63. 燻る獣
――雲が流れ。
真円を描く、巨大な夜の女神が帰還した。
闇に全てが飲み込まれたこの時間。それはまるで、これから始まる闘いを見るために現われたようにも思えた。
流護たちの立つ見通しのいい台地は、このために誂えた闘技場にすら見える。
側面……数メートル下には、ごうごうと音を立てて流れる大きな川。ディアレーまで続いているのだろう。
舞台は、整っていた。
「ハハ、追いつかれちまったな」
言葉とは裏腹に、赤い青年は愉悦を隠せていない。むしろ追いつかれるのを待っていた――と、その顔は語っている。
流護はそんなことには構わず、用件を告げた。
「おい、お前。いつまでミア抱えてんだ。降ろせ」
「だとよ。どうする? レドラックさんよ」
「……言う通りに……してやれっ」
ククッと笑ったディノが、肩に担いでいたミアを素直に降ろす。
「リューゴく、……リューゴくんっ! うあああぁ……!」
両手を後ろ手で拘束されたミアが、流護の胸へと飛び込んできた。
少し気恥ずかしい少年だったが、優しく肩を抱き、頭を撫でてやる。ミアは小さい身体を震わせて泣きじゃくる。どんなに怖かったのだろう。
「ミア、無事か? 怖い思いさせてごめんな。もう大丈夫だからな」
「う、ううぅ……、っく……リューゴくぅん……ぅあああぁっ……」
流護は優しくミアを離し、彼女を拘束している手枷を解いた。そのまま、背後へと庇う。
「ひ、ひひ。リューゴくん、だったかの。その子も返したし、もういいだろう? 用はないだろう?」
尻餅をついたレドラックが、顔を強張らせながら後ずさる。
流護はカクッと首を横に傾けた。
「は? 何言ってんだこいつ」
引きつった顔のレドラックが、顔に焦りを浮かべたままじりじりと下がる。
「言ったろ、刺されたカリも返しに来てんだよ。言葉が理解できなかったのか? ブタの身体に怨魔の顔が乗ったようなツラしやがって。近くで見るとホントひでぇな、いや新種の怨魔なんじゃね? こいつ」
レドラックのこめかみに青筋が浮かぶ。
ディノが「フッ」と吹き出した。
「で、お前はこのブタの飼い主か? 躾のなってねえペットはちゃんとヒモで繋いどけよ、チャラ男」
あからさまな挑発にも、ディノはククッと笑うのみ。
ゆらりと立ち上がったマフィアの頭領は、肩を震わせながら傍らの『ペンタ』へと言葉を投げかける。
「……ディノよ」
レドラックは怒りに満ちた顔を上げ、流護を睨み据えた。
「――殺せ」
その言葉に、赤い青年が――嗤った。
「ま、何だかんだで楽しみにしてたしな」
それは、巨大な月の光の加減なのか。
ディノの双眸が、紅く煌いた。
「ってーワケでガッカリさせてくれんなよ? せめて五秒は耐えてくれよな、勇者クン。無理かもしれねェが」
流護は拳をゴキッと鳴らしながら、一歩前に踏み出る。
「見た目はチャラ男、中身は左腕の疼く中学二年生ってか。おめでてえな、これが『ペンタ』か」
――双方の距離、約十メートル。静かに向かい合う。
それだけでも感じ取れた。目の前に立つ、赤色の男。
その身体は、これまで目にしてきたグリムクロウズの人間たち同様、細い。華奢といってもいい。背丈も百八十五センチといったところか。百七十センチに満たない流護からしてみれば充分に高いが、二メートルクラスがゴロゴロいるこの世界だ。そう考えれば、ディノは低くすら見える。
――しかし。
「……よく分かんねえな」
流護はぽつりと呟いた。ディノがわずかに眉を動かす。
「お前、強いだろ。何でこんなくだらねーことしてんだ? そんなブタの言うこと聞いてよ」
隙ひとつ見当たらない、目前の怪物に疑問を投げかける。
「んー? ま、そうだな……ドブさらい、ってトコか」
男は首を捻り、夜空を見上げながら答えた。
発言の意味が分からず、流護は眉をひそめた。それに答えるように、ディノが語る。
「こんな仕事してっとな、たまに引っ掛かるんだよ。オメーみてえなのが。ドブさらいしてっと、たまにヘドロに混じって宝石が出てくんだ」
「何だ、あれか。強い奴と闘いたい的なやつか」
「ま、ソレも楽しみではあんだけど、そりゃ飽くまで過程だな。強いヤツと闘って勝てば、オレはもっと強いヤツとして知られんだろ?」
「そんなにオレツエーしてえのか。そのくせに、大人しくそんなブタの命令聞いてるってのはおかしくねえか?」
