642. 牛頭鬼
(利き腕は右。軌道はほとんど真横だけ。殴るよりはこっちを掴もうとしてるんだろうけど、筋肉がありすぎるせいで慣性が掛かって、全弾フルスイングになってる。その分、振りがデカくて微妙にバランスを崩してる)
もう何度目か。水平の軌道で薙がれる、ガビム・ガヴジーンの右の剛腕。
確かに、とんでもない重撃だ。まともに当たれば、ちょっとした建物なら瓦解するのではないだろうか。
しかし。
最小限のスウェーで範囲外へ逃れた流護は、時計回りの足捌きで『封魔』の側面へと回り込む。
そしてタタンと踏み込み、牛の横っ面へと右ストレート一閃。
意に介さず向き直って繰り出される相手の左腕を潜り、胴体にボディジャブ・ストレートを叩き込む。
即座のバックステップで、またも中間距離へと戻す。
そして時計回り、相手の外を取る動きを継続する。
(もう掴んだぜ)
フック気味に右を振り抜いた相手の背中側へ回る形で陣取り、そこから攻撃すれば反撃は来ない。返す刀で繰り出される左はどうしてもワンテンポ遅れるため、さほど脅威にはならない。
全体像に比して脚は異様に短いため、攻撃に用いられることはない。他にも攻撃手段を持っているかもしれないが、外見からして最も長いリーチを誇るのは間違いなくその腕だ。
(分かってくりゃ、好きな位置に入れる。で、入れるなら……)
すり足で間を詰めると、反射的に飛んでくる右腕の振り回し。
これを掻い潜った流護は、刹那の横移動で反時計に踏み込む。そしてガビム・ガヴジーンの左脚部――正確には膝へ対し、踏み下ろすように右の足裏を叩きつけた。
関節蹴り、である。
地味に見えるかもしれないが、極めて有効な技だ。相手の膝を割って行動不能に陥らせることはもちろん、前進を制する抑止ともなる。
実は現役格闘家の間でも、「この技の使用は禁止すべきかもしれない」との声が上がることがある。それほどに危険な攻撃。膝に甚大なダメージを与え、今後の選手生命や人生そのものに大きな傷を残しかねない一手。
無論、今この場で怨魔相手に躊躇はない。
敵の膝を砕くつもりで繰り出したそんな渾身の関節蹴りは、
「ん!?」
がつ、と。
空手家の足裏に硬い感触を返し、そこで止まった。
蹴り折るどころか、微動だにしない。
まともに膝を踏まれたはずの『封魔』の牛面には、相変わらず何の変化もない。
(……マジか)
そも、感触がおかしい。
何だ、この膝の皿の硬さは――
「っ、!」
間一髪、顔面を鷲掴みにしようと伸びてきた左腕を下がって避ける。
「とっ、とととと……!」
のけ反り気味のスウェーとバックステップで間を離した流護は、やや慌てて構えを取り直した。
(あっぶ……! いや、なるほどな……!)
全身の重厚感に比して、矮小にも見える脚部。
だが、この巨大な頭部……そして、爆発的なパワーを内包する肉体を支えているのだ。見た目ほど脆くはないらしい。
骨と骨の継ぎ目である関節。構造上絶対に弱点となるはずなのに、そんな常識すら通用しない。というより他の部位に比べれば事実脆いのだろうが、その強度が異常なまでに高い。
つくづく、怨魔とは埒外の存在なのだと思い知らされる。
数十回と繰り返せば効くのかもしれないが、そんな命懸けのストレステストなど試す気にもならない。
この分だと、他の急所に関しても同様だろう。人間と同じように効くとは考えないほうがよさそうだ。
三日月蹴りで肝臓を突くことも考えていたが、内臓の位置が人間とは違っている可能性すらある。
(貫手も……やめたほうがいいかもな。指やられかねん)
ちょうど相手の動きに慣れてきた頃合いだったのでピンポイントな急所攻撃に移行しようかと思っていたのだが、急がば回れか。
なるほど、タフファイトになりそうだ。
一撃必殺の攻撃力、そして堅固極まる防御力。これまでに討伐事例がない、というのも頷ける。
改めて時計回りの位置取りを意識しつつ、流護は幾度となくフック気味に振り回される『封魔』の腕を潜って自分の攻撃だけを当てていく。
焦らず、堅実なヒットアンドアウェー。
それが安定し、均衡と錯覚しそうになった頃合いだった。
「!」
左。
横殴りのそれがよぎると同時、ここで直線軌道の右。まっすぐ伸ばされた怨魔の腕が、流護の顔面を掴もうと迫る。
散々に横の軌道を見せてからの、唐突な直線。
前触れなき変化は読みでは対応し切れず、またフック気味の残像とタイミングに慣れている状態では咄嗟の縦の動きに反応できない。
つまり、死亡確定。
