623. 羚羊と賢帝
「はー……信じらんない、ほんとでっかい……」
歩き始めて十分ほども経過しただろうか。
赤絨毯の敷き詰められた荘厳な廊下を進みながら、彩花が呆けたようにぼやいた。
が、それももっともか。どこまでも長い石の通路。壁面に施された手抜かりのない装飾や、掲げられる青い水竜の旗。天井から吊り下がる豪奢なシャンデリア。延々とそんなロケーションが続いているのだ。現代日本では少し考えられない。
「まあでも、レインディール城もこんな感じだぞ」
「そなんだ……。でも、うん。あのお城も、外から見てもおっきかったもんね……」
十字路や大きめの広間に差しかかると、銀色の鎧を着た兵士やシックなローブ姿の文官らしき者たちの姿も散見される。一般兵の装いはレインディールのそれと大差ない。
いくつもの角を曲がると、やがて緑の美しい屋内庭園が見えてきた。天窓から陽光の筋が降り注ぐ、円形状の中庭。ちょっとしたボール遊びもできそうな面積がある。
「わ、わ。すご、きれい……」
「いつ訪れても、この場所の荘厳さには目を奪われますね。レインディールにはない植物もあって」
瞬きする彩花とは対照的に、クレアリアは以前にもやってきたことがあるようで懐かしげに目を細めていた。
そんな癒し空間を通り過ぎると、突き当たりに階段が現れる。
上がり切ると、そこには一際大きな両開きの扉。一目瞭然な特別感が溢れるその入り口に、一人の少年兵士が立っていた。
「お?」
流護は思わず注目した。
彼が身に纏う軽装鎧は、途中で見かけた正規兵らみたいな銀色ではない。真昼の海を思わせる青緑。
「お待ちしておりました!」
その人物が朗々と響かせる、はきはきとしたやや高めの声。
くりんと巻いた癖毛の短い金髪が特徴的な、まだ年若い少年だった。
身長こそ百八十を優に超えていそうだが、おそらく年齢は流護とそう変わりない。やや丸い童顔で、くりっとした二重まぶたの奥に覗く瞳は透き通る緑。目鼻立ちの整った、素直そうで人懐っこい雰囲気の美少年といえる。
そんな彼にまず呼びかけたのはレヴィンだった。
「お疲れ様、エーランド」
「はっ! レヴィン様こそ! 猊下も、お疲れ様です!」
「うむ、ご苦労」
彼は背筋をピンと伸ばし、自国の最上位であろう二人に最敬礼でもって向き直った。
(ん? エーランド……って、確か……)
流護が記憶の片隅から正解を引っ張り出すより早く、その当人がレインディール勢へと向き直った。
「レインディールの皆様、ようこそバルクフォルト城へ! ぼ……お……私は『サーヴァイス』所属、エーランド・レ・シェストルムと申します! この度は、皆様の謁見に立ち会わせていただくべくお待ちしておりました!」
片腕を胸前へ掲げての名乗りを受け、ベルグレッテが一歩進み出て応じる。
「ご丁寧にありがとうございます。私はレインディールはミディール学院よりやって参りました、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードと申します。もしやと思いましたが、あなたがエーランド殿なのですね。システィアナやリズインティ学院の皆さんから、お話は伺っております」
リズインティ学院の生徒にして、バルクフォルト精鋭部隊『サーヴァイス』の一員。そんな特殊な立ち位置の人物がいると聞いていたのだ。
「あ! みんなおれのこと……、いや、私のことを話しておりましたか」
慌てて言い直した彼へ、少女騎士が微笑みかける。
「ふふ。ええ、普段のエーランド殿のご様子なども聞かせていただきました。私とは同年齢ですので、どうかお気軽に」
「あ、そうでしたか! どうも、お気遣いをすみません。ええ、こちらもベルグレッテ殿のお名前は聞き及んでいますよ。マリッセラがよく話していましたので」
あのツンデレ貴族少女がベルグレッテの話ばかりしているのは、誰に対しても同じであるらしい。
流護たちもそれぞれ簡単に自己紹介を終えると、彼の緑色の瞳が興味深げな視線を注いでくる。
「……なるほど。あなたが、リューゴ・アリウミ遊撃兵ですか……」
