638. アンテロープ
「ぐ、うっ!」
風を渦巻かせた防御術で受けてなお、身体が横へと傾ぐ。
拳や爪というよりは、腕。丸太を真横に振るったかのごときオーグストルスの大雑把な一撃で、エーランドの肉体は易々と宙へ浮く。
仮に防御をしくじり直撃をもらうことがあれば、人の身など文字通りただの肉塊へと変じることだろう。
「鬱陶……しいぞッ!」
しかし、若き騎士には恐れなどない。あるのは、怨魔という存在に対する嫌悪感と怒りだけだ。恐怖はない。そうあるよう研鑽を積んできたのだ。
横に飛ばされながらも術を切り替え、神詠術で形作った長槍を顕現。弊絶風貫と名付けた相棒のその穂先を、黒き怨魔へと向かって一閃する。
「!」
しかし、目を見張るべきはその怪物の機動力。黒塗りの肉体はまさに影のごとし、ススッと軽妙な足捌きで下がって攻撃の範囲外へと逃れる。
そして、下がった勢いを瞬時に前へと転換。
オーグストルスは爆発的な踏み込みでエーランドの眼前へと迫り、右腕を叩き落とす。人間の身体能力では決してなし得ない芸当であろう。
「ちぃっ!」
即座に防御術を再展開、上からの拳を受け止める――が、
「……、ぐ!」
重い衝撃に押され、思わず膝が曲がる。
集中を乱すな。術の制御を一瞬でも失えば、その瞬間に――
左。
オーグストルスは上から落とした右腕を風渦巻く防御術へと押しつけながら、真横の軌道で左腕をぶん回した。
「っ!」
防ぎ切れない。
エーランドがそう判じたのと、怨魔が身を翻して距離を取ったのは同時だった。
冷たい風。
横から迸った銀色の剣閃が、ヒュオンと凍りつくような冴えた音を纏う。
「ちっ、まーた避けやがって」
悪態をついたヨーダンが握った湾曲する剣には、白い煌めきを放つ氷の欠片が固着していた。不規則で鋭利な凹凸を宿すそれは、斬り込めば傷口を広げる補助的な刃の役割を果たす。頑強で鳴らすオーグストルスといえど、これをまともに受けたくはないらしい。
「デケェ図体して、なんつうすばしっこさだよ……この野郎は」
そんな得物を携えた中年傭兵は苦い顔で悪態をつく。賞賛でも強言でもない、心からそう思ってうんざりしている口調だった。
「――」
一呼吸。
エーランドは、己が属性たる風のごとく疾駆する。足に旋風を纏わせ、一瞬でオーグストルスとの間を詰める。
「おい馬鹿、無闇に突っ込むんじゃねぇ――」
うるさい。僕に指図するな。
後ろから届くヨーダンの静止を振り切りながら、少年は即座に弊絶風貫を顕現、横一文字に薙ぎ払う。黒き怨魔は、即応し影めいた滑らかさでザッと後方へと踏み下がる。そして、
(よし、来い……!)
ここまでの応酬から推測できる。
退いた勢いそのままに、この怨魔は突っ込んでくる。
そこを貫く。
「……、」
はず、だった。
オーグストルスは即座に反撃へと移ることなく、膝をわずか屈めたままでその場に留まった。そして、刹那の溜めを置いてから飛びかかってきた。
「……っ!」
機をずらされた。
時間にすればほんの一秒前後。しかし一瞬一瞬の判断が生死を分ける実戦において、この間は致命的。
すでに攻撃動作へと入っていたエーランドは止まれない。回避は不可能。それゆえに、弊絶風貫を虚空へ消して防御展開。自分から突っ込む形で、オーグストルスの右拳を受ける形となった。
「が……!」
渦巻く風の盾を浸透してなお届く、剛腕の破壊力。堪え切れずひっくり返ると、勢いに乗ったオーグストルスがのしかかるようにして拳を打ち下ろしてくる。
(こ、の……)
してやられた。怨魔ごときに。
読み切ったと思いきや、あろうことか逆手を取られた。
「小、賢、しいんだよオォォ――ッ!」
ほとんど馬乗りの体勢から降ってきた黒い拳。首を捻ってこれを躱したエーランドは、次撃が来る前に防御を放棄、弊絶風貫を召喚。下から串刺しにする勢いで突き上げる。が、手応えはなく残像を貫いたのみ。怨魔はまたも大きく飛びずさり、一撃を回避していた。
「ハァ、ハァ……!」
弊絶風貫を支えにして立ち上がる。
「馬鹿野郎、何つう無茶してやがる!」
ヨーダンの怒声は真っ当だ。
無茶どころか、命を投げ打つ行為だった。仮にオーグストルスの二撃目のほうがわずかでも速かったなら、防御術を解いたエーランドは確実に死んでいた。
