568. 謎であれども
彩花の口から告げられた、たった三文字の名前。
しかしそれを耳にした流護の思考は、間違いなく空白に染まった。
どうにか目だけを動かし、ダイゴスとベルグレッテの顔を見比べる。二人ともに、息をのんだ表情。きっと流護自身も、似たような顔をしているのだろう。
不思議そうな面持ちをしているのは、その名を発した彩花と、向かい側の事情を知らないミアだけだ。
「……アヤカ。その少女の名前は……カヒネ、で間違いないのね……?」
いち早く硬直から立ち直ったベルグレッテが、慎重を期した様子で確認する。
「え? う、うん。カヒネ、って……間違いなくそう言ってたけど……、みんな、どうしたの……?」
彩花の困惑は当然だろう。
しかし、今はそちらに意識を割く余裕もなかった。
「マジか……。ベル子……こりゃぁ……」
「ええ。まだ、そうとは限らないわ。でも、この一致は……」
カヒネ。
それは、オルケスターの鍵を握ると思われる存在の名前だ。
組織立ってバダルノイスに入り込んで国家の掌握やメルティナの臓器奪取を目論み、特に後者に至っては成功の一歩手前まで迫っておきながら、連中はあまりにも突然に一斉撤退していった。
その理由は、『カヒネが消えた』から。
ミュッティが言い残したその言葉を、メルティナが確かに聞いている。
同時期、携帯用の通信機らしきものを介して連絡を受けたキンゾルとメルコーシアも、やはり不自然なほど唐突に撤退を選択した。……瀕死の流護にトドメを刺す時間すら惜しむように。
それほど、彼らにとって重要な存在。人なのか、物品なのか。果たして何の名称なのか、それすら皆目見当もつかないままだったが――
「……アヤカ……ミアも。いくつか教えてほしいのだけど」
二人が接したユウラ――カヒネの詳細を、今さらながらベルグレッテが細かに尋ねる。
外見、性格、一緒にいた時の様子……。
少なくとも話を聞く限り、ごく普通の少女としか思えなかった。『あの』オルケスターが必死になる要素はないように思える。
だが――予想だにしない人間が参加しているのが、かの組織の特徴でもあるという。
とにかく、ほぼ確定したことがひとつ。
「彩花が狙われた理由は……『それ』か……」
その名を、存在を、知ってしまったから。
よりにもよって、この幼なじみが。よりにもよって、あのオルケスターに。
こんな悪夢のような偶然が起きるものなのか。
(俺が……王都に行ってみるか、なんて言わなけりゃ……?)
自分で異世界の危険性について説いておきながらこのザマだ。
(……いや、原因探しなんかしたところで何にもなりゃしねえ……)
仮に彩花が王都へ行っていなければ、ミアや他の誰かがそうなっていたかもしれない。
そんなもの、命を狙ってくるオルケスターこそが絶対悪に決まっている。
彩花はもちろん、自分を責めることすら筋違いでしかない。
「ねえ、ちょっと待って。ユウラちゃんが……カヒネって名前が、どうかしたの?」
彩花にしてみれば当然の疑問だ。
あえて話すことでもないとこれまで伝えていなかったが、必死に隠し通すことでもない。
「今、世間を震撼させてるオルケスターとかいう犯罪組織がいてな。やたら進んだ技術持ってて、裏から国を取り込もうとするようなやべー奴らだ。とにかく謎の多い連中だけど……そいつらの中で、カヒネとかいうのが消えたとかいう話になってるらしいんだよ。これまでその名前だけしか情報がなくて、人なのか物なのかも分からなかった。けど、ここでお前の口から同じ名前が出てきた」
流護が雑ながらそう説明すると、ようやく彩花とミアにもこちらの驚きが伝播した。
「カヒネってのは、オルケスターの人間の名前だった訳だ」
「う、そ……。犯罪、組織……? あのユウラちゃんが、そんな……。よく分かんないけど、何かの間違いじゃ……」
愕然とした彩花の呟きだが、流護は自然苦い表情となる。
「お前な、たかだか何時間か一緒にいただけの相手だろ。何でそんな入れ込んでんだよ」
「何時間か一緒にいただけでも分かるぐらい、すごくいい子だったんだもん。流護こそ、ユウラちゃんと実際会ってないのにそんな風に言わなくてもいいじゃん」