隣国の変わり種な少年兵の噂は、やはり少なくない人数が知るところであるらしい。意外と遠慮なくまじまじ見つめてくる。
どういった話を耳にしているのか、そしてどう思っているのか。
「ホッホ。話に花を咲かせるのもよいが、エーランドよ。陛下はもう中にいらっしゃるな?」
「あ、はい! つい先ほどいらして、すでにお待ちです!」
となれば、一国のトップをそう待たせる訳にもいくまい。
「では参りましょうぞ、皆様方」
錫杖を支えに進み出たローヴィレタリア卿が、重厚な扉に手をかける。
「陛下。お客人方がお見えになりました」
取っ手を引きながら呼びかけて入室したローヴィレタリア卿と後に続いたレヴィンが、それぞれ左右へと別れて流護たちを促す。その招きに従い、ミディール学院勢の六人は後に続いて中央へと進み出た。最後尾についたエーランドが扉を押さえて静かに閉める。
静謐な空気に満ちた間だった。床一面に敷き詰められた高価そうな赤絨毯。すぐ脇で高い天井を力強く支える二対の豪華な円柱。
そして最奥に備えつけられた玉座へ堂々と身を預ける、一人の男。
外見年齢は三十歳から四十歳前後。癖のある巻き気味の黒毛を短く七三分けにした、気品溢れる美丈夫だった。物憂げな色気を感じさせる二重まぶたの奥には深緑の瞳。小高く伸びる鼻と、その下に短く蓄えられた美髯。紳士の見本のような眉目秀麗の面立ち。身長は二メートル弱といったところか。スラリと細長い、しなやかなフォルム。
衣服はゆったりとした白の一枚布を全身に巻いたみたいな様相で、流護の感覚からすると古代ローマ人の格好を彷彿とさせる。きっと、すぐ隣で緊張しっぱなしな彩花も同じように感じていることだろう。
大股で深く座したその男が、居並ぶ一同へざっと視線を滑らせて口を開いた。
「客人たちよ、よくぞ参られた。余はヴォルカティウス・ミ・ド・スキッピウス。皇帝として、現在のバルクフォルト帝国を治める身だ」
声だけでも貴婦人を魅了できそうな、渋みの効いたバリトンボイスである。
その名乗りを受けて、ガーティルード姉妹とレノーレ、ナスタディオ学院長がその場にざっと跪く。
「っと。ほれ、彩花」
「う、うん」
一拍遅れる形で、流護も彩花の肩を叩いて小声で促す。皆に倣い、現代日本出身の二人も片膝をついた。
「良い。皆の者、楽にせよ。まずは久しいな、ベルグレッテにクレアリアよ。暫し見ぬ間に、また一段と麗しさを増したようだ」
「お久しゅうございます、皇帝陛下。身に余るお言葉をいただき、光栄の限りでございます」
皆で立ち上がると同時、ガーティルード姉妹が改めて一礼する。
「此度の催し……修学旅行、と申したか。其方の発案であろう? ナスタディオよ」
「はっ。仰る通りにございます」
貴族式の優雅な会釈と、丁重な言葉で応じる学院長。
うわこの人こんな対応もできるんか、と内心で驚く流護である。
「学びのため、百名に及ぶ生徒らを異国の地へ赴かせるとは。其方らしき型破りの方策よな。既存の枠にとらわれぬ柔軟な発想だ。我々も凝り固まった観念や陋習に縛られぬよう見習わねばならんな、トネドよ」
「はっ。仰る通りで、ホッホ」
下の名前で呼ばれたローヴィレタリア卿が、変わらぬ笑顔のまま恭しく頭を垂れた。そうした仕草が板についている……日常の動作としてなじんでいるように見えた。
「して……其方がバダルノイス出身の娘子だな。名は……レノーレ、と申したか」
謁見する者の情報は頭に入っているらしい。そのうえで皇帝は、おそらく消去法から物静かな風雪少女へと呼びかける。
「……はい。……お初にお目にかかります、皇帝陛下。……レノーレ・シュネ・グロースヴィッツと申します。……現在はより多くの知見を得るため、国を出てミディール学院に留学しております」
「うむ。先冬、バダルノイスにて騒乱が起きた件は余も聞き及んでおる。艱難の時とは思うが、大いなる主神は……何より氷神キュアレネーは、決して其方らを見捨てぬはずだ」
「……はっ。……お気遣いのほど、痛み入ります」
そして皇帝の瞳が、次いで現代日本の少女へと向けられる。
「よくぞ参ったな、異国の少女よ。フ、肩の力を抜くと良い。何も、取って食ったりはせぬぞ」
