612. トンデモ
おおっ、と巻き起こるざわめき。それを割って、離れた席のシスティアナが腰を浮かす。
「ちょっとオルバフ! いくら何でも不躾な……!」
『あ、大丈夫っす大丈夫っす。そういうのが一番分かりやすいですもんね。じゃあ、ちょっとやりましょうか』
流護が軽く言うと、制止しようとしたシスティアナを始め、その隣で困惑した様子のベルグレッテや皆の視線が集まる。
『学長さん、いいですか?』
「ふぉっふぉっふぉ! 構いませんとも。是非とも一丁、揉んでやってくだされ」
最高責任者の快諾を受け、流護は演台を降りて歩き始めた。ナスタディオ学院長が維持する通信の波紋もふわふわと追従してくる。
『じゃあオルバフさん……でしたよね、こっちへお願いしまーっす』
百八十人もの大人数が整然と並んで着席している大広間の一角だが、余剰スペースはその数倍に及ぶほど。むしろ、講義に使用している場所がほんの一握りと表現すべきか。皆のすぐ脇には、球技すら悠々と楽しめるほどの空間が広がっている。
席を立ってやってきたオルバフと、十メートルあるかないかの距離を隔てて向かい合った。生徒たちも各々、椅子を回したり立ち上がったりと見やすい位置へ移動し二人に注目する。
トントンとつま先で大理石の床を叩いた流護は、両腕を広げて声を張った。
『それじゃオルバフさん、いつでもどうぞっす。俺は後攻で、オルバフさんが動いたの確認したら行きますんで』
その言葉の直後、通信術の波紋が消失する。いつでも始めろ、との学院長の計らいだ。どよどよと場を包む喧騒。出所は主にリズインティ学院生たち。面と向かって対峙するオルバフも、眉根を寄せて明らかな戸惑いの気配を見せている。
「いやいやいや、待ってくれ遊撃兵殿よ」
差し込まれたのは、手を挙げたリウチの声だった。
「その、確認なんだが……遊撃兵は、神詠術を一切扱わんのだよな。補助系統はもちろん、身体強化さえも。であれば……」
言い淀んだ彼が主張したいことは明白。
無謀だ、と。
相手が学院生であっても。遊撃兵だろうと何だろうと。
そしてその思いを抱いているのは、リウチだけではない。
リズインティ学院生たちは、一様に戸惑った面持ちで成り行きを見守っていた。彼らのまとめ役を務めるシスティアナも、おどおどした様子のシロミエールも。ベルグレッテの好敵手たるマリッセラはどこか値踏みするような鋭い視線を向けてきている気もするが――ともあれ、彼ら彼女らの胸中は概ね一致しているのだ。
即ち。
――無手無術で、詠術士に勝てるはずがない。
このグリムクロウズという世界に生きる人々が疑う余地もなく認知している、そんな常識に基づいて。
「……しかも、オルバフは攻撃術を得意とするリズインティ学院きっての実戦派だ。率直に言って強いぞ。いかに遊撃兵殿とはいえ、先手を打たせるとなれば余計に……」
と、そんなリウチの呟きを遮る形で。
「ケッ。黙って見てろよ」
毒づくのは、彼の脇でふんぞり返って座るエドヴィンだった。思えば、ベルグレッテの次に『その常識』を覆されたのは彼だったかもしれない。
「む……」
やや癪に触ったらしいリウチを、ミディール学院の『狂犬』は鼻で笑う。
そして、そんな悪童だけではない。疑わしさ満載なリズインティの生徒らとは対照的に、ミディール学院生たちはまるで緊張感もなく動向に注目していた。
「あー、何秒だと思う?」
「十マイレも離れてないんだ。掛かって二秒だろ」
「あんな間合いでアリウミ遊撃兵と向かい合うなんざ、もうその時点で負けが確定してるようなもんだからな……」
両学院で完全に真逆となる生徒たちの反応。
さて、実際に対峙していたオルバフとしては面白くなかったらしい。
「……失礼ながら遊撃兵殿、手加減は無用で願いたい。此方も全力で参るゆえ」
低く言い放ち、両腕を掲げて、腰を屈めつつ身構える。
(……お、こりゃ強いぞ)
今や流護も、そうした佇まいで察せる。このオルバフは、間違いなく学院生の中では手練。最上位の部類に入る使い手だと。おそらく、クレアリアあたりでも油断はできないレベルだ。
「では、開始の合図をいただけるか」
静かな怒りも露わにそう続ける彼へ対し、流護はにこやかに声を張って返答した。
「あっ、そっちの準備できたらいつでもどうぞっす。ほら、実戦には合図とかもないですしね」
言葉は返らなかった。目を見開いたオルバフが、攻撃術を放つべく豪快に右腕を横一閃。
――しかし、彼の手から攻撃術が迸ることはなかった。
