569. 限りなく黒い白
風花の月、二十九日。
レインディール北東部は国境近くに位置する小さな街。
その片隅で営まれる小さな宿に連泊していたリチェル・ヴェーレは、いよいよひとつの確信を抱き始めていた。
狭苦しい部屋の小さな寝台に腰掛け、自らの膝を肘かけにして頬杖をつく。
(……ガードンゼッファ兄弟が戻ってこない。期日を過ぎて丸一日……まさかとは思ったが――)
任務に失敗した。そうとしか考えられない。
配下の一人とて帰還しない状況。こうまで音沙汰がないとなれば――
(奴らもあれで一流。捕まるとなればその場で死を選ぶ。だが……万一にもそんな展開にならないよう、過剰な五人もの戦力で臨んだはずだが)
かつ、件の遊撃兵と護衛騎士はダーミーを使って引き離した。『ペンタ』だという学院の長が不在であることも事前に確認済み。
となれば――あの学院に残る警戒すべき戦力は、せいぜいレフェ『十三武家』の系譜であるダイゴス・アケローンのみ。
それとて、いかに昨年の天轟闘宴にて勝利目前まで迫った戦士であっても、五名の殺し屋を相手取りながら無力な対象を守り切る……となれば、およそ現実的な話ではない。
結論、失敗などまず考えられない計画。だったはずなのだが――
(……一切、それらしい話も聞こえてはこない)
行商の噂話などは絶えず気にかけていたが、ミディール学院で事件が起きたらしい――といった類の話は全くなかった。
(全く表沙汰にならないほど、あっさりと……?)
あの兄弟が返り討ちに遭ったのか。
(……もっとも……仮に失敗したならしたで、それでも構わないところではあるが)
特にあの顔ぶれの中でも、ベルグレッテは油断ならぬ切れ者と聞く。
なれば最悪、『なぜ蓮城彩花が狙われたのか』との疑問から、カヒネの名にたどり着く程度は考えられる。
だが、そこまでだ。
ユウラと名乗っていた少女の真の名前が、カヒネであること。
結局、彼らにはそこまでしか分からない。
念のため、痕跡を完全消去すべく刺客を差し向けはしたものの、失敗したとて甚大な被害を受ける訳ではなかったのだ。
こちらは、手痛い反撃を受けることのない安全圏から小突いただけ。
そして、その状況は今も変わらない。仮にガードンゼッファ兄弟を返り討ちにしたとて、そこから実のある情報は得られない。
(さて……カヒネについて、彼らが更なる情報を得ようとするならば――)
と、リチェルが思索を巡らせた矢先だった。
廊下の床板を踏み進む音がドカドカと無遠慮に響いてくる。
(……ったく、五月蝿いな)
小さな街の小さな安宿だ。造りも粗雑で、このように外の音が丸々部屋の中まで聞こえてくる――
「…………」
ずかずかと近づいてきたやかましい足音は、通り過ぎずにこの部屋の前で止まった。
一拍置いて、コンコンと部屋の戸が叩かれる。
「……どちら様です?」
座ったままのリチェルがわずかに顔を上向けて問うと、
「失礼。カンタル・ベリエーラ殿のお部屋で間違いないかな」
木の薄板一枚を隔てて聞こえてくる、中年と思しき男の声。
「ええ、そうですが」
宿泊する際、記帳に用いた偽名だ。
「こちら駐在ですが、少々お伺いしたい話がありましてですな」
駐在。つまり、
「兵士さんですか。僕に何かご用でしょうか?」
「……扉越しでは何なので、とりあえずここを開けてもらってもいいですかねぇ」
「…………」
こうなる。
カヒネについて、レインディールがさらなる情報を得ようとするならば。
彼女を迎えに来た、兄と名乗る人物。
(即ち、僕を押さえる以外にない……という訳だ。だが……)
真っ先に、その疑問点が脳裏に浮かぶ。
(どうやって僕の居場所を突き止めた……?)
