62. 追跡の死神
――非常脱出口を抜け、ひた走る。
廃工場裏の扉は、外へと通じていた。
裏口から伸びるは、蛇のようにうねった山道。両脇を川に囲まれた細い道だった。
しばし距離はあるが、この道を行けばディアレーの郊外の森へと通じている。
こうなった以上、もう駄目だ。レドラックは追われる身となった。だが、みすみすこのままやられっぱなしでいるつもりはない。
このまま街へ入り、一旦は闇に潜む。どこでもいい、隠れ家を点々とすれば、逃げきれる自信はある。
――ガキどもが。ほとぼりが冷めた頃を見計らって、狩り尽くしてくれる。その後はもう、何とでもなれだ。国を出てもいいし――
「ボ、ボス!」
「はぁッ、はひぃっ、はぁっ、な、なんだあっ」
辛うじて部下に返事をする。
息を荒げながら、レドラックはその巨体を揺すって走っていた。そのだらしない体つきのため、走るとはいっても他の者にしてみれば早歩き程度の速度だが。
「あっ、あのガキが! 追いついてきてますぜ!」
「な、にいぃっ……!?」
ぜえぜえと息を吐きながら、レドラックは振り返る。
遥か後方ではある。しかし。黒髪の少年の姿が、確実に迫っていた。闇の中を迫り来るそれは――まるで、死神。
「ひ、ひぃッ」
「ハハ、来た来た。レドラックさんよ、アンタがもっとしっかり走らんと。お仲間も、ボス置いて走るワケにいかねェしな?」
ミアを担いだまま併走するディノが、涼しげな顔で笑う。
全力だ。全力で走っている。通常なら、もう足が動かなくなっているだろう。
しかし、魂心力が増せば、体力や筋力など、各種の身体能力や生命力も活性化する。レドラックが魂心力を欲し、キンゾルの申し出を受けたのはそのためだ。少しでも長く、若くいたい。いつまでも好きなものを喰らい、いつまでもいい女を抱いていたい。
レドラック自身はすでに齢五十を過ぎていたが、魂心力を取り込み始めてからは、明らかに気力も体力も充実しており、若返ったような気さえしていた。
このまま取り込み続けていけば、ゴーストロアに伝わる『不老のメーティス兄妹』のようになれるかもしれない。
――とにかく、まだこれからなのだ。絶対に捕まる訳にはいかない。
「く、くそっ……、お、おめえら、行け! あのガキを殺せえぇ!」
命令された総勢十名ほどの黒服たちは、一瞬だけ躊躇するも、来た道を逆走して黒い少年へと向かっていく。
レドラックのすぐ後ろにピタリとついて走る口布の男にも目を向けた。
「あとは、お主もだ……! えぇと、名前は何じゃったか――」
「む。私は……」
「なっ、何でもよい! 護衛として雇ったんだ、金の分は働いてもらうぞ! ヤツを排除しろ!」
「む。御意」
口布の男は部下の黒服たちと違い、迷いのない動きで引き返していく。
その様子を見ていたディノが、不思議そうに尋ねた。
「ずっと思ってたけど、アレ誰? アンタの部下じゃねェよな」
「はっ、はぁっ、雇いの傭兵じゃよ。しっかり金払ってるんだ、働いてもらわんとな」
「ハハハ、ひでーな。捨て駒になれってか?」
「ふ、ふ。それはどうかな。あやつは……強いぞ」
「へー」
走っていった口布の男を振り返りながら、ディノは興味もなさげに相槌を打った。
――男たちが必死の形相で向かってきた。
黒服たちの技量は、ばらつきが大きい。
神詠術を全く使わず武器で襲ってくる者もいれば、小さな火球を牽制に繰り出しながら飛びかかってくる者もいる。近づこうとせず、鋭い神詠術を放ってくる手練もいる。
しかし、結果は同じ。
流護は武器をいなし術を躱し、丁寧な動作で男たちの顔に拳を、蹴りを浴びせて沈めていく。
「…………」
その視線は遥か向こう。肩に担ぎ上げられ、こちらに手を伸ばしているミアの姿。
担いでいる、その少年。
勘によるものだろうか。まるで身体が「その男に備えろ」と警告を発しているように、入念な準備運動のように、流護は無駄な力を抜いて男たちを丁寧に沈めていく。
「!」
そこで、最後の一人が間合いを詰めてきた。
これまでの有象無象とは違い、坊主に近い金髪、鼻から下を覆っている口布。切れ長の目は鋭く、見た目からして印象深い。
滑り寄ってくるその動きにも、下っ端の黒服たちのような必死さは見られない。
「シャー!」
猛獣のような咆哮を発し、男は右腕を鋭く横に振った。
喚び出されたのは――氷の弾。一つ一つは小石ほど、数にして二十ほどか。エドヴィンの技の氷版とでもいえばいいだろう。認識すると同時、氷弾が雹のように流護へと降り注ぐ。細い道で両脇を川に挟まれているため、避けることができない。
