644. 迎える者
「や、ややや、やりやがったあああぁ――っ!」
「あっ、あの『封魔』を!? ま、真っ向からぶっ倒したあああぁ!」
爆発する傭兵たちの歓声を受けながら、流護は対照的に静かな一息を吐き出した。
「……うっし」
勝負を決したのは、飛び上がりざまの右のジャンプパンチ。その一撃にて、『封魔』の薙ぎ払いを躱しつつ上方から打ち下ろす形で殴り抜けた。
結果、積み重なった衝撃が怨魔の頸椎を折ったのだ。
「リューゴ、あんたって奴はさ……いや、おれはもう驚き疲れちまったよ」
肩を竦めてやってくるエーランドと、
「……信じられん。夢でも見ているのか、私は」
かぶりを振ってゆっくりと歩み寄ってくるアキム。「ところで」と、彼が思い出したように言葉を続ける。
「決着の直前……幾度か、追撃の機にもかかわらず敢えて踏み止まる瞬間があったな。よもやとは思うが……あれは、返り血を浴びることを嫌ったのか?」
その指摘で気付いたらしいエーランドが、「まさか」と言いたげな目を向けてくる。
流護はというと、頭を掻きつつ答えを明かした。
「まあ、そっすね。気付いてたっすか」
さすがの観察眼だ。エーランドはというと、
「返り血!? そ、そんなことのために手を止めたのか!? 勝ったからいいようなものの……どうして」
「……いや。まあ、何つーか……俺が変に血まみれになると、心配したり怖がったりしちまう奴がいるからさ……」
視界の片隅に映るテントを見やりながら――その中にいる昔なじみの相手を思いながら疑問に答えると、アキムとエーランドは目を皿のように丸くした。
「フッ、君には敵わんな」
「……『封魔』を相手にしてそんな余裕があるんだから大したもんだよ。もう驚くのも馬鹿らしいね」
二人揃って、半ば呆れた風に肩を竦める。……と、そこで流護は今さらながらに気付いて首を巡らせた。
「あれ? そういやレヴィンは――」
「うわあああぁ!?」
発しかけた言葉に、傭兵たちの悲鳴が重なった。彼らの持っているであろう松明による光が大きく揺らめく。
「! よもや……」
「な、何っ!?」
肩越しに後ろを見つめて驚嘆するアキムとエーランドの視線を追い、流護も振り返る。
「……マジか」
そこに、ゆらりと立ち上がった異形の姿があった。
鼻から、口から、右の眼窩から黒い濁流を垂れ流し――首を異様な角度へねじ曲げてなお屹立した、『封魔』ガビム・ガヴジーン。
肥大化した右腕を杖代わりに、今にも倒れそうな躯体を小刻みに震わせながら。
隻眼となった左目には、未だ鈍い赤色が輝いている。その眼光は、敵を――流護を捉えている。
エーランドが呆然と声を戦慄かせた。
「嘘だろ……どうなってるんだ、あの化け物……」
一方で、目元を細めたアキムが小さく指摘する。
「……とはいえ、流石に限界だ。首が折れている以上、いずれは死ぬ。だが……」
そんな状態であっても、この怪物ならば斃れるまでの間に多くの人間を道連れにできることだろう。
「……延長ラウンド突入しねえ訳にもいかなそうだな」
肩を回した流護が歩み出ようとした矢先だった。
「――もういい」
無造作に、横合いから『封魔』へと近づく人影。
物憂げな表情すら浮かべるその人物は、
「レ、レヴィン様!」
エーランドの呼びかけに軽く首肯を返した『白夜の騎士』が、傍らの存在に語りかける。穏やかな声音で。
「本来であれば、怨魔を相手にかけるべき言葉ではないが……『封魔』よ。その逸話に違わぬ豪壮ぶり……瞠目に値する。正直、心が沸き立つほどの一戦だった」
全身を痙攣させる『封魔』が、ねじ曲がった首をぎこちなく傾げた。血泡を吹き零しながら、己に語りかけてくる人間へと隻眼の視線を投じる。
「だが、もういい。雌雄は決した。貴様の負けだ、『封魔』」
無論、言葉が通じる相手ではない。
だが、その発言を受けて否定したかのような。それが返事であるかのごとく、ガビム・ガヴジーンはレヴィンに向けて左拳を振るった。死に瀕してなお、人間など造作もなく肉塊へと変える剛腕。
