572. 悟性
屋敷の広間に入ると、こちらに気付いたその女性が座っていたソファから腰を浮かした。
「……リチェル……! 戻ったのですか……!」
メガネ奥の茶色い瞳を見開く彼女は、オルケスターの秘書たるリンドアーネ・カルフェスト。組織内でも飛び抜けて慎重派かつ心配性な秘書官に、リチェル・ヴェーレは隠しもしない溜息を返す。
「ええ。遊びに出た子供じゃあるまいし、帰ってきただけでそんなに驚かれるのは心外かと」
「……驚きますよ。こんなものが出回れば」
深い息とともに座り直したリンドアーネが、ガラステーブルの上に置いてあったそれをパンと手のひらで叩いた。
「……ああ、」
納得、とリチェルは頷く。
それは、一枚の尋ね書き。
「驚くほど似ていて、僕も感心した。いい絵師がいるね」
「感心してる場合ではないでしょう……。目を疑いましたよ」
ここは国境も近い、エファールク最南端の街。行商あたりから入手したのだろう。少なくとも、レインディールでないこの地では何の意味も持たない紙切れではあるが――
「こんなものが出回った以上……しばらくの間、あなたはレインディールに近づけませんよ」
「問題ないかと。もう、近づく用事もない」
断じ、白髪の青年はドカリと対面のソファに腰を下ろす。
「カヒネは?」
「自室で休んでいますよ。あとで、顔を出してあげてください」
「ああ、そうしよう。……ふっ、くしゅ!」
「おや。あなたが人目も憚らずそんなくしゃみをするだなんて、珍しい」
「……ああ。少しばかり、『冷たい風に当てられた』ものでね……」
荷物を置き、外装のボタンを緩めたリチェルは、ハァと憂鬱な息を吐き出す。悪化すれば風邪ぐらいは引くかもしれない。『なるほど、改めて強敵だった』。首元のマフラーを引き上げる。
「そうだ。書記官殿に怒られなければならないんだった」
「私が怒る? 何です?」
キリリとメガネの縁を押し上げるリンドアーネの様子は、まさしく堅物女といった言葉がよく似合う。必要とあらば望み通りたっぷりと怒ってやろう、という気概が溢れている。
「今回、後始末にガードンゼッファ兄弟を使うと知らせたけど……おそらく、彼らは死んだ。はっきりと確認できた訳ではないが」
「何ですって?」
怒りよりは困惑といった表情で、書記官が眉を動かす。
その状況について、リチェルはかいつまんで己の知る限りの状況を説明した。
遊撃兵らを遠ざけ、確実にそこを突いたこと。しかしおそらく失敗。そして公布された尋ね書き、こちらを捕捉してきた『銀黎部隊』……。
「……、『銀黎部隊』の一員と……、まさか、そのようなことになっていたとは」
「問題はなかった。強かったけどね、やはり常識の範疇を出るようなものではないかと」
始末してしまったことで相手の警戒も深まるだろうが、一方で向こうの力量を知るいい機会になったといえる。
(あの程度なら……僕らの障害にはなり得ない)
特に、自分たち殲滅部隊、そして双璧の二強はもちろん、それ以外の上位陣も。
相対するにあたり、不安はないことが確認できた。それだけでも無駄ではなかった。
「……、しかし妙ですね。学院生程度に、あのガードンゼッファ兄弟が後れを取るはずもありませんし。……それにしても」
リンドアーネのジトリとした視線が、メガネ越しにリチェルを射抜いてくる。
「なるほど、ミュッティが言った通りでしたね」
「彼女が? 何を言ったと?」
「あなたは、カヒネのことになると目の色が変わるから不安だと。確かにあなたらしくもない、いくつかの痕跡を残すことになったようで……完璧とはいかなかったようですね」
「いや」
大股で腰を落ち着け直したリチェルは、迷わず言い放った。
「カヒネがかかわることだからこそ僕は終始冷静だったし、考えられる限りの手を打ったつもりだ。ただ……おそらく、『彼女』……ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードが、思索の末に僕を追跡させた」