「いや、お前な……」
昔から、彩花は流護に反対意見を唱えられると反発しがちだ。平和な日本で、どうでもいい話題について駄弁っているならそれでも構わない。
だが、ここは過酷な異世界。甘っちょろい考えを抱いていては死に直結する。
……はずなのだが、
「アヤカの言にも、一理あるかも」
意外にも、そんなことを言い出したのはその異世界の住人であるベルグレッテだった。
「あくまで前提……その少女が、オルケスターの言うカヒネだったとしての話だけど……彼女自身は、必ずしも危険な人物とは限らないわ」
その薄氷色の瞳を、彩花へと向けつつ。
「たとえばユウラという名前を疑われて、アヤカに質されたとき……なにも、そこで本当の名前を答える必要はなかった。さらに別の偽名で煙に巻くこともできなくはなかったはずだし、なにより悪意ある者であれば、そこでアヤカを口封じすることも可能だったはず。薄暗い地下で二人っきりだったんだから」
いきなり物騒な仮定が飛び出し、彩花が「うえぇ!?」と珍妙な声を上げる。
「く、口封じてベル子さん……いやでも、確かにそうか……」
闇の者のやり口を考えるだに、流護も納得……しかけたが、
「ん? でも……まず間違いなく、カヒネの名前を知られたから、それこそ口封じしに送られてきた訳だよな? ナントカ兄弟ってのが。約束はどうなったんだよ」
彩花と『ユウラ』二人だけで共有する秘密のはずが、第三者に知られていることになる。向こうが約束を破り、誰かに喋ったからそうなったのではないか。
「その点については、先程お主が実演した通りかもしれんの」
「俺が? 実演?」
さも当然とばかり言ってのけるダイゴスに、流護は何かしたっけと疑問の目を向ける。
「白状するよう、アヤカへ強引に迫ったじゃろ。カヒネも似たような状況に追い込まれ、やむを得ず明かしたのやもしれん」
「ああ、そういう……てか、強引に迫ったとかいう言い回しはですね……」
「身の危険を感じましたー」
彩花のジト目をスルーしつつ、しかしダイゴスの説も考えられるかと流護は頷いた。
悪党なら、先のベルグレッテの見解ももちろん、いちいち秘密の口約束を取りつけたりはすまい。
「でも……オルケスターなのに、そんなまともな奴がいるのか?」
バダルノイスでの暗躍ぶりを見るに、連中は間違いなく筋金入りの外道だ。キンゾル、メルコーシア、モノトラ、アルドミラール、ミュッティ……。あれらの仲間に、とても分かり合える人間がいるとは思えないほどに。
「まだあまりにも情報が少ないから、たしかなこと言えないけれど……カヒネは、通常の構成員とは違う可能性もあるんじゃないかしら。『消えた』と知らされたオルケスターの者たちが、それまでの全てを放棄してまで撤退に移るほどだもの。何らかの理由があって、組織の監視下に置かれている市井の民……といったセンも考えられなくはないと思うの」
「となると、『消えた』ってのは組織から脱走したって意味だったとか? んで、どっから来たかは知らんけど王都まで逃げてきたと。……いやでも、迎えに来た兄貴とかいうのとは仲良さそうだったんだよな? 大人しく一緒に帰ってったんだろ……? つーか、カヒネもこのタイミングで王都にいるとか変じゃね? 出来過ぎっつーか。レインディールに何か仕掛けようとしてたんじゃねーのか?」
「! あの子は、そういう子じゃないよ……!」
「お前な……」
「リューゴ、アヤカ、落ち着いて。カヒネに悪意があれば、アヤカに本当の名を明かす必要などなかった。一方で、そんな彼女の詳細は分かっていない。現段階でたしかなのはこれだけ。穿った見かたはしないようにしましょう」
どうにも辻褄が合わないというか、分からないことだらけだ。
が、ひとまずその時の『彼女』に害意がなかったことは間違いないと考えてもよさそうだ。
何しろ、彩花は何の抵抗手段も持たない一般人。
この異世界、こと詠術士であれば凶器すら必要ない。先のベルグレッテの言ではないが、都合が悪ければ指先ひとつ、攻撃術でサクッと――
「なあ、そういやさ。そのカヒネがどんな神詠術使うか、とかってのは誰か知らないのか?」
