6. 神を詠う術
流護は倒れたドラウトローの一体を静かに見下ろした。
細かに痙攣しながら、まだ息絶えてはいない。この生命力の高さも、恐れられる理由の一つなのだろう。
地に伏した怪物を覗き込むように、流護は片膝をつく。脇腹に走る痛みを堪えながら、下段突きの姿勢を取った。
――生きてんじゃねえ。なんでミネットが死んで、テメェが生きてんだ。そんなのは許さねえ。殺――
握り締めた拳に、白くきれいな手が添えられた。
「リューゴ。もういい」
ベルグレッテが、泣き出しそうな顔で流護を制止する。
「……ベルも、殺してやりたいって言ってただろ」
そう言う流護も、同じような顔をしていた。
「もちろん。けど、目標を殲滅から捕縛に切り替える。このままドラウトローを研究部門に送らせて。魔除けが効かなかった理由、昼間に行動してた理由。それらを調べさせて。その過程で、こいつらは生きたまま解剖されることになる。決して、楽になんて死なせない」
「……そうか、……ぐっ」
流護はずきりと痛んだ脇腹を押さえる。
「そ、そうだあなた、ドラウトローの攻撃を受けて……っ、傷! 傷を見せて! ちょっと服脱いで」
流護は言われるままに学ランの上を脱ぐ。
「な……」
するとベルグレッテは、Tシャツ一枚になった流護の身体を見て息をのんだ。
「な、なんだよ。もしかしてヤバイのか?」
「……いいえ。ここ、こんなに腫れてる。ちょっとガマンしてね」
そう言うと、ベルグレッテは流護の脇腹に優しく右手を当てた。少し気恥ずかしい流護だったが、すぐにそんな気持ちを驚きが上回った。
……痛みが、引いていく。
見れば、流護の脇腹に添えられたベルグレッテの手が、青白い光を放っていた。
「水の神詠術は、こういう応急処置が本領だから」
驚く流護の意図を察し、ベルグレッテが答える。
まさしくゲームでいう回復魔法のようだ、と驚く流護をよそに、ベルグレッテは治療しながらも空いている左手の人差し指と中指だけをピッと伸ばし、指揮者のごとく優美に振るった。
彼女の顔の横、何もない空間に、水面の波紋とよく似たものが現れる。
「リーヴァー? こちらベルグレッテ。どなたか応答願います」
『リーヴァー。……うん? 姉様?』
空中に浮かんだ波紋から、よく通る少女の声が聞こえてきた。
「あれ、クレア? なんであなたが」
『こちらの台詞です。「銀黎部隊」を要請されたかと思ったら……今度はどうされました?』
「ええっと。またお願いで申し訳ないんだけど……少人数でいいから至急、ウェル・ドの森に人員の手配をお願い」
『……はあ。まあ、姉様がそう言うのでしたら。ウェル・ドなら、近くを暇そうに巡回してる方が何人かいるでしょうし』
「うん。お願いね」
『……姉様。何かあったのですか?』
「え? い、いや。別に。たいしたことじゃないんだけどね」
『そうですか。……姉様。私は姫様だけでなく、姉様の「盾」でもあります。……その、何かあったら、遠慮なく言ってくださいね?』
「……うん。だから今、遠慮なくお願いしたでしょ?」
『分かりました。確かに、人員の手配をしておきます』
「ん。ありがとう。それじゃね」
『はい。お気をつけて』
その会話を最後に、空中に浮かんでいた波紋は消失した。
「す、すげえな。なんだ今の」
神詠術を使った携帯電話のようなものか。流護にも声が聞こえていたあたり、電話のハンズフリーや無線に近いかもしれない。
「通信の神詠術ね。……実は私、通信ってあんまり得意じゃなくて。上手い人は、通信する相手を自由に選べるんだけどね。今は、おおよその方角だけ指定して城に飛ばしたら妹が出たけど」
ベルグレッテの妹。やはりとんでもない美人なのだろうか。何となく、この美しい少女騎士が少し小さくなったバージョンを流護は思い浮かべた。
「そういや……神詠術ってのはどの程度のことができるんだ? 今、傷を治してもらってるのもそうだけど……今の通信とかも便利そうだよな」
「そうね……基本的に今の時代、神詠術なしで生活は成り立たないと思っていいわ。宿に泊まっただけでも実感したんじゃない? 明かりをともす、お風呂を沸かす、トイレを流す、離れたところにいる人と通信する……みんな神詠術で賄ってる。強力な術が扱えれば、それだけいい職に就けるし、だから詠術士を目指す人は多い。ただ、みんながなれるわけじゃないのよね」
そういえばミネットは、詠術士になりたくてもなれなかった――と言っていた。
ふと倒れた彼女の顔が脳裏をよぎり、流護は頭を振る。
「個々が内包してる魂心力は、おおよそ生まれつきで決まってるから。ある程度は修業で鍛えることもできるけど……爆発的に伸びる、ってことはまずないの」
「生まれ持った才能か。身も蓋もない話だな……。神詠術って、攻撃手段としてはどれぐらいのことができるんだ? 例えば城を吹っ飛ばすとか、山を消し飛ばすとか」
あと隕石を落とすとか、時空を操作するとか。
このあたりは意味が通じないかもしれない、と思ったので言わないことにした。
「や、神詠術をなんだと思ってるのよ……。でも強力な詠術士になれば、自然災害に近いレベルの破壊をも巻き起こせるわ。『銀黎部隊』は、そういったレベルの精鋭で構成されてるし――それに、『ペンタ』なら――、……ううん。なんでもない。忘れて」
「……?」
『ペンタ』?
