アバンナーが立ち上がろうとした瞬間に再び急接近、無防備なところに蹴りを当てる――
「っと!?」
その思惑は崩された。
流護が間合いを離した途端、アバンナーは横になったまま顔をこちらへと回し水鉄砲を射出。
迸る直線を流護が咄嗟に回避する間に起立、同時に異常な速さで接近してくる。
「ったくよ……!」
微妙に敵のペースだ。
まさに相性。
神詠術であれば、この近づきがたい敵に直に触ることなく攻撃ができる。しかし、流護はいかなる時も原則として直接触れて攻撃を当てなければならない。
(俺の場合、石投げって手もあるんだけど……生憎、今は切らしてんだよな)
街中にある安全な海岸へやってくるつもりでいたので、普段平服の下に忍ばせている石ころもさすがに置いてきてしまった。周囲にも、砂利と呼べるほどの小石すら転がっていない。あるのはきめ細かな砂だけだ。いずれにせよ、石だけでこの珍妙な敵を倒せるかは怪しい。
が、悲嘆しても始まらない。いつまでも手間取ってはいられない。
腹を括ってどうにかするしかなかった。
「――ふっ」
流護は思い切って息を止め、真っ向からアバンナーに向かって踏み込んだ。
タイミングを合わせ、右のミドルキック。側面からしなった軌跡が、怨魔の横っ面を蹴り叩く――はずだった。
「っ、は!?」
つるん。
まさしくそんな擬音が相応しい場面だった。
足の甲が怨魔の頬(?)に接触した瞬間、滑った足先が相手の頭上へ乗り上げる。そして勢いのまま半回転し敵に背を向ける形となってしまい、そこに一応は蹴りを受けてバランスを崩したアバンナーがまたも倒れ込んできた。
結果、背中に体当たりをかまされる。
「どはっ!?」
結構な衝撃に押され、流護は前のめりになって砂浜へ突っ込んだ。すぐ隣で、アバンナーも同様の体勢で横たわる。
「だから滑るって言ったじゃないか!」
エーランドの叱咤を聞きながら首を回すと、至近距離で両者真正面から見つめ合う形に。互いの距離は一メートルもない。まるで仲よく添い寝でもしたような、間抜けな絵面だった。
だがもちろん、両者の間に友好的な感情など存在しない。
「――――」
直後、流護は一も二もなく腕の力だけで跳ね起きた。数瞬前まで顔があった空間を、アバンナーの口先から放たれた水のレーザービームが貫いていく。超至近距離。地面すれすれな低空照射が、浜辺を水平に削り砂塵を舞わせた。
「おっ……らぁっ!」
砂煙の最中。ほとんど逆立ち状態となっていた流護は、身体を捻って側転へと移行。その体勢から、右つま先をアバンナーの顔面へと叩き落した。
先ほどの右ミドルが足甲で叩きつける『面』の一打だとしたら、今度は足先で突く『点』の一刺し。
杭を振り下ろすにも似たアクロバティックな一撃が、今度こそ滑ることなく怨魔の顔面を貫いた。
ゲッ、と低い断末魔を残した魚人は、一瞬だけビクンとその身をこわばらせて沈黙する。あれだけせせこましく躍動していた細長い両脚が、電池でも切れたかのように停止した。
「……、……ふーっ」
その勢いのまま直立し、敵が完全に動かなくなったことを確認する。
「やったな、お疲れ。存外苦戦したんじゃないか? 『封魔』を倒したほどの男が」
倒れた兵士を介抱しているエーランドが、苦笑しつつ労いの言葉をかけてくる。……こちらには近づかずに。
「ダメージはねえって……、にしても臭っ」
「しかしあんたは『拳撃』と呼ばれていながら、足を使った攻撃も多彩だな。なぜ拳を使わなかったんだ?」
「いや、ヌメってて触りたくないじゃん」
「先日の『封魔』といい、余裕を見せてくれるね」
事切れてなお臭気で反撃してくるアバンナーから足早に離れつつ、流護はようやく安堵の息をついた。
「……その兵士の人は?」
「ああ。気絶してるが、命に別状はないよ。しっかり鎧を着込んでいたのが幸いしたね」
「そうか……」
ひとまず被害は最小限に食い止められたようで、胸を撫で下ろす。
「つうか、何でこんなに怨魔が出てくるんだ?」
疑問を呈しながら、流護は周囲を見渡してみる。とりあえずここから望める一帯には、アバンナーやラムヒーが上陸している様子はないが……。
「それに関しては、これから調査しないとな……。リューゴ、さっきは帰っていいと言ったのに悪いんだが、ちょっと協力してくれないか。アバンナーまでもが出てきたとなると、少し話が変わってくる」
「ああ、もちろんいいぞ」
今の一戦はやや間抜け感の漂う闘いとなってしまったが、このアバンナーなる怨魔は間違いなく危険な存在だ。
一刻も早く、市民を避難させたうえでこの砂浜を封鎖する必要がある。
「おれも、この者が目覚め次第後を追う。兵たちにも集団行動を命じないとな……。すまないが、先に浜を見回っててくれないか。まだ市民がいたら退避させつつ、もしアバンナーが出てきたら最優先で撃破を頼む。さすがに、これ以上に厄介な奴は出てこないと思いたいところだけど……」
「おう。ま、出てきたら出てきたらで倒しとく」
「頼りになるね」
エーランドの要請に応え、流護はすっかり危険地帯へと変貌した砂浜をまたも歩き出した。