「何をムキになってんだ、ちょいと頭冷やせよ兄さん」
「――うるさいよ、おじさん」
ムキになるに決まっている。
エーランド・レ・シェストルム。精鋭部隊『サーヴァイス』の五番手。
そう、未だに五番目だ。レヴィンを支え、少しでもその肩にかかる重圧を軽くすると誓っておきながら。
齢十六とは思えないほどの実力者だとか、リズインティ学院生の中では最強だとか、将来有望な若き羚羊だとか――やたらと耳に届いてくるそんな賞賛には意味も興味もない。
(僕は……レヴィン様の傍らに立つ柱であらねば)
視線を横へ移すと、少し離れた厩舎の向こう側で中空に輝く白い球体が見える。バルクフォルト随一の騎士が維持するそれによって、今この場は昼間と紛うばかりの視界が確保されている。
例えば、神詠術との親和性が高い白玲鉄製の剣先に雷光を灯し、松明代わりとする。基礎的な力量を持つ詠術士であれば、さして難しくもない技術だ。
しかし今、レヴィンが実現していることは別格。
本来であれば光を放ち瞬く間に散逸していく雷を、何の触媒も用いず一箇所に留め置く。否、その表現も適切ではない。全く同じ光量、全く同じ出力を維持し、光球に見えるよう雷を放ち続けている。それも、集落全体を照らすほどの大きな規模で。
属性には向き不向きがある。光属性の使い手ならばまだしも、雷属性を扱う者にとっては例外的にすぎる運用法。
揺らがぬ安定した集中力、わずかな振れ幅もない完璧な制御力なくしては成立しない離れ業なのだ。
その難度は、一本の縄を決して切断しないよう、外皮一枚にて繋がる形で次々と切れ込みを入れ続けている行為に等しい。少しでも加減を誤れば縄は切れる。即ち、術の維持に失敗する。
ここまでの絶技、レヴィン・レイフィールド以外の誰になせるものか。
しかし。保有する魂心力こそ無尽蔵とされる『ペンタ』だが、集中力はその限りではない。
いかな『白夜の騎士』とて、こんな所業をいつまでも続けられるものではない。
(そうだ。レヴィン様だって、僕たちと同じなんだ)
七年前。
初めて顔を合わせた当時十二歳のレヴィン・レイフィールドは、すでに完璧だった。立ち振る舞いや物腰、言動……全てがとうに完成されていて、もはやバルクフォルト帝国の顔となることが確約された存在だった。
だからこそ。
『今日は本当に楽しかった! ありがとう、エーランド』
二、三時間ほどだったと記憶している。大人たちが話をしている間、駒盤で遊んだり、他愛のない雑談をしたり。
『い、いえ! 僕でよろしければ、いつでもお付き合いいたします! またお時間がありましたら、遠慮なくお声がけください……!』
『……、ああ。きっと、またいつか。その時は、またよろしく頼むよ。ありがとう』
何気ない、当たり前の会話だと思った。
だがそれは、彼にとって日常ではなかったと知った。
『ペンタ』としての絶大な力……その完璧なる制御を求められ、騎士としての品格や剣腕、見識を身につけるためにあらゆる努力を重ねて。
つまるところレヴィン・レイフィールドという人物に、自分の時間などというものはなかったのだと知った。
エーランドが何てことのないありふれた時間だと思ったそれは、彼にとっては砂の中から見つかった金の粒のように稀なひとときだったのだと。
「また遊ぼう」、「またいつか」。
七年前に交わされた、子供同士の他愛ない約束。
それが容易く実現するものでないと知ったのは、それから何年もの月日が経ってから。
そして今も、その約束は果たされていない。ああして、何にも縛られずに穏やかな時間を過ごせたことはまだない。
そんな、やろうと思えば誰にだってできるはずのことが。
(だから、僕は)
少しでも、この人の負担を減らす。分かち合い、支える。頼られる存在となる。
忘れられない。
「楽しかった」と声を弾ませた、一片の曇りなき笑顔が。
「またいつか」との言葉とは裏腹に、何かを悟ったような寂しげな顔が。
大陸中に轟く輝かしい名声のその裏で、レヴィンは『自分』というものを全て犠牲にしている。何もかもを押し殺している。
誰も彼もが、レヴィン・レイフィールドに憧れている。
そしてそれは、無理解の極致だ。
その憧れを保つために、彼は己の全てを犠牲にしている。
