578. 西へ
――かくして、翠緑の月は二十日。
修学旅行当日がやってきた。
時刻は午前七時。朝特有の澄んだ空気が満ちる中、正門前に集う三年生は総勢八十三名。家庭の都合などにより不参加の生徒が若干名出たものの、それ以外は全員がこの場に集まっていた。不安などが理由で参加を辞退した者はいないらしい。
それぞれ大きな袋や鞄を手にした、制服姿の三年生。遠出ということで、色々と衣蓑がついた外套を各人纏っている。
彩花も彩花で、しっかり高校の制服に身を包んでいた。これが正装との主張は未だ変わっていないらしい。
朝もまだ早い時間帯だが、眠たげにしている者はいない。どころか、誰も彼もが目を輝かせている。
「一睡もできなかったよ……」
「お前もか……俺もだ……」
「俺、よその国なんて初めてだよ。王都とディアレーぐらいしか行ったことないのに」
「勝った! おれはブリジアにも行くし」
「どっちもどっちだ。大概みんなそんなもんだろ。けど、バルクフォルトかぁ。目的地は、帝都バーグリングヒルだっけ。どんな場所なんだろうな?」
「何でも、どでかい闘技場があるらしいよな。そこでよく、レヴィンが演舞を披露するんだろ」
「ちょっと! レヴィン様って呼びなさいよ!」
「そうよそうよ!」
「はぁ!? 何だよ、いきなり話に入ってくんじゃねえよ女子ぃ!」
「リューゴくん、ケツの良さが一段と増したよな……」
まさしく浮き足立っている、という状況である。
誰も彼もが、まだ見ぬ異郷に胸を弾ませている。
「あぁ、大丈夫かなぁ……皆が大丈夫って言うから参加することにしちゃったけど、隣の国までなんて、やっぱり不安だなぁ……」
「何だよアルヴェ、ビビってんのか?」
ベルグレッテたちの級友である気弱なアルヴェリスタと、ヤンチャな悪ガキ感のある少年ことステラリオも。
「いやー、楽しみだねぇ。バルクフォルトったら景気の良さよ。商売のネタとかもありそうだしね、一丁勉強させてもらいますかぁ。きひひひ」
「あー。マデリーナは商売人の鑑だねー」
勝気な姐御肌にして王都でも名高い商家の娘マデリーナと、ぽやぽやしていながら通信術の腕前は随一の少女エメリンも。
「存外に落ち着いとるの、エドヴィン」
「ヘッ、今や俺も国外経験者だからよ……周りの浮かれた奴らと一緒にしてもらっちゃ困るぜ。にしても、バルクフォルトか……ダイゴスは行ったことあんのか?」
「いいや、これが初じゃ。レフェとしては、レインディールを挟んだ向こう側に位置する国じゃからの。横並びの三大国と称されはするが、訪れる機会はそう多くなかろう」
いつもの男二人は普段通りの佇まい。ダイゴスは元からとして、エドヴィンにも余裕が感じられる。バダルノイスでの経験が糧となったのかもしれない。
「……ベルは、よく招かれてバルクフォルトへ行ってるんだっけ」
「そうね。でも昨年は行けずじまいだったから、二年ぶりになるわ。レノーレは初めてよね?」
「……うん。……楽しみ」
バダルノイスの一件を体験してきた流護としては、ベルグレッテとレノーレが以前通りに並んで会話しているのも本当に感慨深い。
「うーん! あたし、よその国なんて初めてだよ~!」
「全く……今からそんなにはしゃいでたら、もちませんよ。到着まで何日もかかるんですから」
ミニマムコンビなミアとクレアリア。特別な初の催しということで、本来は姫付きの時期となるクレアリアもこうして参加している。
して、そちらへうっとりとした視線を向ける存在が一人。
「はー、テンション高いミアちゃんかわいい……。マントが大きめで、マントに着られてるみたいでかわいい。リュックの紐を両手でぎゅっと握ってるのも遠足の小学生みたいでかわいい。カゴの外に出してもらって喜んでるハムスターみたいでかわいい……。カゴに戻して、しょんぼりしてるところを慰めてあげたい……」
「いちいち欲望がサイコなんすよねぇ……」
恍惚とした彩花を流護が引き気味に評するうち、クレアリアがササッと姉の傍らへ回り込んだ。
「……ところで姉様。『あれ』は……?」
「……ええ。きちんと肌身離さず持ってるわよ」
人目を憚るようにガーティルード姉妹が囁き合った矢先、
『はーい皆さん、注目ー! 静かに静かにー、おはようございまーす』
通信術で増幅されたナスタディオ学院長の挨拶が校庭に響く。
皆が雑談を切り上げ注目すると、校門前に声の主が進み出た。いつもの白衣姿ではない、冒険者風の装い。存外にその格好が似合っているというか、こなれた雰囲気がある。
『というワケで三年生諸君、いよいよ修学旅行の日がやってきました! 昨夜はちゃんと寝れましたかー? 前例のない初めての試みとなりますが、是非とも無事成功させましょう! 行路についてですが、まずはディアレーを経由し、いくつかの街で補給や宿泊をしつつ、西の国境ガービッドの街を目指します。高速馬車による街道の走行となりますが、予期せぬ危険に遭遇する可能性もあります。ちょうど先日、カダンカティア近郊の街道にヴィゾフュールが現れた、なんて話も聞きました』
その言を聞いて、わずか場がざわつく。
「ヴィゾフュールだって? いくらなんでも嘘くさいな……」
「そりゃそうだ。見間違いだろ。そんなのが本当に出たら世も末だよ……」
隣の彩花が、ぽんぽんぽんと流護の肩を叩く。
「びぞふゅーる、ってなに?」
「さあ? ま、何かの怨魔だろ」
