643. 見えた世界
家屋倒壊の影響で周囲に漂っていた土煙が、ゆるやかな風に吹き流され退場する。
「!」
そして有海流護は、目を見張った。
仁王立ちで構えるガビム・ガヴジーンの右腕が、めきめきと音を立てて肥大化していく。煮えたぎる熱水の表面で弾ける気泡みたいに、筋肉の塊が次々と膨張していく。まるで映像の早送りさながらの速度で。
「なぁっ、何だ!? 何事だ!?」
「や、奴の腕が……!?」
遠巻きに及び腰となる傭兵たちが抱いた疑問の答えは、ほどなくして明かされた。
『封魔』の右腕だけが、元の二倍近くもの大きさに膨れ上がっていた。長さ、太さともに。
その急変は熱を帯びていたのか、黒い短毛の合間から白い湯気が立ち上る。
「なん……だ、あの腕は!?」
「成程……、これが奴の本領か。補完書の記述に新たな一頁が加えられるな」
エーランドの率直な反応と、アキムのシニカルな態度。対照的だが、驚きの根源は一緒だ。そして、
「……ええ。間違いなく新たな習性の発見と呼べるでしょう。是非とも改定しなければなりませんね」
レヴィンが静かに応じる。
「この場から、生きて帰ることができたのなら――」
緊迫した彼の声が、砂塵の残滓とともに一陣の風に流れて消えた。
一流の戦士たちですら感じるのだ。
牛面猿身の異形。その存在が醸し出す圧倒的な殺意。本能的に身の危険を覚えるほどの、濃密な空気を。
(……さて)
流護ももちろん驚きはしたが、動じはしない。
例えば天轟闘宴にて遭遇した『黒鬼』は、鎌の長さを倍に伸長させる隠し刃を備えていた。それと比べても、似たような変容といえる。
異様な頭部の大きさが不自然に際立つ印象のガビム・ガヴジーンだったが、むしろこの右腕のサイズでようやく釣り合いが取れたように思えた。といえどそれも片腕のみのため、全体的なアンバランス感はむしろ強まっている。
生物としては歪にすぎる風貌。
しかしむしろ、怨魔としては『らしさ』を増した。
一瞬の静寂。
(! 来る)
思うが早いか。
『封魔』は、これまでと同じく盛大に右腕を薙ぎ払った。
「う、わぁ!」
「ひいいいぃ!」
だがそれは、遠間に離れている傭兵たちが思わず身を屈めるほど。大気を攪拌するかのごとき一撃を、流護は大股のバックステップで回避する。
リーチが格段に伸びている。これはもう紙一重では躱せない。掠めるだけで人身事故ばりに吹き飛ばされるだろう。それどころか生じる余波ですら、人体に損傷を与えかねない。
「!」
そして、終わりではなかった。
巨大化した自らの右腕に振り回される動きで、『封魔』はぐるりとその場で横一回転。生じた遠心力を乗せて、再び横薙ぎの拳を打ち放つ。範囲、速度ともに桁違い。威力ももちろん倍加しているに違いないが、当然受けて確認してみるつもりはない。
戦車ですら吹き飛びそうな黒い残像を下がって回避すると、両者の間合いが大きく離れる。それから余韻のようにもう一回転し、巨体はようやくに前を向いて止まった。
そして睨み合う間もなくノシノシと歩いてきた『封魔』は、天を仰ぐほどに大きく右腕を弓引いていく。いっそ清々しいまでの『テレフォンパンチ』。その名称に由来する通り電話をかけているとしたら、それは冥府の獄卒に対してだろう。これからこいつをそっちに送る、と。
さあ、突き出される拳撃か。横方向への薙ぎ払いか。それとも振り下ろしの鉄槌か。
読み違えた瞬間に、有海流護は塵芥となってこの世から消え失せる。
(……ああ、無理だわ……これ……)
相手が人間なら、ある程度の予測はつく。そこに至るまでの闘いの流れや過去の経験から、立ち技格闘技の使い手として推し量ることはできる。そして少なくとも、こんな見え見えの一撃などどうとでも凌げる。
だが今、目の前にいるのは人知を超えた怪物だ。
思考も、筋量も、速度も、何もかもが違う。
防御など意味をなさない。被弾すれば終わる。
