647. 目指す概念
「じゃあ、始めるわね」
「おう」
直後、少女騎士が無造作に右腕を振るう。そのか細い指先から、バケツ一杯分ほどの水が顕現してバシャリと迸る。
「っぷ!」
塊をまともに顔へ浴びた流護は、思わず片目を閉じて息を吐いた。
そうしている間にも、ベルグレッテは返す刀の左腕から同じく水を打ち放つ。不規則に撒き散らされたそれが、身をよじる流護の顔や胸元を濡らしていく。
「かーっ!」
「えぇ……ベルグレッテに水かけてもらって喜んでる……。何このプレイ……」
と、彩花が若干引き気味に後退した。この場に残ったことを後悔してそうな勢いで。
「おいこら誤解を招くようなことを言うなお前」
思わず動きを止めてまで突っ込まざるを得ない少年である。濡れ鼠になりながら。
「じゃあ何してんの、それ……」
「避けようとしてんだよ」
「? え? 避けるって……もしかして、水を?」
「ああ。それも、後ろとか横に動いて全体を避けるんじゃなくて、うねる水の合間を縫うように掻い潜ってだな」
明確な攻撃ではない。時に軽く、時に勢いや捻りをつけて。大きく撒かれた湾曲する水の隙間へ入り込んでの回避を試みる。ただ無造作に放っているだけの水なので、仮にゾーンに入っていたとしても白線は見えない。
「え、え!? いや、そんな……無理でしょ」
「世間一般的にゃ、こないだの『牛』に勝つのも無理って言われてたろ。ベル子、続き頼む」
それから幾度となく挑戦したが、結果として至近から歪な形で飛んでくる水を潜り切ることは一度もできなかった。
「……あー、びちゃびちゃだよ。今日も無理だったか」
「そりゃあ無理でしょ……」
流護がぼやくと、彩花が気の毒そうな目を向けてくる。彼女の視点からすれば、ひたすら真正面から水をぶっかけられているようにしか見えなかっただろう。
「……リューゴ、いつものことだけどきちんとシャワーを浴びて……服もしっかり乾かしてね」
すっかり慣れた……あるいは諦めた風にも見える少女騎士が、お決まりの言葉を残す。
「おう。また頼む」
そろそろ生徒の皆が起床してくる時間だ。
学級の長、部屋の長として皆を起こすため砦に戻っていくベルグレッテの背中を見送りつつ、流護はすっかり濡れそぼった全身を織物で拭った。むしろ汗も流れたし、スッとして気持ちいいぐらいだ。
「さて、最後に一仕上げすっかな」
言いつつ、すっかりトレーニング場となったその一角へ移動する。そこには、一本の長い梯子が地面に横倒しとなっていた。
「……はしご? 今度は何するの?」
「ラダーだよ」
置かれた梯子の横に立った流護は、二本の縦木と等間隔の足場によって区切られた四角の空間のひとつに一歩ずつ交互に両足を踏み入れる。そして同じように素早く四角の外へ足を出す。これを繰り返し、右側へ移動する場合は右足から、左側へ移動する場合は左足から。小刻みにそのステップを反復する。これを全力で、より速く。
「うわ、何その動き速っ! すご、すご……」
彩花の驚きをよそに、続けること一分と少々――
「っとっ!」
梯子に足先を引っ掛けてしまい、思わず前のめりで身体が倒れる。咄嗟に右手を地面についた流護は、そのまま片手で前方倒立回転。ブリッジに近い姿勢で、両脚を着地させることに成功した。
「ふー、危ねー危ねー」
持ち直して安堵の息を吐くと、傍らの彩花が口を開きっぱなしでポカンとしている。
「はや、あぶな、すご……。いや、だ、大丈夫!?」
理解が追いつかなかったようで、ワンテンポ遅れて尋ねてくる。
「問題ねーって」
手のひらについた土を叩き落しながら苦笑すると、眉をひそめた彩花が怪訝そうな声を出した。
「それは……何のトレーニングなの?」
「見ての通り、フットワークの強化。敏捷性とか俊敏性とか。運動神経も鍛えられるって聞くな」
「……フットワーク……敏捷性とか……」
「ああ。どうかしたか?」
やや考え込む風にした彩花が、おもむろに口にする。
「……流護って、なんか最近『避ける練習』多くない? 少なくとも私が見る限り、そういうのばっかりやってるような……。さっきの水を避けるのもそうだし……どうして、そんなに『避ける』ことにこだわってるの?」
……何というか。
運動音痴でその方面には疎いくせに、持ち前の鋭さで指摘してくる。
「そりゃ……こないだも言ったろ。俺にはリーチがないし、敵に先制取られることが多いからな」
「でも、あんたもう充分すごいじゃん。あの怖い牛の怨魔の攻撃だって、全部避けてたし。それに、ミアちゃんだって言ってたよ。『リューゴくんは、ばーんってあっという間に敵をやっつけちゃうんだよ』って。例の白い線が見えるようになってきたなら、尚更そこまで『避ける』練習っているのかなって。なんか変だなって思って……」
「…………」
ふう、と息を吐いた流護は、すっかり明るさを増してきた空を仰いだ。
