571. 新学年
翠緑の月、六日。
かくしてミディール学院では、新学期が始まった。
四年生が卒業し、新一年生が入学。ベルグレッテたちは、二年生から三年生へと進級。総生徒数は、三百七名から十名増の三百十七名へ。所属『ペンタ』は三位のオプト死亡以降、四名のまま変わらず。一位と二位の顔すら分からないのも今まで通り。
先の二日には、リリアーヌ姫が十六歳の誕生日を迎え、王都で盛大な生誕祭が催された。
オルケスターの存在こそ気がかりだったが、さすがにまだそれで催しが中止となる状況ではない。第一そんなことになれば、大国レインディールがたかが犯罪組織を脅威に感じて縮こまっていますよ、と宣言するに等しい。
そうして『銀黎部隊』を始めとしたありとあらゆる戦力が監視の目を光らせる中、生誕祭は事件が起きることもなく無事に終了した。
そして――
「シッ!」
一歩踏み込んだ流護は、眼前の手製サンドバッグに向けて右ボディアッパーを一閃。続けざま腰を捻り、二発、三発と叩き込む。
連続して重い音を響かせた砂袋は、衝撃を受けたまま縦に持ち上がった。すぐに浮力を失って落ちたそれが、吊り下げられた紐に引っ張られる形でミシミシと太い木の枝を震撼させる。
「ふー……」
サンドバッグの揺れを押さえつつ、流護は額に滲む汗を拭った。
「そんな揺れ方するもんなの……?」
感心したような……あるいは呆れたような声を漏らすのは、傍らで座って眺めていた彩花である。
今日は昼の仕事のみだったため、暇を持て余しているらしい。
「まあ俺ぐらいになりゃ、こんなもんっすよ」
日課である夕方の鍛錬。
ミュッティやメルコーシア……打倒オルケスターの強者たち、と照準を定めた流護は、今まで以上に速度や攻撃力を増すべくトレーニングを続けていた。
(まだまだだ……)
二度とミュッティに先んじられないよう速さを。あの剛健で巧みなメルコーシアを沈めるために打撃を。そして多くの敵を長時間相手取るために、スタミナを。つまりは全体的に、もっと磨きをかける。もう後れを取らないよう、徹底的に。
中でも特に研鑽しなければならないのは、
(速さ、だ)
直近のバダルノイスにおいても、二度。
ミュッティと、そしてメルコーシア。
あの二人との対峙で痛撃をもらった流護は、ぶっつりと意識を飛ばされている。
本来なら、そこで終わっているのだ。
ゆえに、攻撃をもらわない。その部分をもっと意識する。でなければ……。
(……、……やっぱ気のせいじゃねえ。最近、目が……)
軽くまぶたをこする。
(…………)
……そういった調子の上がり下がりはともかく、モチベーションは高い。
(ディノの野郎も生きてやがったし)
巡り合わせ次第では、再度あの男と敵対することだってあるかもしれない。
(とにかく……俺が目指すのは『最強』。……別に、『空手家である必要はねえ』んだ――)
ジャブの二連打。打ちながら、頭を振る。身体ごと移動させる。一秒たりとも、同じ場所には留まらない。的を絞らせない。数え切れないほどこなしてきた、格闘技における基本――
「…………」
ぴたりと、足を止める。
「……流護?」
いきなり動かなくなったことを妙に思ってか、彩花が怪訝そうに名前を呼んでくる。
(…………ダメだ。俺はまだ、踏ん切りがついてない。『綺麗事』の延長で、どうにかしようと思ってる。ごまかそうとしてる……)
すぐ傍らにいる、この幼なじみまでもが命を狙われたというのに。空手家である必要はないと自覚しているにもかかわらず。それでもなお、『甘えようとしている』。
分かっているのだ。
このままでは、あいつらには勝てない。
だから、そろそろ『覚悟』を決めなければならない。
未だ手を染めていない、『その結果』に対する『覚悟』を。
「…………」
――天轟闘宴にて、あのエンロカクと対峙した時にも思ったこと。
少年の振るう武術には、原則として絶妙な力加減が存在している。それは決して、手抜きや手加減といった意味ではない。無意識下で働く抑止力とでも呼ぶべきか。おそらく、誰もが本能としてそういった感覚を備えている。それはきっと、荒事に慣れたこの世界の住人でさえも。
自分や相手の『明日』を考えた闘争。飽くまで敵を制し、押さえるための力。敵を倒すための力。