振り切る前に、その腕を止められていたからだ。それより早く間を詰め切った流護によって。発動の要となる手首を、左手で掴まれて。
一瞬の後。
どぉっ、と歓声が爆発した。
「え、え!? い!? いつ近付いた!? みっ、見えなかったぞ!?」
「は!? あんな遠くから……一瞬で……消えっ……、え!?」
目を疑うリズインティ生徒たちと、
「……いや、一瞬で終わるとは思ったけどさ。あの距離から、振り抜かれる腕より速く接近しちまうのか……」
「分かってたのに目が追いつかないんだよな……」
勝敗を予測していながらも、いざ直面した結果に困惑しきりなミディール学院生たち。
「……ッ、……!」
攻撃動作を阻止されたオルバフは、とても信じられないといった面持ちで、掴まれた自分の手首と眼前の流護の顔を見比べていた。
「ヒョッヒョッヒョ! いやお見事! お見事ですな! とんでもない早業ですの〜う!」
誰よりも大盛り上がりで手を叩くのは、至大詠術士と称されるアンドリアン学長だ。神詠術の達人であるはずの老夫は、その力の使い手が単純な身体能力でねじ伏せられたというのに、子供みたいなはしゃぎようで喜んでいた。
「まっ、待て待てぇ! 人間がそんな速く動けるか! 身体強化を使ったんじゃないのか!?」
黒ローブの男子学生の一人が皆に同意を求めるように首を巡らせるが、応じたのは彼らのまとめ役ことシスティアナだった。
「……いえ、アリウミ遊撃兵からは全く『揺らぎ』が感じられなかった。神詠術は使っていないはずよ……」
彼女自身、口にしながらも信じられないといった様子で呟く。そんな推測の答えを求めたのか、システィアナが恐る恐る視線を隣へ移すと、そこにいたベルグレッテは困り顔で苦笑していた。
「確かに……いやむしろ、身体強化を……術の補佐を使ったにしてもあんな速度で動ける奴がどれだけいる……? エーランド……いや、下手すると、レヴィン様にも匹敵するんじゃ……」
「お、おい! 滅多なことを言うなよお前!」
ともあれ一瞬の交錯劇を受けて、生徒たちの反応は様々だ。
「……、」
言葉を失った様子のリウチ、その横で退屈げにあくびを噛み殺すエドヴィン。
「ふっふーん! リューゴくんはすごいんだから!」
「……なぜ貴女がそんなに得意げなのよ、田舎娘」
鼻高々なミアを呆れた風に見やりながらも、驚きを隠せていない表情のマリッセラ。
「……! ……!」
「驚かれるのも無理はありませんが、あの方は人ではなく大猿の化身なんです」
赤い瞳を見開いて絶句するリムに対し、その隣のクレアリアが風評被害も甚だしい評を添えて微笑みかけている。
「…………!」
同じ引っ込み思案ながら高身長モデル体型美少女のシロミエールも、その整った顔立ちが形なしとなるほど表情を崩していた。その隣のレノーレはいつも通り眠たげだ。特にコメントすらない。
最後列でひょっこり顔を覗かせている彩花は、まだ異世界における幼なじみの力量を把握しきれていないようで目をまん丸にしている。
基本的にはミディール学院生とリズインティ学院生で真逆な反応が浮き彫りとなる中、実に楽しそうなアンドリアン学長が意味深に微笑んだ。
「ふぉっふぉっ! ……して、オルバフ君。もう負けを認めるのかの?」
その一言でハッとした彼は、自分の右手首を掴む流護と学長の顔を素早く見比べて。
「ぬうっ!」
自由に動く左手のほうを回し、流護の右脇腹目がけて拳を振るう。
「おっと」
それを流護が右腕の手甲で阻むや否や、ボンと風が爆発。
脇を締め肘をわずかに傾けることでその衝撃を全て散逸させた空手家は、その場で時計回りに横一回転。もちろん、オルバフの腕を掴んだまま。
「ぐわ!?」
不意に引っ張られることとなった彼は前のめりに千鳥足を踏むも、手首を捕られたままのため倒れ込むことすらできない。地に這いつくばる体勢ながら右腕だけ捻られピンと真上へ伸ばす形となり、
「ぐあだっだだだだ!」
「ふぅむ! 今度こそ勝負あり、ですな!」
アンドリアン学長が宣告し、学院生たちから溢れる感嘆の息と拍手。それを受けて、流護も男子学生の腕を解放した。
「っと、大丈夫すか?」
「……も、問題ない……。……いや、……お見それ致した」
数十秒ぶりに自由となった自分の右腕をさすりながら、オルバフはバツが悪そうに自席へと戻っていった。
「ううむ! 咄嗟の対応にも、まるで焦りがない。まこと、肝が据わっておられる」
「どうも……」
にっこり笑顔のアンドリアン学長だが、流護は苦笑しつつ気を引き締めた。