この短い期間でリチェルの顔までたどり着く手際。『銀黎部隊』や兵士たちへの根回し。彼女の仕業と考えて間違いない。
テーブル上の尋ね書きに視線を落としながら告げると、リンドアーネはわずかに息をのんだようだった。
「……ミュッティも言っていました。彼らの中で、最も注意すべきは……遊撃兵の少年ではなく、あの護衛騎士の少女であると」
「成程……。バダルノイスの一件についても聞いてはいたが、あながち大袈裟な話ではないようだ。少し興味が湧いたね」
わずかな痕跡や状況を見逃さず、少なくともリチェルの間近までは迫った。今までにない、『智』の領域において自分と並び立ち得る頭脳……。
(こんな似顔絵を作るぐらいだ。カヒネの顔も精巧に再現されているだろう)
想定外ではある。が、問題はない。
「ところで、ミュッティといえば……彼女はどこに?」
ふと、話題が出たことで思い立つ。
彼女は屋敷に滞在時、この居間で暇そうにふんぞり返っていることが多い。
リンドアーネが「ああ」と淡い微笑みで応じる。
「彼女は、そろそろ『お仕事』の時期だそうですよ」
リチェルも「ふむ」と得心する。
「そうか、もう春だったね。そんな時期か……」
……ミュッティとリチェルには、『表向きの顔』というものが存在する。
(……おかしなものだね)
もう、『終わり』は見えている。
それなのに――彼女も自分も、未だ表の顔を捨てることなく活動している。
もっともこれは、自分たちに限った話ではない。そういう者は多く組織内に存在している。目の前のリンドアーネとて、ライズマリー公国の宮廷詠術士だ。
しかし彼女や団長たちは、ジェイロム商会の人間として……オルケスターの資金を調達するために必要があってそうしている。
一方、リチェルとミュッティは違う。『表』を廃業してしまっても資金面で大きな影響はない。むしろ、オルケスターの秘匿性を考えたなら辞めてしまったほうがいいほどだ。
(……じき、『彼女』の下へ赴かなければならないというのに)
それは、時折ふとした瞬間に頭の中に浮かぶ矛盾だ。表向きの立場など、いずれ全て無意味なものとなる。であれば、今この場で放棄してしまっても構わないはずなのだ。それなのに、未だこうして……。
――直後。青年の思考にたゆたっていた感傷的な気持ちは、千々に霧散する。
激烈なまでの不快感によって。
「あぁら、リーチェル。久しぶりねぇ」
思った以上の至近から、その声は浴びせられた。
若い女の。どこか品格を感じさせる、耳障りのいい。しかし――どうしようもなくおぞましい、闇のような負を内包した声色が。
ふわりと漂う、やや強い香水の芳香。そして。
「――」
視界の端をよぎる、闇。
黒く染まった空気が、蒸気のようにリチェルの傍らを漂って消えていく。
……振り返らず、リチェルは全霊の意識のみを背後へと集中した。
「…………いつ戻ってきたんだ? ナインテイル――」
ソファの背もたれ部分が、わずかに押し凹む。女が手をつき、体重をかけたのだ。
「ん~……先週……だったかしら? 久しぶりにこの屋敷へ戻ってきたけれど、少しだけガッカリだったわ。貴方がいないって聞いて」
「先週? いなくて当然かと。カヒネの捜索は、全構成員の責務だったはずだが。君は何をしていた?」
「だって私、あの子とお出かけなんてしたことないもの~」
……いつもそうだ。
この存在は、際限なしにリチェルを苛つかせる。
「ねぇリチェル。こっちを向いてよ。ふふ、照れてるの?」
ふーと息を吐いたリチェルは、立ち上がりざまその要求に応えてやった。
目と鼻の先で、向かい合う。
自分とそう背丈の変わらぬ女。どこか生気の失せた白い素肌。やや離れがちな造作の切れ長な瞼から覗く、二つの漆黒の瞳。白いワンピースに身を包んだ、しかし清廉や純真といった形容からはおよそ程遠い、異様な気配を従わせた存在。