「……彩花。こないだのヴォルカティウス帝のこと、覚えてるか?」
「え? うん……すごいイケおじだったよね」
異世界における一国家の主をあまりにも世俗的に表現してしまう彩花だが、現代日本からやってきた女子高生の理解としてはそんなものかもしれない。
「あの人、会議の途中で様子おかしくなったろ」
「……うん」
誰の目にも明らかな異変だった。唐突な居眠り。その後も、自分が何をしていたのか分かっていないような反応……。
そのほんの数十分前……謁見時や流護との手合わせにおいては、賢帝の名に相応しい堂々とした立ち振る舞いを見せていたにもかかわらず。
「あれだよね。戦の神様に魅入られてる……とか、そんな話だったよね」
「ああ。この世界の人がそんな風に思うのも無理はねえ。誰も本当のことを知らないんだよな。いや、俺もピンと来たのは退場してくあの人を見た時なんだけど」
「え? 何? どういうこと?」
「ヴォルカティウス帝は、神に魅入られたとかそんなんじゃない。あの人は――パンチドランカーを発症してるんだ」
「え……!? それって……」
格闘技になじみのない彩花でも、その症名ぐらいは耳にしたことがあるはず。
思い返せば、符合する点はいくつもあったのだ。
現役を退いて十年も経つにもかかわらず、当たり前のようにローヴィレタリア卿へ次の試合の予定について尋ねたり。
会議中に居眠りしてしまうのは、集中力の低下に加え睡眠障害を患っている可能性がある。起こされた折には、自分の置かれた状況を把握できていないような印象があった。こうした物忘れや記憶障害も、その典型的な症状。そして最終的には、己の足で歩くことすらままならず付き添われての退席……。
「考えてみりゃ、ずっと拳闘やってた訳だしな。しかも、ちゃんとルールの整備された現代ボクシングじゃない。素手でどっちかが倒れるまでボコボコ殴り合う荒っぽい見せ物だ。壊れたって何の不思議もない」
現代の格闘技においても、素手による殴り合いを行うベアナックルファイトと呼ばれる試合が存在する。安全面についてはもちろん配慮されているが、それでも危険極まりない競技なのだ。
これが未発達な異世界で、悪し様にいうなれば洗練されていないテクニックとルールの下で催されれば、選手はどうなるか……。
「で、でもそれなら、拳闘やってて他に発症した人もいるんじゃない? ヴォルカティウス帝だけがそんな風に言われるのも変っていうか……」
「このバルクフォルトの人って、基本的に酒飲みが多いって話だったろ。症状が似てて区別つかないんじゃねーかな」
事実、酒好きのボクサーには多く存在するという。酒に酔っているのか、それとも拳に酔わされているのか……極めて判断の難しい選手が。
まして、殴り合いと酒の相性は最悪だ。脳にダメージがある状態での飲酒など言語道断。そういった予備知識もないとなれば、パンチドランカー以前にある日唐突に命を落としてしまったという拳闘士は少なからず存在しているはず。
「んでヴォルカティウス帝に関しちゃ、特に注目される人だからな。様子がおかしくなったのが大勢の目に触れて、悪い意味で目立ったんだろうな」
これまで、拳闘士から皇帝にまで成り上がったのはヴォルカティウス帝しかいないと聞く。であれば、集まる耳目は過去にないほど多いだろう。
もちろん、これは流護の勝手な推測にすぎない。
だが、格闘家としての知見から至れる確度の高い予想でもある。
「俺もちらっと聞いた話だけどさ。初期の頃の皇帝さんは、結構ガチガチのインファイターだったんだと。相手に打たれようとガンガン前に出て詰めてくタイプな。そういう選手はダメージも溜まりやすい」
数多の試合を経て、アウトボックス寄りの足を使った……もらわずに当てる今のスタイルに変化していった。
しかし、参戦当初に負ったダメージは抜け切らなかった。
そして。
「――あのヴォルカティウス帝の姿はさ、俺が恐れてる未来そのものだった」
「……え?」
彩花に背を向けて、左足を踏み込んでからのワン・ツー。
風裂く拳を引き戻しつつ、己の手のひらへと視線を落としながら。
「俺は最強を目指すし、向かってくる奴は何だろうと倒す。たださ……戦いに身を置いてると、どうしたって少しずつダメージが溜まってくんだよな」
この一年を振り返っただけでも激闘の連続だった。
確かに、生き延びて今ここにいる。だが、何度死にかけたか分からない。
「回復術があっても、前にも言った通り何もかんもがあっという間に元通りになる訳じゃない。治らない傷だってある」
そう言って、自らの左腕――かつて邪竜に吹き飛ばされたその縫合部分に残る歪な痕跡へと目を落としつつ。
「もちろん俺は最強になるけど……こんな戦いを続けてたら、いつかは『壊れる』」
周囲の皆の未来を守りたいと願うなら、自分自身に訪れる未来からも目を逸らす訳にはいかない。背後から聞こえる彩花の吐息を耳にしながら、少年は続ける。