(このじいちゃん……油断ならねーなあ)
立ち会いの最中。流護が相手の攻撃を未然に阻止、皆の驚愕によりにわかに停滞した場の空気を、
『して、オルバフ君。もう負けを認めるのかの?』
この一言で動かした。おそらくは、流護の咄嗟の対応力を観察するために。
リズインティ学院の責任者にして至大詠術士、その肩書きは伊達ではないということか。
総じて興奮冷めやらぬ様子の生徒たちだが、最前列に陣取った黒ローブ姿の男子数名が何やら議論を交わしている。
「あのオルバフが術すら撃たせてもらえないとは……。いや、撃ったら撃ったであっさり防がれてたしな。聞きしに勝る凄腕、って感じか……」
「でもよ。神詠術を使う使わないはともかく、同じようなことならレヴィン様や『サーヴァイス』の上位……それこそエーランドにもできるだろ?」
「それより、問題は殲滅力だよ。あんな風に御することは、結局のところ人間相手にしか通用しない。……遊撃兵殿! 少々よろしいでしょうか!」
と、一人が呼びかけてくる。線の細い、メガネをかけた知的そうな少年だった。同級生か、少し下ぐらいに見える。ふわ、と揺らめく波紋が流護の口元に再展開された。
『ほい。どうぞどうぞ』
「遊撃兵殿の技量は分かりました。ですが、無手無術ではやはり行える攻撃に限度があるのではないでしょうか。拳足のみでは、怨魔はもちろん……獣に抗することも難しいと思うのですが。ファーヴナールを撃破した際は、どのように立ち回られたのですか」
メガネの縁をクイッと押し上げながら早口で尋ねてくる。一方で遊撃兵の少年は、今や懐かしみすら覚えるようになったその死闘を思い起こしながらゆっくりと口を開いた。
『そうっすね……。実際、ファーヴナールはとにかく鱗が硬くて硬くて。石ぶつけたら、ガキンって金属音みたいのがするぐらいで。殴っても蹴ってもビクともしない感じだったので、横から目ん玉をブチ抜きました。拳で』
状況を再現すべく腕を突き出しながら答えると、またも一同からおぉ……と声が漏れ聞こえた。
メガネ少年はやや面食らった風ながらも、納得できないのか食い下がる。
「目を……、……いや、ですがですね……! 邪竜といえど生物ですから、眼球も弱点には違いないのでしょうが……しかし人間の力で、そんな真似ができるとは……」
『ははは。まあ、そこは自分もちょっと力には自信があるんで……殴るっていうよりは、腕を捻じ入れるって感じで思いっ切り。あっ、そうそう。目玉ということでちょっと余談なんですけど、原初の溟渤で闘ったズゥウィーラ・シャモアなんかは、目玉の硬さでいえばファーヴナールより上でした。眼球殴ったら弾かれましたからね。ガン、って。瞬きすらしないでギョロっと睨みつけてきて。あれにはビビりました』
「ズゥウィーラ・シャモア……! そうです、あの怨魔とはどのように渡り合ったのですか!? あの上背では、遊撃兵殿の攻撃も届きませんよね!?」
『ですね。基本的には頭にも胴体にも手が届かないから脚しか叩けないんですけど、それがまた頑丈で。建物殴ってるみたいでした。それでも向こうはこっちを食おうとしてくるんで、それで頭が下がってきた時にガツンと』
「……、」
『ちなみに結局食われて、丸呑みされちゃって……。胃袋に放り込まれたけど幸い何ともなかったんで、そこら中殴りまくって吐き出させてやって、それが随分効いて弱ったみたいだったんで、最後に肘で頭割ってどうにか勝ったって感じで……』
肘を振り下ろす動作を交えつつ苦笑するも、生徒たちはシンと静まり返っていた。最後尾の彩花もこちらの正気を疑っているような顔をしている。
(……いや、うん。ウソくせーんだよな、自分で言ってても……)
当初、現場にいた兵士たちですら目を疑った経緯と戦果。いざ言葉にすると、実演したはずの流護としても胡散臭さ満載だ。このエピソードに関しては、ミディール学院生でも信じ切れていない者が多そうだ。同じ体験をした『銀黎部隊』のリサーリットに補足説明をしてもらいたい気分になる。
「わ、分かりました! では実際に、その攻撃力を見せていただきたいのですが!」
ずり落ちかけたメガネを直しながら、知的男子がそう要求してくる。
『そうすね……。えーっと、どうしましょうか』
まさか、実際に誰かを殴ってその力量を証明する訳にもいかない。傍らのアンドリアン学長を窺うと、彼は高らかな笑いを響かせた。
「ふぉっふぉっふぉ! それでしたら用意がございますぞ。少々お待ちくだされ」




