595. 大物
うっすらと青紫に染まる異国の空。
この地域は夕方が長く、まだ緋色の残滓が空に燻っている。
暗いとも明るいともつかぬ幻想的な色合いに沈む夜の街並みを眺めながら、帝都バーグリングヒル内部を南下すること小一時間ほど。
馬車から降りた三年生一行を待ち受けていたのは――
「うわすご……! 世界史の教科書とかで見たことあるやつー!」
そんな彩花の驚きは、流護の感想をそのまま代弁していた。
古代ローマのコロッセオ。
同郷の人間であれば、誰もがその名を思い浮かべるだろう。
それも風化した廃墟ではない。重厚な鉄門の両脇では燃え爆ぜる篝火が焚かれ、数えきれないほど並ぶ穴窓の奥からはかすかな明かりが漏れている。現在進行形で稼働している施設なのだ。
今夜、この施設はミディール学院生の貸し切りだという。そして、演者は天下に名高い英雄レヴィン・レイフィールド。
破格の歓待であることは疑いようもない。
「す、すげえ〜……。レインディールにはないよな、ここまででかい闘技場はさ……」
「ああ……とんでもない迫力だ……」
レヴィンの女子人気にむくれながらやってきた男子たちも、その不満すら忘れて眼前の巨大建造物を見上げている。
威容。
闘いという行為を目的として造られた施設であるがゆえか、建物そのものが荒々しい闘気を発しているかのような威圧感があった。
他の生徒らの反応も様々で、
「闘技場って初めてだよ……すごい物々しさだ……」
「ちょっと怖いぐらいよね……これ、一人で入れって言われたら抵抗あるわ……」
雰囲気に萎縮する者もいれば、
「ヘッ、悪くねー雰囲気じゃねーか」
昂ぶりを隠さず犬歯を剥き出すエドヴィンもおり、
「久しぶりですね、このサスクレイストも」
「そうね。変わらず力強くて豪壮な景観だわ」
来訪経験ありで落ち着き払ったガーティルード姉妹もいる。
「でっかいねー! 二人の国には、こういう闘技場ってあるのー?」
「あるにはあるが、ここまで巨大なものはレフェには存在せん。天轟闘宴も屋外で行われるしの」
「……バダルノイスにはない。……造っても、とても維持できないと思う」
ミアと留学生二人ことダイゴスとレノーレも物珍しげに眺めている。
思いは三者三様、しかし誰もが等しくその巨大建造物に目を奪われていると――
「では、よろしくお願いいたします」
「ホッホ。こちらこそ」
何やら隅っこで教師陣が話をつけていたようだ。生徒らの前へ歩み出てきたのは、一人の老父だった。
年齢は六十歳を過ぎているだろうか。やや背を丸めた前傾気味の姿勢で、それでも身長は目算で百八十センチほどと窺える。
頬骨の張った四角い大きな顔が特徴的で、頭髪は皆無。厚ぼったい唇は横に大きく広がっており、両目はへの字に細められている。熟れた茄子みたいな鼻、異様に大きい耳たぶもインパクトが強い。
その表情は満面の笑顔で、ニッコニッコと手書きの効果音が見えそうなほどだ。
纏った臙脂色の神官服は元の体格が分からないほどだぶついており、右手で長柄の錫杖をついている。それも金属の輪っかや鈴といった装飾が多様に施された豪華なものだ。
「すご、仏様だ……」
「どっちかって言うと悪徳政治家っぽくね?」
彩花と流護がそれぞれ勝手な感想を口にすると、
「お二人の例えは分かりませんが、アリウミ殿がとてつもなく失礼な発言をしていることは察せますよ」
クレアリアがジト目で溜息をつきながら続ける。
「やはり、今回の催しを段取られたのはこの方だったようですね。お忙しい身でしょうに、頭が下がります」
そんな妹の言に、ベルグレッテが無言で深く頷き同意を示している。
「? 知ってる人なんか?」
『はーいみんな静かに! 注目注目ーう』
流護の質問をかき消す音量で、パンパンと手を叩いた学院長が通信を増幅して呼びかける。
『というワケで! こちらが今回の催しを企画くださったお方です! 特に女子、感謝しなさいよー? では御大。一言、我が校の生徒たちにご挨拶いただけますでしょうか』
招かれた老父が一礼しつつ、学院長の維持する波紋へ語りかけた。
『ホッホ。ミディール学院の皆様、初めまして。ようこそサスクレイスト闘技場へお越しくださいました。私はこのバルクフォルト帝国にて大臣を務めております、トネド・ルグド・ローヴィレタリアと申します』
