625. 風塵の帝
かつての絶対王者、拳闘士としてのヴォルカティウス。
無手無術、新進気鋭の遊撃兵たる流護。
ローヴィレタリアもエーランドも、そしてベルグレッテたちも。庭園の中央にて間断なく拳を交える両雄に釘付けとなっている。
一見する限り互角の攻防。
しかし。
(これは……)
レヴィン・レイフィールドは信じられない心境で注視していた。
先ほどエーランドが言及した通り、ヴォルカティウスと流護の間には大きな体格差が存在する。そして、格闘戦においてその差はそのまま明暗に直結する。小は大に勝らない。およそ全ての生物に適用されるであろう、残酷な自然の摂理。
今の拳闘界隈は、まさにそれを証明している。
現王者デルダムは二マイレ半を優に超える身の丈の大男で、拳打法の心得など皆無にもかかわらず、圧倒的強さにて頂点の座へと駆け上った。ただその巨体で全てを薙ぎ倒す、あまりにも単純明快な戦法のみで。
今、目の前で繰り広げられている一戦にしても同じこと。
いかに流護が優れた体術使いであろうとも、己より一回り以上も大きなヴォルカティウスに対し真っ当な格闘戦が成立するはずはないのだ。
にも、かかわらず。
(そのうえで、互角だというならば……)
それはつまり――体格の不利を補うだけの身体能力差、技量差が存在するということ。かつてこの西国にて拳の頂点を極めた絶対王者を相手にして、なお。
どころか、流護は明らかにまだ本気を出していないように見える。そんな力加減で、当たったはずの拳を押される勢いのままにいなすという信じられない芸当まで披露した。
(陛下……)
誰よりも理解しているはずだ。実際に拳を交えている当人こそが。
その、瞬間だった。
「――コォッ」
ヴォルカティウスの喉から発せられる呼気。
そして庭園の草花を揺らす一陣の風。屋内にもかかわらず、それはどこから吹き抜けたのか。
「! 陛下っ!」
同時だった。答えに気付いたレヴィンの一声と、それを上書きする甲高い破砕音が鳴り響いたのは。
これまでとは比較にならない速度で振るわれた、ヴォルカティウスの右拳。左の篭手で受けた流護が大きく後退する。
「むうっ!? 陛下! なりませぬ!」
ローヴィレタリアも異変を察し呼びかけるが、応えたのは荒ぶる風の唸り。
即ち、拳闘の域を踏み出た――神詠術の発現。
「ハァッ!」
脚部に気流を渦巻かせたヴォルカティウスが、霞む速度で接近。やはり風の残像を纏った両腕で、左右の拳を次々と振るう。打たれた流護はまさしく竜巻に飲み込まれたかのごとく、その小さな身体を右へ左へと大きく揺らす。
「ね、姉様! これは……!」
「ちょ、え、なに、なに!? な、なにこの風……っ、めちゃ速! つよ! どうなってるの!?」
これまでとは別物の動きに、クレアリアと彩花が驚いてベルグレッテを見上げ、
「レヴィン様! これ……陛下、本気ですよ……!?」
エーランドが見たままの事実を告げる。
観戦する一同が困惑する間にも、ヴォルカティウスは颶風さながらの猛攻を仕掛け、流護は押されるままに後退していく。
「ええい火が付きおったか、これだからならぬと……! レヴィン、エーランド! 陛下をお止めせい!」
「……はっ!」
「は、はい!」
ローヴィレタリアの指示に従い両者の間に割って入ろうとしたレヴィンだったが、そこではたと気付く。
(……、ん……? いや、これは……)
序盤とは比較にならないヴォルカティウスの連打。生身の拳闘士としてではなく、詠術士として繰り出される怒涛の攻勢。第一線を退いて長いとはいえ、その腕前のほどはまるで衰えていない。
「レヴィン様、おれは向こう側から回り込みます! ……レヴィン様? どうかしましたか!?」
動こうとしないレヴィンにエーランドが問いかけるが、答えを明かしたのはベルグレッテだった。
「当たってない……」
その一言を受けて、観衆の全員が注目する。
そうなのだ。
凄まじいまでのヴォルカティウスの連係に押され、ひたすらの後退に甘んじているかに見える流護だが――
「アラアラ。ちゃんと全部防いでるみたいねー」
ナスタディオ学院長が舌鼓を打つように微笑む。
流護は、次々と繰り出される皇帝の風拳――その全てを、着実に篭手で受け捌いていた。