その肘から先が、炭となって粉砕した。
『白夜の騎士』が纏う、刹那に弾ける稲妻の煌めきによって。バチリと鋭く瞬いた白光は、さながら触れるもの全てを灰燼へと帰す結界のよう。
「貴様たちに、誉れと呼ぶべき概念が存在するかは与り知らぬところだが……少なくとも今宵の死闘は、バルクフォルトの新たな歴史の一つとして語り継がれていくことになるだろう」
至高と名高い騎士の穏やかな声音には、間違いなく強者に対する賞賛が滲んでいた。
「もう、休むんだ」
流護の知識からすれば、それは居合い抜きだった。
腰の鞘へ手を伸ばし、銀剣を抜き放ったレヴィンによる一閃。
瞬いた白銀の明滅が、ねじれたガビム・ガヴジーンの頸を刎ね飛ばした。
あまりにも鮮やか。
冷然たる一太刀が、怪異を苦痛から解放するかのよう。
今度こそ――、倒れていく。二度と起き上がらぬことを確約された怪物が、血泉を撒き散らしながら終わっていく。
大の字で伏した胴体のその近くに、牛頭が重々しく落ちて転がり草葉を揺らす。
どんな原理なのか。巨大な頭部を失うと同時、『封魔』の肥大化していた右腕はみるみるうちに縮んでいき、すぐさま元の大きさへと収束した。
レヴィンによって振り抜かれたまま、全くのぶれなく虚空へ制止していた剣身。その刃から、蒼の電光がかすかに瞬いて消える。
「お、お見事です、レヴィン様……!」
「ふむ……、凄まじい剣閃だな」
握り拳を掲げて歓喜に震えるエーランドと、見定めるようなアキムが対照的だった。
傭兵たちからも再び感嘆と安堵の溜息が重なる。結末を見届けた流護は苦笑しつつも言ってやった。
「こりゃ、途中から代わってもらっときゃよかったかな?」
剣に付着した血を振り落としたレヴィンも、苦笑で応じる。
「僕は介錯しただけだよ」
言って、彼は物言わぬ屍となった怨魔に対し胸の前で刃を掲げた。黙祷を捧げたのち、剣を鞘へと収める。
(介錯、ねえ)
この『封魔』相手に、それをやろうと思ってできるのなら誰も苦労はしない。
……つまり、レヴィンは『備えていた』のだ。
あの闘技場で披露した見世物とは違う、実戦のための力を。
「もう少し早く復調すれば、もちろん助勢するつもりでいたのだけれど……正直、君の闘いに見入ってしまっていた部分があることも否めない。申し訳ない」
「さいで。『白夜の騎士』にそう言ってもらえるなら、そりゃ光栄だ」
先ほどまで光球の維持に集中を注いでいたこともあり、レヴィンは間違いなく万全ではない。どころか、精神的にはクタクタのはずだ。
それでも、まだ『封魔』が息絶えていなかったことを見逃さぬ観察力。そして、瀕死といえど確実に葬り去る殲滅力。
瞬きの間にあの強靱な怨魔の首を弾き飛ばした、冷然たる一太刀。
今までのレヴィンには感じられなかった、ひりつくような殺気が込められていた。
伊達ではない、ということだ。
「ううむ……流石は『白夜の騎士』か……。やはり当たり前だが、奴も最強と謳われる騎士だ……」
「ああ、凄まじいな。無論、まずは無傷で『封魔』を打倒せしめた遊撃兵がとんでもないが。新たな伝説が生まれる瞬間を見ちまったね……」
興奮覚めやらぬといった様子の傭兵たちの声に耳を傾けつつ、流護は自らの身体を改めた。
(無傷……か)
そう見えるならそれでいいかな、と少年は密かに胸を撫で下ろす。
完勝か死か。両極端な決着以外にないと思われた一戦を制した流護だったが、終わってみればそのどちらでもなかった。
まず、右拳。改めて握り込むと手の甲に違和感が残る。
(人差し指、中指……小指もかな、これ……)
ひびが入ったか、折れたか。全力の素手で百発以上も殴り続けたのだ。無理もない。
そして、顔の下部に手を添える。
(……顎の……、なんか……噛み合わせおかしいんすけど……)
一度だけ、避けられないと判断した攻撃があった。
