634. 闇の帳
オォ――――と。
何かの吠え声か、それとも風が荒んだか。山間から不気味に響いたそれが、外から聞こえてくる怒号や剣戟に交ざって不協和音を奏でた。
「ひっ、な、何……?」
「お父ちゃん……」
「大丈夫、大丈夫だ……」
自分に言い聞かせるように呟いた男性が、傍らの小さな子供を抱き寄せる。
集落中心部、大きく張られたテントの内部。真ん中の支柱付近に集まる形で、アシェンカーナ族とベルグレッテたちは身を寄せ合っていた。
「んんー? 何の音かしらね?」
怯えなどという感情とはまるで無縁なナスタディオ学院長が、長い髪をかき上げながら悠長に周囲を見渡す。
「……声とも、音とも思えますが……」
ベルグレッテも真似るように首を巡らせるが、もちろん闇に包まれたここからでは何も分からない。そもそもこのテントに使われている生地そのものが遮音性や気密性に優れているため、この場で外の様子を探ろうとすること自体が間違いだ。
「ドボービーク以外の何者かの足跡が確認されていたとの話もありましたので、外の皆も注意を払っているとは思いますが……」
「そうねぇ」
学院長としては、さして気になることでもないらしい。
「大丈夫ですよ、アヤカ殿」
「う、うん……」
一方で、住民たちの不安が伝播しているのだろう。異なる世界から迷い込んできた黒髪の少女は、日頃の快活さが嘘のようにその身を震わせている。 そんな彼女を、クレアリアが親身になって励ましていた。
「何も案ずることはありません。ほら、見てください。このレノーレの落ち着きぶりを」
冗談めかした口調で指し示すクレアリアの視線を追えば、外から入り込むわずかな光で読書に勤しむ物静かな少女の姿。目が悪くなりそうなこと請け合いだが、言ったところで「もう悪い」と返されるだけだ。
「メンタル強すぎでしょ……」
流護と同郷の少女は、信じられないようにかぶりを振って溜息を零した。
「アヤカ。くどいようだけど、なにも心配することはないわ。気を強く持って」
「……そうは言うけど」
ベルグレッテが声をかければ、彼女は納得しかねる風に唇を尖らせる。
「身の安全や勝ち負けの問題ではなく、リューゴが闘いに身を投じることそのものも好ましくない……でしょ? ニホンと呼ばれるあなたたちの故郷を目の当たりにしてきた今なら、私にも少なからずその気持ちは理解できる」
人類の大敵たる怨魔が存在しない。夜道を歩くために武装する必要すらない。人によっては、血生臭い闘争とは生涯無縁でいられる世界。そんな理想郷が存在するなど想像すらしなかった。
ベルグレッテ自身、実際に己の目で見ても信じられないほど。
「けれど、ここはグリムクロウズ。生きるためには、往々にして他なる存在と凌ぎ合いをしなければならない世界なのよ。怨魔、獣、無法者……敵は、目に見える相手だけとは限らない。味方だと思っていた誰かが、ある日突如として牙を剥くことだってあるかもしれない」
同じ志を抱いていた貴族の少女。精鋭部隊に属していたはずの青年。一国の長を務めていた人望厚き聖女。
いずれも少女騎士自身が、身をもって経験してきたことだ。
そして今現在、共闘しているダスティ・ダスクも敵となる可能性を秘めている。
「無条件で信頼できる……そんな守り手がいるあなたは恵まれてるわ。しかもそれが、稀有なほどの強さを誇る戦士なんだもの」
「……なに。何が言いたいの」
どうにも理屈っぽくなってしまうのは自分の悪い癖だ、と少女騎士は自嘲しつつ。
「今はまだ、全てを容認することは難しいのかもしれないけど……闘うリューゴを支えてあげてほしいってこと。あなたは、リューゴの『帰る場所』だから。あなたが迎えてくれることで、リューゴも今まで以上の力を発揮できるはずだから……」