「勇者クンは記憶喪失なんだっけか。学院の『ペンタ』ってな、学院に所属していながら別に行く必要がねェ。多少の無茶やらかしても問題ナシ。一見は自由に見えるんだがな、実は思ったより窮屈なんだ」
いまいち質問の答えになっていない。流護はまたも眉をひそめる。
「まず、国の『ペンタ』同士の戦闘が禁止されてる。そりゃねェぜって話だろ。強えヤツと闘いてえのに、ソレがまず禁止されてんだ。ま、『ペンタ』同士が自由にやり合ってたら色々とアレだろうし、当たり前っちゃ当たり前なんだけどな」
「禁止って何だよ。禁止されてます、はいそーですか、って大人しく従ってんのか? 実は優等生かお前は。強えなら暴れてみたらいいんじゃねえの」
「ま、そんなコトすりゃラティアスとかオルエッタ……粛清担当だとか学院長あたりもスッ飛んでくるんだろうな。考えただけで堪らねェ」
ディノは夢を見る少年のような表情を見せた。
強がりではない。闘ってみたいと心から思っているのだろう。
「で、オレはソイツらにも勝つだろうが、そん時ゃオレは完全にお尋ね者だ。いくら何でもそりゃ困る」
「そうすりゃ延々と強い奴が送られてきて、死ぬまで闘い続けられるんじゃね? 強い奴として名を知られてえんだろ? 世界的に有名になるぞたぶん」
「んー、ソレじゃダメなんだよ。その状況は魅力的だが、さすがに世界的な犯罪者になっちゃ意味がねェんだ。ブレーティみてぇにはなりたくねェな」
とにかく強い奴として名を残したい。が、極端な犯罪者にはなりたくない。悪名を轟かせたくはない……ということだろうか。
少し意外だ、と流護は感じた。そのようなことを気にするタイプではないと思っていたからだ。
「で、そのくせ軽犯罪は犯すのか? 随分とちゃっちい強者がいたもんだな」
「今回みてーに、裏の仕事してっと犯罪になっちまうケースもあるわな。ソコは『ペンタ』の特権で解決だ。っても、今回は二回目なんだよなーオレ。アリガタイ説教聞いて、オディロンのクソオヤジの仕事押し付けられて終いってトコか。ソレぐれぇはやってやるさ。優等生のオジョーチャンも吹っ飛ばしちまったし、反省室も追加か? ま、暇だしな。別に構わん」
ディノはコキッと首を鳴らし、つまらなそうに続けた。
「つまりな、できるだけルールを守りながら強いヤツと闘うとなると、この裏社会で地道なドブさらいするしかねェってコトだ、今んトコはな。表にいちゃ、そもそもオレの望む戦闘なんてモノはそう起きねェ。街道をのんびり散歩してみんのもいいが、寄ってくるのは虫みてーなザコばっかだ。『ペンタ』同士の戦闘禁止。闘技大会出場禁止。アレもコレも禁止。もういっそ、この国を出ちまってもいいが……」
そこで二人の会話に、別の声が割って入った。
「おかしいんじゃないの?」
流護の隣に立ったミアが、キッとディノを睨みつける。
「だったら、すぐにでも国に協力する仕事をすればいいじゃない。リーフちゃんみたいに。国の仕事だったら、山賊とか怨魔とかの駆除任務もあるでしょ。強いやつと闘う機会なんていっぱいあるはずだよ。それでいて、その力を使っても、誰にも咎められたりなんてしない。逆に、人に感謝されるぐらいなのに。そうすれば、有名にだってなるよ。お金持ちにだってなれるでしょ。いっそ、国の専属になればいいよ。なれるじゃん……あんたなら」
ミアの言葉は、責めるようでいて憧憬が混じっているようにも思えた。
国の詠術士になろうと頑張っていたミア。
努力をせずとも、望めばそれだけでなれるはずのディノがそうしないことに、苛立ちを感じているのかもしれない。
その言葉に、超越者はわずかに目を逸らす。そして、吐き捨てるように呟いた。
「……オレは、国に協力する気は……国の『ペンタ』なんぞになる気はねェよ」
驚いたのは流護だ。
これまで余裕を滲ませ、人を見下すような態度を取っていたディノ。
そんな男が、明らかに苦い表情を見せ、わずかにうつむいた。
「……え、じゃあどうして学院にいるの? 学院にいる『ペンタ』は、みんな将来国の『ペンタ』になるかもしれない人たちでしょ……?」
ミアの言葉を受け、ディノはチッと舌打ちをした。
「あーもーうるせーよ。話はいいだろ。とっとと始めようじゃねェか」
怒るでもない。ディノはこの話を終わらせたがっているようだった。