「参考人、だな」
「ええ」
感心した流護の言葉に、ベルグレッテが頷いた。
昼下がり、場所は流護の部屋。
数日前と同じく、流護、ベルグレッテ、彩花、ミア、ダイゴスの五人が輪を作る形で思い思いに座っている。
「にしてもなるほどな、って思ったよ。ここでレノーレ先生の出番かって」
言いながら、流護は傍らのサイドテーブルへ置かれた二枚の大きな紙切れを手に取った。そのうちの一枚へ視線を落とす。
「いやー、でもほんとすごいよねこれ……。めちゃくちゃ上手」
隣からそれを覗き込んでくる彩花の呟き通り。
その紙面には、きめ細かな筆致で描かれたひとつの絵がしたためられていた。
似顔絵だ。推定二十歳前後。線の細い、やや丸みを帯びた薄顔で色白の優男。首元に茶色のマフラーを巻いており、短く切り揃えられた髪は真白。瞳の色は赤と黒が等しく混ざり合った黒紅。
カヒネを迎えに来て連れて行った、彼女の兄と名乗る人物。
その精巧なモンタージュだった。
一見すると手配書だが、そうではない。名前や懸賞額といった記載はなく、『王都地下水路の一件について情報提供を求めています。この人物について知っている方(もしくは当人)はご一報を』、との短文が付されている。
――先日。
この『尋ね書き』を作成するため、王都滞在中のレノーレの下へ似顔絵作成を依頼しに行ったのだ。バダルノイスで手配書の作成に携わっていた経歴を持つ、絵描きとしての顔を併せ持つ彼女のところへと。
ユウラ兄(自称)と接触のある、彩花、ミア、マデリーナ、エメリンの証言を元に、この絵が完成した。バダルノイスにて、ベンディスム将軍の手配書を作った時のように。
そして行商などの協力の下、数日かけてこの紙をレインディール各地に配布した。
「まだ、この人物が黒幕と決まったわけではないけれど」
ゆえに、手配書ではなく情報提供を呼び掛ける尋ね書き。ただ、『銀黎部隊』の隊員に対してのみ、この男がオルケスター疑惑の人物であることを通達してある。
「じゃが、これで判明するじゃろうの」
ダイゴスがいつもの笑みを深める。
そうだ。これは手配書ではないのだから、やましいことがなければ応じればいい。それができないのなら――
(『黒』、ってことだな……)
もちろん出頭は義務ではないし、冒険者と公僕のあまり良好でない関係性を考えたなら、自発的には応じないかもしれない。
しかし兵士に呼び止められてなお振り切ろうとするようなら、もはや自白しているようなものだ。
「ね、ねえ。でも思ったんだけど、ユウラちゃんとお兄さんがまだレインディールにいるとは限らないんじゃない……? よく分かんないけどこういうのって、国の中だけで有効なんでしょ……?」
そんな疑問を呈するのは狙われた張本人である彩花だった。
確かにただの旅人にしろオルケスターの構成員にしろ、あの一件から経過した日数を考えれば、すでに国内にいない可能性は十分考えられる。
「ええ。けど、仮に黒だったとしたなら……ほぼ確実に、まだレインディール国内にいるはずよ」
ベルグレッテがほとんど断定する。
「オルケスターは極めて慎重かつ堅実な組織。仕掛けたなら、必ず……それもできるだけ早く、その成果を確認したいはず。それも傍受の恐れがある通信術を使ってではなく、直接顔を合わせての会話でね。となれば、そう遠くない場所に合流地点を設けているはず」
キンゾルやモノトラ、ミュッティが所有していたあの通信機らしいものは、ガードンゼッファ兄弟の持ち物からは確認されなかった。同業のダイゴスによればそれも当然で、身元に繋がるものは持ってこなかったのだろうと推測される。
となれば、実際に会うしかない。いち早く成果を確認するなら、ここからあまり離れていないレインディール国内のどこかが妥当。
「とくに国境付近の街は、重点的に確認をお願いしたわ」
結果を確認次第、すぐに離脱できる位置だ。
