633. 凶星群
懐中時計を確認すると、夜の九時を少し回ったところ。
テント内にいるとよく分からないが、すでに外はほぼ暗くなっている頃合いのはずだ。
「うーん……それにしても、変わった匂い……」
ぼやいた彩花が、落ち着かなそうにテントの外を意識する。
「飽くまで怨魔の好物ですからね。人の感覚に訴えるものではありません」
クレアリアが告げて、おかわりの茶を口へと運んだ。
つい先ほどより、外から入り込んでくる独特な香り。ドボービークをおびき寄せるための餌を焼き始めたのだ。
鼻孔をくすぐるそれは、クレアリアが言うように人間の食欲を誘うものではない。用いている肉はともかく、混ぜ込んでいる葉が独特な芳香を醸し出す。甘いような、それでいて苦いような。
夜風に乗ったこの奇妙な匂いは、少しずつ森の中を巡りやがて届くことだろう。これを好む、魔なる存在の下へと。
すでに今や、いつ始まってもおかしくない時分。
流護とレヴィン、エーランドは外のどこかで戦闘に備え待機中のはず。
今このテント内には、十数名の村人全員と馬車の御者を務めた兵士、ベルグレッテ、クレアリア、レノーレ、学院長、そして彩花が留まっている。
いよいよ臨戦態勢の雰囲気を感じ取ったか、住民たちはつい先ほどまで楽しそうに駆け回っていた子供たちも含めて、不安げに寄り添っていた。
「砦の方には連絡しといたわよ~」
そんな緊張感とはまるで正反対、少し離れた位置で通信術を行使していた学院長がのんびりとした足取りで戻ってくる。
「承知しました」
ベルグレッテが応じると、学院の責任者はあくびを噛み殺して敷物の上によっこらせと腰を下ろした。
この作戦にどれほどの時間がかかるかは分からないが、とにかくもう今日はここで一泊する以外にない。それを学院の教員たちに伝えていたのだ。
「……お、怨魔って、本当に来るのかな。このまま何も起こらないとか、ありえる……?」
尋ねているようでいて、それは願望だ。そんな彩花の震えた声を、
「……ありえない。……怨魔は来る」
読書中と思われたレノーレが、手元の本に目を落としたままいつも通りの静けさで否定した。
「な、なんでっ」
「……ダスティ・ダスクの本拠地で、あのアキムという副団長が言っていた通り。……襲撃に適した条件が揃いすぎていて、来ない要素がない」
ぐぐっと身体を伸ばした学院長が暇そうに会話へ参加する。
「これが終わらないことには落ち着いて休めないし、むしろさっさと来てほしいところね~」
「そ、そんな……」
年長者がそんな様子のため、彩花はより寄る辺なさを感じたようだった。
と、その時だった。
外で響く男たちの怒号。そして、がらんがらんと金属を叩き合わせる音。それは前もって示し合わせていた合図だ。
そこに、人ならざる甲高い鳴き声が遠くから木霊してくる。
「! 来たわ!」
ベルグレッテは弾かれる勢いで顎を浮かせた。
「姉様!」
「ええ。みなさん、燭台の火を消してください!」
呼びかけられた住民たちが慌てながら応じ、またベルグレッテたちも自分の近くに置いてある明かりを消しにかかる。
すぐさまテント内に闇が満ち、光源は外からかすかに差し込んでくる松明の揺らめきのみとなった。
「では、部屋の中央に集まってください! 怨魔が入り込んできた際は、我々が迎撃しますのでご安心を!」
声を張るベルグレッテだったが、そう言われて素直に安堵できるものでもないだろう。
「ひいぃっ」
「おとーちゃーん、こわいよ!」
「大丈夫、大丈夫だ」
かすかな悲鳴を上げつつ、住民らは一斉に屋内中央でテントを支える柱の近くに集まってきた。
