649. デルタの決意
天空に座す昼神インベレヌスは、今日も変わらず光球の姿で地上へ暖かな光を届けている。
「眩しいね、オレオール」
外に踏み出した時点で、肩に座した彼は目を横一文字に閉じていた。そして置き物のように微動だにしない。
そもそもが夜行性の白羽梟。こうして寄り添ってくれることが律儀なのだ。未だ、初めて出会った時の件を恩義に感じているのだろうか。
「……んー……ほんと、眩しいわ」
今はただ輝かしいばかりの昼神の恵みも、あと一月もすれば汗ばむ熱気を帯びる。
そしてそんな移ろう季節の変遷も、学院生として経験できるのはあと二度。
(……あとたった二年。うかうかしてられないわ。少しでも、高みを目指さなくっちゃ……)
若干の焦燥感が手伝ってか、いつもより早足で歩を進める。
西岸特有の白岩で構成された建物群、そこかしこに掲げられた水竜の青旗。馬車が行き来する大通りと、人々で賑わう雑多な歩道。
子供の頃から見慣れた景色。そんな中で変わった人と人との関係性と、変わらなければいけない自分。
(……ずっと……皆で、同じように楽しくやっていけたらいいのに……)
物思いに耽りながら歩いていると突然、オレオールがかすかな鳴き声とともに翼をばたつかせた。柔らかな羽先がシスティアナの頬をくすぐり、それで気付く。
「っとと、そうだった……! こっちじゃなーい! ありがと、オレオール」
道を間違えたのだ。
つい無意識に、リズインティ学院の校舎方面へと歩を進めていた。
今は、ミディール学院との合同学習中。行き先は、彼らが滞在するダルクウォートン砦だ。
軌道を修正し、馬車乗り場へと到着する。
「ふうっ」
通り沿いで人の往来を眺め、目的の車両がやってくるのをオレオールと二人で待ち始める。
「ようっ、シス」
すぐさま、横合いから若い男性の声が投げかけられた。
顔を向けると、スラリとした細身の高身長、縮れた赤黒い髪を上げてまとめた美青年の姿。やや目尻の下向いた垂れ目がちの瞳が特徴的で、左目の脇にはほくろがひとつ。皮肉的な笑みは、大人の男の色気を醸し出している――と、自分では思っている人物だ。
「はぁ。おはよう、リウチ」
溜息とともにシスティアナが挨拶を放ると、級友である彼――リウチ・ミルダ・ガンドショールもまた盛大な溜息で応じた。
「この伊達男の顔を見てそんな露骨な息をつくのは、お前さんぐらいのものだぞ」
「そう。なら、貴重でいいじゃない」
「ところでシス、道を間違えそうになっていたな。何か考え事でもしていたか?」
「うぐ。見ていたのね……」
観念したように、横へと首を振る。
「……別に。もうじき夏が来るわね、って思っていただけよ。学院生活も、残り二年ねって。……リウチ、あなたは卒業後のことについてはちゃんと考えているの?」
「いや、特に」
「堂々と即答だなんて、恐れ入るわ」
「なるようになるさ。第一、あと二年もあるんだぞ。今から気を揉んでも仕方がなかろう」
「あと二年しかないのよ?」
「……成程、お前さんにしてみればそうなるのか。生憎、俺は親父が『あれ』なんでね。仮に俺がどれだけ堕落しようと、縁故で何とでもなってしまうからな」
「……ちょっと、何言い出すの。反応に困るわ……」
リウチの父はオートゥス・レダ・ガンドショール。南シェルドガード方面の領地を預かる公爵にして、ローヴィレタリア卿の一番の腹心と呼べる人物である。先日のレインディール一行との会合にも、当然ながら召集を受けて出席した。
……と、それだけ聞けば誰もが羨む上流階級の貴族だが、オートゥスはひとつの悩みを抱えている。その深刻さの度合いは、当人の様子を見れば推し量れよう。薄くなった頭髪、やつれた頬。明らかに覇気が失われている。
少なくともシスティアナが記憶している限り、ほんの何年か前のオートゥスは若々しい活力に満ちた美丈夫だった。それこそ、リウチが年を重ねればこうなるのだろう、と思わせるような。
しかし、だ。
「そんなことより、俺にしてみれば何より憂慮すべきは親父の頭だ。すっかり貧相な赤禿鷲みたいに髪が薄くなっちまって。つまり恐ろしいことに、俺も将来ああなっちまう危険性を秘めているって訳だ。冗談じゃあないぜ、この伊達男の俺があんな……」
「ちょっとちょっと、なんてことを言うのよ! 第一、オートゥス公爵があんなにもやつれてしまわれたのは、あなたの素行にも原因があるんじゃないの!?」
そうなのである。
オートゥスが目に見えて憔悴してしまったのは、リウチの生活態度に問題が見られるようになってからなのだ。
街に出れば女遊びにうつつを抜かし、行き合った不良とケンカ騒ぎを起こし。当然というべきか、学院での成績も奮わない。本気でやれば、それこそシスティアナと一、二を争うほどの能力を秘めているにもかかわらず。
「そうは言うがね。努力しようがしまいが、俺の行き着く先に違いはない。なら、労力を注ぐだけ無駄ってもんだ」
「本気で言ってるの……?」
「本気さ。……俺は、本来いるべき場所に……『あいつ』の隣に立ち続けることができなかった。なら、それ以外なぞ全部一緒さ。等しく無価値だ」