「んー……大丈夫かな。ユウラちゃん、巻き込まれたりしないかな……」
そのユウラ――カヒネを巡って命を狙われたであろう彩花が、当人を案じる。
「とりあえずお前は自分の心配しろ」
「……うん……。……」
と、返事をしながらも彩花が目を伏せる。
その様子を横目にしつつ、流護は『参考人』の白髪青年が描かれた紙を繰って重ね、もう一枚のほうを上にした。
そこには、紫色の瞳をした中学生前後の年齢と思われる少女の顔があった。やや儚げで、大人しそうな雰囲気。その外見と、話に聞いた立ち振る舞いは確かに一致する。
(カヒネ、か)
あの日、彩花たちとともに過ごした少女。そして、オルケスターの鍵を握る存在と思われる人物。
見覚えもない。一見すれば、どこにでもいる普通の少女としか思えない。
こちらの絵は、男の似顔絵を頼みに行ったついでにしたためてもらったものだ。今のところ手配書きやらに使う予定はないが、少なくともカヒネの顔を把握しておいて損はない。
「……私のせい、なのかな」
「ん?」
「これってさ。私が……前に流護に言われたみたいに、自分でユウラちゃんを助けたりしないで……他の誰かに任せたりしてれば、こんなことにならなかったのかな。こんな、大勢の人に迷惑かけることになっちゃって……」
「いや、関係ねーよ」
流護は即答する。
「え?」
「そりゃ、俺もああは言ったけどさ。目の前で腹空かしてた奴を助けて、その本人にも感謝されて……それでお前が悪いことなんてあるかよ。悪いのは百パー、オルケスター以外にありえねえ。恩を仇で返すような真似してやがんだ、こいつらは」
ベルグレッテも力強く頷く。
「ええ。アヤカに落ち度はないわ。裁かれるべきはオルケスター……これだけはたしかよ。そこに迷いを感じる必要なんてない。それに結果として、ここでカヒネが少女の名であると知ることができた。なんの情報も得られないままでいるよりは、少なからず進歩があったんだから」
「二人とも……」
うつむいたままながら、彩花は鼻をすすって首肯する。
「さて、これで片付けばいいんだがな……こないだも言ったけど、襲撃第二弾がないとも限らんからな。油断しねえようにしとかんと。んでもベル子の話だと、そんな深刻に考えんでもよさそうなんだっけ?」
「ええ。現状、その可能性は低いとは思うけれどね」
ベルグレッテの口調には比較的余裕が感じられる。
「敵もそろそろ、ガードンゼッファ兄弟が戻らず襲撃が失敗したことを察知している頃合い……。バダルノイスでの彼らの手口を見るに、深追いはしてこないと思うの。なぜなら……たった今、私も『カヒネが少女の名であると知ることができた』とは言ったけれど……裏を返せば、それだけ。その少女が何者なのか、オルケスターにとってどういった役割を持つ存在なのか……具体的な詳細は、なにひとつ掴めていない」
「ふむ。大した情報は漏れておらん。仮に口封じに失敗したとて、最悪それでも構わん……ということか」
ダイゴスが渋い表情で唸った。
「………………」
流護は顔を伏せ、思わず拳を握り込む。
(つまり……)
ソファの肘掛けへ叩きつけそうになった拳を、すんでのところで自制した。
(念のため、ってか?)
カヒネの名を知られたから。
ただ念のため、彩花を消そうとした。しかも、
(失敗したなら別にそれでもいいや、ってか?)
必死になるでもなく、そんな軽さで。
「…………」
憂慮しなければならない。
ダイゴスに伍するほどの使い手を、捨て駒として送り込んでくる。つまりオルケスターには、それだけ層の厚い戦力が揃っているということ。
――だが。
そんなこと、どうだっていい。
握った拳をどうにか開いて紙切れをめくり、青年の絵を凝視する。
そこに描かれた、線の細いイケメン野郎を。
(……お前か?)
もし、こいつがそれを画策したのなら。
(………………顔、覚えたぞ。白髪草食野郎)




