637. 火焔の蛇
(私の失策だ――)
オーグストルスの突進や拳を捌きながら、アキムは胸中に苦い思いを渦巻かせていた。
敵がドボービークだけと思い、それ以上の脅威に対する準備を怠った。
余裕もなかった、と釈明しては言い訳がましいか。
ヴァルツマンが戻らなくなって以降の団の運営は、決して順調とは呼べなかった。
生息域に微妙な変化が見られつつある怨魔への対応。それに合わせた物資の調達や都合の融通。まるで流水のように揺らぎ変化するそれらを読み切り、間違いなく仕事をこなすことの難しさ。
あの豪快で大雑把な長なら、果たしてどのように立ち回ったのだろう。それを考えない日はない。
今回、カンテラを置いてくるように指示した……してしまったのも自分だ。
大量の松明を使うゆえ、少しでも無駄を削減するための判断だったが、しかしそれでも夜の女神が下界に顔を見せぬ晩。万一の事態を想定し持参するべきだったのだ。
持ち物の取捨選択は、些細なことに思えるが時に命運を大きく左右する。
無価値にしか見えない石ころが、特定の怨魔の興味を刺激することもある。何気なく持ち歩いた物品が、周囲の環境に呼応し予期せぬ現象を引き起こすこともありえる。
要か不要か。その見極めは難しく、常に正解を選び続けることは現実的ではない。
「――」
しかし何処へ赴こうとも、決して手放さぬ代物があった。
アキムはそれを――手にした得物を改めて握り直す。
鞭に無数の刃が付随した武器だった。
鎖刃操鞭と呼ばれる南方由来のその逸品は、熟練に長い年月を要する。
扱い方を誤れば、しなった鞭に施された刃で自分の身を傷つける。刃同士がかち合い、欠けてしまうことも常だ。
振るうには筋力が必要で、縦や横に素早く振り戻す技術も求められる。この鍛錬を繰り返した結果、アキムの首から肩にかけての筋肉は一目瞭然なほどに発達した。
とかく癖の強い代物ではあるが、今のアキムにとっては己の手足と変わらず自在に動かせる相棒だった。
一対一ならば広い間合いを保つことができ、多勢が相手ならば一網打尽も可能。遠くの敵を叩くことも、引き戻して自身の周囲へ回し防御に転じることもできる。
素早く鞭をしならせると、数マイレにも渡る範囲を刃が薙ぐ。
遠くでレヴィンが維持する光を受け、鞭身に等間隔で据えつけられた鋭利な金属たちがきらりと瞬いた。
オーグストルスは大きく下がって躱し、両者の間合いが六マイレほどまで空く。
「流石に素早い。だが」
鎖刃操鞭と神詠術と組み合わせたならば――、こうなる。
「……難しいな。つい、自分の尺度で物事を考えてしまうのだ――」
言葉と同時、鎖刃操鞭が炎上した。
鞭に組み込まれた全ての刃が緋色の衣を纏い、それは長大な灯火となる。
「お、おお! 出たぞ、副団長の『アイトゥヴァラス』が……!」
「よし、勝ったな!」
発動すれば、否が応にも目を引く。気付いた団員たちが歓声を沸かせる。
「私のことはいい。お前たちは、ドボービークを逃すなよ」
そちらを見ず忠言する。
アイトゥヴァラス。
鎖刃操鞭に炎の加護を付与するこの技も、カンテラを置いてきた理由のひとつだった。いざとなれば、これを照明代わりにできると。
それがまさか、
(ドボービークが、意図的に暗闇を作り出した……か)
オーグストルスが統率したにせよどうも腑に落ちない行動だが、起きたことは事実。ああなっては、身を守ることだけに注力せざるを得ない。
鎖刃操鞭はひとたび振るえば無類の性能を発揮する強力な武器に違いないが、唯一の欠点は勢いに乗るまでに時間がかかること。攻めるも守るも、鞭が慣性を得て波打つようになってからの話。
ああも近間から矢継ぎ早に襲われては、鞭の加速する時間がない。詠唱が終わったとしても迂闊に術を発動できない。
その不利さえなければ、
「オーグストルス……危険な怨魔には違いないが」