「はっ、はい! れっ……蓮城っ、や、アヤカ・レンジョーと申します! えっと……よ、よろしくお願いします……!」
ふふと渋く微笑んだ皇帝の眼差しが、最後に流護の目線とかち合った。
「……うむ。して、其方がリューゴ・アリウミ遊撃兵か。噂の数々は余の耳にも届いておる」
「あっはい。どうも」
一瞬の沈黙。
返事が簡素すぎたか、斜め前のクレアリアが何か言いたげな横目を向けてきている。もう少し気の利いたことを言え、とでも思っているのだろう。
とはいえ、
(わけ分からん小難しい挨拶とかできねーし……)
などと思っていると、肘かけに右腕を立てたヴォルカティウス帝が自らの顎を撫で、かすかに広角を上向けた。
「…………良き目をしている。何ものにも属さぬ、屈さぬ。そんな確固たる志を感じる瞳だ。フフ、若き頃の余を思い起こさせる……。聞けば、風変わりな体術を嗜んでいるそうだが。確か……カラテ、だったか」
「ああはい、そうですね。もう十年ぐらいになります。子供の頃は身体が弱かったので、鍛えて強くすることが目的で始めました」
この話題になると大体、経験年数と切っ掛けを訊かれる。そのため前もって口にすると、隣の彩花が少しだけこちらを意識したような気配を見せた。もちろん、この少女を守るために始めたなどとこの場で言えるはずもない。
「なれば、ほぼ物心がついた頃からか。既に当然の技巧として身に馴染んでおるのだな。それであのアルディア王に見初められるのだ、大したものよ。ふむ、しかしだ……結局の処、世は万事に於いて神詠術を礎として成り立っておる。拳足だけでは、成せぬこともあまりに多かろう。それを踏まえたうえで、其方は如何する? 強き詠術士と相対したならば? 大きな権勢を相手にしたならば?」
「いや、まあ……何が相手だろうと勝ちますし、倒します」
「その身一つでか」
「はい」
「うむ。怖いもの知らず、か。若い内はそれも良かろう――」
「いえ、怖いです」
一瞬、言葉の交換が止まった。
皇帝は「ほう」と意外そうな吐息をひとつ。興味を示したと判断した少年は、正直な思いを吐露する。
「強い詠術士が相手だと、やっぱ俺は素手だから先に攻撃されることが多いですし……。権力が相手なら、腕力じゃどうにかならないことの方が多いんだと思いますし」
そのどちらも、あのバダルノイスの戦いで味わったものだ。
「戦うこと自体とか、自分が負けることが怖い訳じゃない。俺の力が足りなかった結果、仲間が失われてしまうことが何より怖いんです」
考えたくもない。ベルグレッテを始め……ミアや彩花、クレアリアにエドヴィンにダイゴスにレノーレ……学院の仲間たちはもちろん、ここまでかかわってきた多くの人たち。自分を取り巻く仲間が消えてしまうことなど。
認めたくはないが、ディノが死んだと聞かされただけでも心を揺さぶられたぐらいだ。
「――だから俺は、最強になるつもりでいるんです」
水を打ったような静寂。それを自ら破る形で、少年は続ける。その宣誓を。
「どんな詠術士より、怨魔より……権力者だって、俺を敵には回したくないって思うぐらい。この世界で一番強い人間になって、この世界全部の脅威を脅威じゃなくしてやろうかなって思ってます」
再度訪れる静けさ。
「フ、フ……ハハハハ、ハーッハハハハハハハ!」
一国の皇帝が、膝を打って哄笑を響かせた。
「いや失敬! フ、フフ……若い頃の余に似ておる……其方に対しそう感じておったが、とんだ思い違いであったわ。武芸にて、闘技者として名を馳せる……かつて余もそんな夢を抱きはしたが、そんな小さき括りの話ではなかったか。よもや、腕っ節のみで頂への階を上ろうとは」
心からおかしかったらしい。指先で目尻を拭ったヴォルカティウス帝が、その瞳を傍らの『白夜の騎士』に転じる。自国最強と謳われ、大陸で最も名を馳せるだろう至高の若き『ペンタ』へと。
「どうだ、レヴィンよ。其方は言い切れるか? この世で最も強き存在を目指すと。一片の疑いも迷いもなく、そう宣告することが可能か?」
話を振られた美青年騎士は、逡巡するような間を置いて。