それを確認しつつ、ベルグレッテたちも屋内の中央へ。
「……お、おかしいって……。修学旅行についてきただけなのに、なんでこんなことに……」
「アヤカ」
「な、なによベルグレッテ」
少女騎士は、縮こまる黒髪の少女に平常通りの口調で問う。
「お芋はきちんと持ってる?」
「は? こ、こんな時に何を……」
「リューゴがお腹を空かせて戻ってくると思うから、すぐ渡せるよう用意しておきなさいね」
「へ?」
直後、傭兵たちの雄叫びと怨魔の鳴き声が重なって轟いた。
それは間違いなく、開戦を告げる鬨の声だった。
薄闇の中――遠巻きに、無数の小さな光点が集落を取り囲んでいる。それらは全て、篝火を反射した怨魔の……ドボービークたちの瞳だ。
有海流護は、かつての原初の溟渤での経験からそれを知っている。
「来たか……」
物陰で座って休んでいた流護は、立ち上がるでもなくそれらを眺めていた。
「早速お出ましか、卑しい奴等だぜ。思ったより多いな、何匹いる……?」
「……索敵の術で探ってみた限りだと、三十……四十弱ってところかね」
それでも原初の溟渤での遭遇と比較すれば大した数ではないし、今のこちらの戦力からして負ける要素はない。というより楽勝の部類だ。傭兵たちも落ち着いている。
この戦闘において、憂慮すべきは勝敗ではない。旗色の悪さを感じたドボービークが、尻尾を巻いて逃げてしまうことだ。
実際、原初の溟渤におけるこの怨魔との戦闘では、形勢が完全に流護たちへと傾いた時点で、四分の一もの数が逃走している。
あくまで撃退が目的だったあの森ではそれでも問題なかったが、今回はそういう訳にはいかない。下手に討ち漏らせば、残党は再びこの集落を襲おうとするだろう。
上手く誘い込み、そして逃がさず殲滅する。そんな立ち回りが求められる一戦だった。
(……結構たくさんいそうだな)
流護が建物の陰から観察する限りでも、村の外に広がる闇の中には数え切れないほどの光点がギラギラと輝いている。ともすれば蛍の瞬きに見えなくもないそれらはしかし、ギッギッと耳障りな鳴き声を纏い風流の欠片もない。独特な獣臭も漂ってくる。
しばらくは遠巻きに蠢いている光の群れだったが、やがて示し合わせたように一定方向へと流れていく。移動を始めたのだ。その行き先は、
「おーおー来やがったなぁ、ゾロゾロと」
立ち上る白い煙に紛れ、独特な芳香を漂わせる広場中央の木組み。その仕掛けに吸い寄せられる形で、村の柵を乗り越え続々と集まってくるドボービーク。
餌の前には、三人の傭兵が立ちはだかっていた。
「いらっしゃいませぇー、何名様ですかぁ、お客様~? ってなもんか」
そのうちの一人――ヨーダンが、腰の曲刀を抜き放って太い笑みを浮かべる。料理屋の店員にしては凶悪な面相だ。
怨魔と呼ばれる存在には、他の獣と一線を画す特徴がひとつ。
即ち、何よりも人間への攻撃を優先するということ。好物の肉を目の前にしていたとしても、だ。
そんな定説を裏付けるがごとく。脇からにじり寄ってきた一匹が、餌の入った組み木ではなくヨーダン目がけて飛びかかった。
「うおっと」
しゃこん、と鳴り渡る金属質な残響。
空中で首の位置から両断されたそのドボービークは、自らが踊りかかった勢いを維持したまま放物線状に落下。頭部と身体は、それぞれ決別して草葉の上を転がっていく。
「ほい、お一人様ご案内〜。冥府リヴェリエの特等席でごゆっくりどうぞ、ってな」
一刀の下に斬って捨てたヨーダンが軽快に得物を一振りすれば、迸った血糊がピピッと芝生を彩った。
それが開戦の狼煙。