だから。
少しでも、その重荷を軽くしたいだけだ。
まして、
(……一緒に歩むことを、諦めてしまった奴がいるから。僕まで挫折したら、レヴィン様は本当に一人になってしまう)
いつか、あの約束を果たすために。
「――ふッ」
エーランドは揺らめく旋風の槍を掲げて、眼前の怨魔へと照準を合わせる。
少しでも安心させて、わずかでも頼られるように。
そのために、こんなところで手こずってなどいられない。支えるどころか光球の維持で負担をかけるなど、もっての外だ。
怨魔オーグストルス。エーランドがこれまで対峙してきた中でも最強格の敵だ。噂に聞いたBランク頂点と評される力も脅威的。
(……でもね)
B最強『程度』に苦戦などしていられるか。
自分は、あの『白夜の騎士』の隣に立つ男となるのだから。
風の槍を構えたエーランドは、前傾にじりじりと踏み出す。
「だからおい、熱くなるんじゃ――、……」
「何だい、おじさん」
「いや、いい」
言葉を切ったヨーダンは曲刀を構え直し、前を見据える。
「思ったより目が冷静だからよ。それならいい」
「そうかい、それはどうも」
身構え、足裏だけを動かしにじり寄る形で間を詰めるエーランドとヨーダン。
金色に輝く瞳で両者を交互に見比べるオーグストルス。
動いた。
地を蹴った黒き怨魔は、今度は一直線にヨーダンへと肉薄。
「俺かよっ!?」
慌てて氷の大盾を展開したヨーダンが、その防御ごと殴り飛ばされる。
「ぐおぉっ……! 死ぬ! 死ぬ!」
後方へ押し込まれた彼に追撃すべく踏み込むオーグストルス――に対し、エーランドは真横から接近。弊絶風貫の穂先を一直線に突き出す。
怨魔は人ならざる速度でこれに即応。後方へ大きく跳び、着地。
そして、困惑したような唸り声とともに自らの足を見下ろした。
「踏んだね。おれの思った通りに」
オーグストルスの右足首に、渦巻く小さな旋風がまとわりついていた。
それは、神詠術によるベアトラップ。指定した場所で旋回し続ける、相手の動きを止めるための風術。
攻撃に対し、まっすぐ後方へ飛びずさる。
オーグストルスがこの戦闘中、一貫して見せていた回避行動。それを把握したエーランドが、あらかじめ接近する前にその位置へ仕掛けた罠だった。素早いオーグストルスに直接命中させることが困難だったため、この方法を選択したのだ。
地面に足を縫いつけられた怨魔が片膝をつく。エーランドは弊絶風貫を携え、今度こそ一刺を見舞うべく駆ける。
「!」
しかし侮れぬは人ならざる者の底力か。オーグストルスは強引に起立を試み、足の力だけで旋風の拘束を引き剥がしにかかった。
並の人間ならそんなことでは解けないうえ間違いなく脚がへし折れる所業だが、異常なまでに筋骨の発達した怨魔ゆえの一手だろう。
「……く!」
僅差。
肉薄するエーランドより、オーグストルスが罠から脱するほうがわずかに早かった。強靭な怨魔の蹴り足が、まとわりついていた風を霧散させる。続けざま、突進してくるエーランド対し腕を引いて攻撃態勢を取った。
「――」
もう防御以外にない。
そうなれば、先ほどの繰り返しだ。守りに入れば、そのまま敵の剛力に押し込まれる。またしても流れを持っていかれる。
ふと頭によぎった。
身近にいる他の強者ならばどうするだろうと。
(リゲルレッド卿や、ミードルイア殿なら……)
『サーヴァイス』、不動の上位二名なら。考えるまでもない。この程度の相手、策など弄するまでもなく鎧袖一触だ。続く二人も同様。性格や立ち回りはそれぞれ対極なれど、さして苦労することなく打ち倒す光景が容易に思い浮かぶ。
では、五番目と評される自分はどうだ?
いつまで苦戦してるんだよ。こんな奴に。
(退いて……られるか――!)
射出される怨魔の黒拳。
かき寄せるような半円の軌道、防御術に切り替えることなくエーランドはこれを生身で潜る。もらえば、人の頭など一瞬で爆ぜ飛ぶ。髪を撫でる暴悪な風圧に怖気立つものを感じつつもしかし、守りに入らなかったことで健在となった弊絶風貫を即座に突き上げる。
ギョオ、と耳障りな呻き。が、手応えは浅い。
斜め下から迸った風の切っ先は、オーグストルスの肩口をわずかに削るに留まった。
(っ、これでも躱されるのか……!)
