640. 一年前の今日
「え? 何だ? この牛」
集落の外周部に位置取ってドボービークの動向に目を光らせていた有海流護だったが、そろそろ終わるかと思った頃合いに響いた轟音や怒声。
出所は村の中心部。
何事かと駆けつければ、謎の牛を遠巻きに、エーランド、アキム、レヴィン。集まってきたダスティ・ダスクの面々も数名。
瞬間、流護は戦闘が終わったのかと勘違いした。
全ての敵を撃破し終え、民族的な勝利の儀式でも始まったのかと。それで誰かが、牛の被り物でも披露しているのかと。
「!」
だが、そうではないと気付く。
その存在の足下に横たわる、原形が推し量れないほどに圧壊された誰かの死体。すぐ近くには、見覚えのある曲刀が転がっている。
「――……」
コキリと首を一度だけ横に倒した流護が歩を進めると、今さら気付いたかのように『牛』が視線を向けてきた。その顔は、見るからに牛以外の何者でもない。それにしては邪悪にすぎる気配を纏っているが。
「お前、顔のデカさの割に胴体小さすぎない?」
指差しつつ話しかけてみるが、もちろん相手は人の言葉など返さない。ただ、感情の全く篭もらない不気味な瞳を寄越すのみだ。
「いや、やっぱおかしいでしょ」
アンバランス、という表現でも足りない。
四頭身ほどだろうか。デッサンを失敗したようにしか見えないが、ともすれば矮小に思える猿人じみた黒い体躯は、それでも隆々とした筋肉によって構成されている。手のひらなど、不自然なぐらいに分厚く大きい。頭部のあまりの存在感ゆえ、比較的目立たないだけだ。
しかしある意味、これぞ怨魔らしい特徴。
人の本能的に、違和感を覚えるような造形。理にそぐわない習性。そして常軌を逸する能力。
通常の生物の枠からはみ出たような異質さこそが、怨魔の怨魔たる所以でもある――
「リューゴッ!」
エーランドの叫びだった。
「……やめるんだ。そいつに、近づくな……!」
震えた声。勝ち気な性格が目立ったはずの彼は、今にも崩れ落ちそうな顔をしていた。ひどく顔色が悪い。
それは傍らに立つレヴィンも同じで、現況を注視しながら離れた位置で輝く光球の維持に集中力を削られているようだ。
「こいつは何なん?」
ひとまず足を止め、拳を鳴らしながら誰にともなく問うと、答えたのはアキムだった。
「……『封魔』、ガビム・ガヴジーン。過去、討伐に成功した者のいない悪夢のような怪物だ――」
「はあ。そりゃまた大物すね。何でそんなのが出てきたんすかね?」
「……それは分からない。だが、恐らく――同じなのだ。我々、人間と」
「……、は? 何言ってるんだ、あんた。言うに事欠いて、怨魔がおれたち人間と同じなど……」
震え声で異を唱えるエーランドに対し、アキムは弱々しく首を振る。
「この怪物は、移動能力にやや難を抱えている。それはつまり、獲物の狩りに優れていないということだ。こうは考えられないか。ゆえに、『信奉者たち』がその代わりを請け負おうとした――」
「!」
山中の集落に目をつけたドボービーク。遅れてやってきたオーグストルス。連中は、松明の火を消してまで襲うという周到な作戦をも用意していた。
それはなぜか。
捧げるため、だったのではないか。
逃さず確実に人間たちを仕留め、己がかしずく『封魔』へと貢ぐつもりだったのではないか。
怨魔は存外、外的要因によって予期せぬ行動に打って出る。
かつての学院の一件のように。
あれは邪竜に追われたドラウトローが遁走を図ったことで生じた結果だったが、今回は違う。
逆だ。
単純極まる、強者への服従。
それはまるで、エーランドがレヴィンに忠誠を誓い、アキムがヴァルツマンに心酔したように。
そして配下に荒事を任せ、支配者のごとく遅れて堂々とやってきた『封魔』はしかし、多く獲物が生き残っている現状に戸惑ったか意外なものを感じたのか、それとも状況を把握するためか――とにかく動きを止めている。悠長に、堂々と。それが強者のみに許された佇まいであるがごとく。
「一理、あるやもしれません」
呻いたのはレヴィンだった。
「このような怨魔が以前からこの近隣に棲息していたのなら、間違いなく厄災と呼べるほどの被害が出ていたはず……。遠方からこの西端へやってきたのなら、やはりその途上で甚大な被害が出ていたことでしょう。しかし、そのような事実は確認されていません。つまりこの怨魔は、近頃までどこか遠からぬ場所にて休眠していた。それが目覚め、獲物を求めて彷徨うようになった……。その圧倒的な力で、他の怨魔たちを従えて……」
