582. 天空の賊徒
「くう、ぞく……?」
不安げにその単語をなぞる彩花に向けて、クレアリアはこともなげに言い放つ。
「そのような異名で呼ばれる怨魔ですよ」
「おっ、おんま!?」
会話を聞いていたのか、手元の本に視線を落としたままのレノーレが羅列した。
「識別名ムシュバ。カテゴリーはE。常に集団で行動し、目についた獲物や人間を見境なく襲う。輝く物品に目がなく、硬貨や宝石を蒐集する習性を持つ。そうした気性や特徴から、『空賊』の異名で呼ばれる。単体での戦闘能力こそ決して高くないものの、集団を相手取る場合は危険度が跳ね上がり、熟練した戦士でも注意が必要となる。特に、大規模な群れが巻き起こす『石驟雨』の兆候を見逃すことは死に繋がる」
「そ、そうなんだ!? く、詳しいね……!」
そんな彩花の相槌に被せる形で、またもヴヴヴと篭もった音が木霊した。より大きく、より鮮明に。
流護も目撃してようやく気付く。それは鳴き声だ。近間を飛ぶ一匹が大きく開け放った嘴、ノコギリみたいな牙が覗くその口腔から、それこそ放屁と聞き違う耳障りな咆哮が放たれたのだ。
「ウワー! 増えた!」
ミアの嫌そうな呻き通り。その怪鳥の鳴き声に呼び寄せられたか、どこからともなく飛んできた五匹が新たに群れへと合流した。
「うわぁ、怨魔だ怨魔!」
「な、何で!? ここ、街道なんでしょ!?」
「いつの間にか囲まれてるぞ! どっ、どうするんだよ!?」
馬車内の生徒たちもさすがに気付き、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっている。
「ケッ。どいつもこいつも、散々退屈だとか文句垂れてやがったクセによー。怨魔の襲撃つったら、旅にゃ定番の出来事だろーがよ」
「……鳴き声がうるさくて読書に集中できない」
「この大きな街道に『空賊』とはの。先日の話ではないが、奴らの行動範囲にも変化が出とると見るべきか」
エドヴィン、レノーレ、ダイゴスはといえば、さすがの落ち着きぶりである。
そして、動揺の渦中にある級友たちに向けベルグレッテが声を張った。
「みんな、落ち着いて! ここは街道の内側、即座に襲いかかってくるようなことはないわ。こうした不測の事態への対応も、今回の修学旅行で問われる課題のひとつ。冷静にいきましょう!」
学級長の貫禄とでもいうべきか、その凛とした言葉を受けて生徒たちもどうにか静まった。
「ど、どうするの。どうするのっ、流護っ」
しかして、完全に動転した現代日本の少女が窓の外と皆の顔を忙しなく見比べる。
「だから落ち着けゆーとるに」
「だ、だって私、詠術士じゃないもん! ってか、あんたは何でそんな平然としてんのっ。やばいでしょ、あんなん絶対やばいでしょ……!?」
「大丈夫ですよ、アヤカ殿。皆がついていますから」
「う、うん……」
何というか、クレアリアの彩花に対する物腰の柔らかさは確かに特筆すべきものがあるように思える。
とそこで、馬車内……ベルグレッテの近くに通っている伝声管から男の低い声が響いてきた。
『あー、こちら御者だ。応答願う』
「はい、こちら学級長のベルグレッテです。聞こえています」
『あいよ。もうお気付きだと思うが、「空賊」に絡まれてる』
この馬車を走らせている操縦士からだった。その口ぶりに動揺は全く感じられない。
それもそのはずで、レインディールにおいては、一線を退いた傭兵や詠術士が次の仕事として御者を務めていることも多い。今回、学院生一行を隣国まで運ぶ役目を担うこの運転手もまた例に漏れずだった。
『ここは草原だからな、「石驟雨」はまだ来ねぇだろうが……何を仕掛けてくるか分からん、小賢しい連中だ。どこかで停車して喧嘩を買うかい?』
「そう、ですね……。まず、ナスタディオ学院長に判断を仰いでみます。通信を共有しますので、少々お待ちください」
『はいよ』
「クレア、学院長に繋いでもらえる?」
「承知しました」
姉の指示に従い、妹が素早く通信術を繋ぐ。
こうした非常時における一連の流れ、その手際のよさはさすがというべきか。
だからこそ、
『あぁーいみんなのナスタディオ学院長でえーぇーす。ンフフフフフ、ンフフフ、フフフフ』
皆が真顔で通信の波紋に注目した。それを見つめたところで何がどうなる訳ではないと分かっていても。
接続主が、やはり無表情のまま口を開く。
「……クレアリアですが。学院長、まさかこの昼間からお酒を?」
『だぁって、滑り出しが順調だったからぁ。そりゃ、お祝い気分になっちゃうじゃなぁい』
『学院長、学院長! ですから、窓の外! 窓の外に!』
『だから何ですかクランド先生ぇ。ほら、先生も一杯! ぐぐいっと!』
『だからそれどころじゃありません! 外! 外に!』
『うるせぇぞぉ! アタシの酒が飲めねぇってのかぁ!』
クレアリアが煩わしげに指先を振ると、宙に揺らいでいた波紋と向こうからの音声が消え去った。
「では、対処に移りましょうか」