「――――」
こんなことで覆されるのだ。人と怨魔の戦闘は。少しずつ、緻密に積み上げてきた戦術が、馬鹿らしいほどにあっさりと。
(ま、それも)
――普通であれば、の話だが。
黒い指閃をヘッドスリップで回避した流護は、頭皮に豪風を感じながら完全なるクロスカウンターをガビム・ガヴジーンの鼻っ面へと叩き込んだ。
これまでとは違う。
直線の動きに対する、直線のカウンター。
その一撃はより深く、より強烈に突き刺さる。
手首に捻りを加えた渾身の右ストレート。これを浴びた怪物は、
「! う、うおぅっ! あ、あの『封魔』が……!」
「ぐ、ぐらついただと!?」
傭兵たちの歓声が示す通り。わずかによろめき、その短い両脚をふらつかせた。
「お、効いたな。判定なら大差つくぞ、今のは」
反撃を成功させた少年はニヤリと笑ってやる。
無論、この一戦にジャッジなどというものは存在しない。あるのはどちらかが斃れる完全決着のみ。その勝者となるべく、引き続き堅実に確実に――
「!」
それは、これまでにない動作だった。
仕草については緩慢かつ無機的な印象が強かった『封魔』は、グルンと素早く首を巡らせて正面の流護を視界に捉えた。重厚な容姿にそぐわぬ、虫めいた機敏さで。
顔の両脇に備わる牛の眼。光の加減だろうか。そこに、赤黒い色彩が交ざる。そして、
(!? 直線……、この高さ……これ)
流護は考えるより先にその場へ屈み込んだ。地を這うほど低く。
直後、頭上を豪風が薙ぎ払う。
「うああああぁぁ!? と、跳んだぁっ!?」
傭兵の誰かの叫びで状況を察する。同時、地を震わせる振動。
体当たりさながらの勢いで飛びかかってきたガビム・ガヴジーンが、咄嗟にしゃがんだ流護の上を通過。着地することで巻き起こった揺れだった。
オォ、とエンジンの駆動音じみた吠え声。
着地するや否や、怪物は振り返りざまの左裏拳で大地を薙ぎ払う。
「うおっとぉ!」
流護は前方に転がることでこれを回避。側転を使って立ち上がる。
「攻撃の質が、変わった……!」
エーランドの声に緊張が混ざる。
「これまでの『封魔』は、リューゴ君を捕らえようと腕を振り回していた。それが……」
「成程。戯れはもう止めた……『殺す気』になった、ということだな」
レヴィンとアキムが分析する。
そして、それは正鵠を射ていたに違いない。
突進。巨大な頭部を前傾に突き出したガビム・ガヴジーンが、両足で猛然と大地を蹴る。
「あっぶ!」
闘牛士ばりに流護がその体当たりを躱すと、
「うわっ……うわあああぁぁ、逃げろぉ!」
離れた位置で観戦していた傭兵たちがクモの子を散らしたように退避。
まさに野牛じみた疾駆で直線を走り抜けた『封魔』は、そのまま止まらず小さな空き家に突っ込んだ。両側壁に穴を穿ちながら貫通し通過、ここでようやく脚を踏ん張ってブレーキをかける。芝生の地面がごりごりと二本の轍を刻んで削れ、土煙と草葉を盛大に舞い上げた。
一拍遅れて、柱を失った空き家は埃を渦巻かせながら縦に潰れる形で崩壊していく。
「おいおい……」
ちょっとした建物なら壊せそうな攻撃力だ、とは思っていたが。
「マジで壊しやがった……、ってまずいな」
まさに猪突猛進。すぐには止まれない。
空き家ならまだしも、それこそ仲間たちや村民らが避難している集落中央のテントにでも突っ込まれれば大惨事となる。
「待った、待ーった。こっちで闘ろうぜ」
流護は走って『封魔』を追いかけ、土煙の中に佇む影と対峙した。
薄い砂埃の向こう。わずかに垣間見える血走った怪物の眼光が、流護を睨めつけている。毒々しいまでのその輝きは、やはりただの牛のものではありえない。それでいて、かつて対峙した『あの怨魔』と共通する何かを感じさせる。絶対的な強者のみが漂わせる威圧感、風格。そういったオーラを。
「……いい目してやがんじゃねーか」
少年は思わず呟いた。
そう、同じだ。
あの、一年前のファーヴナールとの一戦と。
怒りを露わにした邪竜に対し、為す術なく窮地へと追い込まれた。ベルグレッテやミアの助力がなければ、確実に敗死していた。
そんな自分を――今、踏み越える。
少し前から、兆候はあった。
『おう。見えたじゃろ?』
少年は腕をダラリと下げ、完全なノーガードで敵と向かい合った。この怪物を相手に防御など意味がない。ゆえに構えを放棄したその佇まいは、全ての攻撃を被弾せず捌き切る決意の証でもあった。
(――――集中しろ)
研ぎ澄ます。高めていく。