仲間をやられたドボービークたちが激昂、ギャアギャアと耳障りな輪唱を響かせて押し寄せる。
「来たぞ! 作戦開始だ!」
「よぉし、やるぜぇ野郎ども!」
怨魔の殺意を感じ取り、一斉に建物や物陰から飛び出す傭兵たち。
(っと、始まったか)
流護も腰を上げ、まずはざっと周囲へ視線を走らせた。村の外柵周辺に、先ほどまで瞬いていた光点のちらつきは確認できない。こちらの思惑通り、全てのドボービークが中央広場に向かったのだろう。
(そんじゃ俺も参加しますかね)
飛び交う怒号と剣戟。今にも消えそうな空の緋色と松明のゆらめきのみがライトアップする夜の戦場へ、格闘少年も身を投じた。
識別名、ドボービーク。
体長はおよそ四十センチほど。絵に描いたような二頭身の体躯が特徴的で、歪な造形の頭部はぎょろりとした両眼が大半を占める。
武装は、長く伸びた爪と牙。俊敏な動きとともに振るわれるそれは、人の身など容易に引き裂く。
性格は獰猛で狡猾。群れて行動し、攻撃対象を確認するや否や集団で襲いかかる。
小さな蛮族、とも形容されるその荒い性質は、抗う術を持たぬ者からしてみれば事故や災害にも等しい。事実、森で暮らす民にとっては嵐や大水以上に恐ろしい存在だった。
――が。そんな相手に今ここで対峙しているのは、狩られるだけの無力な獲物ではない。
場数を踏んだ、百戦錬磨の戦士たちだった。
「そこそこの数だな……」
「ま、烏合の衆ってやつよ」
背中合わせになった傭兵二人が、前後左右を怨魔に挟まれつつも平然と言葉を交わす。
ずる賢く素早いドボービークは背後からの急襲を得意とするが、こう構えられると得意の戦法も不発に終わる。数に勝り、相手を包囲しているはずの怨魔のほうが攻めあぐねていた。
「おらよっと」
その近くでは、正面から躍りかかってきた一匹をヨーダンが危なげなく斬って捨てる。
一対一の真っ向勝負であれば、熟達した戦士にとっては苦労する相手でもない。確かに敏捷なうえ爪や牙が危険ではあるが、慣れた詠術士ならば簡素な防御術でその全てを弾くこともできる。
しかし、そこは賢しらな怨魔。そして、多勢が入り乱れる鉄火場。
近くの建物をよじ登っていた一匹が、斜め上からヨーダンへと飛びかかった。
完全な死角からの凶撃。しかし横合いから突き出された一閃によって、その個体は打たれた球のように勢いよく吹き飛んでいく。
「後ろがガラ空きだよ、おじさん」
薄緑に透き通る神詠術の長槍を携えたエーランドが、呆れを滲ませた口調で言い捨ててヨーダンの背後へ陣取った。
その様子を横目で見やった傭兵の男はといえば、
「はん。兄さんがやってくれると思ったから任せたのさ」
「よくもまあ抜け抜けと。助けるんじゃなかったかな」
「お強いからって油断すんなよお坊ちゃん。倒れることがあれば、今度は俺がその背中を踏んでやっからな」
「根に持ってるねぇ」
反抗する両者だが、しかしその間に怨魔が割って入るような隙は存在しない。
(めっちゃ息合ってんのな)
つい胸中で苦笑する流護だが、これぞ見本のような一流の立ち回り。即席の共闘でも、流れるように敵と対峙できるのだ。
別の一角では、
「ふっ」
太い呼吸。そして、巧みな手首の返し。
その手捌きに従って、彼――アキムの握る得物が凶悪な風切り音を轟かせた。波打った刃が、五メートルほども先にいるドボービークを……地面から高さ二十センチほどに位置する大きな顔、その顎を『下から』貫く。
アキムが素早く腕を引くと、武器も意思があるかのように矛先を収めていく。ビュンとしなやかに丸まっていくそれは――
(鞭、か?)