全身を使ってのスリッピング・アウェーでいなしたが、威力を殺してなおこの痛手。最低でもひび程度は入っているはず。
鼻や右頬にも妙な違和感がある。アドレナリンが切れればそれなりに地獄を見そうだ。できれば、そうなる前にベルグレッテに処置をお願いしたいところだった。
(……ま、とりあえず……)
ただ少なくとも今は、平静を装う必要がある。
少年は何でもない足取りで、集落中央のテントを目指して歩き出した。
「アラアラアラ、はー。今度こそ終わったわねー。にしてもまさか、普通に『封魔』に勝っちゃうだなんて……。やってくれるじゃないの~!」
感心したのか呆れたのかよく分からない口ぶりで、ナスタディオ学院長がのけ反って手を叩く。
「うううおおおぉぉー、すげぇ、すげぇぞ! 何者なんだ、あの少年は!?」
「あんな怪物に勝ってしまうだなんて!」
「すげー! つえー!」
「レヴィン様の剣もすげー! 一瞬で! ずばって!」
「み、皆さん、落ち着きましょう……! お静かに……!」
アシェンカーナの住民たちは一転、お祭り騒ぎの大歓喜だ。酋長の声にも聞く耳を持たない。
「あれが……『拳撃』の遊撃兵……」
御者を務める若い兵士も、目を丸くしてかぶりを振っている。
いかにして静かに素早く民を逃がすか相談していたクレアリアとレノーレは、未だ信じられないといった様子で外の光景に釘づけとなっていた。
「……、……私、行ってきますっ」
同じく呆気に取られていたベルグレッテが、ハッと我に返ってテントを飛び出していく。どこへ向かうのかなど考えるまでもない、決まっている。流護の下だ。
その後ろ姿を呆然と眺めた彩花も遅まいて、
「わ、私もっ……、わっ!?」
慌てて少女騎士の背中を追おうと立ち上がるが、後ろから肩を引っ張られてつんのめった。
「おやめなさい」
振り返れば、神妙な顔で首を横へ振るクレアリアの姿。
「な……なんでっ」
なぜ邪魔をするのか。咄嗟にそう思ってしまいやや反発的な口調となる彩花だったが、クレアリアは年下とは思えない大人びた表情で口を開いた。
「外は冥府がごとき有様ですよ。数十を超える怨魔の屍が転がり、ダスティ・ダスクの戦死者もおそらくは相当数……。足の踏み場もない死体の山へと踏み出す覚悟はおありですか」
「……っ……!」
考てもいなかった現代日本の少女は、何も返せず言葉に詰まる。
ただ、流護が無事でいてくれた。その安堵だけに突き動かされて、外へ飛び出そうとした。
戦場にも荒事にも慣れておらずそうしたことも失念する彩花のために、むしろこの上ない気遣いで忠言してくれたのだ。手厳しいとの噂の、しかしなぜか自分には優しいこの少女は。
「で、でも」
それでも、迎えに行きたい。
しかし、いざそう警告されては足が竦む……。
「無理に踏み出す必要などありませんよ。心配しなくても、アリウミ殿は貴女の下へ戻ってきますから」
「え……」
格子の向こうへ視線を移すクレアリアに釣られて外を見れば、このテントへと歩いてくる幼なじみの姿が確認できた。……ちょうど、その隣にベルグレッテがやってきて加わる。二人は一言二言、流護は笑顔で……ベルグレッテは心配そうな顔でやり取りを交わす。
「姉様は、あの方と肩を並べて戦場に立つ者。そしてアヤカ殿は、帰ってくるあの方を迎える者。それだけの違いでしょう」
「は、はあ……、」
何やらもっともらしく説かれ、つい納得しそうになりつつもその意味を考えようとするが、
「適当に言いましたが」
「え!? 適当なのっ!?」
まさかこの気難しそうな少女がそんなことを言い出すとは露ほども思わず、つい反射的に叫ぶ。
「ただ、覚えておいてください。少なくとも、アリウミ殿はアヤカ殿がいるからこそ……貴女を守りたいとの思いがあるからこそ、あの闘いぶりを発揮できたはず。貴女という『帰るべき場所』があるからこそ、ああして闘うことができるんです」
「で、でもっ。だったら今までは、私もいなかったわけで……」