「……無論、ご必要とあらば……、ご期待に添えるべく、尽力いたしましょう」
やや躊躇いがちに。そんな『白夜の騎士』の返答を受け、皇帝は愉快そうに喉を鳴らす。
「フフ。つまり其方ほどの強者であっても、即断はできぬという訳だな」
「!」
そう言われ、レヴィンはハッと目を見開いた。自分でも気付かなかったというように。
「良いぞ。リューゴ・アリウミ遊撃兵……是非とも、其方の行く末に注目してみたくなった」
「あ、どうも。じゃあ、今後にご期待くださいって感じで……」
「フフフ! 大物だぞ、これは! 我が国にもこうした人材が必要ではないか? なあ、トネドよ!」
「いえ……はあ、そうですのう。ホッホ」
いたくご機嫌な皇帝だが、一方でローヴィレタリア卿は困惑している様子だった。同席しているエーランドも、見るからに「正気かこいつ」と言いたそうな顔を流護へと向けてきている。
(いやまあ、そうなるんだろうけど)
皇帝がノリノリで肯定的に受け止めてくれたことが意外なほどだ。
もっとも、少年としてはどうでもいいことである。
誰に何を思われようと、関係がない。もう、その道を目指すと決めたのだから。行動でそれを証明するだけなのだから。
「ふー……うむ、有意義な語らいの時を愉しませてもらった」
一瞬、余韻を味わうように遠い目で虚空を見やった皇帝だったが、すぐにその目を己が腹心へと定めた。
「して、トネドよ。これより、ガンドショールらも交えての会談であったな。詳しい内容については後々説明すると聞いておるが」
その言葉を受けて、ベルグレッテとローヴィレタリア卿が目配せを交わす。後者が皇帝へと向き直った。
「ええ、陛下。それにつきましてですが、改めてこのトネドよりご説明申し上げます――」
そうしてここで、いよいよバルクフォルトの王たるヴォルカティウス帝に対してもその内容が明かされた。
ひとまず簡潔にではあるが、オルケスターなる者たちの脅威について。かの闇組織が人知れず暗躍していること。レノーレの故郷バダルノイス神帝国が篭絡されかけ、カヒネの名を知った彩花がその命を狙われたこと。そして、国家の中枢に手の者が入り込んでいるかもしれないこと……。
「フフ。詰まる処、誰もがその闇組織の構成員たり得るという話だな。エーランド、レヴィン、トネド……そして、この余ですらも」
「い、いえ。それはですな、陛下……」
笑顔のまま焦りを滲ませるローヴィレタリア卿に対し、皇帝は押し止めるように片手を掲げた。
「取り繕わずとも良い。バダルノイスの前例がありながら、国の主導者を例外と見做すことは迂愚に過ぎよう。何……これよりの会談の席にて、正当に我が潔白を証明させて頂くとするさ」
からかうようにニヤリと笑うヴォルカティウス帝へ、ローヴィレタリア卿は平伏した様子で腰を折るのだった。
「えっ、何ですか? 闇? 組織? おれも? レヴィン様、どういう話ですか?」
「ああ、いや。後々きちんと説明するよ、エーランド」
『サーヴァイス』の若者はこの簡素な説明では今ひとつ理解できなかったようで、レヴィンがすまなそうに苦笑している。
(……うーん……?)
そんな光景を前にして、流護は胸中で首を傾げた。
ヴォルカティウス帝を見やりながら。
(この皇帝……)
大人の色香漂うナイスミドル。活力に満ちた堂々たる佇まい。謁見する者の情報を事前に頭へ入れておき自分から声をかけていく心遣いと、おおよその説明から物事を正しく把握する理解力。そして、王たる己ですらも『容疑者』の候補から外れぬと即座に言い切れる器の大きさと客観的視点。加えて、流護の放言に等しい『夢』をも馬鹿にせず受け止める。
なるほど、賢帝である。
(……様子がおかしいって話だったけど……)
曰く、戦神に魅入られただとか、人が変わってしまっただとか。
そんな前評判とはかけ離れた、至って聡明な人物と思えるが――
「さて。刻限には少しばかり早いが、会談の場へ向かおうぞ。玉座に身を預けておると、どうにも肩が凝って敵わんのだ」
さして深刻でもなさそうなヴォルカティウス帝の要望に従い、一行は揃って謁見の間を出るのだった。