けれど、もう。
『綺麗な格闘』なんかじゃなく。
『ったくよぉ~……難しいよなぁ? 難しくねぇか? ちっとばかし力込めたら死んじまうアリンコをよ、潰しちまわねーように優しく摘まむってのはよぉ――』
そう笑っていた鈴の女。
――ああ。心底同意するぜ。
俺ももう、優しく摘まんだりしねぇよ。
動いた。
「――――――」
一歩。
右フック。
めり込んだ着弾点が、きゅぼ、と今までにない奇妙な音を発する。放ったのは人差し指を畳んで突出させた一本拳。想定位置はこめかみ。反動で横へすっ飛んだサンドバッグを左腕で受け止め、飛び上がっての右肘。
武月流は禁忌の壱、貌滅。
めぎょん、と下方向へ向かってサンドバッグが『逆への字』を描く。支点となる木の枝がめりめりと軋みを発する。
間髪入れず右腕を逆手に差し込んで袋を押さえ、掴んで引き寄せながらの左膝。
武月流禁忌の弐、轡發。
今度は右側へ振られたサンドバッグが、そのまま盛大に一回転。左側から風を巻いて戻ってくる――
いい。
乗ってきた。
そう、本来これらは連綿と繋がっている。
そして終局へ。
「――――――ヒュッ」
身構え、繰り出すのだ。
撃滅せよ。
つまり、
死ね。
武月流禁忌の終、八荒――――
「ひっ」
傍らから聞こえたそのか細い声で、流護は移行しようとしていた動作を中断した。
何事もなく目の前を通過していったサンドバッグだけが、時計の振り子みたいに激しくその身を軋ませる。
「流、護?」
「――――……ん、何だよ」
呼びかけに応じ振り返ると、そこには今にも泣き出しそうな顔をした幼なじみの姿があった。
「あ、ご、ごめんね……邪魔、しちゃった……? ただ、その……」
「その?」
「す、すごい迫力で、なんだか怖くなっちゃって……。音も威力もやばいし、そんな攻撃当たったら、その……相手……、死んじゃわない……?」
「………………いや何だよ、ドン引きすんのやめれや~。そりゃサンドバッグ叩きなんだから、本気で打ち込むだろて」
「いや、うん……」
振り子の勢いが弱まってきた袋を手で止めて、ぱすぱすと軽めに叩く。
(…………)
そこからは、運動しながら彩花に話しかけた。先の空気を払拭するように。
オルケスターやらカヒネの一件については触れずに、いつもの馬鹿げた雑談だ。
そうするうちに彩花も落ち着きを取り戻したようで、
「ねえねえ」
「ん? 何だよ?」
「私にも使えそうな、護身術みたいのとか教えてよ」
「いきなり何言い出すん」
「だって……こないだみたいなことあったら、怖いじゃん」
「こないだみたいなことがあった時に、付け焼刃の護身術で何とかなると思うか?」
「いや……それはそうかも、しれないけど……こう、一瞬だけ相手に何か攻撃を当てて怯ませてー、みたいなのとか」
「そうだなあ。たまにネットの記事とかでも話題になったりとかあったよな。女性でも簡単に使える技、みたいなの」
ふう、と息をつきつつ。
「そんじゃ彩花、一つ問題。格闘技でケガするのって、どんな時が多いと思う? もちろん攻撃を食らった時は当たり前として、もう一つ頻度が高いのがある」
「え? うーん……」
頭こそ切れるものの運動音痴の少女は、しばし長考して。
「攻撃を受けた時、以外……? 攻撃受けなきゃ、ケガしなくない? うーん……? 避けようとして転ぶ、とか……? うーん」
「はい時間切れ。正解はコレ」
伸ばした左手をサンドバッグに宛てがって距離を確かめた流護は、素早く引いて入れ違いざまに右拳を突き出し――打ち抜かず、ポスッと軽く当てるのみで留める。
「ここだ」
「え? どこ?」
「攻撃を当てた時だ。攻撃を仕掛けた側がケガをする、ってパターンが多い。プロの試合でも当たり前にあるやつだな」
「え? そうなんだ」
「そりゃそうよ。自分の手とか足を使って攻撃すれば、当然逆に痛める可能性があるだろ。ハードパンチャーが拳の故障抱えてる、なんてザラにある話だし。ちなみに、武器使っても同じ。反動が手首にモロ返ってくるから」
拳を開き、指の腹でサンドバッグの表面をなぞりながら。
「このサンドバッグだって普通の人なら拳痛めるし、表面もそこまで滑らかじゃないからな。素手で殴って、ちょっとスレたら摩擦で火傷とかするぞ」
