580. 賑々しく道中
――『フュロトディートス』。
このところ学会を賑わすこの言葉をご存じだろうか。
民俗学に造詣のある方ならば耳にしたこともあろうが、古来北方の言語で『完全なる者』を意味する単語である。
大陸歴より以前から、男女両方の身体的機能を兼ね備えた人類がわずかながら確認されており、彼らは詠術士としても極めて高い能力を備えていたという。男性と女性、双方の特徴を併せ持つことから、合一者とも呼称された。
その起源は北海を超えた先に広がる超大陸であるとの説が濃厚で、彼らを一つの民族として括り、フュロトディートスと呼称するようになったのは百年ほど前のこと。
現在、誰もが知るゴーストロアとして語られるエリュベリムも、このフュロトディートスなのではないかとの見方が生まれている。
(……両性具有、とかそういうのか?)
難解な言葉で考察を深めていく以降のページにはついていかず、流護は紙束をいくらか雑にめくる。
――伝説の怨魔を特集する、第九回となる今回は『黒砕』ライ・ビクローミス。
『終天を喰らう蟒蛇の王』ヴィントゥラシアに呼応して現れた強大な怨魔の一体にして、大地の覇王。
その雄大な姿は黒い岩石を繋げて構成された四足獣のようで、鼻先には凶悪かつ豪壮な一本の角が屹立する。あまりに威風堂々とそびえるそれは『天衝』とも呼称され、軍旗のごとく高々と掲げられたその迫力を前に、人々は戦わずして「勝てるはずのない相手だ」と心を挫かれるほどだったという。
胴体は分厚く、四肢は短く太い。筋肉の集合体とも表現できるその外観は、全ての存在に威圧感を与えるとされる。
途上に立ち塞がるもの全てを圧壊して突き進むことから、陸の海嘯とも呼称される。
旧時代、戦地に赴くガイセリウス一行を見送ったグラッテンルート帝国は、この怨魔の出現により要衝の六割を破壊され、甚大な損害を被ることとなった。
帝国必死の抗戦によりどうにか撃退することに成功するも、この怨魔の死体が確認されたという記録は存在しない。
古の大戦を生き抜いた『黒砕』は今もどこかで息を潜め、傷が癒えるその時を待っているのかもしれない。
そう、怪物の寝息が聞こえてはきませんか? あなたのすぐ後ろから――
(まーたすぐあなたの後ろにいたがる……)
息をついた流護は『とても怖いゴーストロア』と記されたその表紙をパタリと閉じ、本を脇の小棚に積んだ。ちなみにミアの私物である。
――ミディール学院を発って三日。今日も今日とて西進する馬車の中にて。
初の修学旅行、否が応にも盛り上がることは確か。
しかして人は、慣れる生き物である。
そして、慣れは転じて飽きへと繋がる。
「むにゃむにゃ……眠くなってきちゃったよ」
「何を今更。寝てばかりじゃないですか、貴女は。あーも、私に寄りかからないでくださいっ」
隣り合って座るミニマムコンビのミアとクレアリアが、学院にいる時と何ら変わらないやり取りを交わす。
ざっと皆が座る座席を見渡せば、エドヴィンはふんぞり返って寝息を立てているし、レノーレは本を読んでいるし、ダイゴスは瞑想しているし、ベルグレッテはわざわざ持参したらしき教本に目を通して自習中だ。
「ねえ、流護」
そして隣の彩花が話しかけてくるが、
「暇だね」
「ああ、暇だな」
そういうことである。
「ほれ、次はお前の番だぞー」
「ドロー……って、俺の負けかー」
「ほい。そいじゃ、もうひと勝負なー……。ふわー……」
同乗している他の生徒たちも、教室で休み時間を過ごすような弛緩した雰囲気に浸っている。
最初こそ未知の体験にワクワクしていたのだろうが、馬車で移動するだけの日々が続けば緊張感も薄れるというもの。移ろってゆく外の景色も、基本的には代り映えしない。
「流護。じゃあ、しりとりでもする?」
「してどうする」
「じゃあ、愛してるゲームする?」
「何でそんな罰ゲームみたいなことをしなきゃなんすか?」
流護と彩花が虚無に等しい会話を垂れ流していると、対面席のミアが木の実を見つけたリスみたいな顔でこちらに注目してきた。
「い、いまアヤカちゃんが、リューゴくんを愛してるって……!」
「ほう」
何が「ほう」なのか、クレアリアも興味深げな視線を寄越してくる。なぜか偉そうに腕組みをしつつ。その様は選手を見守る監督のようだ。
「ああ、違う違う! 愛してるゲームだよ。ゲームねゲーム。二人で、かわりばんこに『愛してる』って言い合うの。それで照れたり動揺したりしたほうの負け、って感じで」
「そうなんだ……」
彩花が説明すると、ミアが分かったような分からないような返事を残す。餌だと思ったらただの小石だった、みたいな期待外れの感じで。
「その行いには何か意味があるんですか?」
「へ? いや、まあ、暇潰し……というかで……」
真顔で『らしい』指摘を入れてくるクレアリアに対し、彩花は消え入りそうな声で答える。
一拍の間を置いて、ミアがハッと目を見開いた。
「ねえねえベルちゃん! あたしと愛してるゲームしよー!」
喜々とした表情で、今日は通路向かいの席に腰を落ち着けている少女騎士にそう呼びかける。
「は? させませんが?」
クレアリアが血走った目で即応、当のベルグレッテは「いきなりなんの話?」と小首を傾げていた。
怨嗟にまみれた夜叉のような表情でミアの首に手をかけるクレアリア、襲われて断末魔の悲鳴を上げるミア。その賑やかさに当てられ、ベルグレッテ側の席で寝ていたエドヴィンがビクンと反応する。
「フガッ、……ウーン……何だよ、何の騒ぎだよ。うっせーなー……」
寝ぼけまなこをこする『狂犬』に対し、向かいに座るレノーレがいつも通りの静かな視線を送った。
「……何だよレノーレ、何見てやがる」
「……エドヴィン」
「あぁ? んだよ」
「……愛してる」
ガゴン! と凄まじい音がした。
驚いたエドヴィンが盛大に跳ねて、備え付けのトレイに膝を打ちつけた音だった。
「ッ痛ゥウゥアァ! な!? 何! え? バッ!? イヤ!? バカ! 言ってんじゃ!? ねーよ! よせ! ダメ! は? はアァ!?」
バダルノイスで追われる身になった際にすら見せなかった狼狽ぶりである。
「ふむ。あのようになったら負けということですか?」
ミアの頭を小脇へ抱え込んだクレアリアに冷静に問われ、彩花は「あっはい……」と押されるように頷いた。
「ちょ、ちょっとレノーレ。遊びにしても、やっぱりそういう言葉を軽々に言うのはよくないわ……」
「あ、遊び!? 何が起きてんだよ!? 俺は弄ばれてんのか!?」
堅物さんなベルグレッテ、まだ事態が把握できていないエドヴィン。そして瞑想中と思われるダイゴスが、口元だけをいつものように「ニィ……」と不敵に笑ませる。
「愛してるゲームのせいでめちゃくちゃになっとるが」
「いや、まさかこんなことになるなんて……」
現代日本出身の少年少女は、一歩引いた位置から異世界の学生たちを眺めるのだった。