「なるほど。つまり」
流護は歩みを再開する。
「こいつを倒せば終わり、って訳だな」
「そ、そうじゃないだろ! 人の話聞いてたのかあんた!」
エーランドが大げさに手を振る。まあまあ、と流護は苦笑し、
「この牛がやべーやつなのは分かった。けど戦うにしろ逃げるにしろ、誰かが相手しとかんきゃでしょ。とりあえず、俺がやるから」
「リ、リューゴ君……」
レヴィンは光源の維持による疲労の色が濃い。学院長の幻覚などももしかすれば有効かもしれないが、下手に幻を見せた結果、予測不能に暴れ回られても困る。
加えてこの怨魔は、見るからに肉弾戦を得意とするパワータイプ。であれば――
「ここは、俺が適任だ」
言い放ち、流護はずかずかと『封魔』へ近づいていく。
もちろん、逃走のための時間稼ぎをするつもりなどない。『終わらせる』つもりで。
それに、簡単でいい。
まるで絶対の王がごとき振る舞いを見せる『封魔』。
そして、己こそが最強だと自負してやまない有海流護。
自分より上なんて認めない。
そんな奴らがぶつかって、どちらが勝つか。
この上なく単純で分かりやすい構図だ。
討伐事例がない、などという前評判など今さら気にもかけない。あの巨大鹿のような怪物である『暴食』ズゥウィーラ・シャモアも、かつてはそう呼ばれた怨魔だった。
「ま、待――」
エーランドが言葉を発し切らないうちに、間合いは接近戦の距離へ。
――直後、時間がすっ飛んだ。
そう錯覚するほどの速度だった。
微動だにせず棒立ちで様子を見ている風だったガビム・ガヴジーンが、突如として右腕を振るったのだ。
ぼうん、と重爆の風切り音。
子供の腕ほどもありそうな五本の太い指が、空転して大気を薙ぐ。
おもむろに相手を捕まえようとした挙動だった。掴まれればどうなるのか、それは至近の大地に横たわるヨーダンが示している。
だが。
「――遅えよ、牛」
ばっがぁん、と破砕音が夜空に木霊する。
掴もうとしたガビム・ガヴジーンに対し、その手を潜って躱した流護が右の正拳突きを叩き込んだ音だった。
腕を伸ばし切り、手首をまっすぐ。衝撃の分散しない、芯で捉える一撃。間合いも完璧。
即ち、ドンピシャのカウンター。対人におけるような無意識下の手加減もなし。グリムクロウズの人間であれば確実に頭を粉砕している。
それを鼻先でまともに浴びたガビム・ガヴジーンの反応は――
ギョロリ、と黒一色の瞳で流護の顔を見据えてくる。ただそれだけだった。
――硬い。
生半可な打ち込みでは、殴った拳のほうを痛めそうだ。
冷静に見極めた空手少年は二歩分ほど下がって間合いを調節、アップライトに構えニヤリと笑みを滲ませる。
「こりゃ、久々に殴り甲斐ありそうだ」
「無茶だ、やめろリューゴ……このガビム・ガヴジーンは、ファーヴナールすら縊り殺すほどの力を持つ怪物なんだ。いくらあんたでも……たった一回捕まれば、それで……!」
まだ短い時間だが、よく分かった。エーランドがいい奴だということは。
「へー。じゃ、尚更ちょうどいいじゃん。ファーヴナールより強いモン同士、どっちが上か比べようぜ」
強がりの大口ではなかった。
――藍葉の月、六日。
あの『邪竜』と流護が死闘を繰り広げたのは、奇しくもちょうど一年前の今日となる。
あれから、己がどれほど成長しているのか。この世界で、真に最強を目指していけるのか。
この闘いは、それを見定める試金石となるはずだ。
「ほれ、挨拶はこんなもんでいいだろ。始めようぜ、牛」
どんな心境の変化があったのか。
動きの少なかったガビム・ガヴジーンは、ここで初めて咆哮を発した。
おん、と短く。
さして大きくもない声量。牛のそれとは似ても似つかぬ、重厚な機械の駆動音を思わせる異質さ。
だがその一声に、周囲の草葉がザァッとさざめいた。森のどこかから、動物たちの怯えるような鳴き声が次々に連鎖する。
これは超絶の強者が放つ、全てを竦ませんとするかのようなウォークライ。
「――いいね。行くぜ」
しかし、対峙する少年だけはそれに昂る。
応えるように。
コォ、と短く息吹を吐いた流護は脚を使い、その場でステップを刻み始めた。