「へー……流護も、それでケガとかするの?」
「今は身体自体が謎補正で頑丈にはなってるけど、そりゃ道場に通ってる頃なんてしょっちゅうだった。つか、拳に関しては何千何万と巻き藁とかブン殴ってケガとか繰り返して、この分厚いタコができる訳だ」
すっかり武器へと変じた己の拳骨に視線を落としつつ。
「だから生兵法はやめとけ。はっきり言って、暴漢の金的蹴って逃げるとかも現実的じゃねえよ。自分の当てどころが悪くて逆に足ケガするかもだし……そうなりゃもう逃げることすらできん。そもそもさ、狙った場所に正確に攻撃を当てるってのが思ったほど簡単じゃないんだよ。止まってる的に対してすらそうなのに、相手は自分に危害を加えようとして動いてる人間だぞ。男と女じゃ単純な筋力に差があるし、ましてお前は運動音痴だし」
「…………」
その場面を想像したのか、彩花は神妙な顔で沈黙した。
「そう考えると正直、神詠術ってのは俺からしたら羨ましい。当てても自分の身体は痛まないし、属性にもよるけど基本的には重量もない。壊れて修理が必要になったりもしない。んで、思い描いた攻撃手段をそのまま実現してくれるんだもんな。理想じゃん」
それでもグリムクロウズの人間からすれば無術の英雄たるガイセリウスが神聖視されていたり、ようは隣の芝が青く見えるのかもしれない。
「まあとにかくさ、お前は攻撃なんてする必要ない」
ぐっとサンドバッグを押し、大きく反動をつける。
「その役目は、俺が負うから」
左足を踏み込む。腰を時計回りに回転させ、右拳。
くの字の姿となったサンドバッグは、そのまま紐を支点に一回転。弧を描き、流護の背中側から凄まじい速度で戻ってくる。
それを目視すらせず半身に翻って躱した流護は、大きく振れて戻ってきた袋に右肘打ちを入れて制止させた。
「……、……かっこつけるじゃん……」
「かっこつけたんすよ」
その後も黙々と反復練習をこなしていると、
「おー、今日もやってんな」
ゾロゾロとこちらへやってくる団体様ご一行。
目をやると、エドヴィン、ダイゴス、ベルグレッテ、ミア、そして先日から学院に復帰したレノーレがそれぞれに集まってくるところだった。いわゆる、いつものメンツである。
「おう。ちゃんと進級できたんだな、エドヴィン」
「うるせー」
苦い顔をした『狂犬』が、サンドバックにボスンと右ストレートを軽く打ち込む。先ほどから大揺れしつつ回転までしていた皮袋だが、流護が自分で使うために砂を満載した重量物だ。その程度ではビクともしない。
――が。
「オルァ!」
零距離からのくぐもった小爆発。エドヴィンの拳から発せられた衝撃が、サンドバッグを後方へと大きく揺らす。
「おお……!」
流護も感嘆の息を漏らした。
古の英雄ガイセリウスや流護に感銘を受け、純粋な格闘鍛錬にこだわっていたエドヴィン。
そんな彼が到達した、これからの方向性。そのひとつの形。神詠術を惜しみなく活用した、格闘術とのミックス戦法。使えるものは何でも使うケンカ殺法、その極致だ。
神詠術を忌避する必要なんてない、自分のできることを駆使して闘う。ある意味で当たり前。遠回りしつつもようやくそこへ到達した、と彼は語る。
この一撃については、バダルノイスでしばし行動をともにした、あのサベルの技を参考に会得したという。
流護のストレートほどではないものの、かなりの威力。なかなかサマになってきているようだ。
「ヘッ」
ニヤリと得意げに口の端を吊り上げたエドヴィンが、
「ゴバァ!?」
ドゴン、と。
振り子の要領で戻ってきたサンドバッグによって、盛大に薙ぎ倒された。
「うわちょっ!? だ、大丈夫ですか!?」
「エドヴィン!?」
「うわ。やっぱりエドヴィンはエドヴィンだなーって……」
「……エドヴィンらしい倒れ方だと思う」
彩花とベルグレッテ、ミア、レノーレのそれぞれな反応も姦しい。まあ確かに、彼らしいオチかもしれない。
「おう。そういやクレアさんはどうした?」
潰れたカエルみたいになった『狂犬』や一同の顔を見渡しつつ流護が問いかけると、
「ええ。図書室に少し用事があるからって」
その実の姉が、ピヨったエドヴィンを助け起こしながら答えた。
