60. 二つ名
――優秀な詠術士には、その個人を表す『二つ名』が神詠術研究部門より贈られる。
「ハッ――ハアァッハハハハァ!」
哄笑と共に噴き出すは、踊り狂う炎の渦。
『狂犬』とも渾名されるエドヴィン・ガウルは、周囲に炎を撒き散らしながらザウラへと追いすがる。
メチャクチャだった。飛び散ることでエドヴィンの制御を離れた炎が、火の粉を散らせて彼自身の肌や服をも焦がしている。
それらに構いもせず、エドヴィンは生み出した火球を乱射した。その様はまるで、制御のきかなくなった砲台だ。
「ガキが! 飛ばしゃいいってモンじゃねぇんだよォ、このヘタクソが!」
ザウラは両手の爪を閃かせ、次々と迫り来る火球を打ち払った。
エドヴィンの連弾を捌くことで手が塞がっているザウラ目がけて、レノーレが両手をかざす。ビキッと音を立てて、かざした手の前方の空間に収束する冷気。三秒ほどで、大砲の弾ほどもある氷の塊が形成された。ビキビキと音を響かせながら、氷の塊が形を変えていく。さらにたっぷり五秒ほどをかけて、鋭く先端の尖った氷の杭が形作られていた。
「おっほぉ! そんなぶっといの刺さったら、オジサン死んじゃうよォ!?」
エドヴィンの連弾を受けながら、ザウラが困ったような声を出す。
「……そうね」
その氷のように冷たい呟き。レノーレは表情ひとつ変えず、杭を発射した。
「ひゃっは!」
まるで曲芸。ザウラは次々と浴びせられる炎の連弾を受けながら、顔だけを横に振り、飛来した氷杭を躱した。
さらには手一杯で防いでいたはずの炎の隙間を縫い、レノーレに向かって一足飛びで接近する。
「……!」
「あぁ!?」
レノーレが目を見開く。エドヴィンが驚愕する。
「ごめんねぇ! 驚かせたくて、苦戦してるフリしちゃったよォ!」
ゴッ、と。ザウラは、レノーレの顔面に向かって氷の爪を突き出す。
ヒュンと鳴る風切り音。氷の少女は顔を横に振り、あっさりとこの爪を躱した。
「えっ!?」
今までのような、小馬鹿にした口調ではない。素で驚いた声が、ザウラの喉から吐き出される。
そうして鋭い膝蹴りが、ザウラの鳩尾へと叩き込まれた。
瘦躯を折り、「ごぶっ」と呻くザウラ。レノーレは膝蹴りの反動を利用したバックステップで、相手から距離を取った。
「……驚かせたかったというなら、成功してる。……思ったより遅くて、驚いた」
「こ、こりゃオジサンびっくりだ。まさか格闘もこなせるなんてねぇ……」
言いながら、ザウラはじりじりとレノーレとの距離を詰める。
双方の距離は、約四マイレ。一足飛びで詰められる間合い。中途半端に近いゆえ、エドヴィンもレノーレを巻き込むことを恐れて、火球を放てない間合い。
――の、はずだった。
「オラァ! くたばれや!」
深い笑みを刻んだエドヴィンが、再び火球の掃射を始める。
ザウラに向かって。近くにいる、レノーレごと。
次々に着弾する火球、弾ける石片、吹き上がる煙。
「く、クソガキ、バカかてめぇ! 仲間ごと巻き込むかァ!?」
「テメェが言うセリフじゃねーだろ、オッサンよ!」
雨霰のように降り注ぐ小さな火球。それらは万遍なくザウラとレノーレに降りかかり、舞い上がった煙が視界を曇らせる。
「チッ……!」
ザウラは忌々しげに舌を打つ。
後先を考えない掃射で息切れし始めているのか、降り注ぐ火球の威力が先ほどよりも弱い。
しかしここで厄介なのは、『炎』というその属性だ。
これが水や風ならば、威力の弱い一撃など無視して強引に突っ切ることもできるのだが、どんなに弱くとも炎は炎。飛び火、引火する恐れがある以上、防御や回避が必要となる。結局は、先ほどと同じように打ち払うことを余儀なくされた。
「……あぁ……!?」
ザウラは連弾の対処に追われながら、それに気付く。
砂煙の向こう。レノーレに向かって飛んだ火球は、彼女に当たることなく空中で消失していた。
――冷気。少女の帯びている冷気が、エドヴィンの火球をことごとくかき消している。
「仲間ごと巻き込むだとか何とか言ってたなァ、オッサンよ。いらねー心配だ。『巻き込めねぇ』んだよ、この程度じゃな」
エドヴィンがニヤリと笑みを深くする。
ザウラは目を剥いた。理解する。火球の威力は『落ちた』のではない。『落とした』のだ。時間稼ぎのために。
「おら、詠唱は終わってんだろ? とっととやっちまえ、『凍雪嵐』さんよ」
二つ名を呼ばれた少女が、こくりと頷く。小さく紡いだ。
「――”吹き荒べ、風雪の妖精”」
レノーレは横一文字に右腕を振るった。
瞬間。横から氷雪の烈風を浴びたザウラが、凄まじい勢いで吹き飛び壁に叩きつけられた。
「久々のコンビ戦だったなァ。どうよレノーレ、上手くなったモンだろ、俺の補佐もよ。どいつもこいつも『エドヴィンは前に出すぎる』って言うからよ、日々シュギョーしてんだぜこれでもよ」
「……一人でやったほうが早いかも」
「何でだよ……上手かっただろ……。マリッセラに『邪魔だから隅っこで見ててくれませんか?』って言われたの思い出すぜ……」