一見したならば間違いない。が、その先端には握り拳ほどの大きさの鋭利な両刃があしらわれている。
しなったその得物が戻り切らない隙を突くように、脇から一匹の怨魔が牙を剥いてアキムへと肉薄する。が、不規則な軌道で迸った曲線がバリアさながらにその外敵を弾き飛ばした。粉砕された牙と爪が宙を舞う。
「……ふむ」
アキムは周囲に増援の気配がないことを確認し、改めてその鞭刃とでも呼ぶべき武器を手元へ収束させた。得物も、それを繰る戦士の所作にも、ネコ科の猛獣に似たしなやかさを感じる。
遠近隙なし、変幻自在。フレイルやモーニングスターとも違う。先端部の刃が殺傷能力に長けていることは言うまでもないが、鞭めいた撓む部分も凶器なのだ。そこは流護にはよく分からない神詠術的な補助が施されているのかもしれないが――そんなまだまだ不勉強な現代日本の少年から見ても、はっきりと分かることがひとつ。
(……やっぱ強ぇな、この人)
傭兵団ダスティ・ダスクの副団長。その実力は、皆が推し量った通りのものであるらしい。
そして、たまも別の一角へと視線を転じれば――
袈裟懸けに両断されたドボービークが、慣性に従い崩れていく。
それを成したのは、銀の長剣を握る一人の騎士。
あまりにも直球。捻りがないほどに。
誰もが想像する理想の騎士が、皆の思い描く通りに怨魔を撃滅する。そんな光景を、実際に具現化したらこうなる。
その理想の騎士ことレヴィンが、後ろから迫る一匹に気付き振り返りざま両断。
それら一連の流れがあまりにも自然すぎて、ゆえに派手さや奇抜さはない。曲刀を軽快に振るうヨーダンや風の槍を携えるエーランド、そして珍しい武器を握るアキムと比較したなら、『普通すぎて』インパクトに欠けるほど。
だが、
(……あの闘技場で見た演舞と同じだ――)
成熟し切っている。完成している。だからこそ、視覚に訴えかける異質な要素が存在しない。一見しただけでは、ただただ『普通』に思える。
だがそれは、オーソドックスを追究した末に至った極致。
これが、レヴィン・レイフィールド。
(大陸で一番有名な『白夜の騎士』、か)
やはり決して名前先行ではない、確かな……どころか、完璧な実力を備えているからこその立ち回りだ。
「おっ」
そのように皆の様子や戦況を観察していた流護の下へ、一匹のドボービークが走り寄ってくる。威圧のつもりか、これ見よがしに爪をひけらかして接近するその敵を、
「おりゃ」
ごん、と無造作に蹴っ飛ばした。絵に描いたみたいなサッカーボールキック、通称サカボ。
家屋や木箱、柱に反射する勢いで激突し吹き飛んだその個体は、地面に伏して動かなくなる。……追加が来そうな雰囲気はない。
傭兵団やレヴィンたちが手練なこともあり、こちらが受け持つ敵も少なくなりそうだ。
――というより正味な話、この場にはドボービークを相手取るには過剰なほどの戦力が揃っている。
となると、
(……当初の予定通り、俺らが気を払うのは勝敗じゃなくて……)
敵の逃走。
討ち漏らし、残党が発生してしまうこと。
これを防ぐのが主目的となる。
危なげなく戦闘を優位に進める傭兵たち。反して、ギギッと動揺したような呻きを漏らす怨魔たち。
ざっと眺めた限りでも、ドボービークの群れは想定外の抵抗を受けて戸惑っている風に見える。
(さってと、こっからが本番だな――)
戦意喪失し逃げようとする相手を仕留めることは、例え怨魔相手でもやや気が引ける。未だそんな甘さを抱える流護だが、今回の件に関してはそうも言っていられない。
遁走しようとする個体がいないか、目を光らせ――た、その矢先だった。
オォ――――と。
山間を抜けていく、重低音の残響。改造したバイクのエンジン音にも似た、腹の底を震わせる轟き。
この集落内に、そんな音を発するものはおそらく存在しない。無論、ドボービークの鳴き声でもない。
傭兵たちも音の正体の見当がつかないらしく、交戦しつつも周囲へ気を配っている。
「……ん?」
そして、異変はすぐだった。
