570. アガリアレプト
「では、ちょっとお待ちいただけますか。今さっき起きたばかりで、ちょうどこれから着替えるところでしたので」
「あぁ……お早めにお願いしますよ」
ひとまず時間を稼いで、リチェル・ヴェーレは黙考する。
(僕の顔が兵士に認知されている……。しかし強行突入してこないところを見ると、お尋ね者になっている訳ではなさそうだ)
寝台から立ち上がったリチェルは、部屋の片隅に置いていた荷物を担ぎ上げ、そのまま窓際へ。
(まだ退室まで時間もあるんだが……仕方ない)
宿泊料金については前払いで済ませているので問題ない。常に即座に動けるよう、必要な荷物もまとめている。このような事態を想定してというよりも、性分だ。
換気のために開け放っていたそこから、躊躇なく身を躍らせる。
この部屋は二階。足裏に術を顕現し、衝撃を緩和しつつ芝生に着地する。同時、素早く辺りに視線を巡らせた。
(……他に兵士の姿はなし。包囲されている訳ではない。まだ僕を『黒』と断定できていない証拠だ)
速やかに宿から離れたリチェルは、注意深く表通りの様子を窺いながら、街の雑踏に紛れる形で合流し歩き始めた。
首元のマフラーを引き上げ、顔の下半分を覆い隠す。
(さしずめ、カヒネを連れて行った僕を参考人として公布した……といったところか)
向こうの情報量を考えれば、そのあたりが妥当。しかし、
(だが実質、僕をオルケスターの人間と確信してのことだろう。となれば、拘束される訳にはいかない。逃げるしかない。そして逃げれば、やましいことがあると認めているようなもの……)
やってくれる。
これで、レインディールに留まる訳にはいかなくなった。
(まあ良い。せっかくだからこのまま、アジトへ戻るとしよう)
そもそもガードンゼッファ兄弟が失敗したと分かったのであれば、もうこれ以上滞在する理由もない。
即決したリチェルは、エッファールク最南端に位置するクィンドールの屋敷へと帰還すべく、国境を目指して歩き始めた。
「国境沿いには、可能な限り『銀黎部隊』の配備をお願いしたわ」
「……気合入ってるっすね」
ベルグレッテの根回しに、流護も思わず唸る。
一応はユウラ兄を参考人と称しているが、実質ほぼ『黒』と断定している。武力での拘束を前提としている。それゆえの対応だ。
「『銀黎部隊』が動いてくれるなら、もう安心だね!」
満面の笑顔を咲かせたミアを見て、彩花が不思議そうに首を傾げる。
「えっと……何? その、しる何とかって……」
これには流護が答えた。
「そういやお前は知らんか。簡単に言やあ、レインディール中から強い奴を集めて結成した、王様直属の私設軍隊みたいなもんだよ。実質、この国最強の戦闘集団って感じだな」
「へえー……! 何それバトル漫画みたい……すごそう……」
実際、相手にしてみれば厳しい状況へ陥ったはず。
アルディア王が自ら直々に選定したという『銀黎部隊』だが、その個性は千差万別。隊員同士でありながら、互いほとんど面識のない者も存在する。ただひとつの共通項は、『強い』ということ。その一点を最優先して集められた人材であるがゆえ、無法者めいた荒くれ者すらも含まれる。
が、まさにこういう捕物や武力行使にはうってつけだ。
「これでこの白髪野郎が捕まれば、でかい進展になるんだけどな」
流護は手にした似顔絵をヒラヒラと振った。
「ね、ねえ。その……ユウラちゃんは大丈夫だよね? あの子は、悪いことしてないし……」
相も変わらずその少女に入れ込んでいる彩花には、
「全ては、話を聞いてからになるかしら」
ベルグレッテが冷静に応じる。
「私たちは、オルケスターについてあまりにも知らなさすぎる。彼らの規模も、目的も……カヒネが何者で、彼女にどんな意味が秘められているのかも。できればここで、彼らから直接話を聞き出したいところだけど……」
と、そこでやにわに少女騎士の表情に翳りが差す。
「……ひとつ、気になることがあるわ」
「何ぞ?」
ここまで周到に事を進めておいて、今さら何が気がかりだというのか。
「カヒネがオルケスターにとって、極めて重要な存在であることはたしか。となれば……そのカヒネを迎えに来た人物は、果たして何者なのか……」