いまいち分からない。好戦的で凶悪な『ペンタ』。近づけば噛みついてくるような危険人物。最初は、そんな印象だった。
だが……ミアの言う通りだ。この男が何がしたいのか、よく分からない。なぜあんな苦い……悲しそうな顔を見せたのか、分からない。
しかし。流護は気持ちを切り替える。
「……まあ、始めるか。お前の事情なんざどうでもいいしな。最強なんてフカしといて、デブの命令ヒーコラ聞いてるだけの野郎だってのはよく分かったよ。もっとやべぇ奴かと思ったんだけどな、つまんねえケンカになりそうだ」
流護は首をゴキッと鳴らし、足首を回す――
瞬間、赤い少年を中心に、まるで衝撃波のような烈風が発生した。
「ぐわぁっ」
「ひゃあぁっ!」
煽りを受けたレドラックが樽みたいに転がり、流護の後ろに控えたミアが飛ばされそうになる。流護も思わず顔の前に手をかざし、膝に力を込めた。
「ハハ、悪ィな……上手く加減してるつもりなんだが……巻き込まれねェように離れてな、レドラックさんよ」
――ディノ・ゲイルローエンは炎の使い手だと聞いている。なのに何だ、今の風は――
流護は顔を上げ、思わず絶句した。
壁。
ディノの背後に、炎の壁としか言いようのない灼熱が屹立していた。
高さは十メートル、横幅は二十メートルを超えるだろう。王都を囲んでいる城壁と大差ないほどの、赤い絶壁。
「あ、あぢゃ、じゃあッ」
炎の近くで腰を抜かしていたレドラックが慌てて離れ、ゲホゲホと咳き込んだ。
「おー、もっと離れとけよ? 一応、限界まで温度下げちゃいるんだけどな」
ディノが、ゆらりと右手を持ち上げる。
「リューゴくん、息止めてっ」
ミアの意図を察した流護は、言われた通りに呼吸を止める。
直後。ディノが右腕を振るうと、絶大な炎の壁が消失し、次いで灼熱の烈風が吹きつけた。
「ヒイッ」と情けない悲鳴を上げて転がるレドラック。ミアは流護の服の裾を懸命に掴み、何とかその場に留まった。流護は顔の前に手をかざしてやり過ごす。
――今の熱風を吸い込んでいれば、それだけで肺を焼かていただろう。
右手の感触を確かめるように開閉したディノは、何の感情もなく呟いた。
「ま、こんなモンか。……ん? どうした勇者クンよ。何を身構えてんだ? 今のは準備運動だぞ。オメーも今、首鳴らしたり足首回したりしてたろ? ソレと一緒」
ディノは薄笑いを浮かべて、一歩前へと歩み出る。
「――ハハ。どうした、ブルッちまったか? 安心しろよ、虫みてーに優しく潰してやるって」
ディノの軽薄な笑いが、残虐な深みを増した。もうそこに、先ほどまでの苦い表情は――燻っていたような雰囲気は影も形もない。ただ獰猛な、真紅の獣が佇んでいる。
「ミア、離れてな」
「リ、リューゴくんっ……」
離れていろというのに、彼女は服の裾をぎゅっと強く握ってくる。震える子猫みたいだった。
「余裕だよ。俺がくっそ強えのは分かってるだろ? 任せろ」
「…………っ」
ようやくかすかに頷いて、ミアは名残惜しそうに流護から離れた。
その様子を見ていたディノが、はー……と溜息を漏らす。
「で? いいか? こっちはいいぞ」
「ああ。……んじゃ、行くぞ?」
流護はザッザッと、左右のステップを踏み始める。
「ハハ。ホントに素手なんだもんな。ガイセリウスにでも憧れてん――」
一秒なかった。
刹那、十メートルはあった流護とディノの距離が、一メートル弱になる。
一瞬で間合いをゼロにした流護は、鋭く左脚を踏み込み、右拳をディノの顔面へと向けて繰り出す。
『ペンタ』と呼ばれる怪物だろうが、関係ない。
どんなに凄まじい神詠術を使えようが、宇宙を滅ぼすような術を使えようが、関係ない。
使う間を与えず、殴り倒す。
単純な身体能力において、地球人に大きく劣るグリムクロウズの人間は、流護の動きに反応することができないのだから。
タイミング、スピード、全て完璧。
デトレフのときと同じように、右拳が炸裂する――――瞬間、流護は吹き飛んだ。
「ッッ!?」
バランスを崩しながら後退し、靴裏がガリガリと地面を削る。
数メートルほど飛ばされるも、何とか転倒せずに持ち直す。
慌てて顔を上げると――かすかに炎を纏ったディノが、流護に向けて人差し指を突きつけていた。薄笑いを浮かべて。指差しをするように。
ぞくりとした何かを感じた。
ビッ――と、思いのほか地味な音。
流護は反射的に首を振って、『それ』を躱す。顔のすぐ横をよぎる、あまりに細くあまりに赤い熱線。
