602. 勝つも負けるも
その空気の変化は、運営委員が滞在する管理室から見ても一目瞭然だった。
「……? 何だ? どうして急に、こんなに盛り上がってる……?」
職員の一人が然るべき疑問を呟く。
観覧席から巻き起こる歓声。それらは次第に肥大化していき、今や熱狂の域へと達しつつある。
これほどの盛り上がり、近年の試合でも覚えがない。まるで、世紀の一戦が組まれでもしたかのような。
「……あの少年が挑戦者に名乗り出たからですよね。彼自身、生徒ではないと言ってたようですが……」
見れば、歳の頃は周囲の生徒たちと何ら変わらない。むしろその中でも若い部類で、背丈も頭ひとつ分以上は低く見える。
ちょうど、外で彼を案内している進行役のエフィが通信を響かせた。
『えっと、リューゴ・アリウミさん! 生徒さんではない……とのことでしたが、それでは何をされている方なのでしょうか?』
『あ、遊撃兵やってます』
職員らが顔を見合わせる。
「彼が……! なるほど、そういうことか」
謎は容易く氷解した。
レインディールの遊撃兵。その噂は、今やこのバルクフォルトまで届いている。
それこそ古の英雄ガイセリウスを思わせるかのような無術の勇士だと。
「ははぁ。新進気鋭のレインディールの遊撃兵と『白夜の騎士』の一戦……そりゃぁ盛り上がるはずだ」
「うむ……だが、こうなると思いがけぬ試合だぞ。しかしあれが噂の遊撃兵……どんな豪傑かと思ってたが、まだ子供じゃないか。さすがにレヴィン殿には敵うまい」
「レヴィン殿の経歴がまた一つ輝きを増しますな――」
「止めさせろ」
厳かな声が低く響いた。
職員らが一斉にその出所――ローヴィレタリアへと注目する。
「……げ、猊下……」
職員の一人が怯んだように息をのむ。
その理由を、ローヴィレタリアは正しく解していた。
己の『喜面』が剥がれ落ちているからだと。
常々、笑みの形に細めている眼。それが見開かれ、蛇に似た黄土色の瞳孔が露となっているからだと。
分かっている。周囲の部下たちからは、密やかに『喜面僧正』ならぬ『鬼面僧正』などと囁かれていることも。
「この試合は認められん。今すぐ止めさせるのだ」
「し、しかし猊下。よもやレヴィン殿が後れを取るはずは――」
「馬ッ鹿モンッ!」
ローヴィレタリアが一喝すると、職員たちは雷に撃たれたかのように身を竦めた。
「分からぬか。勝ち負けの問題ではない。立場上、この二人が交わることがあってはならんのだ」
状況が理解できていない様子の部下たちへ向かって、大臣は真意を語る。
「闘れば当然、レヴィンが勝つ。じゃが……遊撃兵とは、アルディア王が直々に抜擢する特殊な戦士。なればそれを打ち負かすは、アルディア王の顔に泥を塗ると同義」
かつての天轟闘宴においても同じ。
六年前――第八十五回・天轟闘宴は、レフェ最強の戦士ドゥエン・アケローンが不参加となる回だった。
見事レヴィンが覇者となった折、関係者が集った会談の場では「やはりレヴィンとドゥエンの対決が見たい」だの「いずれ機会があれば是非」だのといったやり取りが交わされたが、そんなものは社交辞令だ。
(決まっておる。ドゥエンが不在だからこそ参戦させたのだ)
当時、レヴィンはまだ十三歳。
いかに天才、いかに『ペンタ』といえど、さすがにあの時点ではドゥエンと対峙すれば負ける可能性があった。
あのガイセリウスすらも凌ぐ、完璧なる英雄像を……レヴィン・レイフィールドの物語を作り上げていく以上、無用な敗北が刻まれることは許されない。
そして逆に、安易に勝ってしまうことも考えもの。
レフェ最強と呼ばれるほどの男を仮に打ち負かしてしまえば、向こうの面子を潰してしまうことになる。