「うむ……」
と、ダイゴスが渋い顔で唸る。
「確かにの。それほどの存在を迎えに来る人間が、並の兵であろうはずもない……か」
ユウラの……カヒネの兄を自称したその青年は、オルケスターの中でどんな位置づけとなる人物なのか。
「…………」
そう考えると、ベルグレッテが何を憂慮しているのか流護にも理解できた。
(もしこいつが……ミュッティとかメルコーシアみてえなレベルの奴だとしたら……)
似顔絵に起こされた、線の細い無害そうな優男。草食系のイケメンというか、とても強そうには思えない。
『銀黎部隊』は、間違いなくレインディールが擁する最強の武力集団だ。
しかし、それでも。
「…………」
今は、経過を待つ以外にできることはなかった。
レインディール最北端に位置するリケ・エブルの街を抜け、北の街道へ。
ここをしばし行けば、エッファールク王国へ到達する。
空は澄み渡って青い。眼前には、草原を割ってどこまでも延びる道。何より存在感を主張するのは、東に広がる雄大なラインカダルの山並みだ。その峻険な山嶺には、白く映える雪が未だ端張っている。
「……」
時折、目線のみで背後を確認する。尾けられている気配はない。
昼神の恵光も麗らかな春の昼下がり、そうして一人黙々と進むリチェル・ヴェーレの前方。
老朽化し崩れた石壁の残骸に、大股で腰掛ける男がいた。
歳は二十代中盤ほどか。身長は二マイレ前後。赤茶けて波打った髪を肩まで垂らし、無精ひげを伸ばし放題にした、やや不衛生な印象の伴う痩せぎすな青年。暖かくなってきたというのに、丈長の大きな外套に身を包んでいる。
張った頬骨に反し異常に細った顎先が目立つ面相は、およそ壮健や快活といった言葉から程遠く、最低限の栄養素すら取っているか疑わしい。少なくとも規則正しい生活を営んでいないことは窺える。
一見すれば、宿なしの物乞いとも思える貧相な出で立ち。
落ち窪んで垂れ目がちな青色の瞳は、彼自身が手にした一枚の紙切れへと注がれていた。その生気の失せた視線で凝視するそれに、一体何が記されているのか。
その様子を尻目に、リチェルは男の前を通りかかって――
「あー、やっぱりそうだァ」
酒焼けしたような、低くざらついた声だった。
足を止めて視線だけを向けたリチェルに、男は自分が手にした紙を掲げてみせる。
「!」
リチェルはにわかに目を見開いた。無理もない。
そこに描かれているのが、精巧にすぎる自分の顔だったからだ。
『王都地下水路の一件について情報提供を求めています。この人物について知っている方(もしくは当人)はご一報を』との一文が添えられており、
(……成程)
ここで、リチェルは宿に兵士がやってきた理由を察した。
「ホラ、こうして、こう! すると~、ホラァ」
リチェルの納得をよそに、にたりと笑った男はその似顔絵を半分に折り畳む。描かれたリチェルの鼻の部分から、二つ折りに。すると、
「ほぉらァ。へっへへへへお兄さん~、そっくりじゃない」
マフラーで顔下半分を隠したリチェル本人へ向け、その絵を掲げてみせた。
……こうなれば、「別人です」は通じそうにない。
「…………その件について、特に僕が知ることはないが」
素直に事実を口にすると、
「そぉう。じゃ、何で逃げたの?」
まるで動じず、むしろ楽しげに痩せた男は追及する。
「言った通りさ。僕は何も知らない。応じたところで、互いに益がない。つまり時間の無駄かと。兵士さんというのは総じて話が長いからね、その手間を省かせてもらっただけさ」
「あんれ? おっかしいなァ」
リチェルの言葉尻に被せる形で、男は大げさに首を巡らす。
「一緒に連れてた娘っ子とかってのは、どこ行ったの?」
「……貴方に何か関係が? というより、何者です?」
リチェルが兵士から逃れたことを知っている。手にした尋ね書き。たまたまこの場に居合わせた人間ではない。明らかに、待ち構えていた。
「……あー、申し遅れたね。おいらぁ、『銀黎部隊』のアーバン・バルレッドという者だ」
名乗った男が、ゆらりと立ち上がる。たたらを踏みつつ両の足を地につければ、リチェルと目線の高さが揃った。
(……『銀黎部隊』……)
噂には聞いている。