「……邪魔だから隅っこで見ててくれませんか?」
「やめろ」
虚ろに聞こえてくるのは、緊張感に欠けた少年少女の会話。
「が……、はァ……ッ」
まるで吸い寄せられたような速度だった。
壁に激突したザウラは、それでも足を震わせて立ち上がる。
飛んできたのは氷と雪。おびただしいまでの氷雪が凄まじい速度で殺到したことで、それが烈風をも生じさせていた。凄絶な勢いで降り注いだ氷雪は、散弾のようにザウラの身体を穿ち、腕、足……ところどころを朱に染めていた。
――い、てえ……。あの、小娘。
『凍雪嵐』というのは……二つ名か。
二つ名を持ってるような詠術士だったのか。学生の分際で。ガーティルードの小娘以外に、異名持ちが来ていたのか。
発動の際のあの言葉も、イリスタニア語ではない。術の精度も、学生のレベルを逸脱している。明らかに、ただの学生などではない。何者だ。ナメやがって。
優秀な詠術士様か。くそが。くそが、くそがくそが――
「く、そ、ガキがああああああぁぁぁああっ!」
飛んだ。
神詠術の放出力を利用した、逆噴射による跳躍。ボンッという爆発音と共に、白い軌跡が放物線を描く。
およそ二十マイレもの距離を飛翔したザウラは、勢いそのままにエドヴィンへと殴りかかった。
「!」
避ける暇もなく。
ゴシャッ、と重苦しい音を立てて、ザウラの右拳がエドヴィンの顔面を殴り飛ばした。メキメキと頬を抉り、鼻から鮮血が噴き出す。
「が……は……!」
ぐらりと傾くエドヴィン。
「ガキが、死んでろよォ!」
ザウラはエドヴィンが倒れるのを最後まで見届けず、レノーレのほうへと向き直り――
「あぁ?」
ガクンと、何かがつっかえた。
見れば――ザウラの襟元を掴んだ、エドヴィンの手。
認識した瞬間、視界が赤に染まった。次いで、後頭部と背中に鈍い衝撃。
自分が殴り倒されたのだとザウラが気付くのに、二秒ほどを要した。
「が、ばっ……!?」
「……ペッ。何だぁ、そのヌリィ拳はよぉ~」
頬を腫らし、鼻と口の端から鮮血を溢れさせたエドヴィンが、倒れたザウラを見下ろして凶暴に笑う。まるで――手負いの獣。
「アイツの拳に比べたらよー、蚊に刺されたみてーなモンだなオイ!」
――そこからは、闘いではなかった。
ザウラに馬乗りとなったエドヴインが、狂ったように哄笑を響かせて次々と拳を繰り出す。ゴッゴッと、無防備になったザウラの顔面に拳が打ちつけられる。
飛び散る鮮血。ザウラの血だけではない。素手で硬い頭部を殴ることにより、傷ついたエドヴィンの拳が血を流していた。
それでもお構いなしだった。むしろその痛みが起爆剤であるかのように、エドヴィンは爆笑を轟かせながら、返り血を受けながら拳の嵐を叩きつける。
その一方的で凄惨なまでの暴力を見たレノーレは、しかしいつも通りの無表情で呟く。
「……さすが『狂犬』のエドヴィン。……引く」
「そーゆーなって『凍雪嵐』のレノーレちゃんよぉ!? ヒャアッハッハハハハァ!」
――薄れゆく意識の中で、ザウラは自分を納得させる思考に入っていた。
『狂犬』。
……『凍雪嵐』に『狂犬』。
こいつらは、二つ名を持っているような詠術士だったのだ。
自分はどんなに努力をしても二つ名を得ることなどできず、こうして闇の道へと堕ちたというのに、こいつらは学生の身でありながら、二つ名を授かるような詠術士だったのだ。
仕方がない。そんなのを二人も相手取って、勝てる訳がない。
負けるのも、仕方がない……。
――エドヴィンが拳の連打を止めずに嗤う。
「っつーかよぉ、その『狂犬』ってのいい加減やめよーぜェ!?」
「……どうして。……二つ名みたいでかっこいいと思う」
……二つ名、『みたい』……?
「ウソこけ! 絶対ェ思ってねーだろオメェ! 大体よー、俺が二つ名なんざもらえるワケねーだろォ!? 三百位のエドヴィン様ナメんなよ!?」
……あ……?
「……だからこそ、仮二つ名みたいな感じで。……実は、気に入ってる?」
「ね、ねーよ! バカにしてんのかぁ!?」
「……今のこの画を見たら、みんな『狂犬』はぴったりって言うと思う。……もちろん、ベルも」
「は、はぁ!? おまっ、ふざけっ」
拳の嵐が止まった。攻撃の手を止めてまで、エドヴィンがレノーレのほうを見る。
「ほば、ぶざげぁっ!」
意識の飛びかけていたザウラが、死力を尽くしてエドヴィンへと掴みかかった。
「お前、ふざけるな」と言ったはずが、腫れ上がった頬と切れた唇、なくなった歯のせいで全く聞き取れないものとなっていた。
――コイツ、二つ名を授かった詠術士なんかじゃねえ。
俺と同じ、ただの落ちこぼれだ。そのテメーが何で、この俺に馬乗りになって調子こいて――
「いきなり復活してんじゃねェエエェよォ! コエダメがァ!」
エドヴィンはこれ以上ない歪んだ笑みを浮かべ、ザウラの顔面を鷲掴みにする。
そのまま一切の容赦なく、石造りの床へと叩きつけた。