57. 神の見えざる意図
――悪夢は、終わったはずなのに。
もはやミアは、自分の置かれた状況を理解できなかった。
場所は、打ち捨てられた工場のような廃墟。
錆びついて転がっている金属の破片、劣化して所々崩れている石壁。しかし隠れ家として保全しているのだろう、建物としては充分以上に機能しているように見える。
ミアは封印の神詠術が施された手枷によって後ろ手に拘束され、薄汚れた床へと転がされていた。
その広い廃墟内に集まった黒服の男たち――その数、およそ二百。尋常な数ではない。
ミアの傍らに立つのは、もう二度と顔を合わせることはないと思っていた、あのディノ・ゲイルローエンと――
「全くよぉ。いらねえ手間が掛かったモンだよなぁ?」
当初、ミアを競り落とす予定だといわれていた、醜い小男。
マフィアのボス――レドラック。
「だったら、最初から余計な横槍が入らねェようにキッチリ根回ししときゃいいのによ。バカ正直に金払ったコイツの仲間がカワイソーじゃねェの?」
セリフとは裏腹に、何の感情も篭っていない軽薄なディノの声。
「ぐ、ぐふへへ。そんなこたぁ、儂の知った事じゃぁないな。今回もちゃんと『専売』の予定だったじゃねえかよぉ。しきたりを知らん方が悪いわい」
粘ついた汚物のような不快感を伴った、レドラックのミアを見下ろす視線。人に見据えられただけで、これほどまでにおぞましい気分になるものなのか。少女はその小さな身を震わせた。
「……ど、うして……こんな……」
ミアが拘束されているのは手のみだったため、喋るにあたって不自由はなかった。
「ひひ。不安か? 怖いか? お嬢ちゃん。儂が、恐ろしいか?」
引きつったミアの表情を愉しむように、レドラックは汚泥じみた汚い声を出す。
その脇に控えた細身の男が、不愉快な甲高い声を響かせた。
「へへ、ボス。どーせそのガキも、『摘出』しちゃうんでしょ? その前に、あっしらに遊ばせて下さいよォ。へへ」
「まだ明るいってのに、気が早えんだよザウラ。先生もまだ到着してねえし、もうちっと待ってろ」
「へへ、すいませんね!」
ザウラと呼ばれた細身の男は、卑屈げに身を竦めた。
何がおかしいのか、周囲からどっと笑いが起きる。笑わなかったのは退屈そうなディノと、その近くで柱に背を預けて立っている――異様な雰囲気の男だけだ。細く鋭い目つき、坊主に近い金髪。鼻から下、顔の下半分には口布を巻きつけている。黒い礼服に身を包んではいるものの、周囲のマフィアたちとは何かが違うように思えた。
「おおそうだ、お嬢ちゃん。自分が何でこんな目に遭ってるか知りてえんだったな?」
優越感たっぷりに見下ろしてくるレドラックを、ミアはキッと睨みつけた。
「へへ、意外と気が強そうでいいじゃねっすか! イジめたくなるなオイ!」
「ザウラ、ちっと黙ってろ! 理由。理由なあ。ま、儂ぁ、そこそこ強力な魂心力を秘めた人間を探してんだ。んで今回、親に捨てられちまったお嬢ちゃんが、条件に合ってたモンでな。その条件に合う人間ってな、結構少ねぇんだ。それでオジサンが、お嬢ちゃんを買おうとしたんだが」
フーと溜息を吐き、レドラックは面倒そうに言う。
「あーの妙な小僧が、それを邪魔してくれたんでこうなった訳だ。ったく、ハナから儂がお嬢ちゃんを買う手筈だったってのによぉ……顔見知りの多い競売の場で、この儂に恥かかしてくれやがってよぉ……」
「まァ、でもその小僧も今頃死んでるっしょ? もう許してあげましょうや、ボス」
ザウラのその言葉に、ミアの表情がこわばった。
「な、ん……」
リューゴくんが? 死んでる?
