630. 相容れない思慮
懐中時計を取り出してみれば、時刻は夜の八時を回ったところ。
しかし空は未だ色濃いまでの緋色に染まったままで、この地方特有の長い夕方が続いている。
鬱蒼とした木々が覆う林道を行くこと二時間弱、流護たちの乗る馬車はその場所へと到着した。
木板を組んだだけの粗雑な柵に囲われた平原、内側に点在する茅葺き屋根の家が片手の指で数えられるほど。中心部に薄茶色の大きなテントが一つ。こぢんまりとした、村と呼ぶにもささやかな居住地。
のんびりと草を食むヤギや、黄緑色で統一された民族衣らしきものを身に纏った者の姿が散見される。
「わ、大自然の里って感じ……」
「あれだな。場所は思った以上に広くて、村の規模は思った以上に小さいって感じだな」
彩花と流護がそれぞれ感想を口にすると、エーランドが集落を流し見つつ誰にともなく言う。
「実質、建物の半分以上は家畜小屋だと思います。人が住んでる家の方が少ないんじゃないですかね」
「そんなもんなのか。なら近くに怨魔が来てやばそうなら、別の場所に移住するとかしないんすかね?」
「先ほどもお話ししたように、アシェンカーナ族は子供が大きくなるまでは一箇所に定住します。裏を返せば、幼子を抱えた状態で新天地を求めて放浪することは難しい。まさに今、彼らはそういう時期なんでしょう」
そんなエーランドの言葉を裏付けるように、集落の中央に張られたテントの裏手から数人の子供たちが飛び出した。まだ三、四歳ぐらいだろうか。全員が黄緑色の民族衣姿で、楽しそうに草葉の上を駆け回っている。
「……あの笑顔を失わせたくはないわね」
ベルグレッテが神妙な面持ちで呟いた。
徐行する馬車に揺られながら出入り口と思しき門の前までやってくると、先に到着したダスティ・ダスクの三台がすでに横並びで停まっていた。
その近くで、流護たちの乗るこの車体も動きを止める。
「降りましょう」
どこか逸るようなレヴィンを先頭に、御者を含めた九人は二時間ぶりの大地へ両足を着けた。
すると見計らったかのごとく、集落中央の大テントから一人の女性が現れた。年齢は五十歳前後か、白髪交じりの黒髪を首元の長さで揃えた穏やかそうな婦人。やはり黄緑一色の衣を纏い、勾玉に似た小石が連なった首飾りを下げている。
後を追う形で、ダスティ・ダスクの副団長アキムがテントの垂れ幕を潜って外へ出てきた。
二人は歩調を揃えて、流護たちの立つ村の出入り口までやってくる。
「まあ、まあまあまあ……。本当に、何とまあ……」
おおよそ事情はすでに聞いているのか、一行……というよりもレヴィンとエーランドを見比べた女性が、言葉を失った風に立ち尽くす。
「失礼いたします、ご婦人。私はバルクフォルト帝国騎士団総隊長、レヴィン・レイフィールドと申します。こちらは麾下部隊『サーヴァイス』所属のエーランド・レ・シェストルム。そちらのアキム氏よりご事情を伺い、助太刀に参じました」
「ええ、お話は伺っております……。しかしながら、かのレヴィン様や騎士団のお方にご足労いただくような大事では……」
恐縮しきりといった女性に対して、隣のアキムが太い唇を意味深に吊り上げた。
「気に召されるな酋長。本人たちが助勢したいと言うのだ、好きにさせれば良い」
(酋長……じゃあ、このおばちゃんが集落の一番偉い人なのか)
流浪民族の長ということで、勝手にひげの立派な老夫みたいな人物像を思い浮かべていた流護としては少し意外だった。ごく普通の主婦、といった印象である。
「ですが……ええ、ええ……私たちには、お助けいただいたことによる対価を支払うこともできかねますので……」
しかし当人はやたら腰が低いというか、見ていて気の毒になるほど身を竦ませている。
一方のレヴィンは真剣な面持ちで真っ向から酋長と相対した。
「対価などとんでもございません。これで我らが祖先の過ちを雪げるとも考えてはおりません。ただ、我々の手の届く範囲に困っている誰かがいるならば助けたい。……あなた方アシェンカーナ族に対し、これほど空々しく聞こえる言葉はないのかもしれませんが……これは、偽らざる私の本心です」
「過ちだなんて、とんでもございません」
その部分を明確に否定したのは、他ならぬ酋長だった。そして、穏やかな話し口で続ける。
「たとえば、我々は生きるために狩りをします。肉を始め皮や牙、爪、骨……その命を頂きあらゆるを糧とさせてもらいますが、中にはどうしても活用のできない部位なども存在します。この地方、北西部に棲息する灰色鹿の蹄などは最たるものですね。有効に加工する手立てもなく、捨てる以外にありません」
自嘲気味にすぎる、儚い笑顔だった。
「――私たちも同じこと。その当時、私たちはバルクフォルト帝国にとって不要と判断された。ゆえに切り離された。それだけの話だと思っております」
