654. 青海の愁
話が一段落したところで、リウチが船から運ばれてきた樽を改めて覗き込んだ。
「それにしてもラトミル貝が多いな。この辺りの浅瀬でこれほどに獲れるものだったか?」
「へえ、俺らも驚きましたが……セーレンスの加護と思って頂戴しておこうかと。向こうの岩場がちょいと崩れとったみたいで、そこに群生しとったんですわ」
流護も釣られるように覗き込み、ふと思ったことを口にした。
「特にカニとかはいないんすね」
「蟹かい?」
「いやあ。最近、食堂でやたらと出てくるんで」
そう言うと、漁師ラッヅは大仰に頷いた。
「ああ、そりゃぁ山蟹だわ。海のやつじゃねぇのよ。このところ商人連中が売り歩いてるやつだろ? どこで捕ったか知らんが、やたらと出回ってるらしいな。大量すぎて、格安で売っても儲けになるほどらしいが」
「はあ。山ガニっすか」
相槌を打つと、リウチが「ああ」と解説を挟んでくれる。
「山間の水辺に住んでる奴だな。海のそれに比べると、いささか身が固いんだ。味も落ちる」
「あ、どおりで」
「確かに、異常なほど大量に流通しているみたいだな。どこでそんなに収穫したんだか知らんが――」
――と、おもむろに。
海岸沿いを歩いてやってきたのだろう、いつの間にかミアが目と鼻の先ほどの距離に立っていた。
しばし、全員で顔を突き合わせる形になる。
砂まみれになった裸足、上に羽織っていたブレザーを脱いだシャツ姿。『たくさん食べたい』との文言が妙に力強い筆致で描かれたシュールなデザインの一着は、彩花からの借り物だ。右手にはその辺りに漂着していたものか、大きな海藻を握り締めている。若干吊り上がった眉は、しかし怒りを表現しているのではない。どちらかといえば得意げな顔だ。
「……」
「……」
一同の間に舞い降りる、わずかな沈黙。
「ちょっとミア、落ちてたものを拾って食べちゃだめよ!」
砂浜をベルグレッテが小走りでやってくる。ミアの上着を小脇に抱えながら。
「全く、はしたないわね! この田舎娘ったら!」
そしてマリッセラも。
「でもこれ、こないだの夕ご飯に出てきた海藻と同じだよ……!」
振り返って力説する食いしん坊ハムスターであった。謎のドヤ顔は、自力で食料を確保したことに対する満足感から来ていたのだろう。奇しくも、シャツに書かれた『たくさん食べたい』との文言が少女の心の中を代弁しているかのようだ。
状況を察したらしいリウチが苦笑する。
「はは、成程。しかしミア嬢よ、それはカランウィードと呼ばれる海藻で確かに幾度となく食卓に並んでいると思うが、食べるのはやめておいた方が賢明だぞ。岸に流れ着いているのは、海底に自生していたものが老いて抜けた言わば死骸だ。味も栄養も期待できんし、何より腹を壊すからな」
「えーっ」
ミアが残念そうに両目を×の字にすると、漁師が豪快に笑った。
「がはは! 何だ嬢ちゃん、腹が減ってるのか! なら、この貝をくれてやる! 捕れたてを焼いて食えば格別だぞ!」
「えっ!」
「何だ、いいのかい。おやっさん」
「坊ちゃんのお友達でしょう? それに大漁ではあったんですがね、店に並べるには形の悪いのもかなり多いんでさぁ」
「ふ、そうか。そういうことなら遠慮なく貰っておくといいぞ、ミア嬢」
「ほんと!? やったー! ありがとうございまーす!」
「いやーすいませんね、ウチの娘が」
「何お父さんみたいなこと言ってんの、きもっ」
「向こうの漁港に桶がある。満タンになるぐらいくれてやるが、嬢ちゃん一人じゃ持ち切れねぇぞぉ!」
「わー! ベルちゃん手伝って!」
「ほ、本当によいのですか!? そんなに……」
わちゃわちゃと盛り上がりながら、皆が連れ立って近くの漁港へと向かっていく。
微笑ましくその様子を見送った流護も後を追おうとすると、リウチだけがまだ留まっていた。
「リウチさんの顔の広さのお陰っすね。どうもっす」
素直に頭を下げる。しかし女好きの貴族青年はというと、どこか自嘲気味な笑みを浮かべて。
「俺じゃあないさ。俺の親父だ」
「え?」
「遊撃兵殿も城で会ったんだろう? 俺の親父……オートゥスに」
「あ、そう……すね」
例の会合にて顔を合わせている。
オートゥス・レダ・ガンドショール公爵。飄々とした美青年のリウチとは違い、周囲の顔色を窺うようにした気弱そうな男性だった。頭髪も薄まっていて、どことなくくたびれた印象が強く残っている。
「あんな禿親父だが、腐っても公爵なんでね。その息子となる俺に媚びを売っておこう、って者は実に多いのさ」
漁師たちの後ろ姿を眺めつつ、そんなことを呟く。
「ああ、いや……そんな……」
流護としても思わず返す言葉に困ってしまう。
「おっと、気を遣わないでくれよ。別に、親の威光が嫌な訳じゃない。むしろ何かと便利だしな、大いに利用させてもらうさ。……ただ」
遠く澄み渡る空を仰いで、青年は小さく零していた。
「……俺が本当に欲しかったのは、そんなものではなかった……ってだけの話でな」
それだけ言い残したリウチは、女子たちが向かった漁港とは逆方面へと足を運んでいく。
(リウチさん……?)