流護は腕をクロスさせ、散弾を浴びながら強引に突っ込んだ。氷弾をものともせずに、拳の間合いへと肉薄する。
「む。この私の、霧氷の術士である、この私、」
何か言っているが、流護は構わず右拳を繰り出す。
ガン、と拳が打ちつけられた。男が左腕へと展開した、氷の盾に。
「!」
盾……というより、これはバックラーと呼ぶのだろうか。直径は三十センチほどで円形。
打ち付けた拳に、ひんやりとした感触が伝わる。
攻撃に反応した訳ではなく、反撃を予測していたのだろう。やはり今までの黒服たちとは違う。
左手に氷のバックラーを生み出した男は、そのまま盾を傾け、ぐるんと流護の拳をいなした。と同時、右手にも冷気を収束させる。
そうして生み出されたのも、左手と同じバックラーだった。
「シャー!」
口布の男は、展開した右の小盾を突き出す。流護は身体を捻って躱し、反撃の左フックを放つ。
クロスカウンターになるはずの一撃を、男は大きく飛びずさって躱した。
――戦闘勘、読みが優れている。口布の男は、相当に闘い慣れているようだった。
だがこれ以上時間をかけて、レドラックたちに逃げられてしまう訳にはいかない。
「あんた、やるじゃん」
「む。それはそうだろう、なにせこの私は、」
「スピードとパワー上げるぜ。死にたくなきゃ、全力で踏ん張りな」
流護は一気に男との間を詰めた。
目を剥いた男は焦って両腕を構え、防御を固める。反応したのは見事というべきだろう。
しかしそこへ、流護はおかまいなしに拳の嵐を叩きつけた。バックラーへ叩きつけられる拳の乱打は、もはや砲撃の一斉掃射。
男の腕が震え、軋みを上げ、盾にひびが入り始める。
「……、ぐ、う、おぉ……、ば、馬鹿な、この、この霧氷の、術士である、この私――」
小盾が砕け散った。両腕を弾かれ、無防備になった男の顔面へ、すかさず流護は右拳をお見舞いする。
金髪の口布男は身体をピーンと硬直させ、白目を剥いて後ろへと倒れ込んだ。
残心を取って前方へと視線を向ければ、並んで走るレドラックとディノの姿。
この金髪口布男がかなり粘ったはずだが、レドラックが遅いためか、それほどに距離は離れていない。
無能な上司を持つと、部下の苦労も台無しだ。
(……ていうかこの金髪忍者、マフィアなのか? 服も黒服だけど、よく見ると他のヤツと違って自前っぽいし……なんか雰囲気が違うんだよな。まぁいいか)
流護は、倒れた男の両足を脇に挟んで抱え上げた。
「お? 危ねェぞ、オッサン」
その言葉と同時。
ディノが、懸命に走っているレドラックを軽く蹴り飛ばした。
「がっ!?」
小突かれ、バランスを崩したレドラックが大きく横にブレる。
「何を――」
理由はすぐに分かった。
直前までレドラックのいた空間を、凄まじい速度で飛来した黒い物体が薙ぎ払った。
「!?」
風すら伴って飛んできたそれが、ゴリゴリと地面を削りながら転がる。砂煙を巻き上げ、ようやく停止したものの正体は――
「――ッッ」
「おっほ」
干上がるレドラックの喉。楽しげな声を上げるディノ。
人間だった。
流護へとけしかけた傭兵――金髪の口布男が、ごろりと力なく転がっていた。もっとも、口布はどこかへ飛んでいってしまったのか、その素顔を晒している。
これといった特徴のない顔をしたその男は、辛うじて生きてはいるのか、かすかな呻き声を発していた。
――メチャクチャだ。人をこうも軽々と放り投げるなど、武器として人を投げつけるなど、考えられない。思いつきすらしない。
もはや後ろを見ずに、見ることができずに、レドラックは走る。
細い道が終わり、開けた場所に出た。
まだか。街の明かりが見えない。街はまだ――
「おい、デブ」
声が、聞こえた。
信じられないほど間近から。
「っ……、リューゴくううぅん!」
弾むミアの声。
それで悟った。
死神が、追いついたのだと。
ぞわりとした悪寒を感じ取ったレドラックは、足をもつれさせて転倒した。
「が、がぁっ……」
無様にゴロゴロと転がる。
併走していた超越者が足を止めた。そうして心底楽しそうな笑みを浮かべたディノが――振り向く。地を這うレドラックが、恐る恐る振り向く。
――威風堂々。
草のない荒れた大地を一歩一歩踏みしめ、歩み寄る影。
「待たせたな、ミア」
「っ、うんっ……!」
有海流護が、追いついた。