彩花がたどたどしく尋ねてくるが、流護とて脳内に怨魔補完書が叩き込まれている訳ではない。というより、知らない個体のほうが遥かに多いぐらいだ。周りの反応からすれば危険な相手なのだろう。
「ま、お前は何も気にしなくていい。もし出てきたら、俺が倒すだけだから」
「まぁたそんなこと言って……」
『というワケで各自、道中馬車内では思い思いに過ごしてもらって構いませんが、不測の事態にも対応できるよう気は抜かないように。ではひとまず西へ向かい、カードルロアの街で休憩とします。お閑所は今のうちに済ませておきなさーい。それじゃ準備ができた人から馬車に乗ってー。さあ、西の都と海とおいしいお魚が私たちを待ってるわよー!? おらぁ行くぞ皆の衆、準備はいいかぁ!? いざ! 我らに創造神の加護があらんことを!』
学院長が拳を高々と突き上げると、生徒らが一斉に呼応した。
オオォォォ、と地鳴りめいた鬨の声が上がる。
「うわ、すご、すご……」
わたわたする彩花。
「はは。こういう盛り上がりって、やっぱ日本人には馴染みないよな」
陽気な民族性ゆえの一体感というか、熱気というか。乗っかりこそしないものの、今となってはこうした空気にも慣れた流護が苦笑する。
「他の学年が学生棟からめっちゃ見てるしな」
「ほんとだ……」
奥の学生棟の窓から、他学年の生徒たちがひょっこりと顔を出している。初の修学旅行が珍しいことは元より、朝っぱらからうるさいのも一因かもしれない。
そうして、新三年生たちが続々と行動を開始する。すぐさま馬車に乗り込む者、事前にトイレへ寄ろうとする者など様々だ。
流護は、生徒を見送るために集まった教員たちの列へと歩み寄った。そこに交ざる人物に声をかける。
「んじゃ行ってくるっす。何か欲しいお土産とかあります? ロック博士」
「いやあ、ボクのことは気にせず楽しんできなよ。お土産というなら、土産話を楽しみに待ってるさ」
よれよれ白衣姿の研究者が頷く。この催しに『修学旅行』と命名したロック博士だが、自身は同行しない。そもそも学院の教師ではないし、何より例の魂心力結晶を用いた商品開発が着々と進んでいる。その計画の中核とも呼べる存在である博士は今、レインディールでも一、二を争う多忙な身だ。
「キミたちが帰ってくる頃には、商品開発もまた一段と進んでると思うよ」
「それはいいけど、無理しないでくださいよ。ほっとくと延々作業してそうだから」
「はは、大丈夫大丈夫。流護クンはすっかり旅慣れたみたいだけど……彩花ちゃんも気をつけて。皆がいるから大丈夫だとは思うけど、怪しい人についていったりしないようにね。こないだの一件もあるからね、一人にはならないように」
「もう……そんな、小さい子じゃないんですから平気ですっ」
「偽兵士に騙されそうになった奴が言っても説得力ないからな」
「あれは……あんなん、しょうがないじゃんっ」
「開き直んなや……お? ミアが俺らに向かってめちゃくちゃ手ぇ振ってる」
「うわ。はい、かわいい」
「んじゃ博士、行ってくるっす」
「うん。行ってらっしゃい」
親愛なる年長者への挨拶もそこそこに、流護と彩花は馬車の乗降口でぶんぶんと手招きをしているミアの元へと向かう。
「はー。馬車の旅なんて、私……大丈夫かなぁ」
「もし酔ったらベル子に言えばいい。背中さすりながらヒーリングしてくれるから、かなり楽になるぞ」
「……大丈夫だもんっ」
「何だよ、情緒不安定かよお前……」
なぜかいきなり不機嫌になる彩花に困惑しつつ、皆が待つ馬車へ。
「うーわ、すご! 馬っ、筋肉ムキムキ! 流護みたい!」
「あ? 俺が馬面って言いたいのか? 初耳なんすけど」
「や、違うってば。筋肉が」
「大人数乗せるでかい車両だからな……こういう馬車のために専用で育てたんだろうな」
怨魔も顔負け、といった悍馬が一台につき三頭、横並びで発進の時を待っていた。どこまででも連れていってくれそうな頼もしさを感じる。
あとはそんな馬車に乗り込むだけ――なのだが、校門の出口にて、彩花がピタとその足を止めた。
「何だ、今度はどうした」
「…………うん。……今、こんなに賑やかだけど……あの日……」
校門前の風景を前にして、ふと脳裏をよぎったのだろう。
迫り来た刺客たち。繰り広げられた、凄惨な殺し合い。
今はそんな場に、百名近い人数がひしめいて賑わっている。ギャップを感じても無理はない。
「そんなこと言い出したら、この世界はどっかしらで誰かが死んでるからな。気にしたらキリねえぞ。そこかしこ全部曰く付きの心霊スポットになる」
「い、いやそんな……」
「あー、俺がいるからお前はもう大丈夫だっての。おら、早く乗れっ」
「っ、わ、押さないでよっ」
「アヤカちゃん、こっちこっちー!」
「あ、ミアちゃん……、うん」
奥の席で手招きするハムスター娘の下へ、彩花が寄っていく。こんな時、ミアの持ち前の明るさは助かる。
さて目指すは西の大国、バルクフォルト帝国。その中心地たる帝都、バーグリングヒル。レインディール王都に勝るとも劣らぬ大都市だという。
そして目的は、同じ神詠術専門学校であるリズインティ学院三年生との交流。
流護は道中や現地における、生徒らの護衛を請け負う形となる。
「んじゃ、行きますかね……!」
かくして、異世界における初めての『修学旅行』の幕が上がるのだった。
第十四部 完