「そ……!」
そんなことはない、と言いたかったのだろう。しかし、レヴィンの口から実際にその弁が発せられることはなかった。
分かりはしないからだ。五百年も前を生きた祖先の真意など。
「我らはこの西岸大陸にすっかり適応してしまっておりますので、今さら他地域に移住することもままなりませんが……この地を愛しておりますし、屈指の大国として他を牽引するバルクフォルト帝国を偉大と考え敬っております。遠からず私たち一族は絶えるのでしょうが、その瞬間までこの西部を離れることはないでしょう。今さら王宮の庇護下に入り、そのお手を煩わせることもよしとはしません。ただ……私たちがこの大地で生きることをお許しくだされば、それで……」
レヴィンはしばし押し黙った。
そのうえで。
「――承知しました。しかしどうあれ今は、あなた方を守護いたします。過去がどうあれ……私は、あなた方を切り捨てたいとは考えておりませんので」
「……、……レヴィン様」
もちろん、酋長の本心は分からない。何だかんだと言いつつもやはり心の奥底では恨んでいて、やんわりと拒絶しているのかもしれない。
仮に本音だったとして、アシェンカーナ族も全員が全員、彼女と同じ考えという訳ではないはず。
とにかく、だ。
恨みの念などなく、それどころか負担をかけたくないと主張する集落の長。祖先の所業を恥ずべき過ちと捉え、贖おうとする騎士の長。双方ともに思慮深いはずのに、噛み合わない。相容れない。
過去の遺恨を元に分かりやすくいがみ合っていたほうが、まだ単純で分かりやすいし気が楽なのではないだろうかとすら思えてしまう。
(うーん……人って、簡単じゃねえよなあ)
何ともいえない感慨を抱く流護少年であった。
「アキム殿。状況はどのようになっておりますか? 僕たちに手伝えることはありますでしょうか」
ひたすらのやる気に燃えるレヴィンが、傭兵団の副長を見やる。
「そうだな。怨魔については現状、群れの規模も不明。森は奴らの領域、踏み入っての討伐は危険だ。ゆえに、作戦は迎撃。餌を使って、敵をこの広場へ誘き寄せる。これだけの広さがあれば、こちらも余裕を持って戦えるからな。集落の者は、先ほど酋長と私が出てきたそこの円蓋に全員を集めて避難させる。決行時間の目安としては、完全な闇夜が訪れてから……およそ一時間半後といったところか。今、団員たちが準備を進めている。元々我らが請け負った依頼だ、特に君たちに手伝ってもらう仕事はない」
疑問点を差し挟む余地もない、整然とした説明だった。ヴァルツマンについての話でもそうだったが、こちらが尋ねたいことも全て織り込んだうえで必要な情報を提供してくれるあたり、このアキムという人物の有能さが窺える。
「承知しました。ですが、何かお手伝いできることも……」
「不要だ。傭兵団の性質上、公僕を快く思わない者もいる。慣れた面々で進めた方が準備も捗るしな。敢えて言うなら、よく身体を解しておいてくれ。戦闘が始まったら、存分に『白夜の騎士』の力を発揮してもらうさ」
「……承知しました」
レヴィンが根負けするように頷かされる形となった。
「皆さま、立ち話も何ですから。こちらへいらしてくださいな」
気遣ったような酋長が、一行を集落中央のテントへと導く。
ぐっと伸びをした流護がゆっくりついて行こうと足を進めようとしたところで、
「どうかしたか、彩花」
遠い山の稜線で燃える太陽――こと昼神インベレヌスを見つめている幼なじみに気付く。
「……あ、うん」
そこで初めて、少女は自分が立ち尽くしていたことを認識したようだ。小走りで近づいてくる。
「夕日を見てたら、前の……あの時のこと、思い出しちゃって」
鮮やかな黄昏が全てを包む逢魔が時。自らの命を狙ってやってきた悪意ある者たち。そして、繰り広げられた殺し合い。現代日本を生きてきた少女にとっては、心の傷となってもおかしくないような出来事だったはずだ。
「怖いか?」
「怖いよ」
少年の前では弱気の顔を見せない彼女が、今はあまりにも素直に。
「流護は、また闘うつもりなんでしょ? 怖くないの?」
同じく遠い夕日に視線を移しつつ。
「昼間、皇帝との謁見でも言ったけど……俺はもう、戦うことも負けることも怖くはねえ。いや、そもそも負けんけど。お前がとかミアとか、皆に危害が行くことのほうが死ぬほど怖い。だから、そんなことにならんよう動くだけだ」
彩花の背中をポンと押して、行くぞと促して。
「ん……でも、私だって同じだよ。流護に何かあったらって思うと、それが一番怖いんだから……」
「いや、まあそこは……とりあえず見といてくれ。何が来ようが安心だ、って思わせるから。とりあえず、今日は『コンディションもいい』し」
それでもまだ泣きそうな顔の幼なじみを引き連れ、今は静かに皆の後を追った。