黒き二足歩行の獣。禍々しいまでの面相と、それに見合った残虐な気質。その剛力に殴打されれば、人など一瞬で物言わぬ肉塊と化す。……つい先ほどにも、残念なことにまだ若い団員が身をもってそれを証明した。
だが。
「もう遅い。どうせ策を弄したならば、闇に包まれているうちに来るべきだったな」
上下。
アキムが一瞬で腕を振るうと、やや遅れて伝播したように鞭が同じ動きをなぞる。
炎を宿した大蛇にも似たそれが、歪な軌道をもって斜め上からオーグストルスへと躍りかかった。
しかし、その怪物はBと呼ばれる枠組みにて最強。
ざっ、ざっ、と機敏な足捌き。しなる鞭を持ち前の機動力で躱しながら、怨魔は傲然とアキムへ迫った。六マイレほどもあった間合いを一瞬で詰めるその脚力。
――だが。
巻く。
アキムの引き寄せる所作に応じて舞い戻ってきた鞭が、オーグストルスの胴体を背後からぐるりと巻き取った。
驚いた怨魔が首を巡らせる間にも、手首の返しで幾重にも絡め絞る。そして当然、刃にて揺らめいていた炎が燃え移る。
「どこで聞いた話だったかは忘れたがね」
捕縛された下手人のようになった怨魔が、均衡を失いその場で倒れ伏す。そして、逃れようもなく炎に焼かれていく。火刑に処された咎人のように。アキムはその様子を感慨もなく眺めつつ、出所の定かでない知識を披露した。
「私は学び舎に通っていないので今ひとつピンと来ないのだが、『音』にも速度というものがあるそうだ。して、振るわれた鞭の先端はその音の速度をも超えるのだと。よくは分からんが、さぞ速いのだろうな。もっとも刃の据え付けられた鎖刃操鞭ではそれほどの速度は出んと思うが、それでも貴様を捉える程度であれば造作もなかったようだ」
地面に転がったオーグストルスが、炎上しながらも巻きついた鞭を解こうと激しくもがく。
しかし、がっちり食い込んだ刃と伸縮性に富んだ鞭身は、この怨魔の怪力をもってしても解けるようなことはなかった。
「――安心しろ。生きたまま焼き殺すなど、悪趣味な真似はせんよ」
上下に腕をしならせたアキムの所作に従い、アイトゥヴァラスと名付けられた炎蛇が獲物を千々に噛み砕いた。
「よぉっし! さすがは副団長だ……あのオーグストルスすら一蹴よぉ!」
決着を見届けた傭兵の一人が、握り拳を自分の胸元へ掲げる。
その様子を見た仲間が窘めるように話しかけた。
「当たり前だ、あの人が負けるかよ。それよりドボービークを逃がすな、どやされるぞ」
「あ、ああ。そうだな」
それは無論だ。多くの仲間が殺された。絶対に逃がしなどしない。
ドボービークは今や完全に自分たちの劣勢を感じ取ったか、襲いかかってくることなく物陰に隠れるなどの行動を繰り返している。明らかに、隙を見てこの集落から逃げ去るつもりだ。
「させるかよ……!」
背を向けて走る一匹を追って厩舎の角を曲がる。すると、離れた母屋の裏側へ大きな影が入り込んでいくのが見えた――気がした。
「……?」
レヴィン・レイフィールドの維持する光球は昼間のような明るさを作り出しているが、それでも本物のインベレヌスではありえないし、光属性の者が作り出すものとはやや性能が異なる。ぎらつく雷の連続は目に眩しく、陰影をくっきりと生み、地面に落ちた建物や人の影は大きく間延びして揺れる。
オーグストルスは二匹。一匹はアキムに討伐され、もう一匹は『サーヴァイス』の若者とヨーダンが受け持っている。もし追加で同個体が現れたなら、すでに激しい戦闘が始まっているはず。
他の団員の誰かだろう。
(牛……?)
だが、そうなのだ。
間延びした黒い影――その頭の部分には、雄牛みたいな角が生えていたようにも見えた。
(いや、まさかな)
揺れる影だけ見れば、人だって異形に見える。
思い直した彼は、しつこく逃げようとするドボービークの後ろ姿を追った。