その寂しげな横顔や、女子の後を追わない様子が彼らしくないように思え、流護はしばしその後ろ姿を見つめていた。
粗く削り出された階段を上がって、鎮座した岩石そのもののような高台に登ると、心地よい潮風が颯爽と吹き抜けていく。その涼やかさと暖かな陽光に目を細めながら辺りを窺うと、見知った後ろ姿の少女が海を眺めていた。
群青を基調としたかのようなその佇まいは、遠景の大海や青空とよく似合う。頭の横で結わえられた長い髪の一房が、穏やかな潮風に洗われて揺らぐ。そのきめ細かな髪が、一際大きく波打った。彼女がこちらを振り返ったのだ。
「あら。珍しくお一人なんですね、アリウミ殿」
意味深な含みを持たせる響き。その少女――クレアリアは、どこか意地悪げな口調でそんなことを言い放った。
「珍しく一人、って何すか」
「いえ。アヤカ殿が目覚められて以降、一緒におられることが多いようでしたので。珍しく一人ですね、と」
「は? そんな言うほど一緒にはいないっすけど」
「ふむ。自覚すらないほどに、日常として馴染んでいるということですね。で、そのアヤカ殿はどこに?」
「だから違うって。あいつならベル子とかミアとかと一緒にいるよ。向こうの漁港で漁師の人から貝もらってくるんだと」
「あら、そうなのですか。手伝って差し上げればよいのに」
「だから、そんないっつも一緒にいる訳じゃないんで。ベル子とマリッセラさんが一緒にいるから、俺がいなくても安全面でも問題はねえだろうし」
「ふうん、そうですか」
「何だよ……」
姉は元より、この妹にも口では敵わない。
流護は真っ向からの反撃を諦め、別の方向から攻めることにした。
「そういうクレアさんこそ、あのリムって子は? 随分と気にかけて一緒にいるみたいだったけど」
「は? 別に、そこまで気にかけているという訳ではありませんが」
隣に並んで下方の砂浜を眺めると、離れた波打ち際で水遊びに戯れるシロミエール、リム、システィアナのリズインティ女子三人の姿があった。
「見守ってるやん」
「私が見ていたのは海ですよ」
照れ隠しかと思ったが、その横顔を見るにそうでもないらしい。どことなく哀愁の漂うその面持ちは、
「どうかしたか? ついさっきのリウチさんみてーな物憂げな顔して」
「なぜいきなり人を愚弄するんですか?」
「愚弄て」
「あの男がどうかしたんですか?」
様子が似ていると言っただけで愚弄、そしてこの期に及んで『あの男』呼ばわりである。丸くなってきたかに思われたクレアリアだったが、やはりまだ男嫌いが完全に治った訳ではないらしい。
「いや。なんかさっき憂鬱そうな顔してたからさ、あの人」
「そうですか。私は、改めて噛み締めていたんですよ。海の大きさを。改めて……『彼女』は、こんなにも広い海の向こうからやってきたんだな、と」
「『彼女』、ってのは……」
「ええ。あなたの前任となる遊撃兵、レッシア・ウィルです」
「……そっか。海の向こうから来た人なんだっけか」
かつてのクレアリアがいたく慕っていたという女性。皆の姉貴分的存在で、神詠術、剣腕ともに超一流。過去に流護と同じくアルディア王によって見初められ、遊撃兵として選任された人物。
しかし原初の溟渤への遠征に強く反発し、ついにはアルディア王に剣を向けた。その顛末として命を落としている(この真相をベルグレッテやクレアリアは知らない)。
「彼女は、この西海の彼方……カーティルリッジ教主国と呼ばれる国からやってきたという話でした。一体どんな場所なんだろう。あの人は、何を思いこの海を渡ってきたんだろう。実際に海を眺めていたら、ふとそんな風に思いましてね」
「……そっか」
どこまでも広がる青の向こうからやってきた異邦人。クレアリアにとっては、完全なる未知の地からやってきた存在。
(……。……そういや……)
ふと流護の脳裏に湧く。
王や暗殺者ギルベーの話によれば、レッシア自身どうして自分が原初の溟渤を忌避するのか分かっていない風だったという。
そしてその原初の溟渤には、個体となった魂心力が存在していた。
まるで人が変わってしまったかのように、『操られたかのように』、この禁足地への接触を拒んだレッシア。
王たちも流護も当時の状況から、レッシアが何者かにそう仕向けられたのではないか、と疑った。
(……これ……やっぱ、仕組んだ奴がいて……?)
いるとすれば、なぜ?
その者は原初の溟渤の奥地に何があるのか正しく理解していて、レッシアを……人を近づけないためにそうしたのか。何せ、かの地へ向かおうとするアルディア王へ刃を向けさせるほどの『洗脳』だ。
(そうなると、そいつの目的は……? …………)
果たして、流護ですら思いつくようなその推測が正鵠を射ているのか否か。しかし、レッシアの件について真相を知らされていないベルグレッテに相談する訳にもいかない。
少年が密かに拙い推理を展開する横で、群青の少女がこちらへ顔を向けた。
「アリウミ殿やアヤカ殿の住まうニホンは、より遠い場所にあるのですよね」
「ん? まーな」
海どころではない。惑星をも隔てている。
「途方もなさすぎて、想像ができませんよ」
「はは、そーだな」
流護自身、つい先ほど途方もない海洋生物の話を聞いたばかりだ。あまりにも、世界は広く大きい。
「…………」
そんなにも巨大で広大な世界間を、自分は……自分たちは、なぜ『移動』してきたのだろうか……。
何というか、あれもこれも分からないことだらけだ。
と、そんな思いにとらわれていた瞬間だった。
「うあああぁぁぁ!」
「きゃああぁっ!」
下方のどこか遠くから、平和な時間を引き裂くような悲鳴が響き渡った。