「アリウミ殿は、常に誰かを守ろうとして戦い続けてきました。ファーヴナールの一件もそう。姉様と私を狙った暗殺者と対峙した時もそう」
「……ミアのためにディノと闘ったことも同じ。……わざわざバダルノイスまで、私を助けに来たことも同じ」
静かにレノーレが言い添える。
「美術館のテロに対応した時も、まぁ同じよねぇ」
そして、学院長も。
「精神の持ちようは、闘いに決して無視できない影響を及ぼします。アリウミ殿は少なくとも今回、最高の状態で闘うことができたのではないでしょうか」
どうして、と訊くより早く。
「……うん。……最近の本でも、後ろに控える大切な誰かのために戦う……なんてベタな話は見かけないぐらい」
レノーレがぽつりと零した。
「っ、ちょ、ちょっとそれどういう意味……」
と、抗議する間もなく。
「ほら、戻ってきましたよ」
止めようとした先ほどとは真逆、今度はポンと押し出すようにクレアリアが肩へ触れてくる。
「あ、あ。う、うん」
外周を回ったふたつの影が、出入り口の幕を潜ってきた。
英雄の帰還に、住民たちが一斉に沸き立つ。「ども、ども」と軽めに応じるその笑顔や振る舞いは、間違いなくよく知る幼なじみのものだ。
そしてこちらの視線に気付いた少年は、急にいつもの飾らない無遠慮な態度で近づいてきて。
彩花はというと、なぜだか少し緊張して。
しかし向こうは、そんなことなどまるでお構いなしに。
「おう、戻ったぞ」
「……う、うん」
目の前までやってきた流護は、普段と変わりない。
服の端がところどころほつれていたり、多少の皮膚の赤みやかすり傷程度はあったりするものの。
とても、たった今まであんなにも恐ろしい牛頭の怪物と闘っていたとは思えない。
「お、おかえり。ケガは……ないの?」
「……。あるように見えるか?」
検査でもしてみろ、と言わんばかりに彼は両腕を広げる。
少なくとも、ケガらしいケガはひとつもない。彩花の目にはそう見える。
「ぶっちゃけ今日は調子よかったのもあるけど……いや、あれだわ。俺、強くなりすぎたかもしれん」
「……なにそれ。調子よかったんじゃなくて、調子乗ってるんじゃん」
「そう思うだろ。でも事実なんすよ」
「心配したんだから」
「だろ。ん? あれ? いや、ちょっ」
流護が露骨に慌てた。その理由は彩花も分かっている。だって、もう明らかに目頭が熱いのだ。
「いや、泣くなって……ほれ、芋!」
「っ、え?」
「ふかし芋、一個取っといてくれって言ったろ。お前を芋キープ係に任命したじゃろ」
「あ……」
当たり前だが、そんなことなどすっかり忘れていた。
そこへしずしずとやってきたレノーレが、無言で芋の入ったカゴを手渡してくる。流護にではなく、彩花に。放っておいたらずっとそうしていそうなので、仕方なしに受け取る。
「あ、えっと……はい……」
「いや、レノーレ何でわざわざ……まあいいや」
流護も同じことを思ったらしい。どうせ渡すなら、彼女が流護に渡してしまえば早かったはずだ。
「……はい。もう、冷めちゃってるけど」
「おう。別に構わん」
仕方なしに差し出すと、流護はその最後の一個を受け取って思ったより控えめにかじる。
「……、っ、痛っ」
「え? 痛い?」
「いや、違う。空きっ腹に響いたんだよ。……ああ、うまい」
「うん」
「何だよ」
「なんでもないもん……」
「だから泣くなって」
「泣いてないもん……」
「何だってんだよ……!」
遅れてやってきたベルグレッテが、ジト目で二人を見比べてきた。
「あらあら。リューゴはもっとアヤカに安心してもらえるよう闘わないといけないし、アヤカはもっとリューゴを信じて泣かないようにしないといけないわね」
「え? なんかベル子さん怒ってる?」
「怒ってませんけど」
言いつつ、彼女はプイと顔を背けてしまう。
勝利の祝いと、散っていった者たちへの弔いを兼ねて。
騒がしい山間の宵は、どこまでも深まっていった。