605. 白夜の思い
夜半の高級料理店は、時間に見合ったそれなりの賑わいを見せている。
奥まった予約席に二人。
ベルグレッテとレヴィンは、向かい合う形で円形のテーブル席についていた。
「ベルグレッテ殿。改めまして、今宵はお越しいただきましてありがとうござました」
「いえ。こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」
互いのグラスをカチンと合わせ、ライズマリー産の白葡萄酒を口へと運ぶ。
「すみません。僕の夕食に付き合わせるような形となってしまって」
「ふふ、お気になさらず」
すでに食事を終えていたベルグレッテとしては、さすがに空腹状態とは程遠い。飲み物がどうにか入る程度だ。流護でもあるまいし、そんなに食べられるものではない。
(それにしても、リューゴ……大丈夫かしら)
気付けばレヴィンと一戦交える展開になっていたことにも驚いたが、その結末にも驚いた。
あんな形で激しく転倒してしまうなど、あまりに彼らしくないというか――
「ベルグレッテ殿? どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。改めまして、今宵の公式演舞にお招きいただきありがとうございました。まず、スラヴィアックの剣舞の練度に敬服いたしました。あれほどまでに明瞭な静と動の対比……ただただ目を奪われるばかりで。貴重な演舞を拝見させていただいたこと、まことに感謝いたします」
「いえ、こちらこそご観覧いただきありがとうございました。お目汚しにならずに済んでおりましたら幸いです」
本当であればもっと掘り下げた感想を述べたいところなのだが、体調を崩してしまった同級生らの看護に当たっていたため、それ以降はまともに見ることができていない。もっとも次々と運ばれてきた女子たちの恍惚とした寝顔を見る限り、素晴らしい内容であったことは間違いなさそうだが。
そして今宵の催しといえばやはり、気がかりなのは――
(リューゴ……)
時間の都合で、彼が目を覚ますまで待つことはできなかった。
(…………それに……)
やはり何より引っ掛かるのは、そうなるに至った原因。
即ち、落ちていたバナナの皮を踏んでの転倒。
それだけ聞けばまるで喜劇みたいだが、問題はそれが発生した場面だ。
例えば日常生活の中でふと気が緩んだ瞬間になら、そういったことも起こり得るかもしれない。だが、今回は戦闘中。眼前の相手や周囲の環境に注意を払い、神経を研ぎ澄ましているはずの場面。
まして流護の戦闘勘というものは際立って突出しており、全方位に隙なく機能するそれは野生の獣にも近しい。
それがよりにもよって足下のバナナの皮に気付かずに……というのは、あまりにもらしくないように思えるのだ。
(どうも、腑に落ちないのよね……)
このバルクフォルトへやってくるまで長旅だった。大勢の学院生を護衛する立場として気を張っていた部分もあるはず。到着したばかりで、疲れもあったかもしれない。
……などとそれらしき理由をいくつ並び立てても、消えない違和感がつきまとう。
そんなベルグレッテの思いをよそに、レヴィンがさわやかな笑顔で尋ねてくる。
「ところで、ルーバート卿とフォルティナリア夫人はお変わりありませんか?」
「あ、はい。ええ」
二年ぶりとのこともあって、しばし互いに近況報告じみた会話が続く。
(うーん……)
そんな中でも、ベルグレッテとしてはやはり流護の状態が気にかかっていた。
今頃は砦に戻っているはず。大事に至っていないだろうか。彩花やミアもついていたから、そう気を揉む必要はないか。……いや、彩花が一緒なのは別の意味で心配だ。彼女は流護に好意を抱いているし、でなくとも長年ともに過ごしてきた間柄。そもそも目覚めてからこっち、流護と彩花は一緒にいることがとても多くて――
「ベルグレッテ殿? どうかなさいましたか」
「え、あ、いえ。も、申し訳ございません」
慌てて居住まいを正す。いつまでも心ここにあらずでは、レヴィンに対しても失礼だ。
「ところでベルグレッテ殿。お会いした当初から気になっていたのですが、あの剣は……」
騎士の端正な青い瞳は、傍らの荷物掛けに立てられた長剣へと注がれている。貴族式の華やかな意匠が施された、しかし禍々しいほどの闇色に染まった柄が覗く異質な武器へと。
少女騎士は静かに頷いた。
「……はい。かつて、兄が所有していたものです」
「やはり……! いえ、見覚えがあるなと思っておりました。しかし、その色合いは……?」
「それは――」
仔細に語れば長くなる。
兄の仇こと『黒鬼』と呼ばれた怨魔に、見覚えのある刃が突き刺さっていたこと。その仇敵を討ち果たすに至った経緯。手元へと戻ってきたそれが、怪物の影響を受けてかその性質を変容させていたこと。