「……、リウチ……」
「ったく、凄まじいよなレヴィンの奴は。次はどんな活躍劇を見せてくれるかと思っていたが、よもや『封魔』を仕留めちまうと来た。どこまで高みに上っていくつもりなんだかね。もういい加減、見上げる首も痛くなっちまいそうだよ――」
言って、リウチは天空に座す昼神を仰いだ。
眩しげに目を細め、その輝く姿に……威光に、レヴィンを重ねるかのように。
「……」
システィアナもリウチも、幼少の頃からレヴィンと親交を持っている。
中でもリウチとレヴィンは付き合いが最も長く、親友と呼べるほどの間柄。盟友であり続けることを誓った仲。
しかし。
「ったく、今にしてみれば烏滸がましい話だ。ガキの頃の俺は、あのレヴィンと対等なつもりでいたんだから。『俺がお前を支えてやる』なんて無責任に言ってな。現実は支えるどころじゃない、後を付いていくことすらできやしなかった。足手纏いにしかならなかった」
リウチは一人の貴族として……詠術士として、そして友として、ローヴィレタリア卿に見初められたレヴィンを支えていくと誓っていた。
だが、その友はあまりにも傑出しすぎていた。
リウチとて、詠術士としての才覚がない訳ではない。どころか、むしろ並以上。本気で励めば、名うての術者となることも不可能ではないはず。しかし、ともに歩みたい相手は間違いなく大陸随一の天才だった。
「……レヴィン様は、そうは考えていらっしゃらないはずよ。あなたのことを足手まといだなんて、決して……」
「だろうな。あいつはそういう奴だ。お人好しすぎて、自分が足を引っ張られてることにすら気付かない。だから、俺は『こうなった』のさ」
無能を演じ、自ら脱落した。
レヴィンに相応しくない、誰が見ても落伍者であると分かるように。輝かしい覇道を歩み続ける彼の、邪魔にならないように。
「俺が果たしたかった役目は、エーランドの奴がやってくれるさ。今回も、オーグストルスを仕留めたそうじゃないか。大した成長速度だよ。結果的にレヴィンの負担が軽減されるなら、それでいいんだ。何も、その役目を果たすのが俺である必要はない」
リウチは気付いているのだろうか。何でもないことのように言いながら、自分が泣きそうな顔をしていることに。
「……私は、諦めない」
観念してしまったリウチの様子を見て、自然とその言葉が口を突く。そして彼は、満足げに笑顔を作る。
「ハハ、それでこそシスだ。だが実際、リズインティ二番手という実績は強みになる。ミルドレドの復権も夢ではないし、そうなれば……」
と、リウチの笑みがどことなくいやらしいそれに変わった。
「レヴィンと釣り合いも取れるかもしれん」
「っ、何よ!」
「うむ。恋するは素晴らしきことかな」
「うるさいわね! もう、何なの知った風に!」
そうだ。システィアナは、レヴィンに恋心を抱いている。子供の頃からずっと。今のように、『白夜の騎士』として誰もが知る存在となる遥か以前から。名が売れたことで彼を知った街娘たちとは違う。
その思いを実際に打ち明けたこともある。
二年前……夏の豊穣祭の夜に、ラトゥーレスの丘で。きっと、いや間違いなく――あの人を困らせてしまうと分かっていながら。でも、思いを抑えることができなかった。
その告白に対する彼の答えは。
『――ありがとう。今すぐどうこう……とは言えないけれど、いつかきっと……君の思いに報いることができたら、と思うよ――』
生まれてこのかた、これほど幸せな瞬間はなかったと断言できる。
これが、何でもない学生同士だったなら。幾度そう思ったことか。
けれど。彼は稀代の英雄となる人物で、自分は没落貴族の娘。少なくとも、ローヴィレタリア卿は認めないだろう。
ゆえに、システィアナの目標は定まっている。
自らの価値を高め、レヴィン・レイフィールドに相応しい女性となることだ――。
「ふっ、俺は影ながら応援しているぞ。……それにしても、他の連中も考えていたりするのかね。卒業した後のことを」
「……そうね。シロはより神詠術の造詣を深めて、専門的な仕事をしたいと思っているようだし……。リムはさすがに、先のことを考えるにはまだ早いのかしら。それでも、優秀な詠術士になりたいとは考えているんでしょうね。しっかりと励んでいるもの」
「誰も彼も勤勉で頭が下がる。……レインディールの彼らは、どうなんだろうな」
「何、どうかしたの? 急に」
「いや。俺は、こうして皆で気ままに過ごしているのが楽しいんでね。この時間がずっと続けばいい、なんて思うのさ」
「……、」
ハッとさせられた。
それはつい先ほど、システィアナの心によぎった思いだ。
このままでいられたら、と。
レヴィンの件に関しても同じ。未来へ進んだ結果、彼とは結ばれない運命に行き着いてしまうかもしれない。
それならいっそ、今の憧れを抱き続けていれば……現状の関係のままでいれば、少なくとも最悪の結果が訪れることはない。
だが、分かっている。
それは逃げだ。
(――私は)
決めたのだ。
ただ一人、孤塁を歩む憧れの人を、少しでも支えるために。
困難と分かっている道を連れ添うべく、あえて行くのだと。