直後、背後から耳を叩き潰すかと思うほどの大爆音と地鳴りが轟いた。
思わず振り返れば、土砂崩れを起こしたかのように崩壊する、百メートルほども離れたところにある対岸の岩山。崩れ落ちた岩々が、投げ込まれるかのごとく川へと叩き込まれていく。
「…………!」
流護は思わず息を飲み込む。レドラックとミアも、呆然とその光景を見つめていた。
――何だこれは。まるで……レーザー砲。
「オイオイ、ヨソ見はいけねェな」
ディノの声に、流護はゆっくりと顔を向ける。
「今、オメーがボケッとしてる間にも殺れただろうが、ソコはノーカウントにしといてやるよ。『ペンタ』を見んのは初めてなんだろ? 感動して呆然としてるトコを吹っ飛ばしちまうなんざ、あんまりだモンな」
優しささえ含んだ声。
「……は、っ」
思わず笑いが漏れる。現界した炎に――おそらく攻撃術ではない、ただの余波に弾き飛ばされた。体勢を崩したところに一撃が飛んできた。辛くも躱したが、あまりの一撃に呆然とした。無様に隙を晒して。
決着だ。本来であれば、もう終わっている。
「五秒は耐えてくれ」などと、傲慢なセリフを吐いた『ペンタ』。
しかし現実、五秒も経過していない。
驕るはずだ。恐れるはずだ。国が欲するはずだ。
兵器。この暴力は、兵器と呼んで差し支えない代物だ。
人の形をした、兵器。
「ソレにしても、今のダッシュは正直ビビッたぜ? ザコどもとの戦闘見てる限り、速ぇとは思ってたが」
そう言って、ディノはゆらりと両腕を持ち上げた。
闇に浮かぶそのシルエットは、まるで十字架。
ボンッと音を響かせて、その十字架が伸びた。ディノの両腕に現われる、全長五……六メートルに達するだろう、とてつもなく巨大な炎剣。
否。これを剣と呼んでいいかすら定かではない。ベルグレッテの切り札たる水の大剣の二倍はある、炎でできた『巨大な何か』。
大剣だとかそういう人の振るう武器の範疇を越えた、あえて形容するならば――二本の火柱。
「ところで、国がオレに与えた『二つ名』、なんつーくだらねェモンがあってな」
『詠術士の栄誉』をそう吐き捨てて、しかしディノはその名を告げる。
「――『獄炎双牙』だとよ」
ディノが両腕を振り下ろした。腕の動きに合わせ、二本の絶大な炎柱が流護へと叩きつけられる。まさにそれは、獲物を噛み砕かんとする強大な恐竜の牙。
流護は、横へ動いて大きく躱す。大地を抉った炎が、熱波と土砂を巻き上げた。
(……っち!)
紙一重で躱すことはできない。炎の熱と、舞い踊る火の粉に焼かれることになる。
ディノが両腕を振り回すだけで、直径十メートルにも達する広範囲が、暴虐の赤に薙ぎ払われた。
ファーヴナールをも遥かに凌ぐとてつもない間合いに、流護は後退を余儀なくされる。
「ハッハァ! オラオラオラどうした勇者クンよ! オメーの得意な接近戦だろ!? 終わっちまうぞオラァ!」
哄笑を響かせて、ディノが両腕を――火柱を振り回す。
流護から見れば、この男のやっていることは素人がメチャクチャに武器を振り回していることと大差ない。その動きも、騎士として鍛錬を積んでいるベルグレッテのほうが比較にならないほど洗練されている。
間違いなく、ディノは体術という点でいうならばただの素人だ。
――だが、迅い。
ベルグレッテが鍛錬を積んだ騎士ならば、ディノは荒れ狂う猛獣だ。
そもそも鍛錬など必要としないというような、暴力的な速さ。そんな次元で論ずること自体が的外れだとでもいうような、炎の柱による連撃。
この振り回している『武器』が、そもそも人智を超えている。長大な火柱。迫り来るそれを認識したとて、人間の速度ではその間合いから離脱することができない。避けるより早く、火柱に焼かれる。分かっていながら、逃げることが間に合わない。そんな速さと巨大さ。
流護の身体能力だからこそ、辛うじて避けられているようなものだった。
広大な範囲を薙ぎ払う灼熱、その全てをあるいは跳び、あるいは屈み、あるいは上体のみを仰け反らせるスウェーで躱す――
「……ッぐ!」
炎の柱が流護の肩をかすめた。ジュッというかすかな音と共に、熱さよりも痛みが疾る。そして痛みは、集中力の欠落を招く。わずかに、体勢を崩した。
「シィッ!」
直後、凄まじい速度で振るわれた巨大な二本の牙が、流護の首筋目がけて交差した。