573. 暴性
ご機嫌で赤絨毯の廊下を闊歩していたナインテイルは、眉をひそめて視線を横へと滑らせた。道端のゴミ捨て場へ目を向けるように。
「……なぁに? 物乞いのように、そんな場所に腰掛けて」
二階へと続く階段。
その段差に座り込む男が一人。
青みがかった短い髪を逆立てた、年若い痩身の青年だった。年齢は二十前後。こけた頬と妙にギョロリとした青黒い両眼が特徴的な、世辞にも美形とはいえぬ鋭すぎる面立ち。両耳には銀のピアスをあしらっており、右の耳たぶを執拗に撫でている。
一見すれば、路地裏でたむろしている悪童の一人にしか見えない風貌。正直、このような格調高い屋敷には似つかわしくない存在。
だが、この屋敷内で……オルケスター内で、この人物を知らぬ者はいまい。
――四名からなる殲滅部隊の一角。
その名を、ディレード・フォルドール。
「カカカ……大変だよな、『追われる者』ってのはよぉ~~」
ディレードの喉からは、見た目から想像できる通りの甲高い声が発せられる。リチェルのそれとは対極に位置する、品性も知性も美しさも欠落した下品な声音だ。ナインテイルはそう寸評を下している。
こうして顔を合わせたのは、どれぐらいぶりだろうか。不本意ながら、屋敷を訪れる機が重なってしまったらしい。
「私に話しかけているの? 貴方」
小蠅にまとわりつかれた心境でナインテイルが問いを投げると、ディレードが「カカカ」と喉を鳴らした。
「今ァ! この場にィ! お前以外、誰もいねぇ~じゃねぇかよ~。スッとぼけるんじゃねぇゼ」
「そぉう。貴方みたいに頭の弱そうな輩は、虚空に向かって話しかけていても何ら違和感がないものだから。失礼したわ」
「分かるゼ。いっぺん最強だなんつって祭り上げられちまうと、引っ込みがつかねぇよなー」
「何の話をしているの? 貴方は」
階段にだらしなく座したままの男が、歪に口角を上げる。
「――お前。仕留め損なったんだろ? ディノとかいうヤツをよ」
ナインテイルは物言わず、あえてディレードの次の寝言を待つ。
「敢えて見逃してやった。そういう『テイ』。リチェルもいずれぶっ殺して差し上げますわよ~。そういう『姿勢』。細けぇ『公報』に熱心なこった。大変だな、最強の評判を地に落とさねーよう立ち回り続けるってのもよ? 疲れんか? 無理はカラダに良くねぇゼ。カカカ」
「で? そういう貴方は、自分がその最強に成り代わるとでも言いたいのかしら?」
「おー、そうだな。それも悪かねぇ。お前さえ良ければ、いつでも変わってやんゼ?」
「フフ。貴方こそ、見た目に似合わず堅実な保険を掛けるのね。何のかんのと言っても、私たちが潰し合う訳にはいかない。それを理解したうえで、無意味な挑発を繰り返す。絶対に牙や爪を受けることのない安全圏から、鉄柵の向こう側にいる猛獣へ野次を飛ばす。格好がいいわね」
「いぃや? 俺様は別に構わんゼ? その鉄柵とやらをブッ壊しちまっても」
「あぁら。じゃあ、そうしようかしら? 貴方がいなくなったところで、私がその分まで働けばいいだけの話だものね」
同時だった。
ナインテイルの指先から粘性を帯びた闇が発生したのと、ディレードが雑に薙ぎ払った右腕から『爆発』が発生したのは。
乾いた残響。互い相殺した力が、虚空に振動のみを残す。
美醜でいえば平均以下なディレードの顔には、してやったりと言わんばかりの笑み。
(――――醜男が)
小賢しい。優しく撫でてやろうと思えば、ムキになって手を払ってきやがった。これだから品のない子供じみた男は嫌いなのだ。ついでに何だ、その不細工な面は。潰れたカエルみたいな顔をしやがって。
次は強めに行く。明確に『小突く』。死んだらそれまで。
ビシ、ビキと己の顔に力が滾るのが分かる。ぶわ、と黒い粒子が周囲に漏れ出る。
ディレードが「カカカ」と下品に喉を鳴らす。
「――おォっとお漏らししてんぞ『冥流』がよぉ! そしてそう! そのツラだ、クソノッポ女ァ!」
互い振るう右腕と右腕。
「お前ら。何をしてる」
唐突に割って入ったのは、静かな男の声だった。
叩きつけようとしていた両者の腕が、それぞれ相手に接触する直前でピタリと止まる。黒い空気も、気勢を削がれたかのように散逸していく。
まさに二人が向かい合って挟んでいる階段を、静かに下りてくる人物が一人。