「ク、クレアリアさんかぁ」
彩花が校舎のほうを眺めて呟く。
今日は新学期初日の全体集会があったため、彼女も久々に学院へやってきている。年に一度の催しでゴタゴタしていたこともあり、まだ学院での顔合わせはしていない。
「おっ、どうした彩花。怖いのかクレアさんが。怖いのんか」
「え? ち、違っ、ひ、人聞き悪い。ただ気が強そうな子だから、緊張しちゃうっていうかぁ……」
彩花にしてみれば、王都地下の一件で自分を助けてくれた恩人でもある。謎の「応援しています」発言もあり、色々と恐縮してしまうのかもしれない。
「そうか。俺は怖いぞ」
「怖ぇーよな……」
「否定はせん」
流護、エドヴィン、そしてダイゴスの男連中は即断だった。
「えぇ……ダ、ダイゴスさんまで……」
困惑の彩花。
そんなこんなで、七人もの大人数で雑談に興じる。
改めて、レノーレが戻ってくることができてよかった。今年の新一年生はどんな感じなのか。皆、無事三年生になることができた。いよいよ将来を見据えて、学業にもより一層力を入れていかなければならない。先日のリリアーヌ姫生誕祭では久々に羽を伸ばすことができた……などなど。
人数も人数だが、これまで色々あった。話題が尽きることはない。
どれほど話し込んだ頃だろうか。脇の校舎の陰から、八人目となる人物がやってきた。
「やはりここでしたか」
先の話題の人物、クレアリアである。
「こ、こんにちは」
「お久しぶりですね、アヤカ殿。ご機嫌よう。こちらでの生活には慣れましたか?」
「う、うん。おかげさまで」
「そうですか。それは何よりです。それにしても、先日は災難でしたね」
「あ、ご、ご心配をおかけしまして……」
なるほど確かに、なぜか彩花に対してクレアリアの物腰が柔らかな気がする。
そんな挨拶もそこそこに、妹は姉と流護へ目を向けた。
「姉様、アリウミ殿。今程、私用でオルエ姉と通信していたのですが……ちょうどそこへ、一報が入りました」
「!」
真剣なその表情と口ぶりで、ベルグレッテは元より流護も察する。あれきり音沙汰がない、例の件だと。
「リケ・エブルとエッファールク王国を繋ぐ街道にて、戦闘の痕跡らしきものが発見されたとのことです。それ自体は数日前から確認されていて、旅人同士の小競り合いもそう珍しくはありませんので、駐在もさして気にかけてはいなかったそうなのですが……時期を同じくして、この地区を担当していた『銀黎部隊』、アーバン殿が消息不明となっているそうです」
「!」
その驚きはベルグレッテのものだった。
「アーバン? ってのは?」
流護としては、『銀黎部隊』に関しては未だ知らない人間のほうが多い。
尋ねると、少女騎士が応じる。
「……アーバン・バルレッド殿。『銀黎部隊』六十余名の中でも、間違いなく上位に相当する強者……最古参の一人よ」
「そうですね。お世辞にも勤勉とは言い難く態度も不真面目な人物ですが、陛下に対する忠誠と愛国心、そして実力は本物です」
「『氷烈』のアーバンか。ワシも知る名じゃ。相当な手練と聞く」
ダイゴスまでもが、うむと唸る。
「そうなんか……」
「それに加え、付近の街で似顔絵の男の目撃証言がありました。宿泊していた宿の台帳には、カンタル・ベリエーラとの名が記載されていたそうですが……十中八九、偽名でしょう。尋ね書きを見た宿の主人からの通報を受けて駐在が部屋を訪れましたが、逃亡を図られたとのことです」
目撃され、逃げた似顔絵の男。場所は国境近く。戦闘の痕跡。そこを監視していたであろう『銀黎部隊』が、音信不通……。
「……突破、されたってことか……?」
こうまで揃えば誰だって予想がつく。
ベルグレッテが神妙な顔で頷いた。
「……アーバン殿が返り討ちに遭うだなんて、普通なら考えられない。……ただ」
「ただ?」
「相手が、ミュッティやメルコーシア……あの域の手練ならば……」
「!」
それは先日も出ていた話題のひとつ。ベルグレッテが懸念し、流護も憂慮していたこと。
オルケスターの重要な人物であろうカヒネを迎えにきたその青年は、何者なのか。只者ではありえないのではないか。
まるで、その答えを示すがごとく……。
「他の国境部では、このような報告は一切挙がっていないとのことです」