「ん……? どっかで聞いたことあるよーな名前だな」
記憶の片隅で引っ掛かりを感じた流護が小声で囁くと、前を向いたままのクレアリアが応じる。
「道中の馬車でお話ししましたね。最高権力者ヴォルカティウス帝の右腕にして……実質、今のバルクフォルトを牽引しているお方です」
「え? メチャクチャ偉い人じゃね?」
「ですから、頭が下がると言ったんです」
超大物だ。そうして二人がヒソヒソ話を交わす間にも、大臣ことローヴィレタリア卿の挨拶は進んでいく。
『本日も昼間、このサスクレイストにて拳打法の王者による試合が行われたばかりでして……と、私のような老人の話は手短にここまでと致しましょう、昼間、アンドリアン学長の長話を聞かされておいででしょうからな、ホッホ。では皆様。今宵は是非とも、我が国の勇士レヴィン・レイフィールドの演目をお楽しみくださいませ』
終始笑顔のローヴィレタリア卿が一礼とともに下がると、場が拍手に包まれた。特に女子陣の高速拍手がすごい。
『御大、ありがとうございましたー。さて皆の衆、レヴィン殿の演舞は八時からよー。あと三十分ぐらいね。中には売店やお閑所もあるそうだから、時間までに買い物なり用足しなり準備を済ませて観覧席に座っておくよーに。あと開始十五分前には着席を促す鐘が鳴るそうだから、それを目安に行動することー。はい、それじゃ解散!』
「デカすぎんか?」
思わず飛び出した流護の感想が反響する。
中へ入ると、生徒全員でバトルロイヤルすらできそうなほど広いロビーが一行を待ち受けていた。
倍の人数でもあっさりと収まりそうなほど余裕がある。皆もその規模の大きさに言葉を失っているようだ。
「天井、たっか……」
彩花の呆けた呟きに釣られて目をやると、石蓋に覆われた最上部まで二十メートル以上はあるだろうか。あまりの高さからか照明の類は設置されていない(できない)ようで、その高みにはうっすらとした闇が広がっている。
その代わりといわんばかり、出入り口付近や他の区画へ続く通路の近辺には、外と同じような篝火が豪快に灯されていた。
入り口近くのカウンター奥の壁には、五メートル四方もありそうな大きい青のタペストリが堂々と飾られている。街中や宿泊施設の砦で見かけたものと同じく、描かれているのはエラを生やした巨大な蛇こと水竜ヴィルベィル。
そしてカウンターの脇には、巨大な銅像が展示されていた。筋骨隆々で全裸の大男が、片膝をついて肩に甕のような陶器を担いでいる。
「何で裸でツボ抱えてんだ? コイツはよ」
横へやってきたエドヴィンがもっともな疑問を呈すると、同じく隣に来たダイゴスが像の下部へ備え付けられたプレートに目を通して頷いた。
「この案内板によれば……遥か昔、奴隷から闘技者に成り上がった戦士の像らしいの。奴隷時代の労役を表現したもののようじゃ」
「はァ。しっかしよ、チョイと大げさに造ってんじゃねーのか? デカすぎだろ、特にイチモツがよ~」
銅像の下腹部を見やってかっかっかと下世話に笑うエドヴィンだったが、
「え? ちっちゃくね?」
思わず。反射的に流護は答えていた。
「…………」
「…………」
「えっ」
「えっ」
「……ふむ」
顔を見合わせる流護とエドヴィン、何を納得したのか唸るダイゴス。
「……………………」
微妙な空気に包まれる男子陣をよそに、
「クレア。まず私たちは、ローヴィレタリア卿の下へご挨拶に伺いましょう」
「ええ、そうですね」
「ベルちゃーん! おしっこ行きたい! といれどこー!」
「おっと、あたいも便乗していいかいベル。ここに来たことあるなら、場所分かるんでしょ?」
「え、えーと私もお願いしまーす……」
「マデリーナとアヤカも? 分かったわ、それじゃあ案内するから……クレア、言い出しておいて悪いんだけど先に向かっててもらえる?」
「仕方ありませんね。承知しました」
すぐ隣の女子たちはそれぞれ賑やかに行動を開始していた。
「……売店があるとか言ってたっけ。探してみるか」
「オウ……」
「そうじゃの」
かつての苦役を永遠に続ける銅像に背を向け、野郎どももそれとなく歩き始める。
どうでもいい話題は忘れて。