そんな『死』を齎す黒き拳は――、直線の軌道で放たれた。
「――」
奔流と呼べる。
あらゆる生物を死へと誘うだろう闇色の剛直。
(――無理。読めねぇわ。普通、ならな)
今の有海流護に迷いはなく。
地を這うほど低い、左斜め下方向へのダッキング。
右の肩口付近を通過していく『死』そのもの。殺意が具現化した颶風を肌で感じながらしかし、
「ヂッ――」
ガビム・ガヴジーンの鼻先に、有海流護渾身の右ストレートが突き刺さった。
手首を捻り、抉る。
肥大化した右腕に引っ張られるほど身体バランスが偏重し、さらにはそれを振り切った『封魔』。自然、カウンターの威力はこれまでとは比較にならないほど増大する。
「シッ――エエエェェィァ!」
空手家は咆哮とともに、会心の呼気で振り抜く。
ガビム・ガヴジーンの太い顎が跳ね上がり、赤黒い血飛沫が霧状に宙を彩った。
「き!? 効いたあぁッ! また効いたぞ!」
「ううおおぉ、あぁ、っ、あの『封魔』が……!」
傭兵たちの歓声。
これまで、どれだけ拳を叩き込んでも平然としていた怪物。そんな存在が明らかにダメージを負い始めている事実に、場が沸き立った。
が、
「――」
鮮血荒ぶ至近で、視線がかち合う。
見上げる流護と、見下ろすガビム・ガヴジーン。
怨魔の赤黒い眼光は、まるで怯んだ素振りなど見せてはいない。
上から下。顎を浮かされた怨魔は、その高みすら利用して次撃を打ち放つ。
天空から降ってきた右拳。破城槌じみた重撃を、流護は横へ飛びずさって回避。
だが、その一撃は周囲の全てに影響を与えた。
「うわぁっ! し、振動が……!」
「こっちにまで……!」
怪物の巨拳が大地を叩き、地揺れにも似た振動が円周状に伝播。爆心地は抉れ、辺りに土砂を撒き散らす。
「づっ……!」
大股で跳んだ流護も、石礫の散弾に晒されて目元を細めた。グリムクロウズの非戦闘民であれば、これだけでも致命傷になりかねないほどの威力。
そしてそれだけの威力は、流護がかすかに体勢を崩す程度には充分な衝撃を与えていた。
大小様々な砂礫が宙を舞う中。
流護の視界には、赤い尾を引く『封魔』の眼光と、水平に引き絞られ発射準備を終えた右の黒拳が映っていた。
獰猛な獣の速度を前に。
もはや分かっていても、射線から退避することは叶わない――。
――音すら消えた。
否、聴覚が傍受を放棄したのかもしれない。
石礫を弾き潰し、砂塵を引き裂き、ガビム・ガヴジーンの拳打が炸裂する。
「リュ――」
エーランドの叫びが最後まで発せられるより先に、その名を呼ばれるはずだった少年は回転しつつ宙を舞った。
被弾し、後方へ吹き飛ばされる――のではなく。
受けた威力に逆らわず、押されるままに身体を回転させて。
物理的に可視化した『死』。そうとしか呼べない怪異の剛拳をスリッピング・アウェーで受け流した流護は、その勢いを利用する形で跳躍した。
――武月流は禁忌の壱、貌滅。
着地ざま、『封魔』の眉間を抉り抜く右の肘打ち。
貌を滅すると命名されたその一手を受けてなお、怪物は倒れず踏み止まる。長い鼻の太い根元を窪ませながら、赤光放つ両眼で睨めつけてくる。
そして、即座の反撃。右が飛ぶ。
大雑把に振るわれたガビム・ガヴジーンの薙ぎ払い。丸太さながらの右腕に対し、流護は離れるのではなく逆に密着。脇の下の隙間に潜り込むことでこれを回避し、
――武月流禁忌の弐、轡發。
振り切って無防備な半身を晒した怪物の右脇腹に左膝を突き刺す。その勢いを利用し、折り畳んだ左肘を怪物の牛面へと叩き込む。これが『封魔』の右目へと突き刺さり、完全に潰した感触を伝えてきた。
だが、恐るべきは怨魔。
それら攻撃を受けながらも、まるで止まることなくガビム・ガヴジーンは左手をぶん回す。流護が離れると、その場で強引に一回転。さらに右の豪快な薙ぎ払いへと移行する。
(怯みすらしねぇ……! ったく、スーパーアーマーにも程があんだろ……!)