「…………」
「それとひとつ、不可解な点が」
そう付け足したクレアリアが、彩花をちらりと窺う。
「似顔絵の男については複数の目撃証言が寄せられましたが……いずれも、この人物は単独であったと。『あの少女』については、誰もその姿を見ていないようなんです」
「! ユウラ、ちゃん……」
心配げな彩花がうつむく。
「妙じゃの。別行動を取るとは思えんが」
ダイゴスの呟きに、クレアリアも「ええ」と頷く。
それはそうだ。オルケスターにとって最重要であろうカヒネと離れるとは思えない。わざわざ迎えに来たぐらいなのだ。
仮に彼らがオルケスターとは何の関係もなかったとして、兵を前に逃亡するユウラ兄の行動や、まるで目撃されないユウラはどうにも不可解といえる。
「念のためリケ・エブルの駐在に加え、バラレ女史が捜査に協力してくださるとのことではありますが」
「おお、バラレさんか。そっか、リケ・エブルって聞いたことあると思ったけど、あの人の住んでるとこだっけ」
流護も知る人物だった。
バラレ・サージ。レインディールが擁する『ペンタ』の一人で、二つ名を『絶界』。最高峰の防護術を扱う、物腰柔らかな老婦人である。それでいてあのナスタディオ学院長が珍しくも頭が上がらない人物であり、やはり只者でないと思わせる風格を纏っていた。
昨年の夏、バラレ女史が学院の防護術処置にやってきたことで流護とも知り合ったのだ。
「……バラレ殿が……。心強いけれど、おそらくはもう……」
呟いたベルグレッテが蒼穹の天空を仰ぐ。その晴れやかな気候とは真逆の曇った表情で。
「…………」
流護も、きっと彼女と同じ心持ちだった。
敵はアーバンを撃破、そのままレインディール国外への逃亡に成功している。そもそも顔が割れた以上、国内に留まるはずもない。カヒネについては不明だが、保護対象を放置するとも思えない。どうにかして監視の目を掻い潜って連れていったのだろう。
国から脱出されたとなると、これ以上の追跡は難しい。
以降の捜査は、どちらかといえば対象が『いないこと』を確認するための作業になるはずだ。
「……さて。我々も依然として油断は禁物ですが、気持ちを切り替えましょう。新学期も始まりましたし、学院のことも疎かにはできませんからね」
何ともいえない空気を、クレアリアがまとめにかかる。
「そういえば明朝、我々新三年生を対象に学院長からお話があるとか。珍しく畏まって、何事でしょうね」
「へー、そうなん? 学院長から? 何だろな。絶対にロクでもなさそうなんだが」
流護が表情を苦くすると、彩花が不思議げに首を傾げた。
「学院長……さんって、ようはここの校長先生みたいな人だよね。まだ会ったことないなぁ……どんな人なの?」
「バケモンだよ。おう彩花、あの人と目合わせるなよ。えらい目に遭うからな、マジで」
「えぇ……?」
「ちなみに、ミアの天敵でもある」
「うぅ……」
「ど、どういう人なの……? だ、だいじょうぶ? ミアちゃん」
拭いきれない一抹の不安が残る中。それでも新しい季節はやってきて、新しい生活が始まる。
「ったくよ、にしても三年か……かったりーぜ」
「……そういえば。……エドヴィンが三年生になれるかどうかで、密かに賭けが盛り上がってたけど」
「あ? 何だそりゃ、どこのアホだよ。そんな話をする奴も、乗る奴も――」
「……お金をスッてしまった」
「オイ。レノーレ。オイ」
おなじみの顔ぶれと、賑やかな学院生活。
「あ!」
「? どうかした? ミア」
「急にベルちゃん成分が足りない! 補充しないと! ふんふん!」
「ちょっ……」
「ミア。今すぐ離れるか、天上へ召されるか。選びなさい」
「ウワー! クレアちゃんがいたんだった! 忘れてた!」
「いい度胸です。そこになおれ」
一歩離れた位置から、腕を組んで見守るダイゴスがうんうんと頷いている。
そんなやり取りを眺めて、
「はは。三年になっても変わらんな、このメンツは」
今や皆をよく知る流護が笑い、
「そう……なんだ?」
まだよく知らない彩花が微笑む。
とにかく、今は願うのだ。
楽しいこの時間が、少しでも長く続きますように――と。
それが永遠ではないと、分かっていても。