かいつまんで説明すると、さしもの青年騎士も瞠目せざるを得ない様子だった。特に剣の硬度や切れ味といった基本性能の部分がまるで別物になっていた件については、やはりレヴィンであっても聞き及んだことのない事例であったらしい。
「改めて、怨魔の特性についてはあまりに未知の点が多いですね。突き立っていた剣に対して、かような影響を及ぼすとは……。しかし……ベルグレッテ殿」
食事の手を止めた彼は、感慨深げに頷きながら。
「その手で、アドルフィータ殿の無念を晴らされたのですね――」
自分のことのように、凪いだ表情で目を閉じた。わずか、震える声音で。
「忘れもしません。猊下より、『お前は完璧なる騎士を目指すのだ』との使命を授かった幼き日……。僕なりに学び、模索を繰り返し……やがて指標とした『完璧なる騎士』が、他ならぬアドルフィータ殿でした」
「……、はい」
「アドルフィータ・シアレ・ガーティルード。二つ名を『水舞烈空』。ここだけの話、猊下には自国の騎士を手本にせんかとどやされたものです。しかし……その高潔な精神性、壮麗な立ち振る舞い……全てにおいてあの方こそが、僕の思い描いた理想の騎士像そのものでありました。今とて、その思いは何ら変わっておりません」
「……レヴィン殿にそうおっしゃっていただけて、兄も天上で照れ笑いしていることかと」
そうなのだ。ベルグレッテが物心つく以前から、ガーティルード家とレヴィン、その関係者は交流を持っていた。
そしてレヴィンは度々公言していた。「アドルフィータ殿のような騎士になりたい」と。
「しかしよもや、ベルグレッテ殿もプレディレッケを討ち取るほどに腕前を上げておられるとは……。凄まじい早さでご成長なさっているようですね!」
「いえ、とんでもございません。先ほどもお話ししたとおり、多くの方のご助力があってこその結果で……」
流護が、ダイゴスが、ドゥエンが、あのディノが。そして、タイゼーンやラデイルを始めとしたレフェの精兵たちが。皆が死力を尽くしてこそ掴み取れた勝利だ。
仮にあの日あの場所へ遡って同じことをやれといわれても、到底再現はできないと思うほどに。
「ううむ……」
と、気付けば目の前の騎士が思案顔で唸っていた。
「レヴィン殿?」
「ああ、いえ。仇敵たる『黒鬼』が斃れ、アドルフィータ殿の愛用していた剣がベルグレッテ殿の下へ舞い戻ってきた……。何やら運命的と申しましょうか、導きめいたものを感じますね。……しかし、それにしても」
優しげだったレヴィンの瞳がやにわに窄まる。
「不可解ですね。プレディレッケのような怨魔が、如何様にして『無極の庭』へと入り込んだのか……。一連の話は風の噂として耳にしてはおりましたが、さすがに多少の尾ひれがついたものかと思っていましたので。よもや真実だったとは」
「ええ。レフェにおいても『黒鬼』が出現するに至った経緯は依然調査中とのことですが、皆目見当もつかない状況だと聞いています」
レヴィン自身、かつて天轟闘宴の参加者として『無極の庭』に立ち入った一人。怨魔が侵入できるような環境でないことは十二分に認知している。
そして天轟闘宴といえば、その繋がりで忘れてはならないことがある。
「ところでレヴィン殿……少々お話は変わるのですが、折り入ってご相談したいことがございます」
「相談……ですか。何でしょう」
畏まった雰囲気を感じてか、レヴィンも腰を落ち着け直す。
「お忙しいことと存じますが……後日に一席、会談の場を設けていただきたいのです。レヴィン殿やローヴィレタリア卿、重鎮の方々を始めとしたバルクフォルト帝国の為政者の皆様に……可能であれば、ヴォルカティウス帝も含め。ご報告せねばらならないことがございます」
無論、オルケスターの件についてである。クレアリアも今頃、ローヴィレタリア卿に同じ話を持ちかけているはず。
「……只事ではないようですね」
深刻さの度合いを察したか、レヴィンがやや声を潜める。
「……はい」
ベルグレッテも周囲の喧騒に紛れる小ささで肯じた。
「よもや、此度の『修学旅行』とはそのために実施されたもので?」
「あ、いえ。これに関しては、たまたま機が重なったと申しましょうか……」
「ふうむ、そうなのですね」
近くには給仕や他の客も散見される。具体的な名称を出すことは避けたい。
闇に暗躍する、非合法な裏社会の組織。そうした存在自体は、残念ながらさして珍しいものでもない。
だが、オルケスターはあまりに規模が違いすぎる。
勢いを弱めていたとはいえ、バダルノイス神帝国という一国家を事実上掌握せしめたその力。
件の騒乱で垣間見えた周到な根回し、技術力の高さ、危険な詠術士の存在。そして、ようとして知れない目的。