緊張はない。恐怖もない。
あるのは――、確信だけだ。
己は今や、その『境地』に至りつつあると。
小学四年生の夏だった。
『はーっ、はーっ! ちっくしょー、一発も当たらねー! 何でカスりもしねーんだよこのインチキジジイ!』
外からの蝉の声が木霊する道場内に、甲高い少年の声が響き渡る。
ぜえぜえと肩を上下させる流護少年に対し、向かい合う相手――齢七十を迎えようとしているはずの師は息すら切らさず「ほほ」と笑った。
『ゾーン、ってやつじゃな』
道場の床に座り込む老人――片山十河は、己の足を抱えるように胡坐をかいた。そうした動きのひとつひとつに、老いを感じさせない軽妙さがある。
『ぞーん? って何だよ』
『別名、フロー状態ともいう。漫画なんかでよくあるじゃろ。「敵の動きが……見える!」みたいなん。一言で言や、集中が高まって本来の能力以上のパフォーマンスを引き出せるようになる状態じゃな。ワシぐらいになると、日課の朝の鍛錬でスッと入れる。ダメな日もあるがの』
『彩花。師匠がついにボケちまった』
『え……どうしよ……きゅ、救急車、よぶ!?』
縁側で見学していた幼なじみの少女に話を振ると、彼女は小さな手で携帯電話を握り締めて露骨にうろたえた。
師匠はというと、
『ええいボケとらんわい! 何でそんなドライなんじゃ。うわすげー、って盛り上がる話じゃろ、お前さんみたいなキッズなら』
『おれが目指してんのはガチのリアルろせんだ。そんな子供だましの話なんてどーでもいいし』
『何を言う、フィクションじゃあないぞ。そういった境地に至ったアスリートは何人もおるでな』
曰く、羽が生えたような浮遊感を得て軽快にコートを駆け回った天才テニスプレーヤー。
曰く、高みから全てを俯瞰する視点にてあらゆる攻撃を捌いてみせたボクシングの世界王者。
曰く、身体に纏うオーラを自覚し激しいタックルにも傷ひとつ負わなかったラグビー日本代表。
『そんなんもう能力者じゃん。あるわけねーだろ。彩花、今の録音しといたほうがいいぞ。いかさま道場だぞ、ここ』
『え……い、いかさま!? け、警察、よぶ!?』
『最近のキッズは夢も希望もないんか』
悲嘆しつつ首にかけたタオルで顔を拭く師に対し、少年は真っ当な疑問をぶつけてやる。
『じゃあさ、師匠はその「ぞーん」になるとどーなんだ?』
『そーさな。これから飛んでくる攻撃が、事前に白い線として見えよるんよ。ぶっちゃけたハナシ、その線から身体をずらせばそれだけで全弾回避のノーダメよ』
瞬間、言葉に詰まった。師匠が、あまりにも当たり前のように言うから。そして、
『いやいやいや……そんなんだったら、攻撃なんて一発も当たらねーじゃ……、……!』
自分で言いかけて気付く。
――はーっ、はーっ! ちっくしょー、一発も当たらねー! 何でカスりもしねーんだよこのインチキジジイ――
つい先ほどまでの組手の光景。まさに自分が経験したその出来事を。
流護は立ち上がって身構えた。
『うわあああぁ彩花、妖怪だ! このじじい、妖怪だー!』
『え!? 妖怪たいじって、だれに頼めばいいの! 警察!?』
『ゾーンは信じんのに妖怪は信じるん?』
ほっ、と身軽に立ち上がった妖怪は当然のように笑った。
『流護がこれから鍛錬を続けていって一流の域に達した時、どんなゾーンに入るかは分からんが……それを楽しみに鍛えてやるとするかのう。全く奇異なモノを得るか、ワシの影響を受け後に続くか……いや、簡単にその域に至れるもんでもなし、しかもお前さんはひねくれ者じゃからなー。何もないかもしれんがのう。ほほ』
『今の録音したか、彩花』
『え、えっ』
ふーっと息を吐きながら、少年は構えてステップを刻み始めた。
『証拠だよ、証拠。いつかおれがこのじじいをブッ倒して、録音しといた今の寝言を聞かせてやんだよ』
強気な言葉を吐きつつも、続けて言った。小さく。けれど、はっきりと。
『……大丈夫だ、師匠。おれ、師匠を一人にはしないから』
きょとんとしたような彩花と――、面食らったような片山十河。
ただ、思ったのだ。
師匠が、寂しそうだと。
ただ一人そんな境地へ至り、競う者のいなくなった孤高の域。自分以外に誰もいない終着点。
時折……妙な寂しさを覗かせていたこの老父の根源が、そこにあるのではないかと。
幼心ながら、漠然と感じたのだ。
だから。
『おれがいつか、師匠に並ぶ。ぜーったい、師匠を一人になんかしねえからさ』
忘れはしない。
その言葉で破顔した、しわくちゃな師の表情を。