「そ、そうね」
『お、おお』
何事もなかったようなクレアリアに促され、姉と御者が押され気味に同意した。
「ね、ねえ流護。学院長さんって……」
「ああいう人なんよ……」
遊撃兵の少年としても諦念の思いである。と、どうにも不安が隠せない様子の彩花は続いて皆の顔を見渡した。
「あ、あの。怨魔って、街道には入ってこれないんでしょ? 魔除けだか何だかで。つまり、こっちには手出しできないってことだよね? なら、このまま無視してればいいんじゃ……」
そんな提案には、クレアリアが「いえ」と否定を返す。
「街道などに施されている魔除けというものは、怨魔の嫌う匂い成分などを利用し、奴らが近付けないよう処置するものです。ご覧の通りに」
まさしく、窓の外でそれが実証されている。馬車に追従して飛ぶムシュバの群れだが、こちらに直接突撃してくる個体は一匹としていない。街道の外周部からやや離れた位置を維持しつつ滑空している。それ以上は接近できないのだ。
「しかし裏を返せば、あの距離までなら近付けるということ。これは『横』のみならず、『上』に対しても同じことが言えます」
「あ……! も、もしかして」
彩花の反応を確認し、クレアリアは満足げな笑みを返した。優秀な生徒を褒めるように。
「お気付きになりましたか。街道の上空……十マイレ前後の高みは、すでに魔除けの範囲外。一定の高度さえ保てば、街道の真上を飛ぶことも横切ることも可能。そしてこの『空賊』どもは小賢しい真似が得意でして、上から投擲物を放ったりするんです。このまま魔除けでなかなか近づけないと悟れば、実行に移すでしょう」
うむ、とダイゴスが唸る。
「奴らの基本戦術じゃな。地上の標的に向かって、一掴みほどもある手頃な大きさの石を落とす」
ベルグレッテが神妙な顔で頷いた。
「さっき、レノーレが説明で少し口にしたけれど……群れ全体でこれを仕掛けてきた場合、恐るべき脅威となるわ。にわかに多量の石礫が降り注ぐその光景は、『石驟雨』と呼ばれる。これによって、小型の馬車が原型を留めないほどに破壊されたという事例もあるの」
「いっ……石なんかで、そんなことになるの……!?」
目を白黒させる彩花だが、一方で流護は納得した。
「そいや昔、親父が冬に出張行った時の話なんだけどさ。信号待ちしてたら、いきなり車の屋根にゴンって何か落ちてきたんだと。見てみたら電線から落ちてきた氷の塊で、大きさは十センチぐらいって言ってたかな。そんなんでも車の屋根がベコッと凹んで、修理にとんでもねー金かかったって言ってたぞ。たかだか電線ぐらいの高さから落ちてきた氷でそんなことになるんだから、十メートル以上の高さからそこそこの大きさの石なんかバラ撒かれたら……」
「で、でもでも、この馬車ってなんか頑丈とか聞いたけど……!」
どうにも食い下がりたいらしい彩花だが、いつもと変わらない無表情のレノーレがぽつりと指摘する。
「……車両は頑丈でも、馬はそうはいかない」
それはそうだ。動力源たる彼らは生身の動物。そして仮にやられることがあれば、もはやこの乗車室はただの箱と化す。
エドヴィンが心から愉快そうに笑った。
「ヒャッハハハ! つまりよ、どう足掻いても闘るしかねーってこった!」
拳をバキバキと鳴らし、すでにアドレナリン全開である。
とそこで、ダメ押しのように伝声管から御者の声が響く。
『この先、三キーキル程で遮蔽物のない乾燥した荒れ地に入る。そこにあるのは岩山とひび割れた地面、そしてお誂え向きの石ころだけだ。「空賊」共も、今は草原だから大人しく取り囲んでるだけだが……どうもこの様子だと、俺らがそこに差し掛かるのを待ってやがるんだろう』
つまり、武器が多量に転がっている自分たちのフィールドに……狩り場に獲物が入り込むのを待っているのだ。
彩花はといえばもはや顔色も真っ青で、流護の服の袖をぎゅっと掴んでくる。
「ゆっ、Uターンしよっ」
「できる訳ねーだろこの馬車のデカさで。やりゃ確実に街道からはみ出すし、街道からはみ出しゃそれこそ奴らが喜々として襲い掛かってくる」
「な、なら一旦止まって、動かないで待ってみるとか! やり過ごせない?」
「相手が動かんと見りゃ、それこそ石とか落としてくるだろ。止まった獲物なんてただの的だからな。ついでに言や、あんなの放っといたら他の馬車も被害に遭うかもしれんし」
どこまでも往生際が悪い幼なじみを少年が論破すると、彼女は重い溜息ひとつ。
「……流護。今までお世話になりました。あんたとは憎まれ口を叩き合う仲でしたけど、短くも楽しい人生でした」
「辞世の句を遺すな」
向かい席のミアがふんふんと鼻息を荒げる。
「大丈夫だよ、アヤカちゃん! みんながいるんだからね! 心配することなんて何もないよ!」
「ミアちゃーん……」
そんなやり取りを尻目にしつつ、ベルグレッテが居住まいを正して級友たちを見渡した。
「ではこれから、『空賊』ことムシュバを撃退します。作戦を立てましょう!」