レインディール王国が擁する、総勢六十名ほどで構成された最強の精鋭集団。
「平服姿だから気付かなかった。まさか兵士さんとは」
「非番だったんだって。ひどいよな、担ぎ出されちゃってさ」
ぼさついた頭をガリガリと掻きながら、アーバンは眉間に皺を寄せた。
「ってことでさ、話聞かして?」
「話すことは何もないと言ったはずだが――」
「トボけんなって。オルケスターとかっての、詳しく聞かせろって言ってんのよ」
「何の話をしているのか、分からないな」
一瞬の間。
「あっそ。ほんじゃ、それならそれでいいや」
あまりにもあっさりと。
面倒げに言い捨てたアーバンは、手にしていた尋ね書きを放り捨てた。その紙切れはひらりと春風に乗ってどこかへ飛んでいく――ことなく、その場で千々に霧散する。
「!」
発現したのは、神詠術の奔流。渦巻くその色彩は白。リチェルの下に吹きつけてくる風はあまりに冷たく、春先に相応しくない怖気を誘う。
氷属性の使い手。
「……何をする気かな」
誰でも察せる戦闘態勢を――敵意を前にしながら、リチェル・ヴェーレはあえて問う。
アーバンはのんびりと言い放った。
「お兄さん、あんたさっき言ったねぇ。時間の無駄、手間を省いた、とかってさ。その点についちゃぁ、おいらも全く同意でね。くそどうでもいい問答なんぞ無駄でしかないんよ。省いちまおうよ」
「で、少なくとも現時点では何の瑕疵もない僕を手にかけようと?」
「話聞かしてって言ってるのに応じない時点で十分でしょ。第一よ、」
アーバンが嗤う。裡に秘められた本性を露わにするがごとく。
とても、治安を預かる精鋭とは思えない凶悪な様相で。
「――おいらの術を前にしてぇ……今から攻撃されようってのに顔色ひとつ変えん奴が、怪しくねえ訳ねぇっしょ」
男を中心に渦巻くのは、圧倒的なまでの暴風。乱舞する氷片の刃。
このアーバンが春先に似つかわしくない外套を羽織っている理由が、ここに至って理解できた。周囲を席巻するこの冷気から身を守るためだ。己が巻き起こした攻撃術、その余波から。それほどの能力。
ふ、とリチェルは鼻で笑って応じた。
「……ま、それは仕方ないかと。僕は役者じゃないんだ。怖くもないのに、怖がるような真似はできない」
「言うねぇ~~」
「……しかし、成程」
眼前で巻き起こる現象を前に、リチェルは相手の力量を推し量る。
(これが『銀黎部隊』か……)
展開、範囲、維持……全て申し分なし。高い技量なくしては実現し得ない攻撃術。
断言できる。
――少なくともこの男は、強い。
「あんたァ間違えたんだよ、兄さぁん」
吹雪の中心に居座るアーバンが……その強者が、悲哀すら滲ませて首を振る。
「レインディールってぇ獅子の国にちょっかいをかけた。あんたが今いるのは、獅子の腹ん中だ。獅子に一度食われた獲物が、胃袋の中から逃げられる訳ゃぁない」
落ち窪んだ瞳を街道の先……すぐ目前の国境へと向け、視線を飛ばしつつ。
「あんたぁ、こっから先にゃ行けねんだ。残念だがね」
事実、ある。
アーバンと名乗るこの男には、それを大口で終わらせないだけの力が。
だが、しかし。
(悪いが、僕は……僕たちは、すでにそんな領域にはいないんだ)
あくまでそれは、世の尺度から見た場合の話。彼の対峙している相手が、『ただの強者』だった場合の話。
オルケスターは……何より自分たち殲滅部隊は、すでにそんな次元など通り越している。
「……やれやれだね。これも時間の無駄かと。ならお望み通り、さっさと終わらせよう」
致し方なし、とリチェルもここでようやく相手を見据える。排除すべき、明確な障害としてアーバンを認識する。
「申し遅れたね。僕はリチェル・ヴェーレ、組織内での二つ名は『胡粉ノ斬鏖』。オルケスターの中では殲滅部隊と呼ばれる枠組みに所属している。こう見えて、表の顔は探偵でね。本来、君らのような兵職とも近しい仕事を生業としているんだが」
「おいおいおぉい……大盤振る舞いだねぇ。いいのかい、その情報。おいら特別報酬出ちゃうよ、そんな話持ち帰ったら」
「問題ないかと」
リチェルは淡々と、これから訪れる未来を言い放った。
「悪いけど……君が特別報酬にありつくことは――この情報を持ち帰ることは、無い」