ここで流護が取った行動は、単純な回避ではなかった。飛んできた攻撃を避ける――ないし死角に入り込む、という挙動ではなかった。
薙ぎ払われる右腕。その起こり、その後についていく。軽妙な足捌きで、『攻撃の後を追う』。一回転して放たれる右腕の後から、同じく一回転してついていく。
怪物の周囲を密着してぐるりと回りつつ、回転の速い左右の拳の連打を叩き込む。
結果、『封魔』は遠心力を乗せた一撃を放つまでの間に、総計二十発を超える乱打の雨に晒される結果となった。
無論、自分を狙った大仰な振りかぶり――ひいては攻撃そのものに対し『後ろからついていく』という行動を取った流護に被弾はない。
「……こんな、こと……が、ある、のか……」
傭兵の誰かが発した呟きが、風に乗って消えていく。
「…………夢でも……見てるのか?」
かすれた一言が、小気味よく連続する殴打の音に飲まれていく。
「……あぁ、あの……『封魔』を……、」
戦況は今や、誰の目から見ても明らかなものとなっていた。
幾度目か。
右の正拳突き。直撃を受けたガビム・ガヴジーンが、千鳥足を踏んで後退する。
牛を象った奇なる面相は今や、大小様々な窪みが穿たれ変形していた。各所から赤黒い流れを滴らせて。
一歩、二歩。
無造作に間を詰め、有海流護は口を開く。
「――ふうっ。牛、お前ガチでクソ強ぇな。もう百発以上はブチ込んでると思うけど、マジ倒れもしねーもん」
それも、全て『本気』の拳だ。殺すつもりで叩き込んでいる攻撃だ。
「でも、お陰で大体分かった。上位の怨魔と闘るならもうちっとパワーつけねーとなって思ったし、その場合はやっぱスタミナ配分も変わってくるよなって思ったし。この一戦、得るものはデカかった」
風を裂く右。
接近を阻むように振るわれた『封魔』の腕を――、その前から見えていた白い線を、流護はバックステップでいなす。
その自らの攻撃の勢いに引っ張られる形で、ガビム・ガヴジーンは足下をぐらつかせた。
「お前の名誉のために言うと、マジでお前はトップクラスの敵だった」
接近を再開する。
「ただ、今日の俺はベストコンディションでめっちゃ調子いいってのもあるけど」
何の驕りもなく、
ごく自然と、その言葉が流護の口を突いて出ていた。
「――――このゾーンに入った俺に勝てる奴、ガチでいねえと思うわ」
そんな自負を粉砕する。
そう言わんばかりの『封魔』の拳が、またも突き出される。
分類するならば右の大砲。否、『大砲』と表現しては貧弱に変じてしまうほどの殺撃。
おそらく、神ですら殴り殺せるであろう究極の暴力。
だが、全てが無駄なのだ。
あらゆる攻撃の軌道が、直前に白い線として見えているから。
『おう。見えたじゃろ?』
振り返れば、見知った小さな姿が屈み込んでそれを指差していた。中空に漂う白い粒子を。
うん。見えた。
白い、まるで滞留する粉雪か蒸気みたいに。
これか。これが。
「――これが、あんたの見てた世界なんだよな――」
あの雪国で垣間見た夢の光景に、今。
現実が追いついた。
「シッ――」
回避ざま、六発。伸び切った怪物の剛腕そのものに、上下左右から拳を叩き込む。
予め見えていれば、腕を待ち構えてこうした迎撃もできる。
ズドン、と大地を震わせる揺れ。
ガビム・ガヴジーンが片膝をつき、ダラリと右腕を投げ出す態勢となったことによる振動だった。どうにか立ち上がろうとするも、言うことを聞かなくなった右腕が重しとなりまごつく。
トン、トンと軽快に芝生を蹴った流護が駆ける。
そして、未だ起き上がれずにいる『封魔』の顔面に右の飛び膝蹴りを叩き込んだ。
怪物の鈍い呻き。そして、噴水じみた黒い濁流。鼻を砕かれた怨魔は盛大に態勢を崩し、しかし辛うじて踏み止まった。放水のように振り撒かれる血風を、流護は身を翻して回避する。
残る左腕を死に物狂いで振り回す『封魔』だが、もはや速度や力強さが失われている。そのうえ右目を潰され隻眼の今となっては、狙いも定まっていない。
(見えねえか? こっちは、何もかんも……見えすぎるぐれえだぜ)
あまりにも全てが見通せて。
目の奥が痛い。