攻撃の余波として巻き起こる風の渦は相手の体勢を崩す効果を生むが、流護はこれに対し逆らわない。むしろ気流に乗るがごとく身を翻し、その先々で堅牢に次の攻撃を防ぐ。結果として身体が左右や後方へ傾ぎはするものの、ただの一打として直撃を許していない。それどころかまるで危なげなく、凪いだ表情で対応している。
「……、」
ヴォルカティウスは間違いなく全力だ。一切の加減なく拳を振るっている。
にもかかわらず、まるで定められた危険のない演武を見ているような。
止めに入ることも忘れたレヴィンは、思わず見入った。
皇帝が放つ左の牽制打、身構えた流護の篭手越しに炸裂する爆風。これにより、かすかに後退する少年の肉体。
間合いが離れた一瞬の隙に、ヴォルカティウスは大胆に踏み込んで右の拳を弓引く。
(闇雲に攻撃していた訳ではない。距離を探っておられたのだ)
風の渦で流護の接近を阻み、かつ自分の拳だけが的確に当たる位置へ相手を動かしつつ固定する。
幾度となく繰り返すことでその調節を終えた『風塵の帝』が、渾身の右を射出。
「――――」
する、はずだった。
ピタリ、と。
嵐さながらの苛烈さで攻め立てていたヴォルカティウスが、右拳を放つ寸前の身構えで静止していた。微動だにせぬその様は、屹立する拳闘士像のよう。
そしてその静寂を引き起こしたのは、まっすぐ伸ばされた流護の右腕。皇帝の眼前に留め置かれた右拳。
(……これは……)
猛り狂う風に押され、翻弄されている。そう思わせながら、一瞬で間を詰めての反撃。
勢いに乗るまま踏み込んでいたなら、ヴォルカティウスは自ら流護の握り拳に当たりに行く形となっていただろう。
(それを悟り、踏み留まられた陛下もお見事……、しかし)
流護が、この一撃を寸止めせずに振り抜いていたなら。
そんな仮定が齎す結果は、誰の目にも明らかだった。
全てが静止すること、時間にすればわずか数秒程度。
浅く息を吐いたヴォルカティウスが、もどかしげに構えを解く。
「……お美事なり! 遅まきながら失礼したな、アリウミ遊撃兵。つい熱が入ってしまった」
「いえ。軽く手合わせとは言っても、闘いですから。こういうこともありますよ」
両者軽く拳を突き合わせ、場に満ちていた緊張感が霧散していく。
「陛下! ならぬと申したはずですぞ……!」
「おっと、そう青筋を立てるなトネド。反省はしている」
「リューゴ!」
「ちょっと大丈夫なの流護!?」
「見ての通りだろて」
賑わう一同へと顔を向けつつ、エーランドが呆然とした口ぶりで呟いた。
「……本気の陛下を相手に……無傷、かい」
若き精鋭の意識は、無手無術で場を凌ぎ切った少年に注がれている。自ずとレヴィンも視線を追従させた。
(……)
前触れなく――悪し様に言うなれば、不意打ち気味ですらあったヴォルカティウスの全力。
しかしそれに対し、流護はまるで動じた気配もなく渡り合ってみせた。完璧に捌いてみせた。
(彼は……気構えが備わっているんだ)
いつ、いかなる時も。誰と対峙しようと。どのように仕掛けられても、即応できるだけの肚が決まっている。
例え、その相手が一国の王であろうとも。
迷いも萎縮も動揺もない。
『最強』を目指すというその途方もない宣告が、本物であることを証明するかのごとく。
(並ならぬ覚悟だ。……僕にはあるか? それほどの……。…………)
無論、レヴィンも気概は持ち合わせている。
ただそれは、『敵』に対してのものだ。
どんな相手だろうと屈さず相対する自信はある。だが、思いがけない何者かに虚を突かれた場合、まるで動じず対処することができるのか。
(……僕も、叔父上の一件で思い知ったつもりだ)
それでもきっと、いざその瞬間に人は心を乱す。そういうものだ。
しかし、この少年は違う。
友好的な一国の王に対しても、まるで揺らぐことなく。
(……凄まじいな)
レヴィンが懊悩する間にも衣を羽織り直した皇帝が、眩い天窓を見上げながら声を弾ませる。
「うむ、良き鍛錬となった……。久方振りの高揚だ」
「ホッホ、それは何よりで……。して、お加減はいかがですかな」
「悪いように見えるか。それよりトネドよ、こう昂っては堪らぬぞ。この熱を絶やしたくない。余の次の試合はまだ決まらぬのか」
「……陛下。御身は、すでに第一線を退かれてございます」
淀みなく答えた腹心を驚いたような目で見やったのも一瞬のこと、天へと眼差しを戻して。
「…………そうか。そうで……あったな」
闘技場を去って十年目を迎える男は、目元を細めて寂しげに呟いた。知りたくなかった真実を告げられたように。