危険極まりない集団だ。このまま捨て置くことはできない。
「承知しました。ひとまずは猊下とも相談のうえ予定を調整して、速やかにお返事いたします」
詳細を告げていないにもかかわらず、レヴィンはほぼ即断で快諾した。
この短いやり取りで悟ったのだ。
衆人環視の状況下では、口に出すことすら憚られる内容なのだと。
そんな鋭い青年騎士の様子を伺いながら、ベルグレッテは静かに思考を巡らせる。
(……レヴィン殿は『白』と考えて間違いない。そしてローヴィレタリア卿も)
国家の中枢にも根を伸ばしていると囁かれる裏組織。事実、バダルノイスでは指導者までもがその闇に同調していた。
だが、このバルクフォルトといえば大陸でも指折りの大国である。そんな先進国の最高大臣と最強騎士が闇組織の一員なのであれば、もはや世も末としか評しようがない。
それに、この二人に関しては昔からの顔なじみだ。思い返しても怪しい部分などなかったうえ、そもそも闇組織などに加担する必要性がないほどの『力』を持っている。財力、権力、武力、影響力……ありとあらゆる『力』を。
そしてそうした『力』を思うままにできる超大物が闇と同調していたなら、やはりその立場の大きさから隠し通せるとも思えない。
(でも……考えてみれば、とんでもない話だわ)
げに恐ろしきは、そんな旧知の大物両名にすら一瞬でもそのような疑いの目を向けなければならないという現状だ。
あの深い雪に包まれた北国で、オルケスターはそれほどの底知れなさを見せつけた。
どこの誰が与しているか分からない。際限なく広まりかねない疑心暗鬼。
(……けれど)
ベルグレッテは今回、それを見破る妙案を用意していた。
絶対に確実、とまでは断言できない。『とある知識の有無』によっては信頼性も下がってしまう。それでも、対象がオルケスターと深いかかわりを持つ人物であれば、十中八九引っ掛かる。そんな妙案。今回、そのために必要な代物を『借りてきた』。常に肌身離さず持ち歩いており、今この場にも持参している。
レヴィンとローヴィレタリア卿に対しては、それを実行するまでもないと考えているが……。
――せっかくだし、今試してみる?
そんな内なる声が木霊する。
(ちょっと。失礼にもほどがあるわよ)
あっけらかんと提案してくる彼女を、ベルグレッテは密かに窘めた。
(……きちんと確認いただくわよ。然るべき場で)
――にわかに張り詰めた空気を払うべく話題を転じ、あれこれレヴィンと語り合う。
互いの国の現況。この二年で変化したこと。
その話題となれば、レインディールの騎士として外せないのはやはり新進気鋭の遊撃兵についてだ。
邪竜ファーヴナールの撃破から始まった彼の活躍劇の数々は、レヴィンの功績と比較しても決して見劣りするものではない。
昼間のマリッセラとの会話では、無意識に流護の名前を頻出させてしまったらしく眉をひそめられたので、今度は意識して抑えるように心がけつつ。
「……『拳撃』の遊撃兵……そのお噂は、かねてより耳にしていました。それにしても、にわかには信じられない話ですね……。無手でそのような戦果の数々を……」
この完璧なる青年の困惑したような表情も珍しい。ベルグレッテも苦笑で同調する。
「ええ、お気持ちは分かります……。私自身、すぐ近くでその活躍ぶりを目にしてなお、未だに信じられない気持ちでいますから……」
「ううむ……」
神妙な顔で、彼はフォークに刺した揚げ芋を口へと運んだ。
何やら思うところがあるような面持ち。
もしかすると、流護の力を疑わしく思っているのかもしれない。何しろ、彼自身が実際に相対しての結果が結果である。
無論、品行方正な騎士の鏡たるこの好青年が、面と向かってベルグレッテにそうした意見を述べはすまい。それとなくレインディールを……アルディア王を愚弄することにも繋がりかねない、という部分もある。
やがて食事を終えたレヴィンが、静かにフォークを置いて一息ついた。
「……ベルグレッテ殿。実は、不躾ながら……ひとつ、お願いがございます」
――と。どこか意を決したような声音だった。
「……? はい、なんでしょう……?」
珍しい……というより、初めてだ。この青年騎士の、これほど思い詰めたような表情は。加えて、向こうから頼みごとなど。
「ずっと……ずっと気になっていました。申すべきか、胸の内に秘めておくべきか……迷いに迷っておりましたが……僕は……、もう自分を抑えることができそうにありませんっ」
「レ、レヴィン殿?」
あまりにもらしくない。一体どうしたというのか。
やや前のめりにすらなった青年騎士が、熱の篭った瞳を向けてくる。
「――ベルグレッテ殿。僕は……!」
そうして、彼は告げた。
少女騎士が想像もしていなかった思いと言葉を。