脳が焼き切れそうなぐらいに。
「い、いい、行けるぞ行ける! 完全に突破口が生まれた、鼻だ、潰れた鼻を狙えぇ!」
「すっすすすげぇ! かっ、勝てるぞ!? あの『封魔』に! 時間を与えると何をしてくるか分からん、今のうちに一気に畳み込めぇ!」
周囲から傭兵たちの歓声がひっきりなしに飛び交う。
未だ片膝をついたままのガビム・ガヴジーンの右側、即ち死角に回り込んだ流護は、腰溜めに右腕を引き絞り――
攻撃せず、一旦大股で下がった。遅まいて気付いた怨魔が首を巡らせると、濁流のように滴る血が振り撒かれる。
「な!? 何故、攻撃しなかった!?」
「気付かれちまったじゃねえか……!」
あえて反対側に回り込んだ流護は、流血していない怨魔の左頬にワンツーを叩き込む。
割り込んでくる相手の左裏拳を丁寧に潜って躱し、右をねじ込む。腕を引き戻して、もう一発……は、放たず後方のステップ。角を振り乱す『封魔』、血飛沫が舞う。
「な、何をやってる……! 奴は膝ついてるんだ、効いてるんだ! もっと一気に畳み掛けんと……!」
一撃、一撃。
時折飛んでくる反撃を丁寧に回避しながら、隙間を縫う形で攻撃を差し込む。必然、手数は少なくなる。
そうこうしているうち、流護の視線が自然と上向いた。
ここまで片膝をついたままだったガビム・ガヴジーンが、猛然と立ち上がったのだ。
「うわあぁっ、ほれ見ろ! 立たれちまった!」
見下ろす赤い隻眼。滴り落ちる赤黒い血流。
多数の傷を負ってなお、むしろだからこそ漂う異形の風格。その姿はまさに、地獄の扉を開けてやってきた破滅の使者か。
そんなおぞましい存在を前に、ただの人間でしかない少年は平然と言い放つ。
「そろっと、終わりにしよーぜ」
そんな言葉を解した訳でもないだろう。
オオオオオオォォ、と吼えたガビム・ガヴジーンが、もはや幾度目となるかも分からない右拳を撃ち放つ。
否、拳ではなかった。
上から下へ。
流護の連撃を受けて握れなくなった指をそのままに、腕そのものを叩きつける挙動だった。
直上から地表へと注がれる、皓然たる一筋の光。
ゾーンへ突入した有海流護の瞳には、それは天空から紡がれる光の柱のようにすら映っていた。
「――――」
予告線となるそのラインを避けて捌いた足の間際で、芝を生やした固い地面が割れ沈む。
白い線を正確になぞって振るわれた黒い暴力が、触れるもの全てを圧壊する。
鉄の杭でも打ち込まれたかのように陥没する大地。並の人間ならば、直立すら維持できず倒れ込んでもおかしくない振動。そして撒き散らされる散弾めいた土砂。
直撃を避けたとて、そうした余波だけで死に至りかねない究極の暴の乱舞。
この圧倒的な副産物に対し、流護は踵をハの字に開いて立ち、脇を締め両拳を肩の高さにて構えた。
「――ヒュッ」
――三戦立ち。
大地の脈動をこの構えにてよろめくことなく完全に凌ぎ、石礫の散弾を廻し受けで残らず捌き切る。
直後、大地が光った。
「――――」
否、そうと錯覚する『白線』だった。
ガビム・ガヴジーンの前方およそ百八十度、扇状に展開した白の領域。圧倒的な攻撃範囲、その予兆。
放たれたのは、怨魔の肥大化した右腕による足払いだった。
いや、足払いなどという生易しいものではない。
巨大な腕を大地へと寝かし、そのまま横向きに薙ぎ払う。
地表に存在する全てが倒壊するであろう、『掃撃』とでも呼ぶべき滅殺の暴威。
きっと例外なく、全ての存在が薙ぎ撥ねられる。
対象が、『地表に存在していれば』。
「――、と、跳ん……」
「高っ……」
誰かの呟き。上向く皆の視線。
描く放物線。
すれ違い、背中合わせとなっていた。
大地を右の剛腕で薙ぎ払ったガビム・ガヴジーン。その背後に立つ有海流護。
――両膝をつき、倒れゆく。
太い首を異様な角度へねじ曲げた『封魔』。不倒の怪物と恐れられたガビム・ガヴジーンが、前のめりに草葉の地面へと傾いていく。
何も深く考えることなく。
自然な一言が、有海流護の口から紡がれた。
「――――追いついた……ってことでいいよな、師匠」
この怨魔によって起こされる最後の振動が、夜の山間に響き渡った。