牙や爪をひけらかし、襲いかかる。そんな表現で間に合っていたドボービークらの動きが――、明確に変化した。妙に距離を取るような、周囲を探るような気配を見せ始める。
「逃げるつもりになったか? だが、させん!」
事前から想定していた、敵わないと判断しての逃走。その段階に移行したと読んだ傭兵の一人が踏み込んで剣を振るうと、ササッと躱した怨魔は反撃に転じることなく横っ飛びで素早く移動。
「!?」
この時、対峙していた彼とその光景を目にしていた流護の驚きは間違いなく同期しただろう。
一目散に逃げるのかと思われたそのドボービークは、近場の柵に灯されている松明へと飛びかかった。引っ掻かれて止め金から外れたそれが、地面へと落下。草葉の上で火の粉を撒いて転がる。
「な、何だ……?」
傭兵が困惑して立ち尽くす間にも、怨魔は攻撃を仕掛けるでも逃げ去るでもなく反対方向へ。そしてやはり、近くに設置してあった松明を飛び上がって殴り落とす。地面に転がった燃え盛る棒が、ジリジリと芝生を炙り始める。怨魔はこちらなど意にも介さず、建物の隙間を通って裏手へと消えていく。
「あぁ!? 急に何してんだこいつら!?」
「松明を……、何のつもりだ……?」
各所から聞こえてくるダスティ・ダスク団員らの戸惑った声。
察するに、どうやら他のドボービークも一斉に同じ行動を取り始めたらしい。
「おいおい、燃えとるが」
流護は深く考えず、近くで燻り始めた芝生へ小走りで駆け寄って、その火を靴の裏で踏み消した。
脇で傍観していた傭兵が、訝しげにぽつりと零す。
「……まさか奴ら、これで火を付けようと思ったのか……?」
松明を落とし、その火を芝生やテントに延焼させる。正攻法では勝てないと判じ、集落を火に巻こうとした。
「フ……そんな浅知恵が働くとは驚きだが……ハハハ! 所詮は怨魔だな! こんな程度で燃えるかってんだ!」
一笑に付した傭兵が、剣を握り直して敵を追う。
――彼の言う通りだ。
芝生などに松明を接触させたところで、その火が即座に手に負えない大きさへ膨れ上がる訳ではない。何分も放置すれば別だが、この暗がりの中で火に気付かないこともありえない。たった今しがた流護が実演したように、少し踏みつければ消し止められる。
(……しかも……あれじゃん)
周りの様子を窺うと、転がった勢いで松明の火が消えたり、下に用意してあった水桶の中に落ちたりで未遂に終わる場面も散見された。
「……」
しかしドボービークたちはそんなことなどお構いなし、縦横無尽に松明を落として回っている。それが何よりも優先すべき使命であるがごとく。
火災を狙うにしては、あまりにお粗末。それとも怨魔の機転として考えたなら、意外すぎる戦略だと評するべきなのか。
今回の討伐作戦のために各所へ多めに設置していた松明が次々と落とされ、傭兵たちは怨魔を追いつつも転がった火の元を潰していく。
そんな展開が続いた矢先だった。
「あいでっ!?」
近くから、悲鳴に交じってゴンと鈍い音が響く。
「いってててクソが、何だ!? 邪魔くせぇなぁ、っとに!」
悪態をついた傭兵が睨んだのは、足下に積まれていた大きめの木箱だった。そこにあったことに気付かず躓いてしまったのだろう。
そんな一瞬の無駄な時間を惜しむように、舌打ちした彼は引き続き怨魔を追っていく。
(……ん? 気付かなかった? このでかい木箱に……?)
今さらながらハッとした流護は、弾かれたように顔を上向けた。先ほどまでかすかな朱色を残していた空は、今や完全なる漆黒に包まれている――
「……!? お、おい、これは……」
「ちょっと待て、まさか……」
幾人かの傭兵たちもその異変に気付いたらしい。困惑したような声がにわかに上がり始めた中で、
「駄目です! 火を消してはなりません!」
「お前たち、火を消すな!」
レヴィンとアキムの緊迫した一声が飛ぶ。
が。
またひとつ、怨魔によって落とされた松明が転がる勢いのまま火の揺らめきを失って――その時には、もはや手遅れとなっていた。