珍しく先に気付いた流護の問いかけに、ベルグレッテもハッとしたような面持ちとなった。
その形や特徴は様々なれど、グリムクロウズの住人であれば、例外なく誰もが授かっている力。
現代日本風に表現するなら、その千差万別な性質は個人情報とすら呼べる。十二分な手がかりとなるはずだ。
当人と一緒に地下を彷徨った彩花が答える。
「そういえばユウラちゃんは、戦ったりはできないって言ってた。そういう神詠術は使えないって。でも……」
「でも?」
「あの怨魔に出くわして、もうヤバいってなった時――」
『アヤカさん……! 目をつぶってください……!』
意を決したようなその言葉とともに彼女が彩花の肩を掴み、
「身体が、うっすらと光ったんだよね。ユウラちゃんも、掴まれた私も。ボワーって感じで」
その直後、颯爽と駆けつけたクレアリアに助けられたため、どんな神詠術を使おうとしていたのかは結局分からずじまいだったという。
「光った、ねえ……。攻撃術は使えなくて、目をつぶってくれって言ったとなると……光で目潰しでもしようとしたんかな」
といえど、純粋な光属性を扱う者は極めて少ない。その特徴から考えるに、ミアやダイゴスのような雷属性の使い手あたりが妥当と思われるが……。
仮に光属性持ちだったとして、いくら希少とはいえオルケスターが組織を挙げて秘匿するほどの特異性ではない。
「助けに入ったクレアは何か見てなかったんかな」
「なにも聞いていないわね。気になる点があれば、あの子が言及しないはずもないし……」
「特別な術を使うからオルケスターが重要視してる、って訳じゃねーんかなあ」
「ん……色々と仮説を並び立ててはみたけれど……。そもそも、その少女がオルケスターのいうカヒネと同一存在なのかどうかもまだ分からないのよね」
どこまでも慎重なのはベルグレッテだ。
「だから、はっきりさせましょう」
言うなり、ベルグレッテは座っていた椅子から立ち上がった。
「おう……そりゃ、できるならそうしたいけど……どうやって?」
流護は少女騎士を見上げながら尋ねる。ユウラことカヒネもその兄と名乗る人物も、とうに姿を消してしまっている。行き先も分からない。
ん、と頷いたベルグレッテは、自分以外の少女二人にそれぞれ目を向けた。
「アヤカ、ミア。そのユウラという少女を迎えに来た人物の顔は覚えてる?」
「ん……ユウラちゃんのお兄さんでしょ? まあ、何となくは……」
「うーん……ほんとに帰り際、ちょっと顔合わせただけだからね……。あたしも、なんとなくだよ~」
二人の反応は似たようなものだ。挨拶を交わした程度の間柄なら、普通はそんなものだろう。
「ん、分かった。アヤカは、明日はお休みだったかしら」
「え? うん、そうだけど……」
ん、と頷いたベルグレッテが提案する。
「じゃあ、少し時間をいただける? これから一緒に、王都へ行きましょう」
皆がそれぞれ少女騎士を見上げた。
「って……王都に? これからか? もう夜になるぞ」
「ええ。帰ってきたばかりで申しわけないけれど、リューゴも同行お願いできるかしら。念のため、アヤカの護衛として」
「いや、それは全然構わんけど……」
「できるだけ早いほうがいいわ。これ以上、記憶が薄れてしまう前に」
記憶? と流護が訝しく思う間にも、少女騎士は話を進めていく。
「いい? アヤカ。リューゴも一緒だから、外に出ても不安はないわ」
「え? べ、べつに、流護がいるからどうとかってことはないけど……」
「ミアもいいかしら? あと、できればマデリーナとエメリンも一緒に」
「う、うん、あたしはいいけど……マデリーナとエメリンも? 大丈夫かな、明日の講義眠くなっちゃいそうだよ~」
「特別に計らって、あなたたちはお休みにしてもらうわ。ちょっと遅くなるかもしれないし」
「えー! いいの!?」
目を丸くするミアを横目に、流護は抱いて然るべきその疑問を投げかける。
「つか、そこまでして王都に何しに行くん?」
ベルグレッテは迷いなく、自信に満ちた面持ちで答えた。
「みんなで、レノーレに会いに行くのよ」