勝つことも負けることも許されない。ゆえに、闘ってはならないのだ。
ただ単純にレヴィンが最強であればいい訳ではない。国家間の関係、しがらみというものがある。
これまでも、こうして当たり障りなく……角を立てずレヴィンの歴史を作り上げてきた。
そしてそれは、今回も同じ。
「外へ伝えよ。この一戦は容認できぬ」
「しっ、しかし猊下……こ、この状況では」
恐る恐るといった様子で進言され、ローヴィレタリアも改めて気付く。
「リューゴ! リューゴ!」
「アリウミ遊撃兵には何の恨みもないけど! レヴィン様が! 勝つに! 決まってるでしょ~!」
「純粋にどっちが強いんだよ!? こんな試合、そうそう観れるもんじゃないぞ!? いや、これ以上の一戦なんてあるか!? うへぁ~来てよかったぜ畜生!」
「フウウウゥゥ――!」
観客席に渦巻く期待と熱狂。始まる瞬間を、若者たちは今か今かと心待ちにしている。
「ぬ……うっ」
この催しの目的は、ミディール学院生らをもてなし満足させる……すなわちこちらに対する好印象を与えておくこと。そして、レヴィンの実力を知らしめること。
ここで中止などと宣告すれば、そのどちらの評価もが覆りかねない。
(……おのれ、何を考えておる……あの遊撃兵……)
『拳撃』。無術で闘い抜くというその噂こそ耳にはしているものの、詳しい話までは知らない。
見れば、思っていた以上に年若い。幼い、と表現してもいいほど。
強者特有の向こう見ずな闘争心によるものか。はたまたレヴィンを前に功名心を刺激されたか。
ともあれ、どちらが勝っても負けても得をしない。無用な軋轢を生む要因となるだけ。
外見通りにまだ若く、そうした大局を見定めるだけの見識を持ち合わせていないのか。
(いや、それとも……)
実は、ああ見えて自分を売り込むことに長けているのか。
例えばそもそも、無術の拳士――でなど、あるはずがない。人は、神詠術の恩恵もなしに強者となることはできないのだから。ただの役人ではない、己が身で戦場に立った経験もあるローヴィレタリアには身に染みて分かっていること。身体強化などを巧みに使い、あたかもそうであるかのように見せかけているだけのはず。
(なれば……ある意味、レヴィンと同じか)
そうした特異な存在となるよう、己の在り方をや地位を作り上げて……演じ、築き上げてきた。
人々はその物珍しさに惹かれ、乗せられて……悪し様にいうなれば、騙されてきた。
この挑戦の表明も、普通なら避ける……そういった常識に対しあえて逆を張ることで、自分の存在感を強く示そうとしているのかもしれない。
(であれば、若い身空ながら抜け目ない男だが……)
とにかく、である。
(こうなっては……仕方がない。レヴィンよ、分かっておろうな)
遥か下方――舞台に佇む、完璧なる騎士の様子を窺う。当たり前だが、相手が噂の遊撃兵と知っても落ち着き払っていることは確か。ここからではさすがに、その表情までを推し量ることはできないが――
「やむを得ん……制限時間は三分に縮めろとエフィに伝えよ。この熱狂だ……多少短くなったところで、誰も気付きはせぬ」
「は、はっ」
少しでも早く、均衡を保ったまま終わらせる。
(レヴィンよ……時間切れを狙うのだ。それ以外に選択肢はないぞ)
どちらにも見せ場を作りつつ、決着つかずで終わらせる。三分を凌ぐ。
それが最良にして唯一の道。
倒すことは許されない。負けることなどそれ以上に論外。
ここまで完璧なる軌跡を歩んできたレヴィン・レイフィールドならば、当然言われるまでもなく理解しているはずだ。そして実行できるはずだ。
予想外の展開となってしまったことに焦れるローヴィレタリアには、ただ舞台と成り行きを見守ることしかできなかった。