ミアの表情を見たザウラが、楽しそうに説明した。
「ウチのモンが、刺し行ったからさァ。いやーまるで『ディアレーの悲劇』だねぇー。大好きな女の子をなんとか取り戻した少年は、しかしあっさり刺されて死んじまうと。創造神ジェド・メティーウ様は残酷だねぇ~。ある意味、感動的だな! へへ!」
うそだ。リューゴくんが、死ぬわけない。
どんな手を使われようと、こんなやつらにやられるなんて、絶対にない……。
ミアは祈るように目をつぶる。
「……しかし大丈夫なんですかね、兄貴」
ザウラの近くに佇むダイゴスよりも大きな巨漢が、体格に見合った低い声を出した。
「あぁ? 大丈夫って何がだぁ? ビゼンテ」
レドラックの問いかけに、ビゼンテと呼ばれた巨漢が答える。
「さっきディノも言ってたじゃないですか。その小娘さらうとき、ガーティルードの小娘が一緒にいたんでしょう? ロイヤルガードの家系とモメちまう可能性も……」
「デケぇ図体してビビッてんじゃねえ、ビゼンテ。騎士の家系だからこそ、儂ら筋者とモメようなんて考えねぇはずだ。よりによって、儂ら『レドラックファミリー』相手にな。それも、たかが平民の小娘一人のためによぉ」
よく言う、とミアは内心で歯噛みする。
二百人もの大人数でこんな廃墟に篭っているのは、騎士たちから逃れるためだろう。何が目的なのかは分からないが、後々、トカゲの尻尾切りのように下っ端の構成員を兵へ差し出し、レドラック自身は罪から逃れるつもりのはずだ。
「兄貴の言う通り、杞憂ならいいんですがね」
「へへ。あっしとしては、歓迎っすがね。ガーティルードの娘ったら、とんでもねぇ別嬪じゃねーですかい。是非、この場に来ていただきたいねぇ」
巨躯のビゼンテと細身のザウラは、その体格と同じように対照的な意見を口にした。ただし――二人とも、顔は笑っている。
そこへ、下っ端らしき黒服が小走りで寄ってきた。
「ボス、キンゾル先生が来ましたぜ」
「おーう。お通ししろ」
数人の黒服に囲まれてやってきたのは、マフィアの集うこの場にはあまりに似つかわしくない、小柄な白衣姿の老人。
服も髪も白色。研究者か何かなのか、ロック博士と似たような格好をしている。顔はしわくちゃで、かなり高齢のようだ。
「ふは、久しぶりですな、キンゾル先生」
「ひっひっ……ご無沙汰です、レドラック殿……というには、今回はあまり時間が経ってはおりませんな」
キンゾルと呼ばれた老人は、ジロリとした値踏みするような視線をミアへと向ける。
「今回はその娘ですか。ひっひっ……」
「……っ」
少女は、せめて怯むまいとキッと睨み返す。
――けれど。とにかく状況が、理解できない。ミアは混乱しそうになる思考を必死でまとめる。
このレドラックたちは、競売で自分を購入しようとしていた。それが失敗し、今回、こうして強引に連れ去った。そこまで自分に執着する理由は? この場に呼ばれた白衣の老人は何者なのか?
「オイ、レドラックさんよ。そのジジイ何? 何しようとしてんだ?」
そこで退屈そうなディノが声を出した。ディノも事情を知らないらしい。
不躾にジジイ呼ばわりされたキンゾルは怒るでもなく、ニタニタとした笑みを浮かべている。
「ぐふ、ひひ。そういえばお主には教えてなかったな。ディノよ……お主は、『人がどのようにして神詠術を使っているか』を考えたことがあるか?」
「は? イヤ。別に興味もねェしな。ソレを知ったトコで、オレの最強が何か変わるワケでもなし」
超越者は小指で耳をほじりながら答えた。
「ふ……強者ゆえの余裕といったところか。羨ましいことだな。……神詠術を行使するにあたり消費されると云う魂心力だが、ではその魂心力は実際、身体のどこに宿ってるのか。それがようやく、解明されたのだよ」
「……『身体のどこに宿ってる』? ソレは『私たちの心に宿ってます』みたいな下らねェ話じゃなくてか?」
レドラックは酒樽のように肥えた身体を揺らして「もちろんだ」と笑った。
「個人によって違うんだがな。脳か心臓か脊髄。必ず、このいずれかに宿っとるのだよ」
常に何事にも興味のなさそうなディノが、「へェ」と感嘆の声を上げる。
「そして……興味深いのは、ここからだ。魂心力の宿った、その部位。それは、その魂心力ごと、他の人間に移植することが可能なのだ」
ミアはその言葉に、息をのんだ。
ディノですら、絶句していた。
「……そりゃあ……本当なのかよ」
「――本当だとも」
そう言ってレドラックは、そのだらしなく肥えた身体を包んでいる黒い礼服のボタンを外す。露わになったその肉体を見て、ミアとディノは驚愕とした。
心臓。
レドラックの身体に埋め込まれた剥き出しの心臓が、三つ。胸部に二つ。腹部に一つ。合計三つの心臓がどくどくと、生きているかのように脈動を繰り返していた。
「ぐふはは……このように、な。こうして儂は、常人とはおよそ比較にならん魂心力を手に入れたのだ。……まだ、お主には到底及ばんだろうが、な」
「……『まだ』、ねェ」
ディノがにやりと凶悪な笑みを見せる。
「しかしスゲー発見じゃねェか。つまりこのオレですら、脳、心臓、脊髄……このどれかに魂心力が宿ってるってコトになるのか」