白い肌、七三に分けて整えた短い金髪。細く吊り上がった三白眼と、のっぺりとした鼻梁。無造作に横線を描く薄い唇。十二分に美形と呼べるが、どこか爬虫類を思わせる冷たい容貌の男。汚れ一つない純白の礼服が、その痩躯をカッチリと包み込んでいる。
ナインテイルは、その相手の姿を確認するなり極上の笑顔を送った。
「ご機嫌よう、団長ぉう。ディレードが構ってほしそうだったから、ちょぉっと触れ合ってあげたの」
「そーそー。ナインテイルちゃんがどこぞの男にフラれたとか何かでよ、代わりにこの大らかな俺様が慰めてやろうと思ってたとこよ。カカカ」
階段を下り切り、両者の間に立つ形となった団長――クィンドールが、溜息をひとつ。
「仲が良くて結構だ。が、ここで乳繰り合うのは勘弁してもらおう。そこの絵も、この絨毯も……合わせりゃ、こないだのバダルノイス風情が傾く程度の値打ちはあるんでな」
クィンドールが顎で示した先の壁には、どこでも見かけるような風景画が飾られている。実際に踏み締めている柔らかな絨毯はまだ高級品だと分かるが、その絵に他と比べてどれほどの違いがあるのかナインテイルにはまるで理解できない。
そんな態度がありありと表れていたためだろう、団の長はわずか苦笑する。
「ま、言いたいことは分かる。だが、絵の巧拙は問題じゃねえ。大事なのは、『誰が描いたか』だ。そいつは百年前に名を馳せた変わり者の画家の作でな、だから高価い。作者が死んで新作も出ん以上、値上がりこそすれ落ちることはない。エゲン兄弟に言わせりゃ、『クソくだらん風潮』ってヤツだ」
「それは彼らの言う通りだわぁ。上手い絵に価値が付くならまだしも……この程度のものにそんな値打ちがあるなんて、馬鹿げてるわね」
カカカ、と不快な笑い声が届く。
「おー、全くだゼ。『強さ』にも同じことが言えるよなぁ。本当に強ぇ奴こそが、真に恐れられる存在じゃなきゃいけねぇ」
目を薄めたディレードが、衣蓑に両手を突っ込んで歩き出す。と思いきや、首だけをグルンとこちらへ後ろ向ける。
「一つ、簡単に証明する手段があったゼ。お前さんが殺り損ねたディノとかいう野郎よ、俺様が喰ってやろうか?」
直接殺し合わずとも、ナインテイルが仕留め切れなかった相手を始末する。それによって、自らが上だと証明する。
――脳の隅まで闘争行為に染まっている阿呆の考えそうなことだ。
「お好きにどうぞ。出来るのならね」
「え!? 出来! ないと! お思いですかァ!? たかがその辺の『ペンタ』をよぉ~? どんだけ俺様を嫌いなのよ、お前さんはよ~~」
ナインテイルがこの上ない笑顔を返すと、喉で笑ったディレードが奥の玄関へと向かっていく。
「あー腹減った。メシ食って来るゼ」
「俺も出る。これ以上、騒ぎは起こすなよ」
「はぁい」
「おー、一緒に行くか? 団長~」
「遠慮する。誌商にでも見られたら面倒だ」
「カカカ、別にいいっしょ。どうせアンタ、後ろ暗い噂まみれなんだからよ。もっと大らかに行こうゼ~」
遠ざかっていく両者の背中を見送ったナインテイルは、二階で昼寝でもしようかと階段の手すりを握った。
その指先に、にわかな違和感が走る。
「――」
視線を落とすも、目に見える傷はない。単純に、先ほどの激突……その衝撃の余波が、手を痺れさせていた。
「ふん」
振り返るも、そこにあの不快な男の姿はとうにない。
(……水遊び好きのションベン野郎が)
ディレード・フォルドール。
扱う属性は、水。
にもかかわらず、今のあの男は不可解なまでの『爆発』を引き起こすことができる。
(……『板についてきた』……ってとこかしらねぇ)
言うだけのことはある。
粗野でその辺の小悪党みたいな安っぽい男だが、元より実力は間違いなかった。
組織内で明確に自分に盾突いてくる人間など、他には一人もいない。テオドシウスとのじゃれ合いとはまた訳が違う。そして少なくとも、ナインテイルは出会ったことがない。今のディレード以上の水属性の使い手に。
仮に、ディノがあの男と対峙すればどうなるか。
(…………。成就しない恋……、それも切なくてステキね)
少しだけ惜しい気持ちになりながら、しかしそれで終わるのならそこまでの関係。
そう割り切ったナインテイルは、失恋したような気持ちで二階への階段を踏み締める。
かすかに漏れ出た『冥流』が、同情するかのようにふわりと儚く漂って消えた。