「相変わらず、いい男ね」
紅を差したナインテイルの唇が、異常な角度をもって喜を象る。
女、としてではない。その笑顔は、完全な『獲物』に向けられるそれだ。
「そういう君は、よりおぞましさを増したように見える。対峙しているだけで粗相してしまいそうだよ」
改めて面と向かって、断言できることがあった。
例えこの世に残る人類が自分とナインテイルの二人だけになったとしても、『間違い』は起こらない。そのまま迷わず滅びを選ぶ。それほどの、隔絶した相手。迎合できない異質だと。
「どんなにお利口さんでも、女性の扱い方はてんでダメよね。まあいいわ、そういうウブなところも素敵よ。ふふ、あなたはトクベツ」
クルリと踵を返したナインテイルが、半分だけ顔をこちらへと向けて。
「――――楽しみ。貴方は、『老いて醜くなることはない』んだもの。『刻限』なんて迎えさせはしないわ。その美しいままの死体を、私の思う侭にできる日が……本当に楽しみだわ。ふふふふふふふ」
ナインテイルの白い後ろ姿が遠ざかっていく。
「……」
確実にその存在がこの場から消えたことを確認し、リチェルはソファへと座り直した。
「……肝を冷やしましたよ」
かぶりを振ったリンドアーネが呻く。
「問題ないかと。まさか、こんなところで殺り合う訳もなし。彼女も、『冥流』を発してはいなかったろう? まあ、少しばかり漏れ出ていそうだったけどね」
弁じつつ、リチェルは無意識に手のひらを……滲んだ不快な手汗を下衣の膝部分で密かに拭った。
(……久しぶりに向き合ったが……未だ……)
こんなにも腹立たしいことはない。
殲滅部隊として絶大な力を得てなお、あれほどの代償を払ってなお、あの女から感じる圧力が和らぐことはない。
(…………こんな捻りもない安直な比喩をしたくはないが……、……怪物め)
ナインテイル。
ただその場に存在し、意識を向ける。それだけで、対象を害することができるほどの力。
彼女が強く感情を遷移させるとき、その全身からは黒い神詠術が漏出する。
物理的に光を遮り、全てを闇色に包み込むそれを、リチェルは冥き流れ――『冥流』と名付けた。
並の人間であれば、これに当てられるだけで心身に不調をきたす。
彼女が昂ればその密度はいや増し、敵を呑み込むおぞましい攻撃手段として機能する一方で、相手の攻撃術すら遮る強固な防壁と化す。
ナインテイルは普段、これを意識的に抑え込んでいる。
テオドシウスとの口喧嘩や、穏やかに『趣味』へ打ち込んでいる程度では発露しない。
が、ひとたび感情が激しく揺り動けばその限りではない。
喜怒哀楽。敵意はもちろん好意、果ては欲情であっても。全てにおいて、『冥流』は際限なく溢れ出てその場を席捲する。彼女の感情に合わせ、際限なく。
しかし、それらですら副次的な産物。ナインテイルが扱う本来の術の余波にすぎない。
彼女が明確な害意を抱いて『攻撃』を繰り出したなら――何が齎されるのかなど、もはや説明は不要であろう。
「全く、彼女の好意ほど遠慮したいものはないかと。第一、今はどこぞの男に入れ込んでいると聞いていたが」
「ええ……ディノ・ゲイルローエン、ですね。レインディールの『ペンタ』ですが、天轟闘宴で彼女のお眼鏡に適ったそうで」
「それはお気の毒に」
他人事ながら同情する。
ナインテイルに狙われるということは、もはや不幸な事故と同義。『ペンタ』であろうと例外ではない。
あの死体愛好家に惨殺され、慰み者として使われる末路を迎える。
リチェル自身、前々から標的だと宣言されているが、今は同じ組織に属し同じ未来を目指している『仲間』。今すぐどうこう、ということはない。何より、簡単に殺られてやるつもりもない。いざその時が訪れたなら、初めての生還者になってやろうと考えている。
「……それで書記官。これからどう動く?」