……それは、自分には成し得ないこと。少女騎士はそう理解していた。
「……ベルグレッテ……」
戸惑ったような彩花の呟き。
「あ……、あんたは、いいの? それで……」
「いいって、なにが?」
「だ、だってさ。それってこう、私が……流護の帰りを待つ、あれじゃん。あれみたいじゃん」
「私は、リューゴと肩を並べてともに戦う存在だもの。彼に守られる対象じゃないわ」
「……む」
それは嘘偽りない正直な意思表示だったが、何やら彩花のどこか気に食わない部分に触れる発言であったらしい――
――と。
そんな中で真っ先に異変に気付いたのは、レノーレだった。
「……おかしい」
静かに零した彼女が、開いていた本の紙面から顔を上げる。
「……暗くなってきてる」
「え?」
「……外の明かりが、消え始めてる」
具体的に言い直して、外と通じる網目状の格子にメガネ越しの瞳を向ける。
それは、わずかに差し込んでくる光を頼りとして読書に耽っていた彼女だからこそ、真っ先に感知できた変化だったのだろう。
「どういうことです?」
腰を浮かすクレアリアに応じて、レノーレは外幕に備え付けられた格子へ素早く寄っていって外を覗いた。
「……ここからだと分かりづらい。……でも、気のせいじゃない」
「んー? つまり、松明が次々と消えてるってコト?」
不測の事態にものほほんとした学院長を横目にしながら、ベルグレッテは闇の中で耳をそば立てた。
外からは、変わらず傭兵たちの勇ましい怒号が届いてくる。しかしそれに交じる声があった。
『やめろってんだこいつら!』
『馬鹿が、そんなんで燃えるかよ!』
考えるより先に、少女騎士もレノーレとは反対側の格子へ近づいて外を観察した。
その位置から垣間見えるのは、ただ黒一色の世界。薄ぼんやりとした炎の残照すら確認することはできない。
「……学院長のおっしゃる通りです。松明が消えています」
そして、今ほど聞こえてきた傭兵たちの声と照らし合わせて考えるならば。
「――どうやら、ドボービークが松明を落として回っているようです。そして、皆がその火を燃え広がらないよう消し止めている……」
暗がりの中で、互いの表情は窺い知れない。ただ、幾人かの息をのむ声で驚きを推し量ることはできた。
「待ってください姉様。ドボービークが、交戦中の人間を無視してまで松明を? まさか、そうすることで火災を狙ったとでも? 奴らにそんな知能があるとは……」
「ドラウトローの一件も然り……既知の怨魔が私たちの知らない習性を持っていたとしても、不思議はないわ」
「まーでも、どっちにしろ松明がちょろっと転がったぐらいじゃ燃えはしないでしょ。外の皆様方がちゃんと消して回ってるなら尚更…… 、ん? 火を消してる……?」
何かに気付いた風な学院長の疑問符。皆が顔を見合わせる気配。
そう、気配。
先ほどからそうだ。互いの表情も分からないほどの暗闇。つい今さっきまで、わずかに差し込んでくる明かりでレノーレが読書をしていたほどだったにもかかわらず。
『だ――、――ん!』
『――ち、……な!』
遠くから聞こえる、呼びかけるような緊迫した大声。
「……今のは……レヴィン殿と、あのアキムという人物でしょうか」
おそらくクレアリアの推測通り。ただ、何と言ったのかまでは聞き取れなかった。
「…………」
今夜は夜の女神がその姿を見せていない。かつ雲も分厚く垂れ込め、天空に煌めく星明かりも届かない――
思考を割ったのは、唐突に外から轟いてきた悲鳴だった。
『ぐあああぁぁっ!?』
『がぁっ!?』
それは、生々しいまでの男たちの苦悶。