「戦えなくなれば、俺は誰も守れなくなる。それだけは絶対に御免だ。――だからさ」
おもむろにさざめく一陣の心地よい風。
その大気の流れに同化するがごとく、少年は身を翻す。
秒をひとつ刻む間に、ステップワークを駆使した流護は彩花の背後へと回り込んだ。
「――、え、え!?」
完全にこちらの姿を見失った彩花がキョロキョロする。
その肩を、後ろからポンと叩く。
「ぅえ!? い!? いつの間に!?」
「だから、もう誰にも攻撃をもらわない。そうなるために、スピードとか回避力を鍛えてるって訳だな」
「……っ」
驚いて目をぱちくりする彩花に苦笑しつつ、流護はその背中を叩いて促す。
「ほれ、そろそろ朝メシにすっべ」
「う、うん……」
並んで歩き出す。
「ってか、まず俺は着替えてこんきゃだな……服びっちょびちょだし」
「……うん」
しばし、無言。彩花が何か言いたそうにしつつも、結局は何も言わない。そんな空気を感じる。
「何だよ。何を見ている、貴様」
「…………」
彩花は無言で指を伸ばし、おもむろに流護の頬をつねってきた。
「あんはほ。はひほふふ、ひはは」
何だよ。何をする、貴様。
「……いる」
指を離し、少女は小さく呟く。
「? 何だよ、『いる』って」
「……だってさっき、あんた一瞬で私の目の前から消えたから。あのおっかない牛と闘った時だって、攻撃を全然もらわなくて……。もちろんそれはいいことなんだけど、なんか……」
「なんか?」
「……あんたが、本当に『いる』のか不安になって。姿が見えるだけで、触れられないんじゃないかって。あの学院長さんの幻みたいに……あんたがちゃんと実在してんのかな、って不安になって」
「おっ、何だ。ヘラってんのか?」
「うっさい。ばか」
不機嫌そうに言って、幼なじみは駆け足気味に先行する。そして振り返る。
「食堂。先に行って、待ってるから」
「……おう。腹減ったし、すぐ行く」
「ん。そいえば、またあのカニ出てくるかな?」
「あー。どーだろな」
実は一昨日と昨日、朝昼晩の食事全てに蟹の肉が登場した。
聞いた話によると、商人たちがどこからか大量に仕入れたらしく、格安で売り捌いているのだとか。
しかもこの身がやたら大ぶりで殻からは剥がされており、蟹と言われなければ分からないほど。
肝心の味はというと――
「……ちょっと、身が固いんだよね……」
「パサパサしてるしな」
まあ、美味なものではない。もっとも修学旅行の経費にも限りがあるだろうし、毎日毎日ご馳走にありつける訳ではないところか。
「じゃ。あんたの分のカニ、いっぱい取っとくから」
「別にいらんが」
べーっと少しだけ舌を覗かせた彩花は、扉を開けて砦の中へと入り、廊下の奥へと小走りで消えていった。
その姿を見送った流護は、服を着替えるため階段を上がって自室を目指す。
濡れた身体はズシリと重い。
「……」
これから先の戦いで、一切の攻撃をもらわない。
――考えるまでもなく、不可能だ。そんな所業は。
今回の『封魔』戦はまさしく理想に近いパフォーマンスを発揮できたが、それでも無傷ではない。これからもそう上手く行くとは限らない。
(……この、俺の『目』は……)
攻撃の軌跡を前もって知覚する集中の極致。師が到達していた一種のゾーン状態。だが、あの達人のように長年の鍛錬を経て至ったそれとは異なる。
『そーがっつくなって、ザコ野郎』
今も耳に残る鈴の音。視界や聴覚を塗り潰した、鮮血の厚幕。
かつてないほどの衝撃が齎したダメージ。メルティナの極めて優れた回復術による処置を受けてなお、復帰まで何日もの時間を要したほどの。
そして、
『……所詮は小僧、か。せっかくの優れた膂力も、宝の持ち腐れに過ぎんようだ。万全の状態で私の前に立てなかったこともまた、自身の落ち度と知れ』
(良くなかっただろうな、あれだって……)
記憶が断片的になるほどの被弾。
短い間に連続して受けた、行動不能と前後不覚に陥るレベルの頭部への損傷。
つまりこれは、見えるように『なってしまった』ものだ。
壊れかけた画面に、ノイズが走るように。衝撃で何かがずれた結果、ショートカットして繋がってしまった。
そんなざわつき、危うさを本能的に感じる。
「…………」
だから、少しでも先送りしようとしている。
いつか必ずやってくる、自分が壊れてしまうその時を。
だが、構わない。
その瞬間がやってくるまでに、確立する。
このノイズを利用してでも。
有海流護は最強であり、触れてはならぬ頂点であると。
それこそ、このグリムクロウズにおいて信仰される神々がごとく。誰もが崇める稀代の英雄ガイセリウスのごとく。
仮に自分が消えてしまっても、その名だけで敵が寄りつかなくなるぐらいに。残された大事な人たちを守れるように。
そんな、絶対的な概念となるために。