よく分からないが、ベルグレッテにとってあまり触れたくない話題のようだ。
気にならないでもないが、そこは察し、続ける。
「ベルはどれぐらいのことができるんだ?」
「……見ての通りよ。ドラウトローにも通用しない。詠唱する余裕があれば、凝縮した水を叩きつけて石壁を壊すぐらいはできるけど……実戦では中々、ね」
そう言って、少し悲しそうな表情を見せるベルグレッテ。
「子供の頃は『竜滅書記』に憧れてね。勇者ガイセリウスの持つ大剣グラム・リジルを真似て、水で大剣を形作る練習もしたなぁ。いちおうやろうと思えばできるけど、詠唱に五分はかかるわ、一振りしただけで剣の形は維持できなくなるわ、あげく足腰立たなくなるわで、とても実戦で使えるものじゃないわね」
ベルグレッテは恥ずかしそうに苦笑いを見せる。しかし流護の反応は違った。
「そ、それちょっとカッコイイなおい。大剣召喚とか。一発限りの大技とかカッコイイな」
流護もまだまだ『抑えきれぬ左腕が疼く年頃の少年』だ。そういうものにはロマンを感じてしまう。
「そっ、そう? 珍しいわね。男子って、神詠術を好まない人が多いから。それこそ『竜滅書記』に憧れて、本物の剣と拳だけで闘うのがかっこいい、みたいな。うちのクラスにも一人、そんなことばっかり言ってる男子がいるし」
魔法みたいな力を使えるほうがカッコイイだろうに、と流護は思う。
隣の芝生は青く見える、というやつだろうか。
「……はいっ。痛みはどう?」
会話しながらも流護の治療をしていたベルグレッテは、ふう、と息をつく。
「……お、すげえ。痛くねえぞ、全然」
脇腹の痛みが、きれいに引いていた。肋骨に入ったひびすらも繋げてしまうのか。
流護は改めて驚愕する。
「それじゃ、少し待ちましょう。兵にドラウトローを引き渡して、それからまた出発ね」
「ああ。分かった」
腰をひねり、身体が痛まないことを確認する流護。
その姿を、ベルグレッテは見つめていた。
流護は気付かない。
ベルグレッテが、敵意にも似た鋭い眼差しで注視していることに。
――少女は思考する。
何の神詠術も使わずに、素手だけでドラウトロー三体を圧倒した。
術を行使した気配はない。それでいて、神詠術による身体強化でも施しているとしか思えない動きで、奴らを無力化した。棍棒に喩えられるドラウトローの一撃を受けて、肋骨にひびが入る程度で済んだ。
そして黒い服の下から現れた、あの凄まじい肉体。あんな鎧のような筋肉に覆われた身体は、見たことがない。かつての兄や父ですら、あそこまでの肉体など持ってはいなかった。
否。人間が鍛えて、あれほどの身体になりえるのだろうか? まして自分とそう歳の変わらないだろう少年が。ありえない。
それこそ『竜滅書記』に伝わるガイセリウスや、ゴーストロアに悪名高い『エリュベリム』でもあるまいし、そんな人間が実在するはずはない。
確かに学院やクラスメイトの少年たちは、そういったものに憧れる。
けれど。拳や剣だけで、人は戦えない。
そう。だから『憧れる』のだ。実現し得ないことだからこそ。
そんな空想を現実のものにしてしまう存在など――
今さら、認めるわけにはいかない。
――何者なの。この、アリウミ・リューゴという人間は。
いや……それ以前に、この少年。どこかで――
油断のない視線を送り続けるベルグレッテに、流護は気付かない。