身を寄せ合った住民や彩花が、反射的にひっと息をのんだようだ。その合間にも、円蓋の垂れ幕一枚を隔てた向こう側から悲鳴の連鎖が重なり合う。
『ぐわぁぁっ……!』
『ち、畜生!』
『くそ、これは! ……がはっ!』
それらを嘲笑うかのようにギギギギと木霊する、ドボービークの狂騒。
視界が一面の闇に閉ざされていようとも、耳さえ聞こえれば何が起きているのかは容易に把握できた。
――外で闘っている者たちが、一方的にドボービークからの攻撃を受けている。
「よもや……あのダスティ・ダスクが、押されているのか……?」
金属の音。御者の兵士が、緊迫した様子で腰の剣に手をかけたようだ。
「ひぃっ、な、なんだ……傭兵たちは、どうしたんだ!?」
「急に、どうしたっていうの……!?」
住民たちも異変を察し、それぞれ声を恐怖にわななかせる。
「……まさか」
ベルグレッテの喉からは、ただ慄然としたかすれ声が漏れた。
「ドボービークは……わざと、松明を『消させた』……?」
夜の女神イシュ・マーニが不在となる曇りの晩。場所は雄大な自然に抱かれた山間の里。用意した明かりが失われれば、全ては一片の光も存在しない闇に閉ざされる。
無論、人はそんな環境下でまともに動くことなどできはしない。しかし、感覚に鋭敏な怨魔はその限りではない。人間とは比較にならないほど夜目が利くことはもちろん、かすかな匂いや音を頼りとして獲物に襲いかかることなど造作もない。
「――」
怨魔は、火を広げようとして松明を落としたのではない。最初から『これ』を――『闇に乗じての攻撃』を狙っていたのだ。
「ば、馬鹿な……! ドボービーク風情が、そのような絡め手を――」
御者の兵士が愕然とした声を響かせる。
「そ、そうですよ姉様……! それに戦い慣れているダスティ・ダスクが、そのような小賢しい真似に引っ掛かるとは……」
「遮蔽物のない平地なら、そのとおりだと思うの。松明を次々に消すことで誰の目にも明らかに暗くなっていくから、すぐに皆が気付いたはず。けど、ここは円蓋や小屋が乱立する集落……。各々が分散している中で……他の仲間たちがどうしているか分からない状況で目の前に火種が転がれば、きっと深く考えず消し止めてしまう。そして、全員が同様の行動を少しずつ……偶発的に起こしてしまえば……」
「そーね。それに、ほんのさっきまで空はまだちょっとだけ明るかった。それが少しずつ暗くなってく中で、紛れるように松明を消させれば……こうなっても不思議はないわ」
学院長も納得した風に頷く。
信じられない、と言いたげにクレアリアが喉を鳴らした。
「なっ、なになに!? どういうことなの……ひっ!?」
立ち尽くすクレアリアにすがりついた彩花が、雷に打たれたかのように言葉を切る。その理由は明白。円蓋の布幕を擦るような音が響いたからだ。ギギギギ、と耳障りな鳴き声とともに。
この時、住民たちと彩花の反応は一致した。即ち、呼吸を止めるほどの沈黙。ほとんど反射的に、相手から察知されることを避けようとしたのだろう。
人の防衛本能によって生まれたそんな静寂をあっさりと破ったのは、
「ほい、あんたたち用ー意っ」
緊張感の欠片もないナスタディオ学院長の一声。
直後、ほのかな薄明かりがテント内を照らす。光源は学院長の指先に出現した、ごく小さな輝く球体。光属性を扱う者にとっては造作もない小技。
「うわあああぁ!?」
「いやああぁっ!」
そして村民らの悲鳴が連鎖した。
テントの出入り口。今まさに内側へ侵入しようと垂れ幕を潜ってくる、醜悪な異形がふたつ。
視界を確保するために学院長が灯したわずかな光は、色濃い陰影を生んで乱入者をこれでもかと不気味に彩った。抗う力を持たぬ者を怯えさせるには充分すぎるほど。