直撃ならず。咄嗟の反応で急所を外されたのだ。
手傷を負わされた相手はどう出るか。また飛びずさるか。それとも、接近戦に応じるか。
エーランドにそれを即時判断できるほどの実績はまだ備わっておらず、無意識に『待つ』形となる。
そして待てば、オーグストルスが先んじる。運動能力において絶大な格差があるため、神詠術の加護があってなお流れをひっくり返すことができない――
直後、オーグストルスは残留を選んだ。退かず、攻撃を優先した。手傷を負わされたことで怒りに火がついたのだ。後の知識になるであろうそんな納得が下りる間もなく、怨魔は左腕を横薙ぎ。
その腕を、白い残光が斜めから上塗りする。
舞う血飛沫と同時、怨魔が唸りを発した。
どこからか回転して飛んできたそれは、しゃこんと甲高い快音をもって芝生の地面に突き刺さる。
その正体は曲刀。刃に施された幾重もの氷の欠片が、爛々と白光を反射していた。
「っしゃぁ、やったれ兄さん!」
自らの得物を乾坤一擲したヨーダンが吼える。
「はっ、」
エーランドは言葉ではなく、行動で応えた。
ヨーダンが放った曲刀投げは直撃こそしなかったものの、かすり傷を負わせ結果として行動を中断させることに成功していた。
そしてその生まれた刹那は、攻守を逆転させるに充分な時間。一流であれば、との但し書きこそ付されるが。
「――お」
そうさ。一流なら充分。
この機を活かせないのなら、『サーヴァイス』なんてやめちまえ。レヴィン様の隣に立つなんて、二度と言うな。
己に檄を飛ばした少年は、
「おおおおおおおおおおおぉぉ――!」
付された二つ名は『風嵐絶駆』。
その異名を体現するがごとく、エーランドは前へ駆けた。何があろうと『絶』対に『駆』ける。引かない、止まらない。
弊絶風貫を一閃、オーグストルスの胸部へと突き刺した。まさしく、突進を仕掛けた雄々しき羚羊がごとく。
全力で振り抜く。怨魔の胸の中央部、背中、そして口から赤黒い血が舞う。
頭を狙うと、またも機敏な動きで躱される可能性がある。ゆえに、的の大きい胴体を狙った。
胸を貫かれた怨魔はしかし、なおも力強い咆哮を放つ。
そして血反吐を撒き散らしながら、右拳を振りかぶった。
放たれた黒い閃光が、直前までエーランドの頭があった中空を貫く。
「――伏臥せしめよ――弊絶風貫……!」
左膝を曲げ、右膝を伸ばした屈み込みでオーグストルスの一撃をくぐった少年は、力ある言葉を口にする。
怨魔の胸部を串刺しにしていた相棒は、一瞬だけ立ち消えて主の手へと戻った。
そして半円の軌道が地面を削る。
断たれた怨魔の片足が鮮血を迸らせた。
『風嵐絶駆』なる呼び名には、ふたつの意味合いが込められている。ひとつは先述した通り、何があろうとも絶対に前へと駆けるという不退転の決意。
そして、もうひとつ。
即ち、敵の疾駆を……前進を絶つ。
己に課した、そんな使命が。
(――僕は)
胸を貫かれ、脚を挫かれ。手負いとなってより大きな咆哮を轟かせたオーグストルスが、体勢を崩しながらもまだ拳を撃ち放つ。己の傷すらまるで顧みず襲い来るその姿は、まさに冥府リヴェリエから現世に這い上がってきた悪鬼そのものとしか思えない。恐るべき豪壮ぶり。驚嘆に値する。
だが。
(おれはッ……! レヴィン・レイフィールドの隣に立つ男だ――――!)
悪鬼だろうと何だろうと、打ち倒す。
これから『白夜の騎士』とともに織り成していく、輝かしい未来のために。
その一撃を紙一重――顔の横をかすらせる回避でやり過ごした少年は、真下から突き上げた弊絶風貫でオーグストルスの顎を刺し貫いた。
緑の輝きが、怨魔の口腔を通って脳天から噴き出す。
そして今度こそ、黒い怪物は傾き……倒れていく。
わずかに地を震わせてうつ伏せとなったオーグストルスは、芝生に血溜まりを広げて行動を停止した。