「そういうことだ。神が何を思ってそのような仕込みを施したのかは知らんがな」
「ところでよ、その心臓……剥き出しで大丈夫なのか? ビクビク動いて気持ち悪ィなーオイ」
「ああ。これはもはや臓器ではないからな。魂心力を供給するための、外付けの器官として機能しとるそうだ。痛覚もないから、壊れたら取り替えればよい。そして、こんな真似を可能とするのが――」
レドラックは白衣を着た老人へと顔を向ける。
「この、キンゾル先生というわけよ。何でも先生の神詠術の属性は『融合』という珍しいモノだそうでな。あー……何じゃったか。死の右手と生の左手、だったかのう?」
キンゾルが皺だらけの顔に笑みをたたえて答えた。
「ひっひっ……僭越ながら、全てを穿つ死の右手、全てを接ぐ生の左手を有しておりますじゃ。合わせて、『融合』などと呼ばれとりますな」
「そうやって先生は刃物も使わずに右手で目当ての部位を剥ぎ、左手で接合するってぇ訳だ」
それを聞いたディノの目が、すっと細まった。
「――へェ。死の右手に、生の左手……ねェ。何か強そうだぜ? アンタ自身は闘ったりしねェの? オジーチャン」
「ひっひっ……滅相もない。ワシはただのジジイですじゃて」
ディノの獰猛で楽しげな目を、キンゾルはさらりと躱した。
それを横目に、ミアはただ震える。
――信じられない。『融合』なんて属性、聞いたこともない。
しかし確かに、珍しい属性を持つ者というのは存在する。学院三位のオプトも『吸収』という属性だと認定されており、一位や二位に至っては怨魔を消し去っただの地面に叩き落しただのという噂こそあるものの、属性自体は解明されていないとまでいわれている。
……ともかく、少女は理解した。
自分が連れ去られた理由を。
「ってぇ訳で、そこそこ優秀な魂心力を秘めた奴隷を、お主ら『サーキュラー』にちょくちょく流してもらっとったって訳だ。今回、下らん横槍が入って少々強引な手を使うことになったがな。この小娘クラスの掘り出しモンはそうねぇんだ。あんな小僧に横取りされてたまるかい」
「なるほどねェ」とディノは頷いた。
「ちなみにな、儂が有しておるのは心臓だけではないぞ。少し前に買った小娘から奪った脳の一部も、身体の中に取り込んでおる。合わせて四つ。魂心力の元を取り込んどる訳だ」
「へー。脳たってデカイだろ。どうやって取り込むんだ?」
「脳といっても、全体に魂心力が宿っとる訳ではない。儂も詳しくは知らんがな、脳のどの部分に宿っとるかは個人によって違うそうだ。儂が取り込んだ娘の脳は、全体のほんの一部……一片じゃったな。今は儂のこの腹の奥に入っとる」
レドラックは得意げな顔で、そのだらしない腹を叩いてみせた。
そんな会話をしている二人の間に、痺れを切らしたような落ち着きのないザウラが割って入る。
「へへ。そんじゃボス、先生も来たこったし、その小娘、解体す前に使ってもいいっすかねぇ? つうか、ボスもその子のを食いてぇんじゃなかったんで?」
「んなこたぁ、このガキじゃなくてもいいしな。ビゼンテじゃねえが、騎士どもがこの場を嗅ぎつけんとも限らん。その小娘は、今日中にとっとと摘出しちまうぞ。やりてぇヤツぁ、好きにしろ。あんまり先生を待たせんじゃねえぞ」
「へへ、さすがボス! そうこなくっちゃ!」
下卑た嗤いを浮かべたザウラが、舌なめずりをしながらミアににじり寄る。
「……や、め」
手を封じられた無力な少女には、抵抗する術などなかった。
「ま、そういうこってさお嬢ちゃん。オラ、他にやりてーヤツいたら参加していいぞ! 穴が足りなきゃ作ってもいいしなァ! へへへへはははは!」
ザウラの言葉に、黒服の数人が薄ら笑いを浮かべて近寄ってくる。巨漢のビゼンテはやれやれとばかりに首を振り、ディノは退屈そうにあくびをしていた。
「助けも来ねぇぞお嬢ちゃん。ここは街から離れたトコにある廃墟だしなァ! ま、好きなだけ叫んでいいぞ? へへへはははあ!」
奴隷組織に売られて。
せっかくリューゴくんたちに助けられたのに、また連れ去られて。
犯されて。
殺されて。
魂心力を秘めた身体のどこかを奪われて。
そして、棄てられる。
どうしてこんな目に遭うんだろう?
――怖くて、情けなくて、涙が出た。
ごめんなさい、ベルちゃん。リューゴくん。せっかく大金を失ってまで、助けてもらったのに。あたしは、もう――
ミアは目をつぶった。
涙が頬を伝う。
それはまさに、おとぎ話の英雄のような絶妙さで。
廃工場の入り口。頑強な両開きの扉。
その片方が、轟音と共に弾け飛んだ。
へし曲がった金属製の扉が易々と宙を舞い、黒服の一人に直撃した。
「ばぶァッ!?」
吹き飛んだ扉と黒服の男が、派手な土煙を巻き上げ、盛大に地面へと転がる。
その場の全員が、弾かれたように入り口へと視線を向けていた。
そこには――片足を前に突き出したままの姿勢で立つ、少年の姿。
「リュー……ゴ、く、ん…………っ」
ミアの瞳から溢れる涙の……理由が、変わる。
建物内にひしめく、総数二百にも及ぶ黒服の男たち。睨みつける、四百もの悪意ある視線。
それを前にして、少年はただ一人の少女にのみ語りかけた。いつも通りの口調で。
「迎えに来たぞ。帰ろうぜ、ミア」