円蓋内に入ってきた二匹のドボービークは、いかにも隠れた獲物を見つけたと言わんばかりにギョロリと大きな眼球を蠢かせて――
しゃぁん、と耳障りのいい快音。
一匹が、自分の頭と同程度の大きさの氷杭を眉間に生やして後方へと吹き飛んだ。退場していく怨魔を冷ややかに見送るのは、流れる白靄の延長線上で手のひらをかざしたレノーレ。
残る片割れは、ほぼ同時にベルグレッテが放った水弾の直撃を受けてやはり同じように外へと転がっていく。
「はぁい、上出来よ〜」
即座に排除された二体の行き先を覗き込むようにしながら、学院長は立てた人差し指の先端に光球を落ち着けた。その光量はやや暗すぎるほどだが、侵入しようとする敵を撃つには充分。テントの生地の遮光性を考慮したなら、可能な限り外に漏れない絶妙な調整でもある。この素早く確実な対応はさすがナスタディオ学院長の手腕だ。
「お、おお……」
「す、すごい! 一瞬で!」
住民たちの感嘆。
「お、お見事……!」
腰の剣に手をかけていた御者の兵士が、目を丸くして息をつく。
彩花は言葉も出ないようで、片手を己の胸に当てて大きく呼吸している。その肩をクレアリアが支えていた。
「で、出入り口に、家具を並べて防壁としましょう! あまり効果は期待できないかもしれませんが、何もしないよりはましなはずです……!」
青い顔をした酋長が指示を飛ばすと、男たちが即座に取りかかった。
ベルグレッテとしても、その行動に異論はない。確認するようにこちらを見てきた酋長に頷いておく。
ひとまずこのテント内における視界の確保と迎撃態勢は整ったとして、
『ぐうっ!』
『クソったれ、調子に乗りやがって……!』
外からは、変わらず傭兵たちの呻きが聞こえてくる。
「っ、そうだよ、外! 流護も、何も見えないんじゃ……!」
「あの方なら絶対に大丈夫ですから、落ち着いてください」
もはや、うろたえる彩花をなだめるクレアリアの対応も慣れたものだ。
「……、」
実際、ベルグレッテとしても信じるしかない。
この暗闇の中、戦闘のできない住民たちや彩花を放って加勢に駆けつける訳にもいかない。
それに水属性を扱う身では、外に飛び出したところで視界が確保できない。自分も妹も、そしてレノーレも発光を伴う技術は扱えない。ここで光を維持できるのは学院長のみで、その力はこの場の防衛に使うべき。
そこで、酋長がハッとしたようにこちらへと顔を向けた。
「ここにあるカンテラを、外の皆さんに届けることはできませんでしょうか……!?」
しかしその提案に対し、ベルグレッテは首を横へ。
「いえ、危険です。真っ暗な中で渡しに行くことはもちろん、迂闊に光を灯せば怨魔たちの注意を引くことになります。……今は信じましょう、外の皆を」
それにそもそも、酋長自身の指示でつい今しがた出入り口を塞いでしまったばかりだ。彼女も自分でそこに気付いたのか、ハッとしたように落胆する。無理もない。緊迫した事態で、論理的に順番立てて考えられるような状況ではないのだ。
「…………」
しかし、それでも……だからこそ、冷静に思考を巡らせなければならない。ベルグレッテのような騎士は。
そもそも、なぜこのような苦しい展開に陥ったのか。確かに、既知の怨魔が予想だにしない行動に打って出ることはあろう。だが、黄昏から夜への変遷に合わせ、こうまで組織立って……クレアリアの言葉ではないが、ドボービークにここまでの機転が――
(……ううん、)
そうだ。あったではないか。
明確な、切っ掛けが。つい先ほど。
(……、)
この一戦。
当初想定されていたよりも、遥かに危険な何かが……。
(…………)
ひとまず少女騎士には、襲撃者に備え気を張ってテントの出入り口を監視し続けることしかできなかった。