そんなことよりも、ひとまずカヒネの回収は完了。しかし彼女の捜索を優先したため、長い時間をかけて準備したバダルノイスの一件は、結果として見れば失敗に終わってしまった。
「……そうですね」
と、オルケスターの裏方を務める彼女は一呼吸置いて。
「まず……失敗したといえど、我々に一国家を掌握するだけの『力』があることは、バダルノイスの仕事で十二分に証明されました」
モノトラのような古参や、最高位の『創出』を実現するジ・ファールの臓器を失いこそしたものの、現状の組織の力量は計ることができた。
その前提を理解したうえで、リンドアーネは悩ましげに表情を曇らせる。
「……できれば、私としては……レインディールの魂心力琥珀を用いた商品開発を妨害したいと考えていますが」
つまり、かの国が原初の溟渤より持ち帰った結晶をどうにかする。
彼女は以前よりそう主張していた。
「……『眠り姫』も……目覚めてしまったのでしょう? それどころか、よりにもよってその人物がカヒネの名を知ってしまい……」
「ああ。消そうとしたけど、失敗した」
そして何の成果も得られないどころか、ガードンゼッファ兄弟という駒を失う結果になってしまった。
もっとも、この処置もあくまで念のため。カヒネを知られてしまったのでひとまず消しておこう、と考えただけだ。ガードンゼッファ兄弟も一流の戦力ではあるが、組織内には同等以上の使い手が揃っている。大した損害ではない。
ダメだったならそれで構わない程度の仕事ではあったが、リンドアーネとしては足がかりにしようとしていた『眠り姫』が目覚めてしまったことのほうが誤算だろう。
「書記官殿の嫌いなダーミーを使えば、魂心力琥珀を失わせることは成功するかもしれない。しかし……」
問題は、その後。
相手はなぜ魂心力の結晶を狙い、破壊したのか。
そこに焦点を絞り、嗅ぎ回られたらどうなるか。
リチェルが常々考える、『動機』の話になる。
「容易にたどり着くかと。業界最大手となるジェイロム商会……ひいては、その裏の顔であるオルケスターに」
商品開発を阻んだのは何者か? 業界首位を独走するジェイロムが妨害を仕掛けてきたのでは?
おそらく、こんな風に考える者は少なくない。そして、その低俗な邪推は残念なことに正鵠を射る。
「……ですが、かといって……」
「このままレインディールが業界に参入し、我々と鎬を削るようになれば……それはそれで不審がるだろうね。自分たちが魂心力結晶を用いて作ったモノと遜色ない商品を開発している、ジェイロム商会……この集団は一体何者なんだ、と」
つまりどの道、露見する。八方塞がり。
だが。
「書記官殿、それならそれで構わないかと」
リチェルが言い放つと、リンドアーネは目を見開く。
「ダーミーやヴァルツマンの言ではないが……時は来た、のかもしれない」
「リ、リチェル……あなたまで、そんな……!」
「もちろん、積極的に事を構えようとまでは思わない。ただ……仕掛けられたなら、いつでも応戦する。受けて立つ。そのぐらいの心構えは持っていていいのかもしれない、という話さ。いつそうなってもいいように、ね」
オルケスター内に少なくない。
かの獅子の国と干戈を交えるかもしれない状況に、昂っている者たちは。
そして、
(僕も、か)
ただ、他の者と異なるのは。
純粋なる力と力の激突、ではない。そんなありがちで野蛮な行いに、楽しみなど見出しはしない。
思うのだ。人とは、もっと高次で知的な存在であると。何しろ、他にいない。これほど思索を巡らし、試行錯誤し、思い悩む生物は。
(面白いじゃないか。ここからどう交錯する? 凌ぎ合う?)
同類、と表現できる。
期待を抱かずには、いられない。
(ベルグレッテ・フィズ・ガーティルード……君なら、ここからどう動く? どう僕たちに立ち向かうんだ……?)
類稀なる智慧を宿すであろう、その人物に。